第三十二話 浅海三郎
「しばらくの間、家を留守にしてしまい申し訳ありません。義父さん」
「顔さえ見られればこちらは満足なのだ。欲を言えば、
もっと気軽に帰ってきてほしくはあるがな。
さてと、そちらのお嬢さんだが……」
三郎の深く刻まれた皺から覗く、まるで猛禽のような瞳がこちらを射竦めるように輝いた。
「ふむ……?その子がお前の認めた子かな?孝春」
「はい。俺の友人の柳城愛美という子です」
「なるほど、なるほど。
して、愛美さん……に聞いておきたいのだが、
孝春をどんなふうに思っているのかね?」
「え、えっと、ゆ、……孝春……くんは……」
言葉に窮したのを見て、より一層その目が細く鋭敏に柳城を睨め付ける。
ただ挨拶するだけと伝えていたので、これは想定外だ。
柳城はたぶんテンパってあまり良い印象は得られないだろう。
すると、柳城がこちらをチラりと見た後に、意を決したかのように口を開いた。
「孝春くんは……わたしの、大事な友達、です
これからもずっと、仲良くしていきたいと思っています」
「ふぅむ……?ほお……その目は……」
すると、三郎老人が何やら口角を吊り上げ始めて、そのうち耐えきれないといった様子で笑いだした。
「くくく……あっはっはっはっは!
そうかそうかこれからもずっと仲良く、か!
それが混じり気のない本音ということだな!
……良し!気に入ったぞ孝春。今日はこの家に愛美さんを泊めていきなさい」
「いえ……それは駄目ですよ。お義父さん。
なにぶんお二人は長旅でお疲れの様子ですし、私が責任を持っておもてなししますので、ご容赦を」
「ふむ……そうか。ならせめて贅を尽くせよ。
この浅海家に新しい家族が出来ようというめでたい日なのだからな」
信行さんの言葉にアッハッハと再び笑う三郎は心底楽しいといった様子だったが、すぐにゴホゴホと咳き込み始めてしまった。
それを見て、理華と信行さんが彼を看護しだした。
「客人に大変失礼なのだけれども、どうやら義父は少し無理をしすぎたようだ。うちの運転手に門の前で待機させているから、お二人はとりあえずは旅館に案内させるよ」
「ええ……わかりました。信行さん、母さん。
義父さんをよろしくお願いします」
「本日は、お時間いただき、あ、ありがとうございました」
二人で深々と頭を下げて、なるべく静かに、しかしなるべく速やかにその場を後にする。そして逃げるように来た道を戻って正面門の前の運転手さんに声をかけ、旅館への案内を頼んだ。
後ろ手に威圧的な門構えが遠ざかっていくとやっと、緊張の糸が解けたような気がした。
「ふぅ……。やっぱりどっと疲れたな……」
「あ、はははぁ……祐介が家に帰るのを渋ってた理由、よく分かったよ……。まるで虎か何かに睨まれてる気分だった……」
「……あれが浅海家を一代で興した、浅海三郎という男で、俺の父親なんだ。……まあ、俺が高校で一人暮らしをする理由も、出来るだけ実家からの援助を断る理由もわかるだろう」
「うん……緊張で生きた心地がしなかったよ」
二人してぐったりとして、高級車の柔らかい座席に身を預ける。運転手さんが事情を察したのか苦笑しているのがわかったが、虎口からの生還を果たしたようなものなのだ。
とりあえずは意識の外に追いやった。
しばらくしないうちに、浅海旅館へと辿り着いたので、預けていた荷物を受け取って運転手さんに礼を言い、そのまま旅館の中に入る。
ロビーで荷物を預けると、二人でぐったりと近くにあったソファに座り込んだ。
「……ところで、祐介は夏はあの家に泊まるの?」
「いや……そんなわけないだろう。
直営の店以外で浅海の名前で借りられる安いホテルがあるから、しばらくはそこで暮らす予定だ。
飯は自分で作らなくてもいいし、気が楽だ」
「そうなんだ……。じゃあ、チェックインしてこようかな。祐介その……ちょっと手伝って」
はいよ。と疲れた身体に鞭を打って受付へと急ぐ。
たぶん柳城一人ではチェックインするのに余計な時間がかかること請け合いなので、仕方がない。
「ええと……浅海で、1名で予約をとっていた者ですが……」
「あ、浅海様ですね!ただいますぐにご用意しますので、少々お待ち頂けますでしょうか……」
受付の人がこちらの名前を知った途端にびくりとして、緊張しながらあせあせと作業をしはじめる。
浅海の人間と知られれば、まあ直営のこの旅館では畏れられるのも無理はないだろう。
「……?その、浅海様。大変申し上げにくいのですが……」
「……?どうかなさいましたか?」
「ええと、1名様ではなく、2名様の予約になっています……」
「「えっ?」」
浅海家からの予想外の気遣いに、二人揃って戸惑いの声をあげた。