百二十三話 園尾翠の文化祭
11月になり、たぶん多くの生徒が待ちに待ったであろう文化祭が開幕している。
けれど僕としては授業が無くなるぐらいの行事で、そこまで楽しいものでもない。
強いて言えば、普段は学校で離れ離れの時間が長い翠ちゃんとの時間を作れるぐらいか。
「幸平くん、まずは何処からか行きましょうか?」
「そうだねぇ……正直あまり出し物には興味がないけど、翠ちゃんが行きたいところでいいよ」
「……それなら適当に出し物を見て回りましょう」
無難な選択ではあるものの、たぶん翠ちゃんも特に見たいものなどはないのだろう。
それよりもこうして二人の時間を過ごせる方がよほど嬉しいことだ。
そういうわけで、翠ちゃんは真っ先に僕のクラスである1-5に足を運んだ。僕たちがどんな出し物をしているか気になったのだろう。
「幸平くんのクラスは……創作芸術発表、よね?
すごいわね……こんなに大きな絵、それにここまで細くてクオリティが高いなんて……」
「ああ、僕が趣味で描いた絵を細かく分割してみんなに塗り絵してもらったんだ。そうすれば店番する必要も無いし、みんなで力を合わせたって事で担任も納得してくれたよ」
「幸平くんの原画、素敵ね」
「翠ちゃんのクラスは確か郷土資料の研究だったかな? なかなか面白そうじゃないか」
「そうね……大したこともなかったけど」
僕たちの文化祭の出し物は示し合わせて店番する必要が無いものにしている。二人でいられる時間を増やすために浅海くんや柳城さん、留木くんと協力して自分の案を通した。
各自で色を塗るだけなのでそこまで時間もかからずに終わり、クラスメイトにも好評だったのでまあ良しとしよう。
というわけで、次は翠ちゃんのクラスである1-9に足を運ぼうと歩いていると……。
「!? 幸平くん、こっちに来て!」
「んん?! どうかしたのかな?」
いきなり翠ちゃんに手を引かれて踵を返してその場を後にするように促される。
何があったのだろうと少し困惑しながらその指示に従おうと後ろを向くと、背中に声がかかる。
「あらー! やっと見つけたわ翠ちゃん!」
何処かで聞いたことのある声、少し翠ちゃんに似ているような、けれど似ても似つかないほどに陽気な感じのするこの声の持ち主は……。
「ママ……!」
「……やっぱり、百合花さんか……」
たたたっと駆け寄ってくる女性の少し漂うお酒の臭いで確信した。この人は翠ちゃんの実の母親で、今は離婚して別の家庭を持っていると聞いた人だ。
翠ちゃんはそんな彼女のことを酷く嫌っているので、こうして顔を会わせるとどこか怒気のようなものを孕んだ声になる。
「久しぶりね〜! 幸平くん。あの時ナンパされて以来かしら」
「……その節は申し訳ありません。翠ちゃんのお母様と知らずにとんだご無礼を」
「いいのいいの! 女子高生と間違われるなんて嬉しいじゃな〜い。……と、そんなに睨まないでよ翠ちゃーん」
「……今すぐにあたしの前から消えてほしいのだけれど?」
ギリギリと歯を噛み締めて百合花さんを睨みつける彼女は嫌悪感丸出しといった様子で、とても恐ろしい。周囲の人もそんな険悪な雰囲気に圧倒されて距離を置いてしまった。
「相変わらず冷たいわね〜。昔みたいにママ、ママ!って懐いてくれてもいいのに。
とりあえずはお茶でもしないかしら? 私、幸平くんに色々聞きたいことがあるの」
「嫌よ。さっさと浮気相手のところに帰ってちょうだい」
「そう言わずに〜!」
百合花さんが翠ちゃんの腕を掴んで無理やり引っ張っていく。何とも強引だけれどもこれが彼女たちの基本的なコミュニケーションなのだろう。
今は親子では無いとしても、仮にも実の母親である百合花さんには話を通しておく必要があるかな……。と自分でも思ったので、僕としてもあまり強く止められない。
道行く人はどうやら百合花さんの美貌と翠ちゃんの形相にかなり驚いているようでチラチラとこちらを見てくる。そんな状況の中で、僕たちはPTA主催の休憩室の足を運んだ。
学習机を並べられて作られたテーブルに二人で並んで座って、百合花さんと対面して話をすることになる。
「とりあえず烏龍茶でいいわよね? お酒の後のお茶って美味しいのよね〜」
「それで? ママは一体あたしたちの何を知りたいのかしら?」
「も少し仲良くしてくれてもいいじゃなーい?
あ、でも色々と聞きたいことがあるのは本当よ。
堅物の翠ちゃんをどうやって落としたのか〜とか、翠ちゃんとこれからどうするのか〜とか」
「母親面しないで。あなたは他人なんだから」
なんとも取り付く島のない翠ちゃんを落ち着かせるためにも、僕が主体となって百合花さんに話をしていく。
百合花さんは僕たちの馴れ初めにとても興味をそそえられたのか、かなり楽しそうに相槌をうっている。相変わらず翠ちゃんは不機嫌を隠そうとしもしないけれど。
「良いわね〜! 幼馴染との運命の再会とか、私憧れちゃう……! 帰ったら古いアルバムでも捲ってみようかしら」
「また新しい男でも見つけるつもりかしら?」
「ん〜、まあそれが人生の楽しみみたいなところあるし……。ここにも何人かかわいい男の子見かけたから、声をかけてみよっと」
「未成年淫行で捕まるわよ」
「あーそういえば未成年なのかー……残念! でも……」
「翠ちゃんが楽しそうで……私、満足したわ」
ふっと、百合花さんが今までの飄々として陽気な態度が形を潜めて、どこか落ち着いたような……。言ってしまうと悪いのだけれども、まさしく母親のような態度になる。
その言葉には、純粋に娘を大切に思う母親としての想いが込められているように思えた。
「……母親面しないで、って言ってるわよね?」
「そうね……でも嬉しいのよ。翠ちゃんって昔から友達も少なかったし、私たちの都合で引っ越しも多かったじゃない? そんな貴女がこうして彼氏を連れているのを見るとね」
「……幸平くんはパパとは違うわ。あたしは彼と一緒に、あなた達が築けなかったものを手に入れる」
「……若いわね。でもとても羨ましい。
ああ……それと、貴女に伝えたいことがあるのよ」
「何?」
そう言うと、百合花さんは目を閉じて自分のお腹を撫でながら静かに微笑む。その仕草で翠ちゃんはハッと驚いたような顔をして、先ほどよりも眉間に皺を寄せた。
「……おめでとう、で良いのかしら?」
「ありがとうね翠ちゃん。私は貴女の良い母親にはなれなかったけれど……。これから頑張っていこうと思うわ。新しい家族の元で」
「無理ね。酒と男をあなたが断てるわけない」
「ふふふ……まあお酒はなるべく我慢するわ。
今日は楽しいわね。実の娘と出会えるなんて、もうそんな機会は無いと思ってた」
百合花さんの目からは一筋の涙が流れる。
彼女は確かに奔放かつ母親としては失格だったかもしれないが、それでも自分の娘への愛情だけは本物だったのだろう。
だが結果として、翠ちゃんの親権を得ることもなく手放して新しい家庭を築こうとしている。そんな彼女のことを僕は軽蔑しかできなかった。
「百合花さん。僕は翠ちゃんと一緒に幸せになります」
「…………」
「翠ちゃんを産んでくれた貴女には感謝しますが、翠ちゃんを悲しませる貴女は好きにはなれません。
僕に娘さんを任せてもらえますか?」
「……そうね、貴方に任せるわ。
と言っても……そんなことを言う資格、もう私には無いんだけどね」
そして席を立った彼女は、ハンカチで涙を拭いていつもの調子を取り戻したかのようにこちらに笑いかけた。
「幸平くん。もし私が幼い頃、貴方のような人と出逢えてたら良かったわ。またナンパしてね?」
「……はぁ……早く帰ってちょうだい。ママ」
翠ちゃんがため息混じりに見送って、百合花さんはまた文化祭の人混みの中へと戻っていった。
翠ちゃんはどこか寂しそうな表情を浮かべたけれど、僕に向き直る頃にはいつもの調子をとりもどしていた。
「……あの女に言われるまでもないわ。あたしたちはずっと一緒で、幸せになるんだから」
「そうだね。僕が全力で翠ちゃんを幸せにするから、心配しなくても良いよ」
そうして、ずっとテーブルの下で震えていた彼女の手をしっかりと掴んで、絶対に離さないように決意を新たにした。