第百二十一話 はじめての食事
夕方になり、二人で手を繋ぎながら今夜泊まる旅館に向かう。
こうして歩くのはデートではいつものことなのだけど、これから二人だけで一緒にお泊まりするとなるとどこかドキドキと緊張して次第に口数が少なくなってしまう。
それは純香も一緒なようで、時々ボクの方をチラりと見ては言葉少なめに手をぎゅっと握ってくる。
「着いたよ。ここがボクたちが今日泊まる旅館だ」
「あら……もう着いたの? でもとっても素敵な場所ね……」
いつの間にやら予約していた旅館に着いたので、二人でどこかあせあせと少し狼狽えながらチェックインをする。
荷物を預けて部屋に通されると中居さんがニコニコとしていて、ボクたちが恋人として見られているとわかりどこか恥ずかしくなってしまう。
「畳の部屋……あんまり慣れてないけど、落ち着くわね」
「そうだね……。あ、浴衣があるみたいだ。着替えよっか?」
「ええ……風情があっていいわね……」
二人で目配せをして、襖一枚を隔てて浴衣に着替える。しゅるりという布切れの小さな音を耳がすかさず拾ってしまい、帯を締めるのに少し手間取ってしまう。声をかけられて純香が襖をゆっくりと開けるが、その影に隠れていて姿を見せてくれない。
「どうかしたの? 純香」
「いえ……その、忍くんの着替える音で緊張してしまって……」
「ボクもだよ……。でも浴衣の純香も見たいな」
すると、そろそろと純香が襖の影から出てきてくれる。純香はスレンダーな身体をしているからか、和服がとても似合っていて美しい。
その艶のある黒い髪とあわせて、赤らんだ頬がなんとも言えない色香を漂わせていた。
「綺麗だね……純香。大人っぽくてドキドキしちゃった」
「……和服の忍くんもとても魅力的よ。その……いつもよりも凛々しく見えて……」
二人で浴衣姿を見合ってモジモジとして言葉を無くしてしまう。目の前のこの素敵な女性がボクのことを愛してくれていると思うと、いてもたってもいられずに抱きしめたくなる。
導かれるように純香に近づき、手を触れようとすると……。
「失礼します……。お食事の準備が整いました」
扉越しに中居さんの声が部屋に響いて、二人してビクッと身体を震わせた。もうそんな時間になっていたのか……。
「あっ、わ、わかりました! お願いします」
「お二人のところお邪魔して申し訳ありません……。
すぐにお食事をお持ちしますので、少しお待ちくださいませ……」
二人して急いで散らかった服を片付けて、楽しみにしていた食事がくるのを座椅子に座って待つ。
緊張で喉がカラカラになってしまっていたので、お冷やがとても美味しく感じた。
旅館の料理は普段は食べられないようなものばかりで、純香に食べてもらいたいものを選んだつもりだ。それにボク自身も最近は凝った料理を作っているので、こうしてお手本を示してもらえると助かる。
「「いただきます」」
毎日、電話越しでも純香と食事をしているし、何度も純香とデートして思ったのだが、彼女はとても綺麗にご飯を食べる。所作の一つ一つにお料理への感謝が込められているようで、見ていて見惚れてしまうのだ。
「純香。どうして今日は柳城さん達と一緒に観光したの?」
「? ああ……その、怒らないかしら……」
気になっていたことなので聞いてみる。柳城さんと純香は同級生とはいえ、そこまで仲良くはなさそうだし、あえて一緒に行動した理由はわからなかった。
「その……友達が欲しかったの……」
「え? そ、そうなんだ」
「ええ……私、クラスでは友達がいないし、それに……」
チラリとボクを見る。ん……あ、そういうことなのか?
「……ボクにも?」
「……そうなの。余計なこととは思ったけど……。一緒に遊べる友達……お互いにいたらいいなって」
つまりは、ボクの交友関係の狭さも心配してくれていたらしい。確かにボクは普段から純香にかかりっきりではあるものの、男友達が欲しくないというとそんなこともない。純香のような素敵な彼女のことを話せる話し相手というものがいれば、ボクとしても楽しい。
それに、浅海くんの素っ気ない態度から見え隠れする優しさはボクとしても好意的に思えて、そういう意味では願ったり叶ったりといえる。
「ごめんなさい……押し付けがましかったかしら……」
「そんなことはないよ。純香のおかげでボクにも友達ができたし、純香も柳城さんと話してて楽しそうだったし」
「そう言ってもらえると……良かったわ。
柳城さんも浅海くんと仲が良いみたいだし……色々と恋人としてのアドバイスが貰えると思うの」
「ボクも何か聞いてみようかな……」
と何を聞いてみようと考えると、思いあたることがある。恋人と二人での過ごし方……。でもそれは、ボクたちで見つけていくものだと思って、グッと心に押し込んだ。
すると、何故だか純香も少し顔を赤らめて俯いている。もしかすると同じことを思いついたのかもしれないな……と思いながら、どこか集中できずに黙々とお料理を食べた。
食事のあと、二人で何をするでもなく座椅子に座ったままカチコチと鳴る時計の音だけが響く。
だけれども心臓の鼓動はとてもうるさくて、純香に聞こえてしまわないか心配になってしまった。
「忍くん……。私、お風呂に入ってくるわね」
「う、うん。ボクも……そうするよ」
純香の提案に甘えて一旦お風呂へと向かう。
いつもは並んで歩くのに、今日は純香はボクの裾を掴んで静かに着いて来てくれる。
「じゃ、じゃあまた部屋でね」
「ええ……その……時間がかかるから、先に待ってて」
湯殿の前で別れて純香を見送る。
急いでお風呂に入ろうか、それともしっかりと汗を流そうか迷うながらも、全くお湯を楽しんでリラックスできそうにない。
お風呂に入り自分をどうにか落ち着けながら、身体を清めていく。
……純香はボクの味を気に入ってるから、そんなに洗わないほうがいいのかな……いや、何を馬鹿なことを考えているんだ。
悶々としながらも部屋に戻ると、結構な時間が経っていたけれど、まだ純香は戻っていないようで、ホッとする……。
「失礼します……お布団を引いてもよろしいでしょうか?」
「はっ、はい! お願いします」
中居さんの声に思わず裏返った声を返すと、扉の裏でクスッと笑い声が聞こえた。
思わずかーっと顔が赤くなったが、中居さんは少しも顔に出さずにテキパキと二人分の布団を並べて敷いてくれる。
「失礼しました……」
「あ、ありがとうございます……」
中居さんにお礼を言って、どうにかして座椅子に座って時計の音を聞くことだけに集中する。
早鐘のようになる心臓の音と、お風呂から出た後なのに身体がぽかぽかと熱くなって落ち着けない。
「……忍くん……戻ったわ」
「……純香! ……う、うん、待ってたよ」
待ち焦がれた声が聞こえて、思わず駆け寄りたくなったが、その足を抑えて彼女を出迎える。
しっかりと鍵をかけて、二人の時間を誰にも邪魔でされないようにした。
純香はお風呂上がりでしっとりと髪を濡らしていて、少し紫がかってこれが濡れ鴉という色なのかな?という美しい色合いになっていた。
そして頬は白い肌に化粧をしたようにぼんやりと朱に染まっていて、浴衣と合わさって一層に艶やかさを増している。
「忍くん……その……」
潤んだ瞳でボクのことを見つめてきて、手を広げてボクのことをゆっくりと抱きしめてくる。
シャンプーやボディソープに混じって、いつも嗅いでいる純香のいい匂いで肺が一杯になった。
「純香、今日は……ボクと一緒に寝てくれる?」
「……ええ、今日はそのつもりで来たもの」
二人で寝室へと足を運び、向かい合って座ってお互いに見つめあった。
枕元の行燈に照らされた純香の目は真っ直ぐにボクを見つめていて、この瞬間、世界が止まったように思えた。
「私ね……不安だったの」
「不安?」
「その……私の身体で、忍くんががっかりしてしまうんじゃないかって……」
しゅるりと、帯を解いて浴衣をはだけていく。
薄明かりに照らされたその肢体はとても美しく、どこに不安があるのかわからなかった。
純香と出会った頃から今まで、ボク達で一緒になって少しずつ体調を整えてきたことを思うと、涙が出るぐらいだ。
「でも、もう自分を抑えられそうにないわ……。
貴方が好きで……食べたくて、食べられたいの」
「うん、ボクも純香に食べてほしいし、純香を食べたい」
同じように帯を解いて、二人の影が重なった。
水音をしばらく響かせた後に、言葉を綴る。
「いただきます。純香」
「ええ、一緒にたくさん食べましょう」
その後に、もはや言葉は必要なかった。