第九十五話 相貌失認
僕が自分のこの症状に気づいたのは、物心もつき始めた幼い頃だったと思う。
友達に話しかけるときに、何度も何度も相手を間違えてしまうのだ。仕方がなく僕は彼らの名札や所作や声、髪型などで区別するようになっていったのだが、それをするのはかなりの労力になった。
ある時はずっと突っ立っている人がいると思ったら、ただのマネキンだった時もある。
ある時は髪型が変わった母親をすぐに認知できずに、何で知らない人が家にいるんだと内心ドキドキしながら話したら、声で気づいた時もある。
僕にとっては、人を顔で判断するのは至難の……。
というよりも不可能に近いことなのだ。
そんな話を翠にすると、彼女はしばらく絶句した後に静かに口を開いた。
「そ、それじゃあ……あたしの顔も?」
「……うん、わからないんだ。髪型を変えたりされると、たぶん僕には一目で区別する術は無いね」
翠さんがぺたぺたと自身の顔を触って言葉もなく驚いている。彼氏が自分の顔を判別できないというのは、どれほどのショックなことなのか計り知れない。彼女を傷つけるつもりは無かったのだが。
「そんな……そんな、ことって」
「本当にすまない。僕の……僕のせいで、君を傷つけてしまって」
「幸平くん……でも何となく、あなたの今までの行動に合致してるような気がするわ」
涙を携えて、彼女が僕に近寄ってくる。
そして僕の顔に手を添えて、自分と同じように優しく撫でた。
「あなたの顔……あたしが好きな顔も、
あなたにはわからないのね」
「ああ……不意に鏡を見ると、誰かが立っていると
思って一瞬びっくりしてしまうぐらいだよ」
「ママとあたしを見間違えたのも?」
「……雰囲気が似てたからね。迂闊だった」
すると、彼女は静かに涙を流しながら僕に口づけをした。そしてまた悲しげに言葉を綴る。
「こんなに近くにいるのに、あたしの顔がわからないなんて……」
「……ごめんね。本当に……ごめん」
「幸平くん……」
彼女に抱きしめられる。その匂いは彼女のものだったし、しくしくと泣く声も彼女のものだ。柔らかな感触や心臓の鼓動を自分の記憶に刻み込む。
「幸平くん……あなたが教えてくれた、秘密。
あたしが絶対になんとかしてみせるわ」
「……相貌失認は治らない症状なんだ」
「そうだとしても、あたしは諦めない。
なんとしてもあなたにあたしの顔を覚えてもらうの」
すると、彼女は僕の元から離れて決心したかのように僕の手を引いて立ち上がった。
「幸平くんが大事な秘密を話してくれたのだもの。
今度はあたしの秘密を話すわ」