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ミラクルマンダッシュ!  作者: 木下源影
1/25

青春の悩みはあっけなく終わる

【主な登場人物】


八丁畷春之介


八丁畷春菜


八丁畷春拓


八丁畷夏樹


八丁畷春太郎


八丁畷秋菜


八丁畷雅春 春太郎の四男


八丁畷俊春 春太郎の次男


八丁畷春高 春太郎の三男



多摩川正太郎


浅草健太郎


浅草春緒



【生徒・友人】


一ノ瀬優


高山一太


山田裕也


斎藤和也


柿崎恵奈 三年陸上部


大門正樹 三年陸上部


中井真奈 野球部


美又猛 野球部


佐久間建造 野球部


田中美紀子


渡瀬麒琉刀 野球部


桜山冬喜子


鷹崎歌子 放送部


大和撫子


才木尚


権藤健 野球部


真崎仁 野球部


奥田理恵 二年放送部


立花聡 野球部


浅田幹也 野球部


積木整 野球部


畑田美千代 演劇部


滝川幸人 柔道部


横田みのり


衣崎絹子 三年パッチワーク同好会 縫製業


渡瀬芽大瑠 空手部


須崎紀子 二年野球部マネージャー


佐竹美穂 一年野球部マネージャー


深川二子 


夏川冬延 三年 生徒会長


【学校関係者】


佐藤 野球部顧問


山根 陸上部顧問


川添真由美 一年一組担任


小手川 教頭


佐々木 校長


大門沙耶 体育教師


菜種壮太 数学教師


田中朔太郎 技術工作、物理教師


光浦友恵 


神崎神人 横須賀学院野球部監督→春咲高校教師


【その他】


山田邦夫 コンビニアルバイト定員 大学生


佐伯三太 門番


一ノ瀬雄大 警察官


パティー・シズマイヤ タレント・女優


高瀬詩織 女優


佐竹真由 メイド


鈴木秋彦 真由夏の恩人


一之宮幸恵 夏樹の後輩


二宮加奈子 コンビニアルバイト店員 大学生


四谷実 コンビニオーナー店長


和田由紀子 白亜高校キャプテン


初沼千代 春之介の幼馴染 女優


島袋佐助 琉球シーサー高校野球部キャプテン


篠塚真奈美 マイティーカウル教育係 女優


三条健作 神崎工科高校教師兼野球部監督































     1


―― …どうしようかなぁー… ――


八丁畷春之介はっちょうなわてはるのすけは考え込んでいた。


暇さえあれば、もう数えきれないほど、こうやって考え込んでいる。


春之介は二階にある自室の勉強机に座っていて、疲れた頭と眼を癒すために、両腕を延ばして机に突っ伏していた。


室内は無趣味なのか、飾り物などはなく、その代わりのようにずらりと学術本などが並んでいる。


ベッドはシングルではなくダブルサイズだ。


まだ15才なのだが、身長が高いので、今年に入ってから買い替えたのだ。


ほかには何もなく、収納式の整理ダンスと小さな物置がある。


だが唯一の宝物と言わんばかりに、少し大きめのフォトスタンドが、本棚の真ん中に三つ置いてある。


「…おじゃましまぁーす!…」と明るい声が下階から聞こえた。


―― 春菜はるなか… ―― と春之介はいつものように考えた。


いつもならすぐにどかどかと音をたてて階段を昇ってくるのだが、小声で春之介の母と話をしていると感じた。


しかし、『ドンドン』という勇ましい音をたてて階段を昇ってくる音が聞こえた。


そして部屋の扉が開き、「来たよ!」と明るい声と表情で春菜が言った。


「…いらっしゃぁーい…」と春之介は姿勢を変えずに、いつも通りに気のない挨拶をした。


「…ああ! 明日から夢にまで見た高校生活の始まりだわ!」


春菜の少々芝居じみた言葉に、「…あー、そうだねぇー…」と、春之介は気のない言葉を返した。


「あんたが合格できるとは思わなかったわ!」


「…きちんと勉強したもん…

 だから勉強癖がついちゃった…」


春之介の言葉に、春菜が近づいてきて、勉強机の上を見入って、「…まさか、全教科、勉強してたの?」とかなり呆れた声で聞いた。


教科書の全てに付箋をはさんであったので、一目瞭然だった。


まさに教師の教科書がこの状態なので、春菜でもすぐにわかったのだ。


「勘違いしやすいところだけチェックした。

 午前中は図書館に行って、

 二年三年の教科書も読み漁ってきた」


「…あっきれたぁー…」と春菜は言って、いつものように、春之介のベッドの上に座った。


暇さえあれば、春菜は春之介の部屋を訪問する。


これは日課のようなもので、特に色っぽい話があるわけではない。


もちろん、春之介が春菜の部屋を訪れることはあるが、春之介が気を使っているのか、この正月以来行っていない。


ふたりは仲がいいが、付き合っているというわけではなく、少々面倒な事情がある。


「…春ちゃん! 夕食どうするのっ!」と春之介の母の夏樹が下階から大声で聞いてきた。


「頂いていくよぉー!」と春菜は威勢のいい声で答えた。


「…だったら手伝ってっ!」


「…私、まだ学生なのにぃー…」と春菜は眉を下げて言って、ゆっくりと立ち上がってからひとつ背伸びをしてから部屋を出て行った。


―― …どうするかなぁー… ―― とまた春之介は考え始めた。


もう体験は済ませてきた。


幼稚園児の時から続けていた野球を取るか、その逆といっていいスポーツである陸上を取るか大いに悩んでいたのだ。


陸上競技の場合、どれほど手ひどい失敗をしても、すべては自分のせいで済む。


中学の最後の試合で、春之介のチームは有終の美を飾って三年生は引退した。


しかしそのあとに、春之介に恐怖が襲ってきたのだ。


―― 明日は我が身… ――


ひとつの失敗が、チームメイト全員に迷惑をかけるのだ。


春之介のチームも、もちろんミスはする。


相手チームだってそうだ。


そのミスのおかげで、簡単に勝てた試合もかなりの数あった。


だが春之介は些細なミスすらしないのだ。


その逆に、春之介のファインプレーやバッティングが、チームの活力源になった試合がいくつもあった。


そのおかげで、仲間たちも大いに奮起した。


春之介は誰かに迷惑をかけてしまう失敗をしたくないので、野球をやめることにほとんど決めていた。


だがやはり、好きなスポーツはと聞かれると、野球と答えるだろう。


春之介の机の引き出しには、多くの名刺が入っている。


高校からのスカウトが全国から何人も来ていたのだ。


だが春之介は、全国的にも名門の公立高校である、春咲高等学校に入学することに決めた。


ほんの10年前にできた新設校で、春之介の父の弟二人がこの学校を卒業している。


ほとんどの生徒を国立大学に送り出すほどの有名校に、初年度から簡単にのし上がり、入試の競争率はどこよりも厳しいものだったが、春之介はほぼトップクラスの成績で合格していたと、後の答え合わせで確信していた。


野球部を引退して、まさに勉強に目覚めたと言ってよかった。


しかし、勉強をしていなかったわけではない。


この家には優秀な家庭教師がいるので、わざわざ学習塾などに通う必要はまるでない。


ちなみに、通うことになった春咲高校の生徒の先輩や友人が皆無だったので、野球を続けない春之介にとって都合はよかった。


だが、ある言葉を思い出していた。


「この雪辱は高校で晴らす!」


まさに勇ましいヤツだったと、春之介は今でも感心している。


もうどこにもいないと言っていいほどの坊主頭で、誰よりも野球センスのいいヤツだった。


だがやはり、チームメイトのミスや打撃不振に大いに悩まされたようだが、ひとり奮起して、坊主頭の中学も好成績を収めていた。


―― …あ、名前、なんだったっけ? ――


確かに聞いたのだが、思い出せなかった。


どうやら、勉強という大波にさらわれてしまったようだと思って、―― もし会ったら、謝ろ… ―― と春之介は何となく考えた。



「春菜ぁー、あいつの名前、なんだったっけ?」


春之介が食卓について、茶碗を持ち上げたところで聞いた。


「…もう、5回目…」と春菜はため息交じりに言って、「一ノ瀬君よぉー…」とまるで苦情があるように言った。


「…野球やらないから、その一ノ瀬に会ったら謝ろうと思ってね…」


春之介のつぶやきに、春菜も夏樹も大いに目を見開いた。


「…あんたから野球を取ったら」と春菜はここまで言って言葉に詰まった。


春菜は、高校入試の正確な情報を入手していた。


春之介はトップの成績で合格していたのだ。


よって入学生代表の挨拶は春之介がするはずだったが、なんと断ったのだ。


これは前代未聞のことだったのだが、多感な年ごろということで、次点の春菜が代役を務めることになった。


「…理由があるのね…」と夏樹は眉を下げて春之介に聞くと、すべての理由を正直に述べた。


「…一度でも失敗していればね…」と夏樹が言うと、「…ミス、してなかったんだぁー…」と春菜は大いに嘆いて言った。


「…覚えがないからしてないって思う…

 だからこそ、怖いんだよ…

 この先は、進路にも影響するからね。

 もし俺のミスのせいで甲子園に行けなかったとすれば、

 プロに行ける資質のある人に大いに迷惑をかけてしまうから」


「…きっとそれ、うちの高校にはあんたしかいないから」


春菜は自信を持って言った。


「プロ野球には興味ないよ。

 たった20年ほどしかプレーできないんだから。

 中には鉄人っていう人もいるけど、

 どう考えても、俺にはできないと思う。

 できれば草野球を楽しもうかと思ってるんだ。

 ミスをしたとしても、

 誰かにそれほど迷惑をかけることはないからね」


「…うー…」と春菜はうなることしかできなかった。


春之介は野球が嫌いなわけではなく、ミスをして誰かの運命を変えてしまうことが怖いのだ。


「だけど、大学に行って就職して、どこかでミスした時に大丈夫かしら…」と夏樹が大いに眉を下げて言った。


「チームプレイじゃなきゃ、別に問題はないと思ってるんだ。

 だから運動部には入るよ。

 陸上部に入ろうって思ってる」


春菜は一瞬だが腰を浮かせた。


春菜はもう、陸上部に入部届を提出してきたのだ。


春菜も将来有望な短距離選手で、春之介に負けないほどのスカウトを有名私立校から受けていたが、春之介と同じ理由ですべて断って、春咲高校に入学を果たした。


陸上部には、春菜の先輩たちがいるので、大いに喜んでいた。


この喜びには、様々な想いが入り乱れているので、春菜にとっても、学校生活は多少の杞憂はある。


「早く走る勉強もした。

 もう俺だけの走法もあみ出して訓練中」


「…あんた、本当にとことんまでやっちゃうのね…」


春菜は大いに呆れて言った。


「10秒切ったから、多分問題ない」


春菜も夏樹も大いにあきれ返っていた。


「…日本国中の期待を背負って、次のオリンピックを目指して!」


いつもは声を張らない夏樹が叫ぶと、「大きな大会は辞退することに決めた」と春之介が言うと、ふたりは大いにあきれ返っていた。


「問題は情熱だと思うんだ。

 俺の今の情熱は、今の俺に勝つことだけだ。

 体力面でも、勉学でもね。

 だからスポーツも、ひとりだけでもできる競技がいいと思ってね」



春之介たちが食事を終えてくつろいでいると、「ただいま」と言って、ダイニングに春之介の父春拓(しゅんたく)が入ってきた。


「おかえり」と三人は笑みを浮かべて挨拶を返した。


夏樹が春之介の今後の話を始めると、「俺はそれでいいと思う」と春拓は答えた。


「春拓君も賛成なのね…」と夏樹は眉を下げて言った。


「今の自分に勝つ。

 それだけで十分だ。

 15才でここまで堂々と言えるのは、

 春之介だけだと思う。

 それなりの積み重ねは今日までにあったはずだからな。

 だからこそミスをしなかったんだ。

 そして無謀なことはしない。

 春之介のように全国区の選手だと、

 どこかに必ず故障を抱えていたはずだが、

 春之介には全くない。

 まさに親としてはこれ以上ないほどに胸を張れるからな」


「父さんが賛成してくれて助かったよ…」と春之介が言うと、「さぁーて、それはどうだろうか…」と春拓は言ってにやりと笑った。


「伝えてもいいが伝えない方が面白い。

 春之介にとって、大いに意味不明な出来事に悩まされるように思う。

 高校生活自体が、大いに考えさせてくれることになるだろう」


「…うう… 明日から怖えー…」と春之介は嘆いて大いにうなだれた。


「嫌でも耳に入ってくるんだよ。

 ご注進に来る者が大勢いるからな」


春拓は若いながらも文部科学省の高職に就いていた。


国会議員の話もあるが、まさに春之介と同じように、信念を持って今の職についている。


よって全国からそれなりの情報が入ってくるし、まさに息子の将来に関する情報には、大いに耳を傾ける。


「一ノ瀬優君には気をつけろ」


春拓の言葉に、春之介は背筋を震わせた。



「…越境入学かぁー…」と自室に戻ってきた春之介は嘆くように言った。


「…いたのかなぁー…

 私たちのように推薦入試じゃなかったのかもぉー…」


春菜が憂鬱そうに言った。


「帰んなくていいの?」


「まだ明るいし、春君が送ってくれるしー…」と春菜は恋する乙女のように言った。


「まあ、最近はなにかと物騒だからな。

 防犯ブザーは持ってるんだよな?」


「うん、それはちゃんと持ってるわ」


春菜が自信満々に言ったので、春菜のポシェットにぶら下がっている、アニメキャラクターのかわいらしい動物の形をした防犯ブザーを見た。


春之介が手に取って引き抜いたが鳴らなかった。


「意味ねえ」「えー…」


春之介はいい予感がしなかったので、試しただけだ。


「帰りにコンビニで電池買おう」


春之介の言葉に、春菜は大いに苦笑いを浮かべてうなづいた。



「おっ! ダブル春ちゃん!

 今夜も仲がいいねぇー!!」


コンビニで働いている、ふたりの知り合いで先輩の、大学生の山田邦夫が冷かすと、「兄ちゃん、やめてよぉー…」と春之介は大いに困惑して言った。


「…いやな、ちょっと妙な噂を聞いたもんでな…」


どうやら、邦夫は逆に気を使って大声で叫んだようだと春之介は考えた。


「…ミラー、覗いてみ」


邦夫の言葉通りに春之介と春菜は、店の天井の角に備え付けている防犯ミラーを見入った。


「…美少女…」と春之介が言うと、「…おまえのことをいろんなところで聞き倒しているそうだ…」と邦夫が言った。


「ここでは?」「いや、まだだがな…」


春之介たちが店を出てから、邦夫にでもインタビューでもするのだろうかと考えた。


春菜は電池を買って入れ替えてから、春之介とともに店の外に出て、一瞬だけテストボタンを押して音が出ることを確認した。


「同年代だろうなぁー…

 ここら辺りで見たことはないし、

 兄ちゃんも知らないようだから、越境入学組かな?」


「でも、身長はそこそこあるよ。

 私よりも大きいように思ったけど…」


春菜の身長は170センチで、女性ではそれなりに大きいと言っていいほどの身長だ。


そして現在成長中の春之介は180センチある。


春拓が185センチあるので、ほぼ確実に並ぶだろうと、両親ともに言っている。



春之介と春菜の家はほんの500メートルほどしか離れていない。


その間にコンビニエンスストアなどもあり、一本道のこの道路は比較的明るいので、深夜であっても犯罪行為などはほとんど起こっていない。


だが用心に越したことはないので、春之介が春菜を家に送り届けることはいつもの行動だ。


そしてほどなく、ふたりは長い壁のある道に差し掛かった。


「ここに勝手口を作って欲しいほどだね」


「防犯上、造りたくないって」と春菜は言って、ひたすら続く白い壁を見た。


「ちょっとあがってく?」と春菜は顔を高揚させて聞いた。


「うん、爺ちゃんと婆ちゃんに挨拶するよ。

 もっと小さい時は毎日のように来ていたんだけどね…

 いつから来ないようになったんだろ…」


春之介の言葉に、春菜は大いにホホを赤らめた。


「…いや、なに… おばちゃん…」


春之介の言葉に、春菜は、「おばちゃん、いうなっ!!」と大いに怒鳴り、「…学校でも言うなぁー…」と春之介をにらみつけてうなった。


「間違ってないけどね…

 もう言わないよ…」


ふたりは、『八丁畷春太郎』と仰々しく書かれた表札のある門をくぐって、春之介は門番に頭を下げた。


「…おー… お坊ちゃまが来られたぁー…」


門番の佐伯三太が大いに感動して言った。


「正月ぶりだね。

 お疲れ様」


「あっ! そういえば…」と三太が邦夫と同じようなことを言ってきたので、「…いい気はしないね…」と春之介は眉を下げて言った。


「…なんでも、大女のようで」と三太は言って、すぐに口を閉ざしてちらりと春菜を見た。


「美少女だったよ。

 邦夫兄ちゃんが教えてくれた」


「…コンビニに?」


「うん、防犯ブザーの電池交換だよ」


「…やはりお付き」と三太が言うと、「春君が送ってくれるからいいの!」と春菜は叫んで、大いに怒って大股で歩いて行った。


「春ちゃんと結婚できないと知って、ここから足が遠のいたのかなぁー…」


「お察しします」と三太は真面目腐った顔をして言って頭を下げた。


「だけどその美少女が相手なら、美少女の勝ち。

 まあ、どんな人なのかは、話してないから知らないけどね」


「そこまでは伝わってきていませんでした。

 だから嬢ちゃんの機嫌が今までで一番悪い…」


「どっちも、あきらめきれてないのかなぁー…

 まあ、生活はできても、

 子供を作る段階で大いに問題があるからね…

 だからこそ、勉強に目覚めたところもあるよ…」


春之介の言葉に、三太は泣きそうな顔をして頭を下げた。


「春君! さっさと来る!」と春菜が叫ぶと、春之介も三太も首をすくめた。


「…やっぱり、嫁にもらわない方が幸せなのかもしれない…」と春之介は大いに苦笑いを浮かべて言った。



春之介は我が家のように上がり込んで、祖父母とあいさつを交わした。


話しが長引きそうだったので、「春君と話があるから!」と春菜が怒鳴ると、両親は大いに首をすくめた。


「機嫌が悪すぎるな…」と春菜の父で春之介の祖父の春太郎が大いに眉を下げて言った。


「…まさか、例の噂話?」と春菜の母で春之介の祖母の秋菜が聞くと、「長身の美少女の件だろうね」と答えた。


「…はぁー…」と祖父母は大きなため息をついた。


春菜は5人兄弟の末っ子で、長男が春之介の父の春拓だ。


その年差は25で親子ほど年の離れた兄妹だ。


秋菜は現在57才で、春拓を17、春菜を42で産んでいる。


どうしても女の子が欲しかった秋菜は、無理を承知で望んで春菜を生んだのだ。


それと同時期に、結婚していた春拓と夏樹の間に、春之介が生まれた。


ふたりは兄妹のようにして育ったのだが、お互いの恋心に気づいた時に、春太郎が結婚はできないことをふたりに告げたのだ。


始めは納得できる話だったのだが、特に春菜の気性が荒くなっていった。


その精神安定剤が春之介のようなものだ。



春之介が春菜の部屋に行くと、春菜は爪を噛んでいて、「…既成事実、作っちゃおうかしらぁー…」と言って悔しがっていた。


「作らない」と春之介は堂々と言った。


「だけどね、春ちゃん以上じゃないと俺は結婚しないだろうね。

 だから俺は、結婚できない男になるかもしれない」


春之介の言葉に、「…ごめん…」と春菜はうなだれて謝った。


「さっき見た美少女の性格がよければ彼女の勝ち」


「う―――!!」と春菜はサイレンのようにうなった。


「…大声出して、春君に襲われたぁー、って言っちゃおうかしらぁー…」


春菜の言葉に、春之介は大いに苦笑いを浮かべて、畳の上に座った。


「…チュー、したもぉーん…」


「うん、したね…

 だけど、もうしないから。

 今したら、きっと、もう止まらないから」


春之介の言葉に、「…さらにごめんなさい…」と春菜は言ってから、涙を流した。


「ううん、いいんだ。

 俺たちは今の俺たちから脱却しなきゃいけない。

 不謹慎だけど、

 ここは眼をぎらつかせてパートナーをあさるしかなさそうだ」


「…その気持ちだけは持ってるわ…」と春菜はうなだれたまま言った。


「…素敵な大人は大勢知ってるけどね、

 お父さんとお母さんにぺこぺこする人は嫌い」


「普通するから…」と春之介はすぐに答えた。


「美形はいいから、逞しい人がいい!」


「うちの高校って、柔道部だけは強いそうだよ」


「…見てきたぁー…」と春菜は言ってうなだれた。


「お嬢様の眼鏡にはかからなかったようだね…

 野球部と陸上部にもいなかったと思う…

 俺たちは大人を見過ぎていたこともあるね。

 同年代は子供でしかないように感じる」


「だけどあんた、これほどのことがあってもミスしなかったのね…

 なんだか私の存在って、それほど重いって思えない」


「切り替えは必至で必死だったね。

 俺は常に強い自分でいたかった。

 だからボールだけを無機質に追っていた。

 そのおかげで、俺は最高の中学生活を終えたんだ」


「…そう… よかったぁー…」と春菜は言って、安堵の笑みを浮かべた。



「あのさ」と春之介が言うと、「…待ってるって思う…」と春菜はすぐさま答えた。


「だよなぁー…

 夜だから、考えて帰るよ」


「…そうね、その方がいいわ…

 …明日から、あの美少女との戦いが始まるのね!」


春菜の妙な気合に、春之介は大いに眉を下げていた。


春之介は立ち上がって、「じゃ、帰るよ」と言うと、「うん、ありがと」と春菜は満面の笑みを浮かべて答えた。


「…妹に恋をした兄の責任でもあるから、

 色々と頑張ってみるよ」


春之介の言葉に、春菜は唇を歪めて軽く右手を上げて振った。



春之介は少しだけ祖父母と話をしてから外に出た。


玄関に出ると、三太が道に出て右手側に遠くを見る目をしていた。


その方向に、コンビニエンスストアと春之介の家がある。


春之介はゆっくりと歩いて、小声で三太を呼んだ。


「きっと、見張られてますぜ。

 ですが一人です」


「うん、ありがとう。

 逆に向かって走って、

 大回りして帰るから」


「はい、お気をつけて」


三太は言って、頭を下げて、門の外に出て、勢いよく走り出した春之介を見送った。


すると、三太の背後から音もたてずに一陣のさわやかな風が吹いたと思ったとたんに、ミドルヘアの女性が走り抜けた。


「…うう、なんてこった…」


だがその美少女は、ほんの50メートルほど走って春之介を見失って、「ちくしょうっ!!」と大声で叫ぶと、三太は眼を白黒とさせていた。


―― それなりの筋の姫様か… ――


三太は純粋に思って、内線電話を使って春太郎に報告した。


「うん、監視カメラの映像で確認できた。

 三太君、ありがとう」


春太郎は使用人にも優しい。


経済界を揺るがすほどの重鎮なのだが、威張ることはまずない。


よって心配事があるのは、春之介と春菜のことだけだった。


「…春之介の方が大人だな…」


「…そうですねぇー…

 私としては、結婚させてもいいと思っているんです」


「…おいおい、春菜に聞かれるとまずいから…」


ここはさすがに、秋菜は控えることにした。


「…私も、今からでも、素敵な人が現れたら…」


秋菜の夢見る乙女のような言葉に、春太郎は大いに眉を下げていた。



「美少女に追いかけられたのは初めてだよ」


無事家に帰り着いた春之介は少し陽気に言った。


「…まあ… この辺りも物騒になってきたのね…

 青年団に連絡を…」


ここは春拓と春之介のふたりして止めた。


「今日は別宅で寝るかい?」と春拓が聞くと、「そうだね、練習もしたいからちょうどいいよ」と春之介は陽気に言った。


「連絡はしておくから。

 今日の宿直は佐藤先生と山根先生だな…

 奇しくも、野球部と陸上部の顧問だ」


「おふたりとも挨拶はしたからちょうどよかったよ。

 じゃあ、おやすみ」


春之介は言って、二階に上がる階段ではなく、地下に向かう階段を降りた。


まさにこの家はからくり屋敷だった。


長い廊下を歩くと、階段が見えてきた。


ゆっくりと階段を上り、簡素な扉を開けると、「春之介君…」と佐藤と山根が同時に言って、眉を下げていた。


「山根先生。

 陸上部にお世話になることに決めました」


春之介の言葉に、山根は両手を上げて喜び、佐藤はその逆に大いにうなだれた。


「…地区大会は楽勝だったのに…」と佐藤は大いに恨み言を述べた。


「陸上の方も結果を残せても全国には行きません。

 記録さえ残せれば、俺としては満足なので」


「…えー…」と山根は大いに嘆いた。


「予選も決勝も好タイムであれば、誰もが認めてくれるでしょ?

 それなりの協会にも、

 先生たちから俺に係わるなと言っておいてください。

 俺は楽しい高校生活を満喫したいので」


「…いや、まあ…

 俺はそれでいいのだが、校長と教頭がどういうか…」


「対決してください。

 なんなら、親に出てもらいます。

 ここは全力で、俺の力になってくれるはずなので」


春之介の言葉に、山根も佐藤も大いに渋い顔をしていた。


「これは個人競技だからできることだ思います。

 野球では、こんな身勝手なことはできないので。

 でも俺は野球が一番好きです。

 じゃあ、ちょっと、練習に行ってきますので。

 うちの家からサーチライトで灯しているので、

 校庭の半分ほどは明るいはずです」


「…わかった…

 気をつけてな…」


山根は言って、大いに苦笑いを浮かべた。



春之介は、この部屋にあるロッカーを開けて、トレーニングウエアと、レールに乗り始めてから使い始めた、短距離用のシューズを出した。


早速履き替えて、その軽さに驚いた。


校庭に出ると、春之介の家に面している校庭の四分の一ほどは、いい塩梅で明るかった。


春之介は少し用心して校門の方面を見たが、ここからでは見えない。


フェンスには幕が張られているので、誰かがいてもわからないが、校庭に入ってくることは不可能に近い。


フェンスの高さは10メートルほどはあるからだ。


春之介は校庭の外周を軽く走りながらストレッチをした。


校庭は広いので、直線で楽に100メートルは取れる。


ウォーミングアップを終えた春之介は三人引きの鉄製の重いトンボを抱えて、走路を作るようにならした。


30往復ほどして、今度は巨大なブラシをかけて、小石などを除去した。


まさに走りやすくなったので、数本は軽く流してから、スターティングブロックを地面に打ち込んでから足をかけ、本気で走った。


まさに、今は風になっていると思い、春之介は一直線のコースを駆け抜けた。


「暫定だが、9秒767!」


山根が叫ぶと、「よっし! 記録更新!」と春之介は叫んでガッツポーズを取った。


「陸上のトラックだったらさらに弾むから、さらに早くなる。

 校庭の端に、専用のコースを作ってもらうか…」


「祖父に言って、寄付してもらいますよ。

 だったら、問題はないと思います。

 春菜も陸上部にお世話になることは聞いてますので」


「…そうだった…」と山根は言って、何度もうなづいた。


「…いいなぁー、陸上部…」と佐藤は言ってうなだれた。



春之介はしっかりと練習してから、教師二人と風呂に入って、まるで合宿のようにして宿直室で眠りについた。


春之介は朝早くから起き出して、また練習を始めたが、さすがに本気では走らない。


宿直室に戻って、山根に入部届を書いて提出してから、家に戻って朝食を摂っていると、「おはようごさいまぁーす!」という明るい声が聞こえた。


「あら、早いのね…」と夏樹が言って、ダイニングを出てすぐに春菜を連れてきた。


「我が妹ながらさすが美人だ」と春拓は言って、ブレザー姿の春菜を大いに褒めた。


「昨日、どうだったの?」


春菜の問いかけに春之介は、「追いかけられたから逃げた。そのあとに、学校で練習して宿直室に泊めてもらった」と春之介は少し陽気に言った。


「…練習、できるのね…

 私もここに住んじゃおうかしら…」


「ああ、いいぞ。

 部屋は空いているからな。

 だが、体を壊さないように練習してくれよ。

 父さんと母さんに叱られるからな」


「みんなに心配をかけないようにするわ」と春菜はいろんな意味を込めて言った。


「春君なんて、もう二年三年の勉強までしてるのよ。

 信じられないわぁー…」


「それが、進学校でスポーツに勤しむために必要なことだと思わないのかい?」


「…今、思いましたぁー…」と春菜は言ってうなだれた。


「スポーツを捨てないことはいいことだ。

 あとできっと後悔するからな。

 だが、春之介の親としては、野球人としての息子を見ていたいと、

 今でも思っている」


春拓の堂々とした言葉に、春之介は心がざわついた。


「あ、ダメだな…

 やっぱり、決心が固まっていなかった…

 野球が好きなことには変わりがないからなぁー…」


「…もぉー、お兄ちゃん…」と春菜が春拓を責めるように言うと、「親の欲だ、許せ」と春拓は言って、春之介と春菜に頭を下げた。


「だけどさ、手動だけど昨日の記録、9秒767だって」


春之介の言葉に、「…オリンピックも目指せぇー…」と春拓は小声で言った。


「あ、父さんから、陸上のコースを寄付してもらうように、

 爺ちゃんに聞いてくれないかな?

 できれば、ベストの状態で練習したいんだ。

 無駄に校庭が広いから…」


「高校はほとんどが爺さんの寄付だ。

 土地も、何もかもな。

 県がカネを出したのは校舎の建設費用だけ。

 いまさら陸上のコースを寄付したところで、

 大人は誰も何も言わん。

 なんなら、陸上競技場を寄付してもいいと言い出すと思う。

 だが、ほかの公立校からは白い目で見られそうだからな。

 しかし、公認の記録を出せば、

 そんなもの、爺さんが出張らなくても問題はないほどだ」


「うん、わかった。

 民間の試合に出て、記録を残すことに決めた。

 だったら、すぐにでもコースを敷いてもらえるだろうから。

 一番近いのは、月例の記録会で、来週の日曜だね。

 エントリー、まだできるかなぁー…」


「今日までだ。

 やっておくから、心配しなくてもいい。

 未成年は、保護者の承認が必要だからな」


春拓の力強い言葉に、「ありがとう! 早速目標ができた!」と春之介は陽気に叫んでから、大いに飯を食らった。


「…何とかねじ込むか…」と春拓はすぐさまスマートフォンを出して調べ上げ、口から出まかせに言ったことが真実だったので、オンラインで手続きを終えた。


「参加番号、送っておいたぞ」という春拓の言葉に、「うん! ありがと!」と春之介は大いに喜んで叫んだ。


「お兄ちゃん、私のはぁー…」


「俺はお前の親じゃないが、問題ないだろう…」と春拓は言って猛スピードで情報を入れ込んで、春菜の参加番号も取得した。


春菜はスマートフォンの参加番号を見て、「自分に勝つ!」と大いに気合を入れて、まるで春之介の妹のようにして食事をたらふく食った。



春之介と春菜は、春拓と夏樹に見送られて家を出て、早速校門を感慨深く見た。


『第十一回 千葉県立春咲高等学校入学式』


校庭の桜は散り始めていたが、まさに春らしい陽気で、最高の入学式日和だった。


「おっと、ナンバーワンとナンバーツー」と山根が軽口をたたくと、「おはようございます!」とふたりは大声であいさつをした。


同じ新入生たちや上級生たちは、高身長の好男子と美少女に目が釘付けになっていた。


教室などももうわかっていて、ふたりは同じクラスであることはもう知っていた。


ふたりの苗字が一緒で名前も一致する文字があり、さらに顔まで似ているので、血縁者だということは一目瞭然だ。


しかもこの校名に、『春』が入っていることで、関係はあるだろうと、大人なら簡単に察しはつく。


まずは50音順に席に着くようで、春菜は窓際から三列目の一番前の席で、春之介はその後ろだった。


一旦カバンを置いてから、ふたりは教室にいた級友たちにあいさつに回った。


ふたりは大いに注目されて、男子も女子もふたりに見惚れていた。


「…うう… 春菜様… 春之介様…」と、教室の後ろのドアを開けた、高山一太が嘆くように言った。


「あれ? 一太君… 君、高専に行ったんじゃ…」


春之介が大いに戸惑って言うと、「…ここ、補欠を受けて受かったのです…」と一太は言って、ふたりに頭を下げた。


「それ、もうやめようよ…

 なんだかイジメてるみたいでイヤだ…」


「…わかっていのです、春之介様…

 わかっていのですけど、やめられないのです…」


一太が大いに落ち込んでしまったので、「…説明しとくから…」と春之介は言って、集まってきたクラスメイト達に事情を説明した。


一太はふたりの幼馴染で、春太郎の家に仕えている執事の孫だ。


よってふたりを様扱いするのは、普通のことなのだ。


「…八丁畷家の…」とこの近隣に住む学生たちはすぐさま納得していた。


知らなかった者も、「…まさか、だけど…」と言って、国会議員の名前を出すと、「血縁者だよ」と春之介は気さくに答えた。


「中学まではみんなが知っていて当然だったけど、

 高校はそうはいかないから。

 この学校は、

 有名私立中学から試験を受けにきた人が多いって聞いたからね。

 俺たちの中学までの知り合いはほとんどいないんだよ。

 学年では多分、一太がただひとりのような気がするね。

 卒業式では、みんな別れがつらいんじゃなくて、

 第二志望にしか合格できなかったから泣いていたと思うよ…」


「…あー… 何人も越境してきたって、

 父ちゃんがすっごく喜んでたな…

 あ、父ちゃん、不動産を扱ってるんだ」


山田裕也の言葉に、「なるほどね…」と春之介は答えてうなづいた。


「お客さんがこのクラスに何人かいるらしいんだ。

 越境してくることがわかっているのに学生寮はないからね。

 俺としては高山君の気持ちがよくわかるよ…」


裕也が眉を下げて言うと、「ありがとうございます」と一太は感情を込めて礼を言った。


「…一太君のお父さんも、みんなにこんな感じだから、

 気にしないでやって欲しいんだ…」


クラスメイトたちは大いに察して理解した。



「…美少女、きたぁー…」と春菜が嘆くように言った。


肩にかかる寸前のストレートヘアの美少女は、「八丁畷! 面貸せっ!」といきなり怒鳴ったので、誰もが目が点になっていた。


「…い… 一之谷君かぁー…」「一ノ瀬だぁー…」


春之介と優の会話に、誰もが大いにやきもきしていた。


「…坊主頭だったのって…」と春菜が言うと、「そんなもの、俺にとっては当たり前だったんだ!」と優は大いに声を荒げて叫んだ。


「でも、今は伸ばしてるよね?」


春之介の言葉に、春菜は何度もうなづいた。


「…こ… これはだなぁー…」と優は初めて腰が引けていた。


「ここで野球するの?」「当たり前だ!」


「悪いけど、俺は野球部には入らないことにしたから。

 別の目標ができたからね」


「なんだとぉ―――!!」と優は叫んでから、「…俺が猛勉強を積んだのは無駄だったというのかぁー…」と大いに嘆いた。


「あーその気持ちはよくわかるね。

 俺も夏季大会のあとから猛勉強してここに入ったから。

 だけど、どうしてここに?」


「…うう… それは、だなぁー…」と優は言いにくそうにして目が泳いでいた。


そして、「俺は諦めんからな!」と優は叫んで廊下に出て行った。


「…別のクラスでよかったぁー…」と春之介は大いに胸をなでおろしていたが、「…美少女なのに、もったいない…」と言うと、春菜は大いにホホを膨らませていた。


「あ、気になるよね?」と春之介は言ってから、一ノ瀬との出会いと別れを語った。


「…全国大会で優勝したんだぁー…」と誰もが春之介の功績に驚いていた。


「俺だけの力じゃないさ。

 野球はチームワークのスポーツだからね。

 だけどね、一ノ瀬君のチームは、

 彼ひとりの力で勝ち上がってきていたんだ。

 彼の不運は、ピッチャーだったっていうことに尽きるね。

 全力投球をキャッチャーが捕れないんだよ」


春之介の言葉に、誰もが一ノ瀬に大いに同情した。


「だけど俺の最終打席。

 キャッチャーは、

 全力で投げろ!

 って叫んだんだ。

 彼はその通りに投げたと思う。

 もう勝負はついていたんだけどね。

 その闘志がこもったボールを、俺はスタンドに叩き込んだんだよ。

 かなり重い球で、まさか女性だとは思えなかった。

 あの重さは160キロは出ていたと思うよ」


春之介の言葉に、「あー、俺、バッティングセンターで160キロのボールを打ったことがある。とんでもない衝撃で、手のひらが痛かった」と斎藤和也が答えた。


「そうだね。

 しっかりと握っておかないと手のひらに痛みが走る。

 そして手首は柔らかくしておかなければ振り切れない。

 速球の強みはそこにあるんだよ。

 バットに当たっても、まともに飛ばないんだ」


「そりゃ、悔しいだろうね…

 だけど、どうして野球を辞めちゃうの?」


和也の疑問に、「ミスすることが怖くなったからだよ」とまずは結論を言って、その内容を語ると、クラスメイト達は一応は納得していた。


もちろん、もったいないという気持ちが大きいし、勉強が全てのようなこの学校から甲子園に行ける実力があるとわかれば、生徒たちも大いにやる気になると誰もが考えた。


「だからこそ、自分自身に自信を持つために、

 陸上競技会に出るんだ。

 誰でも参加できて、記録は公式に認定されるんだ。

 言い訳に近いけど、俺には陸上の道もあるって示したいんだ。

 陸上は個人競技だから、俺のミスは俺に返ってくるだけだから。

 それに野球は好きだけど、

 それほど情熱を注いだとは思っていないんだ。

 みんなでプレーすることが楽しかっただけだ。

 そのチームはもうないからね。

 また一から、先輩について混ぜてもらう必要があるからね。

 チームプレイを完璧にした時、

 離れていた人も何人もいたんだよ。

 それも耐えられないんだ…

 チームプレイは残酷だと俺は何度も思ったね…」


春之介が語ると、誰もなにも言えなくなっていた。


結果を残した者の言葉だけに、重みがあったからだ。



クラスメイトが全員そろって、担任教師の挨拶が終わってすぐに体育館に移動した。


ここでの注目は、誰が入学の喜びの言葉を述べるのかにだけあった。


「新入生代表、八丁畷春菜君」


「はい!」


春菜がすぐに席を立ち、壇上に向かうと誰もが大きなため息をついた。


春菜はまさに見栄えがいいので、男子も女子も大いにあこがれた。


そして手には何も持っていない。


ブレザーのポケットにでも原稿を入れているのかと思ったが入っていないように見える。


春菜は台本なしに、自分の言葉で、喜びの言葉を語ったのだ。


春菜が語り終えると、特に新入生から割れんばかりの拍手が起こった。


その拍手はなかなか鳴り止まなかった。


少し落ち着いたところで、「新入生、退場」とアナウンスがあり、全員が一斉に立ち上がって、順序良く教室に戻って行った。



「…素晴らしい、入学式でしたぁー…

 私に子供が授かったら、

 八丁畷さんのような子供に育ってもらいたいと、

 何度も思ってしまいましたぁー…」


教師三年目の担任教師の川添真由美は涙ながらに言った。


「私は代理でした」


「え?」とクラスメイトの誰もが春菜の言葉に、大いに反応した。


「…私、その理由を聞いてないぃー…」と真由美は言って春菜を見た。


「お説教が始まるからです。

 辞退というよりもやめさせたと言った方がいいと思います。

 入学する前に、すぐにでも卒業する勢いで勉強するような人なので。

 きっと先生方は、それほどいい感情が湧かなかったと察します」


「…先生、辞めたくなってきましたぁー…」と真由美は大いに嘆いた。


「ですが、彼の父母は、我が子の晴れ姿を見たかったと思います」


春菜の言葉に、春之介は大いに罪悪感が湧いていた。


「ですので、

 卒業式では大いにお説教をしてもらうことになりますので、

 バランスがよくて丁度いいと思っています」


「…よくないわよぉー…」と真由美は大いに嘆いた。


「…皆さんもそのうち、誰なのかよくわかってくると思いますぅー…」


真由美は言ってちらりと春之介を見たが、クラスの三分の一ほどはすでに春之介を見ていた。


一時間ほどをかけて、決め事やこの先の予定などの説明を受けてから、今日は下校する運びとなった。


ほとんどの上級生は休日になっているので、普通に部活動をやっている。


春之介と春菜はすぐさま陸上部の部室に行って、着替えてから先輩たちに挨拶をした。


先輩たちは、ふたりを見て大いに怪訝に思っていた。


「双子ってわけじゃないんだよね?」


キャプテンの柿崎恵奈が大いに苦笑いを浮かべて聞くと、「…夫婦ですぅー…」と春菜が言ったので、春之介は大いに目を見開いていた。


叔母と甥とは口が裂けても言いたくなかったので、ここは冗談として言ったつもりだった。


「個人情報ですので、説明は省かせてください」


まさに春之介がお堅く正論を言うと、「…気になっちゃうぅー…」と特に女子部員が黄色い声を上げた。


「おまえら、そんな軽いことを言っていられなくなるぞ」と部長の山根が言うと、部員たちに大いに気合が入っていた。


山根はある部分は気さくな面もあるが、なかなかの鬼コーチでもあるからだ。


その鬼コーチの言葉には誰も疑うことはなかった。


「春之介の実力はもう確認済みだ。

 春菜はその実力を見てから判断する。

 春之介は自分のペースで練習してくれ。

 月例会にあわせてくれていいぞ」


「はい、わかりました」と春之介はすぐに答えて頭を下げた。


「…八丁畷って…

 でっかい屋敷がある…

 コンビニの近くの…

 郵便局が向かいにあって…」


副部長の大門正樹がうなるように言うと、「私の家です!」と春菜が答えると、「…お嬢様だったぁー…」と誰もが嘆くように言った。


「面倒だから種明かし…

 八丁畷春太郎氏のご息女だ。

 お父様は国会議員という職についておられる。

 もっと言えば、この学校を作ったのが、春太郎様と言っていいほどだ。

 県は建物を建てただけ。

 ご子息たちの将来を見据えて、この学校を作られたそうだぞ。

 今年から、様々な変更があった。

 スポーツだと、男女平等ではなく、

 体格、体質で出場部門を決められるようになった。

 陸上だと、女子という部門と、フリーという部門に分かれる。

 フリーは、肉体の条件を認められていれば、

 男性でも女性でも出場資格はある。

 本当の意味の、日本一、世界一速い者が決まるわけだ。

 この部では、半数ほどがその資格を得た。

 春菜もそのひとりだ」


「春之介君を追い抜けないので、フリーには出ませんけど」


「まあな…」と山根は言って、大いに苦笑いを浮かべた。


よって様々なスポーツ種目でこの方法とることに決まった。


陸上の場合は世界統一規格だが、野球に関しては日本だけのものだ。


しかし諸外国も、ほとんどのスポーツをこのように開けた環境に変えようと日々論議が繰り広げられている。



春之介が軽い筋肉トレーニングを積んでいると、指先に紙をはさんでひらひらとして歩いてきた陽気な佐藤が視界に入った。


春之介は会釈だけをして、ダンベルだけに集中した。


佐藤はそのまま鬼コーチの山根に近づいて、数秒後に、「どういうことだっ?!」と大声で叫んだ。


「入部推薦。

 校長が認めてしまった。

 さらに、我が校に、部活重複禁止の校則はないし、

 陸連も高野連も間口は広い」


「…いや、だが…」と山根は言って、入部届を見て、「…女?」と聞くと、春菜が大いに反応した。


「出してきたのは新入部員の一ノ瀬優だ。

 身体的にもパスして、女性だが正式な野球部員で、エース候補。

 というか、もうエースでいい!」


佐藤は大いに陽気に叫んで、大いに笑った。


「…甲子園も、夢ではないってかぁー…」と山根は大いに悔しがった。


「うちの高校はケチだから、

 監督がいないから俺を監督として登録した。

 おまえ、部長として雇ってもいいぞ」


「…うー… くっそぉー…」と山根は大いに悔しがって、すぐに春之介を見た。


「まずは世界陸上でその実力を見せろ!」と山根が大いに叫んだ。


「陸上部、辞めてもいいんです」


春之介の言葉に、山根は言葉を失ってしまった。


「ほかの人の人生にかかわりたくありませんし、

 それほど情熱がないのに

 世界記録を出すようなヤツはお呼びじゃないと思います。

 もし、インタビューを受けたらこのままの俺で冷静に受け答えしますから」


「…申し訳なかった…」と山根は大いに眉を下げて春之介に謝った。


すると、土木作業用のトラックが校庭の端を走ってやってきて、教頭の小手川の指示で、工事が始まり、陸上部の練習が一時中断することになった。


「…教頭が、校長に盾ついてきたぁー…」と佐藤が嘆くように言った。


校長は甲子園派で、教頭は世界陸上、オリンピック派と言ったところのようだ。


「…はぁー… オート計測器だぁー…」と春之介は電光掲示板を見入って笑みを浮かべた。


競技自体ではなく、その器具に大いに喜んでいたので、教師二人は大いに眉を下げていた。


「すぐにでも、俺の実力をお見せしますから!」と春之介は佐藤に向けて陽気に叫んだ。


「…お、おう… できれば正確なところは見たくないところだぁー…」と佐藤は嘆くようにつぶやいた。


既にセットアップは終わっていたようで、まずは春菜がテストとしてコースを走り抜け、10秒012という、これもとんでもない成績を出してきた。


「…もう満足だから、私、陸上部辞めるぅー…」と春菜が言ったので、山根の引き留め工作が過激になってきた。


春菜としては、これ以上の成績は出せないと、納得してしまったこともあるのだろう。


そしてついに、春之介がスターティングブロックに両足をつけた。


『オンヨーマーク』と計測装置から音声が聞こえた。


春之介は力が入っていることに気付いて極力力を抜いた。


『ゲッセッ』と聞いて、力を入れずに、ゆっくりと腰を上げた。


『タァーン!!』という電子音とともに、春之介は飛び出した。


その姿はまさにチーターだった。


春之介は前傾姿勢のまま地面に潜るのかと言わんばかりの低姿勢を取っていて、わずか33歩であっという間にゴールラインを駆け抜けた。


そして電光掲示板に、『9s422』と出たので、春之介は両腕を上げて大いに喜んだ。


出来立ての陸上部の仲間たちは一斉にこの偉業を褒めたたえ、今度は俺が私がとチャレンジしたが、機械は無情で、今までの成績とほとんど変わりがなかった。


よって、計測器の正確性は確認することができたので、佐藤は大いに苦笑いを浮かべていた。


「…陸上も、もういいかなぁー…」と春之介が言うと、小手川教頭が、「そんなこと言わないでぇー…」と大いに眉を下げて言ってきた。


そして、「うふふ…」と笑って、少し離れてこの状況を撮影している、春之介たちの担任教師の真由美に指を差した。


「報告義務があるのです」


小手川が胸を張って言うと、「…やっぱ、爺ちゃんの寄付かぁー…」ともうほとんどわかっていたが、春之介は言って大いに苦笑いを浮かべた。


「全世界に流れています!」


「…さらに、オンラインだった…」と春之介は言って、この先のことを大いに憂鬱に思った。


「そして、作業員の方の中には、

 世界陸連の担当の方もおられますので、

 参考記録としては承認されました」


小手川はヘルメットを着けた三名の外国人と流暢に話し始めた。


「エクセレントッ!!

 アンビリーバボーッ!!」


―― なんか、うさんくせ… ―― と春之介は思いながらも、外国人たちと握手を交わした。



―― このままでは、甲子園の道が… ―― と佐藤は大いに悔しそうにして、その両腕を震わせていた。


「あ、先生」と春之介が気さくに聞いてきたので、「おっ! おう、なんだぁー…」と言って、何とか教師の威厳を保った。


「その入部届見せてもらえます?」


「おやすい御用だぁー…」と佐藤は少しおどけて言って、用紙を春之介に差し出した。


そして春之介は大いに笑った。


「…てまり寿司?」と春之介が笑いながら言うと、「…うわぁー… まさかの文字を書くのねぇー…」と春菜が大いに春之介に同意した。


まさに丸文字で、そして異様にかわいらしい文字がずらりと並んでいた。


「エースのご所望は、まずは捕手だと思いますけど?」


「いや、俺でも捕れるからそれほど問題ない」


佐藤の自信満々の言葉に、「本気で投げろと言いました?」という春之介の言葉に、佐藤は大いに目を見開いた。


「…本気だと、壊れると思って、手加減された…」


「はい、普通じゃない球を投げますから。

 先生はさらに喜んだと思うんです。

 たとえ、腕が折れていたとしてもね」


春之介の言葉に、佐藤のホホは大いに引きつっていた。


「…さっさと来やがれ!!」とかなり遠くから優が叫んだ。


「部活中だからダメだ!!」と春之介も叫び返した。


「おめえじゃねえと、先輩たちを壊しちまうぞ!!」


「その役は、佐藤先生に頼んでくれ!!」


まさに物騒な言葉のキャッチボールに、ここは佐藤と中根が協議をして、春之介の野球の実力の確認をすることになった。


すると校長の佐々木が、「ようやく出てきたか!」と陽気に叫んで、春之介に駆け寄って来て、思いっきり背中を叩いた。


「…痛いですよ監督…」と春之介が言うと、「…監督…」と誰もが佐々木と春之介を見入った。


「少年野球の監督」と佐々木が言うと、誰もが一斉に頭を下げていた。


「…この日をどれだけ夢見ていたか…」


「そういうのも嫌だから、野球をやめることにしたんです。

 みなさんの夢を俺に叶えさせないで欲しいのです」


春之介の言葉に、誰もが大いに罪悪感が湧いていた。


「おまえ、モテモテになるんだぞ?!」


優の言葉に、「そんなものいらない、面倒なだけだから」という春之介の言葉に、「…おまえがおかしいと思う…」と優は嘆くように言った。


「普通じゃないからそう思うだけさ。

 今の俺が知りたいのは、一ノ瀬の今の実力だけだ」


「おうっ! いつでもいいぜっ!」と優は大いに陽気に言って左腕を何度も回し始めた。


「いきなり全力で来るなよ。

 受ける身にもなって考えてくれ」


「…お、おう…」と優は少しうなだれて答えた。


春之介は手早く防具をつけていると、「…おまえ、センターだったはずなのに…」と優が嘆くように言うと、「ピッチャー以外は何度もやっている」とだけにやりと笑って答えた。


「…ピッチャー以外って…」


「俺もある意味、お前と同じだ。

 全力で投げられないから投げなかった。

 百メートル離れていても、ストライクを投げられるぞ」


優は大いに苦笑いを浮かべていた。


「問題は、軟球と硬球の差だ。

 まずは慣れたいからキャッチボールから」


「…お、おう…」と優は答えて、スナップだけでボールを投げてきた。


『ビシッ!』というミットの音に、春之介はミットを外して軍手をつけた。


このようにして百球ほど確認してから、優をマウンドに立たせた。


「まずは力半分ほどから」


このようにして春之介は優を試すようにして投げさせた。


そして軍手三枚を重ねた時、「…休ませてくれ…」と優が弱音を吐いてきた。


「おまえ、大したことねえな…」と春之介が言うと、優は眼に涙を溜めていた。


「おまえのお嫁さんになるために来たんだもんっ!!」と優はここで告白をした。


だが、春之介は大いに笑っていた。


「そんなこと知るか!

 俺はお前のピッチャーの資質を見たいだけだ。

 …まあ、今日はいいか…」


春之介は言って、「監督、最高速は?」と上機嫌でスピードガンを構えている佐々木に聞いた。


「158だ」と号泣しながら言った。


「160は軽く出そうですね。

 問題はスタミナとやる気です。

 大切に育てた方がよさそうですよ」


「おまえがやれ」と佐々木は堂々と言ってきたがここは大いに考え込んで、「…あー、ここは、穏便に…」と下手に出てきたので、春之介は大いに笑った。


「俺はさらに野球が好きになったのかもしれません。

 だが、こいつは…」


春之介は言って、何とか涙をこらえている優を見た。


「野球やるの、やらないの?」と聞くと、「もっと頑張るもん!」とガッツポーズをするように両腕に大いに力を込めて叫んだ。


「まあ、苦労してせっかく入学したんだからな。

 部活が終わったら、少し話をしたい。

 色々と知りたいことができたから」


「…あー… デートぉー…」


「やめてもいいんだぜ!」


春之介の言葉に、「…きちんと、壊さないように頑張りますぅー…」と優は言って、頭を下げた。


「ランニングをサボったはずだ。

 なんなら、

 野球部も陸上部の仲間入りをしてもいいんじゃないのかなぁー…

 基礎からみっちりと…

 タイム計測もできるし…

 野球は瞬発力が重要だから、

 短距離系の競技は大いに練習として使えると思う」


大人たちは春之介の言葉をないがしろにしなかった。


野球部はまるで陸上部に吸収されたように練習を始めたのだ。


春之介は硬球の重みを心地よく思っていた。


まさにめらめらと闘志がわいてきたと思いながらも沈下させた。


沈下させる方法は簡単で、春菜を見るだけだ。


まさに憂鬱な気分になるのだが、今の春之介には必要なことだった。



昼過ぎまで練習を行って、一旦昼食休憩をとることになり、解散した。


もちろん春之介は春菜と優を誘った。


「あら、いらっしゃい」と夏樹が優に笑みを浮かべて挨拶すると、「おじゃまします」と優は答えて素早く頭を下げた。


「あ、自分は一ノ瀬優と申します。

 どうか、よろしくお願いいたします」


「あら、あなたが…

 春之介を追いかけまわしてるって?」


夏樹が少しにらんで言うと、「お嫁さんになりたくてここまで来ました!」と叫んだ。


「あら、そうだったの…

 聞きたいことがたくさんできたけど、

 春君もそのつもり満々でお誘いしたのね?」


「もちろんだよ。

 事情を知りすぎているってね。

 きっと、雅春兄ちゃんの仕業だと思うけどね」


春之介の言葉に、「…ピンポーン…」とだけ優がつぶやくと、みんなは大いに笑った。


四人で食事を摂りながら大いに会話は弾んだ。


「岩手美術大学にいるから、

 関係はあるって思ってたよ。

 それに応団幕や旗のデザインが俺たちのものとよく似ていた」


「俺の親父がマンションを提供した伝だ」


優の言葉に、「提供? パトロンがもうついたってこと?」と春之介は眼を見開いて言った。


「親父が雅春さんの絵を気に入ったからな。

 もう何作品ももらったり買ったりしてるんだ。

 俺も雅春さんの絵は好きだ。

 俺は投げないが、変化に富んでいて、いつも驚かされる」


「ふーん…」と春之介は言って、スマートフォンを操って、『八丁畷雅春』で検索すると、「…雅春兄ちゃん、すげぇー…」とうなった。


そして、「あ!」と春之介は叫んで、その題名を見た。


そして、スマートフォンを春菜に向けた。


「…希望…」と春菜は言って、涙を流した。


画面に映し出されてた絵は、春之介と春菜が着飾った絵だった。


「…雅春兄ちゃんとお母さんは賛成派ぁー…」と春菜が言うと、春之介は大いに眉を下げていた。


「値段を見ても驚くぞ。

 学生の作品につける値段じゃないと思う」


「私のお小遣いで買っちゃうぅー…」


春之介は大いに眉を下げて春菜を見ていた。


「…おまえ、どれほどお小遣いもらってんだ?」と春之介が聞くと、「欲しい時に欲しいだけ…」と答えたので、三人は大いに眉を下げていた。


「お嬢様だ」と春之介と優が同時に言った。


そして春菜はおもむろに自分のスマートフォンを出して、耳に当て、「…希望の絵、売ってぇー…」と猫なで声で言った。


『やっと見つかったようだね。

 そこに優君がいるんだね』


「うん、聞きたいことがたくさんできたって。

 もうほとんどわかっちゃったけどね」


『絵はあげるから、すぐに送るよ。

 …そして戦え、春菜』


雅春の今まで聞いたことがない力強い言葉に、春菜は息をのんだ。


今までの雅春の言葉ではないと感じたのだ。


「…う、うん… 戦うぅー…」


春菜は雅春に何度も礼を言って電話を切った。


「…雅春兄ちゃん、なんか変…」と言って春之介を見た。


春之介は何度もうなづいて、優を見た。


「…どこがいいんだか…」と春之介が言うと、「えっ?!」と春菜と夏樹が大いに叫んだ。


優はここは少女らしくホホを膨らませた。


「雅春兄ちゃんは優しいよね?」


春之介の言葉に、「…あー… よくわかんないかなぁー…」と優は言って考え始めた。


「俺たちのことについて、ほとんどの説明を聞いていたって思うけど?」


「あ、うん、それは聞いたよ。

 狂犬のような女がいつも一緒にいるって」


今度は春菜のホホが膨れる番だった。


「雅春兄ちゃん、なんかすごいこと言ったよね?

 春ちゃん、かなり驚いていたから」


「…言いたくないぃー…」と春菜は回答を拒否した。


「がんばれ、などと言ったと思う。

 もちろん、俺と春ちゃんのことについてだ。

 いや、もっともっと、インパクトのある言葉だと思う。

 雅春兄ちゃんは一ノ瀬のことを好きだと思う」


「あっ!」と春菜は叫んでから、「…きっと、そうだって思った…」と言ってうなだれた。


「…戦え、春菜、って言ったのぉー…」と春菜が答えると、「一番の常識人だと思っていたんだけどね…」と春之介は言って、大いに苦笑いを浮かべた。


「芸術家はそんな感性の人ばかりだと思うわ」と夏樹が言った。


「たとえ本当の兄妹でも、好きならば結婚すればいいって。

 親としては、それでいいのかって大いに悩んじゃうけどね…

 でもね、否定できない私もいるわ。

 お互いが幸せだったら、それだけで十分だって思うもの…」


まさに親の言葉に、春之介も春菜も大いに考え込んだ。


「…叔母さんと甥っ子の恋…」


優の言葉に、ふたりはさらに落ち込んだ。


「…俺… そのことばかり考えてた…

 だからこうやって、

 比較的穏やかに飯を食えていてよかったぁーってな」


「今は考えない!」と春之介は断言した。


「…うん、できれば私も…」と春菜も賛成した。


「…俺も、考えるなって?」と優が言うと、「俺の気持ちは、今はチームメイトでしかない」と春之介は断言した。


優は勢い勇んで立ち上がって、「野球、やるんだなっ?!」と叫んだ。


「キャッチボールだけで野球人として篭絡されたって感じだ。

 野球の勉強も、一から始めるか…」


「…野球人として…」と優はつぶやいて大いにうなだれた。


「今年からはルールが変わったんだ。

 身体的条件を満たしていれば、

 男でも女でもグランドに立てる。

 だからグランドに出てプレーする者は誰もが野球人だ」


春之介の重い言葉に、「…そうだ、俺は正式に野球人となったんだぁ―――っ!!!」と優は大いに高揚感を上げて叫んだ。


「…おまえの野球への情熱には勝てそうにない…」と春之介は言って、大いに眉を下げた。


「…何とか星人みたいでなんか変…」と春菜は言ったが、また春之介のプレーを見られると思って、大いに胸が高鳴っていた。


「言っとくけど、見てるだけで、亭主は捕まえられないと思う。

 そして見ているだけの者は、大いに盛り上がるんだろうが、

 仲間意識に欠ける。

 俺はそんな女は選ばないような気がする。

 だからこそ、

 雅春兄ちゃんが言ったように戦うんじゃないの?」


春菜は眼を見開いて、「…私にも、野球人になれと…」と大いに嘆いた。


「春菜も野球人の資格があるって、今日確認できたからな。

 できればファーストのレギュラーを勝ち取って欲しいね」


「…もっと、一緒に遊んでればよかったぁー…」と春菜は大いに嘆いた。


「小学校の野球クラブの経験があれば十分だ。

 全くの素人じゃない」


「…うう… そうだったのかぁー…」と今度は優が嘆いた。


「女の子投げ、しないぞ」


春之介の言葉に、優は頭を抱え込んでから、「…足腰の強さがあれば、何とでもなる…」と嘆くように言った。


「世界レベルの足腰」と春之介が自慢するように言うと、ここでやっと優は着席してうなだれた。


「問題は捕球とバッティングだな。

 これは経験を積むしかない。

 今度は、バッティングセンターでも建ててもらおうかなぁー…」


春之介は大いにワクワクしていた。


「俺がいくらでも投げるからいい!」


優が力を込めて言うと、「壊すだけだ、やめとけ」という春之介の言葉に、「…女房のくせにぃー…」と優は大いに悔しがって言った。


「おまえなぁー…

 俺が投げる球は誰が捕るんだ?」


春之介の言葉に、優は目が点になっていた。


「お前ひとりで勝ち抜けるわけないだろ…

 俺も投げるに決まってる」


優はホホが引きつり始めた。


「キャッチャーなんてやったことないもん!」


「おまえがやらなきゃ勝てねえんだよ!」


まさに壮大な野球人としての夫婦げんかに、春菜も夏樹も大いに目を見開いていたが、ふたりとも同時に大いに笑い始めた。



三人は学校に戻って、春之介は基本的には野球部に所属すると公言した。


佐藤はさらに春菜が増えたことに大いに喜び、山根は大いにうなだれた。


入部テストではないが、ひと通りの基本的なプレーを披露すると、チームメイトたちは、―― 次元が違う… ―― と大いに思い知っていた。


特にファーストを守る春菜には花がある。


そしてその柔軟性にも大いに驚かされた。


「…一回戦負けはないぃー…」と佐藤は号泣していた。


「優勝候補といきなり当たったら負けると思います」


春之介の現実的な言葉に、「…そうだった…」と佐藤はすぐさま夢から覚めた。


「ここは欲を持たずに、来年に望みを託すことにした方がいいと思います。

 三年生には申し訳ありませんが…

 ですが全力で臨みますので、どうかよろしくお願いします!」


三年生たちにはまるきり欲がなかった。


しかし、素晴らしい力が三人も加わったことで、大いにやる気になっていた。


「あ、あとひとり、俺の野球仲間がいますから。

 器用ですので、セカンド、ショートの方は覚悟しておいてください。

 この学校に来る予定ではなかったんですけど、

 なぜかいました。

 全国大会で、優秀選手にも選ばれましたので」


「…もう、強豪校の仲間入りだから、優勝候補も怖くない!!」


佐藤は大いに高揚感を上げて叫んだ。



春之介がもうひとりのメンバーに電話をすると、高山一太が飛んでやってきた。


「…夢が、叶いましたぁー…」と一太が大いに感動して言うと、「あー… 期待してたんだね…」と春之介は大いに眉を下げて言った。


「私もプロ野球はどうでもいいのです。

 ですが、野球の一番の花形である

 高校野球に打ち込みたかったことは否めません。

 ですので、お坊ちゃまの気が変わるかもしれないと思い、

 私は戻ってきたのです。

 どうか、よろしくお願いいたします」


「振り回したようで悪かったね。

 だけど心強い味方を手に入れた気分だよ。

 …おや?」


春之介は言って、一太の手のひらと手首を凝視した。


「…どこで練習したの?」


「…はっ 加納君にお願いして、五宮高校で」


一太の言葉に、誰もが大いに目を見開いていた。


五宮高校は、甲子園の常連校だ。


今年度の大会でも、優勝候補の筆頭だ。


「投手はそれほどでもありませんが、打力はかなりのものだと。

 とられた点はとり返すという勢いで攻めてくるでしょう。

 ですが、お坊ちゃまの敵ではございません。

 私が捕手をしても構わないのです」


「それは最後の手に取っておくよ。

 俺の計画では投手と捕手のスイッチだから。

 だけど、練習には付き合ってくれ」


「はっ 了解しました」と一太は言って頭を下げた。


そして一太の入部テストが始まって、内野手一同は大いにうなだれた。


ノッカーは疲れ果てた佐藤の代わりに春之介が行い、一太は厳しい打球も難なくさばく。


二遊間は一太に任せれば、何も問題はないと誰もが考えていた。


「できれば、誰もやめないで欲しいのです。

 俺は野球を大いに楽しみたいのです。

 もちろん勝つことは考えますが、

 それだけではチームプレイではなく

 個人プレイに走るような気がしてならないのです。

 どうか毎日を楽しんで、一緒に野球をしてください」


春之介が頭を下げると、チームメイトたちは最敬礼するように頭を下げた。



「…ニ三年が11名に一年生が10名か…」


佐藤はつぶやいて、ようやくできると思っていると、「練習試合だ!」と校長の佐々木が叫んだ。


「…校長… 俺の仕事を取らないでください…」


佐藤が大いに嘆くと、「監督は俺だ!」と佐々木が胸を張って言うと、「…ノンプロ指導の許可取ったんですかぁー…」と大いに嘆いてうなだれた。


「抜かりはない!」と佐々木は胸を張って言った。


「生徒が本気なんだ。

 教師が本気を出さずになんとする!」


佐々木にも大いに気合が入っていた。


佐々木は教員になる前に、プロ選手として活躍していたのだが、自分自身の実力を思い知って、後継を育てるために転職した。


そしてようやく光り輝く逸材に出会えた。


だが、本人に野球に対する情熱を感じなかったのが残念だったのだが、まさに天才で逸材だった。


いつの日か、華々しいステージに立てると、佐々木は信じて疑っていなかった。


当時の少年野球の指導は、立場上、『影の監督』だったので、試合ではベンチ入りはしていない。


まさに影から、春之介を見守っていたのだ。


「春太郎も望んでいたからな」


「…御屋形様も…

 やはり、お知り合いでしたか…」


「俺はあいつの代わりにプロ選手になった。

 そしてようやくここにきて、

 本当の意味の野球人の野球ができるようになった。

 このチームを引っ提げて、全国を震撼させてやる!」


佐々木は大見得を切ってから、「あーっはっはっはっはっ!!」と大声で陽気に笑った。



一年生チームは、佐々木監督の指示によって、春之介が仕切ることに決まった。


監督としてはただただ見ていたいだけだったようだ。


「まずは打たせて取る。

 そして打たれっぱなしでも構わない。

 大いに練習になるってもんだ。

 練習試合を積めば積むほど、

 実戦経験も積むことになる。

 サインの説明がないから、

 ここは自由にということだから、

 打席に立った時はその時々で状況判断してほしい。

 本来の高校野球ではないが、

 子供の頃にした草野球気分で構わないから」


春之介の言葉に、仲間たちは少し笑ってリラックスしていた。



一方の佐藤には大いに気合が入っていた。


「ずば抜けた実力はあるが、それは個人が持つものばかりだ。

 経験値の高いお前たちが負けるわけがない。

 細かい指示は出さないが、

 ここぞとばかりの時にだけサインを出すからな」


ニ三年生にも大いに気合が入っていた。


そして後攻の一年生が守備につくと、佐藤は大いに怒り狂っていた。


「本気で投げてこいっ!!」と、投手の優に向かって叫んだ。


その理由は、キャッチャーが春之介ではなかったのだ。


春之介はセンターのポジションについて、軽く走っている。


「…なめやがってぇー…」と佐藤は大いに怒り狂っていた。


プレイがかかり、優は流れるような素晴らしいフォームで、コーナーを突いた低めに球を集めてくる。


まさに打ちごろの球だが、球に変化がかかっているように感じるのだ。


バッターはツーストライクまで粘って、コーナーを突いた低めを叩きつけ、マウンドの手前で大きくバウンドした。


するともうすでに、セカンドの一太が飛んでいて、空中で素手で捕球して素早く一塁に送球した。


まさに、流れるようなプレイに、一年生たちの士気が大いに上がっていた。


「いいぞいいぞ! ナイスプレイッ!!」と春之介はセンターの定位置から二塁ベース手前まで走ってきていて一太を激励した。


次の打者は、セカンドベースの後ろにライナー性の打球を放ったが、『バシッ!』と子気味いい音がした。


なんとセンターの定位置から、春太郎が走り込んで、さも簡単そうにダイレクトでキャッチしていたのだ。


「…どこに打てというんだぁー…」と佐藤は悔しそうに言ってから、「思いっきり引っ張れ!」と大声で指示を出した。


確かに監督の言葉通りに引っ張ったのだが、打球は一二塁間に飛んでいた。


ここはファーストの春菜が飛び出して、バックハンドでキャッチして、身をひるがえして一塁にカバーに入った優に送球して楽々アウトにした。


「いいぞいいぞ!」と佐々木監督は上機嫌で拍手をして、選手たちを笑顔で迎え入れた。


「…みんな、普通じゃないぃー…」とサードの守備についていた美又猛が言うと、「ピッチャーがいいからな!」と鼻息荒く優が答えた。


「…指示通りだもん、驚いちゃったよ…」とマスクをかぶっている、佐久間建造が眉を下げて言った。


「最高の打たせて取る、だね。

 球が浮かないこともすごいと思う」


春之介の言葉に、誰もが大いにうなづいていた。


「春菜も問題なさそうだね」


「なんだかうれしくなっちゃった!」と春菜は陽気に叫んで喜んでいた。


「ずっと攻撃して、俺を喜ばせてくれ!」


佐々木監督の言葉に、「オウ!」と一年生たちは勇ましく叫んだ。


一番バッターは春之介で、まさに勝てる打順として佐々木が決めていた。


しかし春之介は大きいものは狙わず、三遊間をきれいに抜くヒットで塁に出た。


二番の一太は、これ見よがしにボールを叩きつけて、サードへの内野安打で塁に出た。


「…地味なやつらだ…」と優は言って左打席に入ったが、ここはセオリー通りに、ボールを叩きつけて、ファーストへの強襲ヒットで満塁にした。


「スクイズ警戒だ!」と佐藤が叫んだ。


「…そんなものするか…」と佐々木は鼻で笑っていた。


四番の春菜は大きなスイングで、痛烈なライナーで左中間を抜ける走者一掃の二塁打を放った。


「…野球って、いいなぁー…」と佐々木は大いにご満悦だった。


試合は5回で終えて、一年生チームが、30対ゼロで快勝して喜びを分かち合った。


「…味方でよかったぁー…」と佐藤は何とか息を吹き返して言った。


「ノーエラーで打率10割が4人」


佐々木の言葉に、「あっ!」と佐藤が叫んで、春之介たちを見た。


「真似をしろとは言わんが、

 もっと楽しめたらよかったのにな。

 これは監督のせいだ。

 監督なんて、野球を楽しんで見守っていればいいだけだ。

 練習試合と言えども、ノーサインでこの結果はありえんからな。

 まさに子供の草野球が勝った一戦だった」


「…楽しかったぁー…」と優が満面の笑みを浮かべて青空を見上げてつぶやいた。


「じゃ、二戦目。

 20分後な」


佐々木監督の厳しい言葉に、ニ三年生は大いに眉を下げていた。



五回と短いとはいえ、二試合の練習試合を終え、選手たちは整理体操をしてから今日の部活は終了した。


それぞれに考えることがあるようで、好成績を残した一年生もそれほどいい顔はしていない。


まさに春之介たちとのプレイのレベル差をどうやって埋めるのか考え込んでいた。


そして世間は甘くない。


校門に近づいた時、異様な雰囲気を感じて、誰もが下校しようとしなかった。


『すぐに解散しなさい。

 往来を妨げないように』


警察車両がマイクを通して注意を促した。


「あー… 全世界中継かぁー…」と春之介は大いに嘆いた。


「自衛隊にでも出張ってもらうかな」と佐々木は言ってスマートフォンを出した。


そして、「春ちゃんのせいでとんでもないことになったじゃないか!」と佐々木は少し陽気に叫んで笑った。


「…うん… うん… おいおい、いいのか…

 マジ大騒ぎなんだぞ…

 …ああ、わかった、誘導してもらおう」


佐々木は言ってスマートフォンを切り、近くにいたパトカーに近づいて身分を明かしてから、警官に報道関係者を八丁畷春太郎邸に誘えと話した。


警官が大いに戸惑ったが、「警視総監からの連絡とどっちがいいんだ?」と佐々木が脅すと、警官はスピーカーを通して、報道陣に指示を出した。


すると、たむろしていた三分の一ほどはいなくなった。


残りはただの野次馬なので、騒乱罪に問うなどと言って、警官は威厳を持って解散させた。


「校門から出なくても帰れるけどね」と春之介は言って、宿直室に仲間たちを誘って、地下通路を通って家に戻った。


仲間たちは夢を見るようにして目を見開いていた。


「…さすがに家の前には誰もいないわ…」と春菜が玄関から外を覗いて言った。


「今日は本当に楽しかったです。

 明日も、よろしくお願いします」


春之介の言葉に、チームメイトたちも比較的陽気にあいさつをして、家に帰って行った。


「…ここに住みたぁーいぃー…」と優が駄々っ子のように言うと、「父さんが雅春兄ちゃんに確認してからならいいよ」と春之介が言うと、優は大いに緊張を始めた。


「…私、家に帰れなぁーいぃー…」と今度は春菜が甘えた声で言うと、「ここで暮らすんだよね?」と春之介が言うと、「…まだ決めてなかったけど、都合はいいわ…」と納得したように言った。


夏樹は眉を下げて三人を見ていた。


「なんだかすごいことになってね」


春之介が頭をかいて言うと、「テレビでもね、特別番組で、お気に入りのドラマがなくなっちゃったの、最終回だったのに…」と夏樹は大いに嘆くように言った。


「その責任は爺ちゃんがとってくれると思うから…」と春之介は眉を下げて言って、ふたりをリビングに誘った。


「ふたりの服も下着も準備してあるから、お風呂に行ってらっしゃい」


夏樹の言葉に、春菜と優は顔を見合わせた。


「春君は覗くことは許可するわ」


「覗かない。

 俺は二階のシャワーで済ませるよ」


春之介は言って、二階に上がって行った。


「いつまでお見合いしてるの?

 一緒に入ってらっしゃい。

 ライバルとの裸の付き合いも必要だと思うわよ」


夏樹の言葉に、ふたりは何も言わずにうなづいて、春菜の案内で優はついて行った。



春之介が早々に戻って来てリビングに入ると、夏樹はテレビを見ていた。


そのブラウン管には、春之介の顔が大写しになっていて、名前のテロップが出ていた。


「…許可とかいるんじゃないの、普通…」


「春拓君が許可したの」と夏樹がすぐに答えた。


もちろん、そのプロフィールも出ていて、堂々と、『衆議院議員八丁畷春太郎の孫』とわかるような説明があった。


「もちろん、春君の邪魔にならないように、

 テレビ出演や取材はすべてお断りだから。

 こちらのお願いを聞いてもらえない場合、

 色々とややこしいことになるそうよ。

 お父さんが、マスコミの屋台骨を揺さぶるそうだから」


「ありがたいことだね」と春之介は大いに苦笑いを浮かべて言った。


「ワイドショーが大好きだったのに、大嫌いになりそう…」


夏樹は大いに嘆いた。


まさに、取材される当事者になってようやく理解できることもあるのだ。



春菜と優がリビングに入ってきた。


そして春之介は眼を見開いてふたりを同時に見ると、「…うふふ…」と夏樹はかなり悪い顔をして笑った。


「…簡素な、ウェディングドレス…」と春之介は大いに苦笑いを浮かべて言った。


「急だったけど、簡単にできたわ。

 本妻と二号さん」


夏樹の言葉に、三人は大いに眉を下げていた。


「…まあ、座って…」と春之介は言ってから、「…母さんは暇だそうだ…」とつぶやいた。


「まだ春君に手がかかるからそれほど暇じゃないの。

 だけど家を出たら、私ってボケちゃうかも…」


「だったら家を出ないから」


「あら、うれしいわ!」と夏樹は陽気に叫んでから笑った。


「だけど、本当にそれほど暇じゃないわ。

 やっぱりお仕事は重要ね」


夏樹は非常勤の教師の仕事を請け負っていた。


この近くの小学校では自習の時間が全くなくなったので、大いに感謝されていた。


そして、子供たちと触れ合うことで、若さを保っていると言っていいほどだ。


今日はたまたま仕事が入っていないだけで、いつもはこの時間に帰宅することが多い。


「お嫁さん候補、ほかにいない?」


夏樹の言葉に、「今はいないね…」と春之介は眉を下げて答えた。


「…もっと、どろどろしてた方がいいんだけど…

 女性同士の憎しみは美しいと感じるの」


「そんなもの、テレビドラマの中だけだよ…」


「春拓君もモテたのよ」


夏樹の言葉に、三人は大いに興味を持った。


「春拓君はね、別の人と結婚することを望んでいたのよ…」


「えっ?」と三人は一斉に声を上げたが、春之介だけは違うと見破った。


「嘘よ」と夏樹が言うと、春之介だけが大いに笑った。


「もー… 私、話してたのかしら…」と夏樹は言って春之介を見た。


「大学で母さんを見かけて、

 一目ぼれしてプロポーズしたって父さんに聞いていたからね。

 なんとその日のうちにだよ。

 俺、笑っちゃったよ」


「…我が家の男同士の結束は固いようね…」と夏樹は言って、春之介を少しにらんだ。


「その事情があったことも?」と夏樹が聞くと、「言い名付けを押し付けられそうだったから」と春之介は答えてから、にやりと笑った。


「あら、わたしが知らないことまで知っていたのね。

 一体、なにかしら…」


「父さんも母さんも知らないことだよ。

 爺ちゃん、話してないって言ってたから」


「あー…」と春菜が思い出して春之介を見ると、「言い名付けの相手は母さんだったって」と春之介は言った。


「…あら、まあ…」と夏樹は言って、心からの笑みを浮かべた。


「きっと気にしているはずだって言ってね。

 機会があれば話してくれって、三年ほど前に聞いていたんだ」


このリビングに、穏やかな雰囲気が流れた。


「まだこの先もあるんだよ」


「…えー…」と夏樹は嘆くように言った。


「ここで母さんの言った嘘が現実になるんだ。

 爺ちゃんが心に決めていた女性、

 すなわち浅草の婆ちゃんが生んだ女の子が母さんだった。

 もちろん、母さんと爺ちゃんは血縁的には赤の他人だよ。

 親の無理強いがあって、爺ちゃんは婆ちゃんと結婚したそうだ。

 家柄の問題らしいけどね。

 きっと父さんは母さんにひとめぼれするだろうと思って、

 見張っていたそうだ。

 だからこっちの婆ちゃんは色々と気に入らないことがあるようだよ」


「…やっと、理解できたって思うわ…」と夏樹は言ってうなだれた。


「だからね、俺と春菜の件はその罰だと思っている。

 だからこそ、春菜の気持ちを尊重しているようだ。

 どうしても女の子が欲しいと思った理由があったって。

 できれば自分の代わりに、

 心からの幸せをつかんでもらいたいって。

 これは最近聞いた。

 この話は爺ちゃんは知らないよ」


「…どろどろしてるわぁー…」と夏樹は大いに嘆いていた。


「事実は小説よりも奇なり、だね。

 だけど俺は疑ったよ。

 だから婆ちゃんに聞くと、

 それは絶対にない!

 って、豪語されて泣かれちゃったよ…」


「…春君は自分たちのことがお婆ちゃんの復讐なのかって聞いたのね…」


「疑って当然だろ。

 でも、芝居じゃないね…

 言い過ぎたかなって、大いに反省したよ…

 まあ、だます理由はないと思うから。

 あまり人を疑うのもよくないなって大いに反省したよ。

 特に肉親は、疑いたくないね」


「…私、不幸だなんて思ってないよ…」と春菜は涙を流しながら、春之介に訴えるように言った。


「うん、事実がどうあれ、

 春ちゃんがそう思ってくれていたのならそれでいいんだよ」


「…私、今よりも幸せになるもん…」と春菜は熱い視線を春之介に送った。


「同じ土俵で、優ちゃんに勝つもんっ!」


春菜は涙にぬれた顔を優に向けた。


優も大いに涙を流していた。


「…泣いたことなんて一度もなかったのに…

 どうしてだと思う?」


優は声を詰まらせながら春菜に聞いた。


「…わかんないわよぉー…」と春菜も涙声で答えた。


「春君はどう思う?」と優が聞くと、「おまえが春君言うな」と春之介はすぐさま言って少し笑った。


「…じゃあ、春之介…」「名前呼び捨てかよ… まあ、それでもいいけどな」


春之介は少し考えて、「普通、感情移入っていうやつがある」と言うと、三人は大いにうなづいた。


「そして、今の自分にも置き換えて、

 見えていなかった心にも涙した。

 はっきり言って、雅春兄ちゃんの気持ちだ」


「…あー… そうだ…

 それ、聞いていなかったら泣いてなかったかもしれない…」


「雅春兄ちゃんは一ノ瀬が好きなのに、

 できれば、一ノ瀬と俺がくっついてもらいたい。

 それは、相手の一番の幸せを思う気持ちだ。

 そして、春菜には戦えと厳しく言った。

 これは純粋に兄からの言葉だ。

 きっと、雅春兄ちゃんも泣きたいほどつらいと思うね。

 …芸術作品の作風が変わってしまったかもな…」


「…勉強になるぅー…」と夏樹が言うと、春之介は大いに苦笑いを浮かべた。


「俺の言葉はほとんど婆ちゃんの言葉だと思う。

 何かにつけてよく話をしていたからね。

 それに訪問客も多かったから、

 春菜とふたりしてダメ出しごっこをしてたよ」


「…だからこそ、ふたりとも大人なんだな…

 子供だったら、きっと感情任せに突っ走る…

 そんなヤツ、何人も見てきたからな…」


優の言葉に、「おまえの親、何やってる人なんだ?」と春之介が興味を持って聞くと、「基本的には警察官」と答えた。


「なかなか偉い人のようだな…

 地方にいるということは、警察署長とか…」


「素封家の、警察署長…」


優の言葉に、春之介は少し笑った。


「本庁に転勤になるって喜んでたけど、

 それほどうれしそうじゃなかったなぁー…

 今の地元の勤務先が本当に楽しそうだったし、

 今も楽しいからだと思う…」


「雅春兄ちゃんも寂しがるんじゃないのかなぁー…」


「…明るく、行ってらっしゃいって言って…

 心の裏返しだって思う?」


「うん、思うね。

 だけど今は、俺たちの目標に突っ走るべきだ!」


春之介はすべてを振り払うように言うと、「わかった!」と優は力強く叫んだ。


「…春君、キャプテンを押し付けられると思うぅー…」という春菜の言葉に、「その方が都合はいい」と春之介はにやりと笑って言った。


「もし、俺が失敗しても、キャプテンに決めた人たちのせいだからな」


春之介の言葉に、春菜は大いに苦笑いを浮かべた。


「もっともそんなつもりはさらさらない。

 確実に勝てる試合は、大いに練習として利用させてもらう。

 三年生ほどに、場数を踏みたいからな」


「…うわぁー… 悪魔だったぁー…」と優が大いに嘆いた。


「何事にも動じないのは、経験があってこそなんだよ。

 全国に行って、感じただろ…」


「…言われて初めて気づいたぁー…」と優は言って上目使いで春之介を見た。


「こびてもダメだ。

 おまえは俺の側だからな、容赦はしない。

 だけど怪我させない程っていうヤツが難しいな…」


「…今日、よくわかったって思う…

 力加減で、いくらでも投げられるって…」


「それを完璧につかめれば、俺たちは甲子園に行けるはずだ。

 …できれば、もうひとり投手が欲しいね…」


すると、春菜が手を上げた。


「…お色気作戦とか言うなよ…」


「言わないわよ!」と春菜は歯をむいて怒った。


「今日、私が着目したのは、優ちゃんと春君だけ。

 ふたりとも一度も本気にならなかった。

 だから私も投手の経験をしてみたいの。

 そこから何かが見えてくるような気がしてるの」


春之介は深くうなづいて、「長い回を投げなくてもいいんだ。飛び飛びでワンポイントで投げられる程度でな」とにやりと笑って言った。


「…それって、まさか、お色気作戦?」


春菜が聞くと、「人の感情は、時には残酷だ…」と春之介は言ってから何度もうなづいた。


「…野球人だもの…

 女だと意識する方が悪い…

 だけど、それは女にも言えることだわ…」


優の言葉に、春之介も春菜も大いにうなづいた。


「だからな、勝ったら付き合えると思っておけばいいんだ」


「…やっぱり、悪魔だぁー…」と優と春菜は大いに嘆いた。


「女子がチームにいるのは、俺たちだけじゃないはずだ。

 だからな、免疫をつけておくことも重要だと思っているんだよ。

 だからふたりは、かなりの戦力になっているはずなんだ。

 これほどの美少女がふたりもいることが珍しい!」


春之介の絶賛した言葉に、ふたりは大いに照れた。


「さらには、女子高も参戦するように思う」


「…うう、あるって思うぅー…

 以外に大活躍するかもぉー…」


「ソフトボールの強い女子高は、

 硬式野球に転じるかもしれない。

 オリンピックに出たことがある高校生もいるはずだ。

 ある意味、甲子園経験者がいることに等しいからな。

 俺たちは試合を繰り返して、

 その胆力を身に着ける必要があるんだ。

 だから俺と一ノ瀬と一太についてはほとんど心配はないんだ。

 全国の経験者は、まさに誰よりも経験を積んだはずだからな」


「…みんなのチームの監督やりたいぃー…」


いきなりの夏樹のつぶやきに、三人は大いに目を見開いた。


「…い、いやぁー…

 母さんって、経験者?

 聞いたこと、ないんだけどぉー…」


「…春君と同じ経験を積んだし、オリンピックにも行ったのぉー…」


夏樹が懐かしそうな目をして言うと、春之介たち三人は顔を見合わせた。


そして夏樹が席を離れて、すぐに戻って来てから、きらびやかな箱をテーブルの上に置いて開けた。


「…うう… 金メダル…」


春之介が眼を見開いて言うと、「…この時ね、春君、お腹の中にいたからね、春君もオリンピック経験者…」と懐かしそうに言って腹をなでた。


「…俺は、絶対に負けられない!」


春之介は叫んでから、すぐにスマートフォンで調べた。


すぐに見つかって、そこには夏樹ではない鬼の浅草樹がいた。


「…怖ええ…」と春之介が大いに苦笑いを浮かべてうと、「…だからね、話さなかったのぉー…」と夏樹は恥ずかしそうに言った。


「…これは、絶対にマネするべきだ…」という優のつぶやきに、春菜も納得してうなづいた。


「…だからね、優ちゃんの話し方、本当に懐かしくって…」


「…俺のようだったんだぁー…」と優はつぶやいて、さらに自信がついてた。


だが今の優は、この先の真実にまだ気づいていなかった。


「そこに写ってる子のほとんどがそうよ。

 まさに、ソフトボール人、っていうところかしら…

 それなりの子たちってね、

 やっぱり、男も女も無関係になるものなの。

 だから野球人って、本当に素晴らしい響きだわぁー…」


「…監督決定戦も見ものだな…」と、春之介が感慨深げに言った。


そして夏樹がみるみるとその表情を変え、「ぜってえに負けねえ!!」と叫ぶと、優は感動して拍手をして、春菜は大いに戸惑っていた。


「…鬼だ、鬼が出た…」と春之介は言って大いに眉を下げた。


「…男のくせにうじうじしてんじゃあねえぞぉー…

 好きな女なら、無条件で奪い去りやがれ!」


「…母さん、勢いで言ったよね?」


春之介の冷静な言葉に、夏樹は表情を戻して、「…私の心からの言葉よぉー…」と大いに恥ずかしそうにして答えた。


「…お姉ちゃんも味方になった…

 絶対に誰にも負けないわっ!!」


春菜が叫ぶと、「違うっ!」と鬼に変身した夏樹と優にダメ出しをされてレクチャーが始まった。


春之介は腹を抱えて三人に指を差して大いに笑った。


「…大人しいタイプの鬼ね…

 そっちの子の方が、さらに厳しいのよ…

 かわいい顔して、やることは残酷…」


夏樹の言葉に、「…きっと、そうだって思うぅー…」と春菜は言って眉を下げていた。


「…何の騒ぎ?」とリビングにいた春拓が眉を下げて言うと、「見られたっ?!」と夏樹は鬼の顔をして叫んだ。


しかし春拓は懐かしそうな顔をして、「…そういう時期もあったな…」とやさしい声で言って、金メダルを見た。


「春之介、メダルを裏返してみろ」


春拓の言葉に、「いいの?」と春之介が夏樹に言うと、「もちろん!」と言って快諾した。


春之介は拝むようにメダルに頭を下げて、手に取って裏返して目を見開いた。


『次は春之介の番!』と力強い文字と言葉が書かれていた。


「…やって、やろうじゃあねえかぁー…」と春之介が鬼になって言うと、女性三人は感動して拍手をした。


「…まずは、世界陸上候補者になってやろう…」と春之介はまたうなった。


「…同時進行しちゃうのね…

 公式記録に認められたら、

 世界陸連推薦で出場もできるから」


「その時にだけ集中するから簡単なことだぁー…」


「…春君… もうこのままかもぉー…」


夏樹の言葉に、春拓たち三人は大いに眉を下げた。



「俺は、大きな大会を馬鹿にしていたと思う。

 メダルや順位などは関係ない。

 そこにいたという経験が重要なんだ」


夕食中に、春之介は少し気合を入れて言った。


「誰でも経験できることじゃないからな。

 夏樹が今回初めて春之介にメダルを見せたのは、

 俺への心遣いもあったからなんだ。

 俺はアーチェリーで強化選手に選ばれたが、

 オリンピックに出ることはなかった」


父親の意外な事実に、春之介は感慨深くうなづいた。


「だから、特に親しい者から向けられた想いも、

 迷惑と思わず、連れて行ってやって欲しいんだ。

 それも力に変わると思うんだ」


「…うん、父さん、もう十分にわかったよ…

 佐々木監督も、プロにはなったものの大成できなかった…

 その悔しさも甲子園に連れて行くべきだと思う」


「佐々木校長も本気になったか…」と春拓は言って何度もうなづいた。


「すっごい放任なんですぅー…」と優が言うと、「なぜだかわかるかい?」と春拓が聞いた。


春之介が手を上げると、「ま、気づいていただろうね」と春拓は言ってうなづいた。


「…あー… 指導じゃなくて、聞きに来させる教育方法…

 だから選手の方で、チームメイトを思う気持ちが重要…

 だからこそのチームワーク…」


春菜のつぶやきに、「俺はそのチームワークが大好きだったんだ」と春之介は懐かしそうに言った。


「選手はロボットじゃない。

 命令してできれば、監督なんて誰だってできる。

 まずは個別に教育方法を考えるべきなんだ。

 まさに教育者の原点でもあるよな」


「私、必要がある時以外は、職員室に戻らなかったわ。

 今もそうよ」


夏樹の言葉に、春之介が真っ先にうなづいた。


「職員室が高い壁になっている子も多いからね。

 鬼の巣くう場所のように思っていたって、

 何人かに聞いたことがある。

 特に小学生はそう思いがちで、

 中学に上がっても同じように毛嫌いするんだ。

 これは悪循環でしかないと思う」


春之介の言葉に、優が手を上げた。


「中学の職員室の扉に、

 お気軽に入って来てね!

 って書いてたけど、逆に怖かった…

 なんだか、引き込まれるような錯覚に見舞われたいたように思った…」


春拓が何度もうなづいて、「それもいい手なんだろうが、優君と同じように思った子も多いはずだから、説明は必要だな」と言った。


「だからやっぱり、仲間が少しだけ手助けをする必要はあるはずだね。

 職員室の前でうろうろしていた下級生たちを何度も見たし、

 何度も連れて入ったな…」


「…いい人だぁー…」と優は言って、羨望の眼差しを春之介に向けた。


「それが人望に繋がるんだ。

 その親たちの数名が礼を言いにきたことがあるから、

 俺たちは知っていた」


春拓が胸を張って言うと、夏樹は優しい笑みを春之介に向けた。


「手助けを受けた子も、また誰かを手助けする。

 まさに最高の連鎖になるはずなんだ」


家長の威厳のある言葉に、みんなは一斉に頭を下げた。



「…今日はやめとくか…」と春之介は言って、足首とふくらはぎをつまんだ。


「一巡した方がいいと思う」という春拓の言葉に、「…自慢話のように言いふらされたかなぁー…」と春之介は嘆くように言って、山根と佐藤の顔を思い出した。


「だけど、今日は女性の先生なんじゃないのかなぁー…

 なんだか逆に危険のような気がするんだけど…」


「中と外に巡回の警備員も雇っているんだ。

 知られずにな」


「それって、先生が宿直する意味があるの?

 あー… その日の反省は学校にいた方が考えやすいんだろうけど、

 逆に嫌う先生もいるように思う。

 それと、教師同士のコミュニケーション…

 経費節減ばかり言ってるから、

 解決できたはずの物事が、

 解決が難しくなっているのかもしれない…」


春拓は大いにうなづいて、「必要なものまで切っていることに、誰も気づいていないんだ」と言った。


「じゃあ、断りの挨拶だけに行ってくるよ。

 今日から一巡だけそうすることに決めた。

 その頃には体が出来上がっているだろうから、

 夜もできれば毎日合宿するよ。

 女性教師の時はさすがにやめておこう」


春拓が宿直室に連絡を入れてから、春之介は春菜と優を連れて地下に潜った。


すると、また扉の前でふたりの教師が待ち構えていた。


奇しくも教頭の小手川と担任の真由美が今日の宿直だった。


「お坊ちゃまひとりだとばかり…」と小手川は言って春菜と優を見た。


「さすがにマズイでしょ…

 ふたりとも、俺の家で同居することになったので、

 都合がよかったから連れてきたんです。

 ちなみに聞きたいことがあるんです」


「地下道や宿直の件は、御屋形様のご命令です。

 さすがに反抗する教師はおりませんし、

 それを踏まえた人事で採用しておりますし、

 能力的にも高い教師をそろえていますので。

 教師も全国区ですわ」


少し話が長くなると思い、「座りましょう」と春之介が言うと、「はい、ありがたいことですわ」と小手川は言って、春之介たちをテーブルに誘った。


「ですので、若い真由美先生も担任を持つことが可能なのです。

 まさに生徒愛にあふれた先生ばかりです」


「まずは生徒と教師の間でぎくしゃくしないこと。

 職員室の扉が透明なのは、生徒が入りやすくする理由があった」


「さすがですわ、お坊ちゃま」と小手川は言って頭を下げた。


「気を抜かないことも私たちの仕事です。

 そして担任の生徒だけでなく、

 すべての生徒は自分の担任だと心しておけ。

 と御屋形様に仰せつかりましたぁー…」


真由美の言葉に、「…誰にも等しく厳しい学校だったようです…」と春之介はふたりの教師に頭を下げた。


「ですが、悔しいのです!」と小手川が眉を吊り上げて言った。


「陸上競技の大きな大会にも出ますし、

 甲子園にもいきますから。

 そしてオリンピックも目指します。

 なんなら、WBCも受けます。

 ですので、日程調整はお願いしたいのです。

 同じ日に、大会が重ならないように」


「それこそが、生徒を守る教師の役目ですわ!」


小手川は大いに気合を入れて叫んだ。


「それから新たに、母がここに加わるかもしれません」


「…夏鬼が…」と小手川が嘆いてすぐに口をつぐむと、春之介は一瞬目を見開いたが大いに笑った。


「教頭もオリンピックに行っていたんですね。

 教頭は比較的穏やかなお顔をされていましたが、

 まさに母は鬼でした」


「…レギュラーになれなかったのは、鬼の差かと今も思っております…

 だからこそ、誰かに私の想いを託したかった…」


「俺たちが請け負いますから。

 どうか、よろしくお願いします」


「全身全霊を込めて、バックアップさせていただきます!」と小手川は大いに叫んで、大いに泣いた。


春之介が家族の話をすると、小手川はさらに納得して涙を流した。


「こうやってきちんとお話をすることが、

 俺にとって宝になると、

 爺ちゃんが思ってやってくれているのでしょうね。

 家が建ったのは三年前だから、

 この行事は俺からだった。

 入念に計画した、俺への教育なんですね」


「もちろん、お嬢様もですわ」と小手川はさも当然のように言った。


「そして、お仲間になられた方も大歓迎です。

 一ノ瀬君も大いに成長しているようですから」


「…一太も引き込むか…」と春之介が言うと、「待っているはずですよ」と小手川は優しい言葉で言った。


春之介は小手川にスマートフォンを借りて一太に連絡すると、『教頭先生だと思って、考え込んでしまって申し訳ありません』と言ったので、春之介は大いに笑った。


事情を説明すると、すぐに来ることに決まった。


その背後から、『…でかした!…』という叫び声が聞こえたので、一太の父がほめたのだろうと、春之介は察した。


「爺ちゃんの執事にも期待されていたようです」と春之介は頭を下げて、小手川にスマートフォンを返した。


「プレッシャーになっていない…

 さすが、お坊ちゃまですわ…」


小手川が言って春之介に頭を下げると、「担ぎ上げられたので、ミスしても俺のせいではないので」と答えると、誰もが大いに苦笑いを浮かべていた。


「ですが、やれることは全力でやりますので。

 期待していてください」


春之介は言って、真剣な眼をして頭を下げた。


「ではここで問題定義を…」


春之介が語ると、「…それ、よくないんじゃないの?」と春菜が眉を下げて言うと、「状況が変わったんだ。きっと適合者はいるはずだ」と春之介は胸を張って言った。


「今のままでも、ベンチ入りできない子はいるのです。

 この件はそれほどの問題ではありません。

 ですがお坊ちゃまの見る目は、選手の実力だけではないはずです」


小手川の力強い言葉に、「…あー… うん、きっとそう…」と春菜は笑みを浮かべて春之介を見た。


「結果を見て入部を迫ってくる前に、

 こっちから先にスカウトして、

 早く仲間になじんでもらうことが俺たちにとって急務だ。

 だから、甲子園に行くと豪語する!

 放送部の手配もお願いします」


「全校集会でもいいのでは?」


「特別扱いすきますので、さすがに控えます。

 放送部のプログラムに加えてもらうだけでいいので」


「そうですね、それが最善ですが…

 お坊ちゃまの晴れ姿を見たかった想いもございます…」


「それは、卒業式の答辞に取っておいてください。

 俺はすべてにおいて、今を維持します」


「あら、欲のない…

 いえ、だからこそ、周りが育つのですわ…」


「…うう… よくわかんねぇー…」と優がついに嘆いたので、春之介が一から説明した。



勢いよく扉が開き、「遅くなって申し訳ありません!」と叫んで一太が部屋に入ってきた。


「いや、無理を言ったのはこっちの方だから。

 まあ、座って」


「はっ ありがとうございます。

 執事長がお坊ちゃまにきちんとお礼を差し上げるようにと。

 今回は本当に身に余る、贅沢ともいえる待遇、

 本当に感謝しております。

 まさに、我が高山家の先祖代々も、大いに感謝しているはずです」


「…終わった?」と春之介が苦笑いを浮かべて言うと、「はっ 以上でございます」と一太は深々と頭を下げた。


「実はね、今ふと思いついたんだけど、

 やっぱり一太は外した方がいいのかと感じたんだ」


「…えー…」と一太は頭を下げたまま大いに考え始めた。


「城の中の主従であればそれは問題のないことなんだ。

 だけどここは一般生活の学校なんだ。

 一太は完全に俺の執事として暮らそうとしているよね?

 高山さんもきっと大いに勘違いをしているはずだ。

 俺は、学校では王ではダメなんだ。

 きっと誰も俺についてこなくなる。

 俺の隣に残るのは春菜だけだと思う」


「…そうだぁー… ダメだぁー…」と春菜もようやく気付いて春之介に賛同した。


「一太は俺の前や後ろではなく、横にいなければならないんだ。

 もちろん、みんなもそうだ。

 そうしないと、誰も俺に近づいてこられない。

 俺が一方的に話をするだけになってしまう。

 そんな一方通行的な学園生活はまずないから。

 それができなきゃ、

 一太はただの野球部員の一員としていてもらうだけになる。

 それはかなり寂しいよな」


一太は首を縦に振るように何度も春之介を見てはうつむいている。


「マニュアルにないよな。

 だったら、主人は友人という項目を作ることを命令する!」


春之介の言葉に、「…うまいわぁー…」と春菜は大いに感心して言った。


「…め… 命令であるのであれば…」と一太は言って、涙を流し始めた。


「あのさ、もっと気楽にして欲しい。

 流すのは、喜びの涙だけにして」


春之介の言葉に、一太は眼を見開いた。


「はい、よくわかりました、春之介… 様…」


春之介は大いにうなづいて、「マニュアルに、できれば気楽に、も付け加えておいて欲しい」と春之介は告げた。


「決して縛りじゃないから、多少の命令違反は容認するから、そのつもりで。

 だから、それほど気にしないで欲しいんだ」


一太は大いに考えて、「…わかったよ、春之介君…」と誰かに聞くように言った。


「今の感じは5才程度のころの一太だよ」


「…ああ、そうだったのですかぁー…」と一太は感慨深く思って笑みを浮かべた。


「心を解放したり、許すべき者にさらけると、

 今まで以上の力が発揮できるかもしれないよ。

 一太には誰よりも期待している部分はあるんだ。

 その理由は、目を放しても面倒なことは絶対にしないから」


春之介は言って笑みを浮かべて春菜と優を見た。


「…ご迷惑をおかけしますぅー…」とふたりは同時に言って、上目づかいで春之介を見た。


「今度高山さんに会った時に、

 マニュアルの追加の件を話しておいて欲しい。

 きっとかなり考えると思うから。

 爺ちゃんもきっと何度も言ったように思うんだけどね」


「はっ 報告することをお約束します。

 …父もきっと、この気持ちがよくわかると思うから…」


一太が朗らかな笑みを浮かべると、優がその顔を覗き込むように見入っていた。


「…かわいい…」と優はつぶやいてすぐさま手のひらで口を押さえつけた。


「まあ…

 ロボットが人間になったっていったところだね」


春之介は言って、優の顔を探るように見ていると、その春之介を眉を下げて春菜が見ていた。



「じゃあ、先生、帰ります」


春之介の言葉に、「…さすがにお泊りはないわね…」と小手川は大いに嘆くように言った。


「女でいいのなら、ふたりを残していきますけど?

 ですがこれから勉強をしようと思っているので」


春之介の言葉に賛成したのは一太だけだった。


女子二人は大いに苦情があるようだが、ここは我慢して、教師二人に挨拶をして地下に続く階段を降りた。



「…今日くらい勉強なんてしなくていいじゃない!」


「地下通路で叫ぶなよ…」


春之介は耳をふさいで言った。


「今日くらい…

 これは毒の言葉だ。

 もし今の時間が就寝時間だったら、

 睡眠を優先することは許されると思う。

 だけど時間がある時は、学生の本分である勉強をしておくべきだ。

 そういう癖を作っておいた方が、

 この先何かと楽になることもあるはずだから。

 特に俺は、その勉強の時間を削られるはずだから、

 できる時にはきちんとやっておきたいんだ。

 もちろん、春菜も俺と同じように、

 陸上と野球の両立もあるんだぞ。

 春菜は誰にも託されていないだなんて、まさか言わないよな?」


春之介が語ると、「…えー…」と春菜は嘆くように言った。


「…春君のように、直接言われたのは、雅春兄さんだけ…」


春菜が恐る恐る答えると、「それは正解」と春之介は答えてから、「八丁畷家の一員として、春咲高校に入学した時点で託されてるんだよ」と言った。


「…うう、春君のためだけじゃなかったぁー…」と春菜は言ってうなだれた。


「さらに、陸上用の計測器とコースは、俺と春菜のためのもののはずだ。

 あ、爺ちゃんにお礼言ってなかった…」


春太郎は一階に上がってすぐに、高山に電話をした。


『この度は本当に感動いたしました。

 どうか、私だと思って、一太を使ってやってくださいますよう』


「その件は一太から説明させるけど、

 今日は高校の陸上部の件でお礼を言おうと思ってね」


『はっ その件は、奥様でございます』


春太郎は少し目を見開いて、「…爺ちゃん、知ってるんだよね?」と聞くと、『…わずかながらに、言い争いがございました…』と小さな声で言った。


「今から行っていいかな?

 やじ馬の混雑は解消してる?」


『はっ 問題はございません!』と高山は久しぶりに声を張って答えた。


春之介は高山に礼を言って電話を切った。


両親に事情を説明すると、「春之介が行くのが一番いいと思う。もちろん、春菜も行ってこい」と春拓が言った。


「学校の勉強よりも、世間の勉強をすることになった。

 一太も一ノ瀬も行くぞ」


春之介の力強い言葉に、一太は素早く頭を下げた。



四人は一斉に走り出して、「坊ちゃま、嬢ちゃま」と門番の三太が大いに眉を下げて言った。


「三太さんも何か知ってるの?」


「…御屋形様の怒号を始めて耳にしましたぁー…」


三太はかなり恐れながら言った。


「…全然わずかながらじゃないね…

 普段はどれほど叫んでるんだ?」


春之介は少し笑って言って、三太の背中を軽く押した。


三太は背筋を伸ばして、「申し訳ございませんでした!」と胸を張って言った。


「子供はね、怖いものってないんだよ」


春之介は言って、走って玄関を目指した。



春之介は上がり込んですぐにリビングに行くと、まるで対決をするように、春太郎と秋菜がにらみ合っている光景を見た。


「諍いの原因を聞いていい?」


春之介の言葉に、「祖母として母親として、たまには春之介と春菜のためにプレゼントをしたかっただけです!」とまさに珍しく、秋菜が叫んだ。


「婆ちゃんの言い分はよくわかるね。

 だけどね、爺ちゃんに黙っている必要はなかったように思うけど、

 爺ちゃんが自分の仕事だと言って取ったはずだよね?」


「八丁畷家の主として当然のことだっ!!」と春太郎は叫んだ。


まさに怒号で、春之介は初めて聞いた。


だが、ひとつも怖くなかったのだ。


それは親族の親しさではない。


「もしも、ケンカの原因が陸上部への寄付の件だけだったら、

 ここは爺ちゃんに折れて欲しいね。

 あ、まずは婆ちゃん、本当にありがとう。

 俺、できることはすべてやるから。

 野球も地区大会に出て、できれば甲子園を目指すし、

 明後日の月例の陸上記録会に出て、

 正式な世界記録を出して、秋の世界陸上にも出る予定だから。

 さすがに母さんの話を聞いて、

 みんなの想いとともに戦いたいって思ったんだよ」


春太郎も秋菜も目を見開いて春之介を見入っていた。


「…八丁畷家で一番輝いている眼をしている…」と春太郎は笑みを浮かべて春之介を見てうなづいた。


「…春菜も変わっちゃったわね…

 なんだか、逞しくなったように見えるわ…」


秋菜の言葉に、「私も戦うからよ」と春菜は堂々と言った。


「あ、もう着いたのね」


春菜は言って、リビングの隅にある、厳重な包みを見て笑みを浮かべた。


「この箱の中にね、私の希望が入っているの。

 直接見たら、私は今よりも輝けるはずだわ!」


「…雅春の作品、よね?」


秋菜の言葉に、「お父さんとお母さんは見てもらっていいわ」と春菜は堂々と胸を張って言った。


「…一千万の値札が付いていたものをもらったんだよ…」


春之介が小さな声で言うと、「…もう、それほどに腕を上げていたのか…」と春太郎は嘆くように言ってうなだれた。


「いろいろと調べたけどね。

 この絵だけ桁が違ってから、

 本当の価値は鑑定人判断で百万ほどだと思うけど、

 それでも素晴らしいものだって思うよ。

 それに、春菜はこの絵は、

 すべてをつぎ込んでも欲しいはずだから、

 一千万じゃ安いほどだよ」


「…この家、売っちゃうぅー…」と春菜が言うと、春太郎も秋菜も大いに眉を下げていた。


「きっと、いろんな理由はあると思うけどね。

 絡んだ糸をほどくように話し合って欲しいんだ。

 家族を信頼することは重要だって、

 俺も今日、よーくわかったつもりだから」


春太郎も秋菜も図星を突かれたように大いに眉を下げた。


「春之介様、お茶をお持ちいたしました」


廊下から高山が言ったので、「頂くよ」と春之介は言って、一太と優をソファーに誘った。


「言っとくけど、今の一太は俺の友人だから。

 そういう命令をしているからね。

 今は俺の友人として、

 高山さんの息子として接してほしいんだ」


高山は大いに背筋が伸びていた。


そして、わずかながらに首を振って、笑みを浮かべてうなづいて高山を見ている春太郎と眼があった。


「命令だ、お前もここに座れ」


春太郎の言葉に、「はっ 旦那様」と高山は言って、一太と同じようにまさに大いに緊張して背筋を伸ばして座った。


「ふたりとも、立っていた方が楽だって感じたね。

 それって座ってないし、命令違反だと思うから、

 リラックスしてほしいんだけど?」


「はっ 春之介様」と高山と一太は同時に答えて、ほんのわずかにリラックスした。


「ついに、お坊ちゃまではなくなったか…

 誰よりも早かったなぁー…」


「当然でございます。

 きっとどなたもこれほど簡単に解決される方はおられません。

 旦那様とお呼びしても差し支えないと感じた所存にございます」


高山の言葉に、「…大いに言える… 俺の方が子供だ…」と春太郎は言って、大いに苦笑いを浮かべて、コーヒーカップを手に取った。


一息ついたところで、優の紹介をすると、雅春の関係者だったことに、春太郎も秋菜も一気に打ち解けて話を始めた。


「…一ノ瀬?」と春太郎が言うと、「次期警視総監候補の、一ノ瀬雄大様でございます」と高山がすぐに答えた。


「…父ちゃん、そんなに偉かったんだぁー…」と優は嘆くように言った。


「大学時代、狂犬とあだ名をつけてやったら、喜んでいたな…

 雄大は二つ年下で、学部は違ったが、同じ部活に入っていた。

 俺たちはサッカーに明け暮れていたなぁー…」


「…あー、だから、サッカーやれってばかり…」と優はようやく納得したようにつぶやいた。


春之介はにやりと笑って、「爺ちゃんも婆ちゃんも初対面じゃないよ」と言うと、祖父母は大いに目を見開いた。


「ほら、一ノ瀬、吠えろ」


「…えー…」と優は大いに戸惑った。


「吠える? あ、お、おおっ!

 あの時の君かっ?!」


優の代わりに、春太郎が吼えた。


「…お坊ちゃまに、この雪辱は高校で晴らすって、吠えましたぁー…」


「…お坊ちゃま言うなぁー…」と春之介は言って大いに笑った。


「…男子だって、思ってましたわぁー…」と秋菜も大いに目を見開いてつぶやいた。


「俺と結婚するために、春咲高校に入学することに決めたそうだよ。

 それに、強引に俺を野球部に入部させた功労者だ」


「…なんと…」と春太郎は言ってから固まった。


その反面、秋菜は大いにうなだれた。


「だから私は戦うのっ!」と春菜はすぐさま叫んだ。


「グランドの外で見ているだけじゃ、春君と結ばれない。

 だから私も、チームの一員として甲子園に行くの!」


「…この俺が、驚いてばかりだ…」と春太郎はぼう然としてつぶやいた。


「いろいろと言いたいことはあるんだろうけど、

 ここは御屋形様の威厳は控えてもらいたいんだ。

 もし、俺の邪魔をするんだったら、

 婆ちゃんを味方につけて戦うから」


「…邪魔などするものか…」と春太郎は笑みを浮かべて言った。


「だが、これだけは言っておく!

 …すべてを自分で決めろ」


「うん、そうするから」


春之介は明るく言ったが、内心は大いに緊張していた。


まさに春太郎との戦いは神経をそがれた思いがしたのだ。


「そのあとの話をしないか?」と春太郎が大いに下手に出て言うと、「政治家はしたい者にさせておけばいいよ」と春之介は少し投げやりに言った。


「…相変わらず、察しのいいヤツ…」と春太郎は言って大いに苦笑いを浮かべていた。


「春之介は孫じゃない…

 俺の息子として接したいほどだ…」


「俺としては、甘い爺ちゃんが好きなんだけど?」


「四人の息子に、お前のように言い返すヤツはひとりもいない」


「父さんは、変わったかもね」


「…あ… ああ、そうか…」と春太郎は言って何度もうなづいた。


「おまえたちが帰ってから、

 絡んだ糸をほどくことにした」


「うん、じゃあ帰るよ。

 勉強の時間を削ったからね。

 この時間、どこかで埋め合わせしてほしいね」


「…最後の最後で、言い負かされたかぁー…」と春太郎は大いに悔しそうに言うと、秋菜は陽気に笑っていた。


「…無理やり、どこかに祝日をねじ込んでやろうかぁー…」


春太郎が物騒なことを言い始めたので、春之介はみんなとともにそそくさと玄関に出た。



「旦那様」と高山が言った。


「それはまだ早いよ。

 それに、その呼び方は一太のために取っておいて欲しい」


春之介の言葉に、高山と一太は同時に頭を下げた。


「肉親だからこそできる技だし。

 それに俺はまだまだ子供だし。

 子供なのに、ずっと大人ばかり見ていたから、

 この程度のことはできるんじゃないの?」


「そのおかげもあり、一太も立派になったと、

 心の底から思っております。

 本当に、感謝してもしきれない程です」


「だけどね、俺はまだ何も残せていないんだ。

 これからが俺の本番なんだ」


春之介は自分自身に言い聞かせるように言って、高山に頭を下げて、玄関を出た。


「…もう、何もしなくてもいいような気がするぅー…」と優が嘆くように言うと、「路頭に迷いそうになったら、政治家でもするから」と春之介は言って大いに笑った。



四人はジョギングがてら家に帰ってリビングに出ると、同じように目を見開いた春拓と夏樹がいた。


「今度は何?」と春之介が大いに眉を下げてテレビ画面を見ると、『158だ』という佐々木の声が聞こえ、画面にはスピードガンのデジタル表示が映し出されていた。


『映像提供 千葉県春咲高等学校』とテロップが出ていて、笑みを浮かべた春之介の顔が映し出されていた。


その先には大いに美少女に映っている優もいる。


弱音を吐く前の映像なので、比較的穏やかで、鬼のような顔ではない。


『ゴールデンウイーク明けの千葉県予選は、

 大いに盛り上がることでしょう。

 実は、この美少女にはある秘密が!』


キャスターの言葉に映像が変わり、7カ月前の全国中学野球選手権大会の映像が流れた。


『映像提供 八丁畷夏樹さん』と出ていて、「私、提供してないぃー…」と夏樹は大いに嘆いた。


「ま、親族の誰かだろうね…」と春之介は投げやりに言った。


ここでは詳細に、一ノ瀬優と八丁畷春之助をクローズアップした映像がふんだんに盛り込まれていて、クライマックスのふたりの対決のシーンはまさに圧巻だった。


『予想投球スピード 163キロ』とテロップが出ると、「よっしっ! やったぁーっ!!」とその球を打たれた優はガッツポーズを取って喜んでいた。


『このなんとも中学生離れした新一年生が活躍しないわけがないのです。

 しかも、一ノ瀬優君… さんは、

 猛勉強の末に自ら岩手県から千葉県に単身やってきたのです。

 そしてライバルとバッテリーを組む。

 なんとも運命的な出会いがふたりにあったものだと、

 私は今、大いに感動しているのです。

 そして夏の甲子園予選の千葉県大会は目が離せない戦いとなることでしょう!

 さらには、本日のお昼には大騒ぎになっていた、

 八丁畷春之介君の、陸上百メートル走での参考記録とはいえ、

 とんでもない世界記録を打ち出した件も併せて見逃せません!

 千葉県春咲高校は、この夏の台風の目になることは否めないでしょう!』


キャスターは大いに高揚感を上げてアナウンスを終えた。


『この雪辱は高校に行って晴らすっ!!』


坊主頭の優の叫び声が入った映像で、高校野球特集は終わった。


「…もう、全国区になった…」と春之介は嘆くように言ったが、大いに気合が入っていた。


「…みんなの胆力は、これでついたも同然だし、

 ここからが指導者の腕の見せ所のような気がするね」


「監督にはこだわらないわ。

 みんなのメンタル面の担当をさせてもらうから。

 誰にも脱落してもらいたくないから」


穏やかだが力強い夏樹の言葉に、春之介は、「本当に助かるよ」と言って頭を下げた。


そして夏樹はおもむろに金メダルを首にかけて、「マスコミ対応もしてやるっ!」と鬼の顔をして叫んだ。


「…おー…」と春之介たちはうなってから大いに拍手をした。


「この先の展開はもう見えたけど、

 明日、みんなの顔を見るのが楽しみだよ」



翌朝、いつもよりもかなりにぎやかな朝食を終え、春之介たちが外に出ると、「ん?」と春之介がうなった。


そして辺りを見回して、「静かすぎないか?」というと、同級生三人も辺りを見回した。


「車が走っていません。

 朝はこの道はラッシュのピークのはずです」


一太の言葉に、「…そうだね…」と春之介は言ってから、「…ん? 工事?」と言って学校の裏手を眼を見開いて見入った。


「…俺たちの自然公園が…」と春之介は大いに嘆いて言った。


「…うっそぉー…」と春菜は大いに嘆いてすぐにスマートフォンを出して、「どういうことなの?!」といきなり叫んだ。


しばらく沈黙があって、「…本当でしょうね…」と春菜はうなるように言った。


そしてまた沈黙のあと、「…わかったわ…」と眉を吊り上げて言った。


そしてひとつため息をついてから、「私たちの秘密基地は守られてるって」と春菜は安堵感を込めて言った。


「…そうか、助かったぁー…」と春之介は大いに安堵の声を上げた。


「…お嬢ちゃんなんかじゃないぃー…」と優が大いに嘆くように言った。


「うん! 多分、鬼になってたっ!」と春菜は笑みを浮かべて優に言った。


「で、車が走っていないのは、

 工事のために道路封鎖をした。

 体のいいマスコミ対策だろうね。

 だけど、歩行者が少ないことは解せないね…」


「住宅地だから、関係者以外立ち入り禁止なんじゃない?

 きっと、警備も雇ったような気がする…」


春菜の言葉に、「そういうこと、なんだろうなぁー…」と春之介は言って、「おはようございます!」と声を張り上げてて挨拶すると、近隣からワイドショー好きの主婦たちがわらわらと出てきたが、応援の声を上げるだけで誰も近づいてこなかった。


もちろん、その中にこの地の青年団がいて、厳しい目で監視していることを知っているからだ。


「いってきまーす!」と春之介が陽気に叫ぶと、「いってらっしゃーい!」と大勢の母の声で春之介たちは送り出された。


「…ああ、なんだか感動だぁー…」と優は言って、主婦たちに頭を下げまくっていた。


「…ふふふ… 優…」と、春之介たちの行く手を阻む大男が現れて言った。


「…うっ… 父ちゃん…」と優は言って半歩下がった。


春之介と春菜はすぐさま一ノ瀬雄大とあいさつを交わすと、今度は優大がたじろいでいた。


まさに春之介は多弁で、出世まっしぐらの雄大を大いに褒めたたえ、今は執事となっている一太が詳細な情報を詳しく語って、春之介の言葉を止めなかった。


「…君たち、高校一年生、だよね?」と雄大は大いに眉を下げて聞いた。


「詳しい話は、父母がまだ家にいますので、訪問してやって欲しいのです。

 どうかお願いいたします。

 では、学校に行ってまいります」


「…あ、ああ、いってらっしゃい…」と雄大はこう言うしかなかった。


「…春之介の方がすげえー…」と優は大いに感心して言った。


「何言っての。

 俺の執事が優秀だからに決まってる。

 畳みかけるように話せば、誰だってたじろぐさ。

 これが政治家の手だ」


「旦那様、本当にうれしく思います」と一太は大いに感動して言った。


「今はそれでいいよ。

 だけど、校門をくぐったら、ほぼ友人で頼むよ」


「はっ 承知いたしました。

 ほぼの理由も理解できていますので、

 本当にうれしく思います」


一太にとって、今日ほど充実した朝はなかった。



校門には、金メダルを首からぶら下げた小手川が立っていた。


「自慢ですか?

 あ、おはようございます」


「はい、おはよう。

 夏鬼が本気になったそうだからね、

 ここはタッグを組むことにしたの。

 今回はふたりしかいないから、レギュラーだわ!」


小手川は大いに叫んで大いに笑った。


「守られていることを思い知りました。

 ですのでこの恩は、俺のできることでお返ししますので」


「生徒を守るのは教師の本分だから。

 …それほど、気にする必要はないのぉー…」


どうやら何かをして欲しいようだと、春之介は感じて苦笑いを浮かべて、校舎に向かって歩いて行った。



「…私だけ、どーして別のクラスなのぉー…」と優は大いに嘆いて、春之介たちに手を振って教室に入ると、「おおおっ!!」というどよめきや叫び声が、教室内にこだました。


「あっという間に人気者になった。

 そして女子が全員執事になるから、

 一ノ瀬は問題ない」


「私も率先してなるわね…」と春菜が言うと、「春ちゃん! 春ちゃん!」と優の助けを求める声がしたが、春太郎と一太は自分たちの教室に入った。


春之介の教室の一組は、もう半数ほどの生徒は登校していたが、二組とは違い水を打ったように静かだ。


そしてクラスメイト達は大いにぎこちない笑みを春之介に向けていた。


「怖い青年団になんか言われたんだ」


「いや、春之介様の親衛隊って名乗ってた」と昨日と同じ様子の裕也の言葉に、「名称も変えたんだね…」と大いに苦笑いを浮かべて言った。


「半数以上が大学生でね。

 ほとんどの人が、爺ちゃんの世話になってるからなんだ。

 きっと、面識がない人もいると思うから、

 俺の親衛隊じゃなく爺ちゃんの親衛隊だから。

 でも先輩でもある人も多いんだ。

 だけど、それほど怖くなかったと思うけど?」


「とにかく迷惑をかけるなって、数回言われたんだ。

 まあ、昨日の報道を見て、

 親衛隊だったらそういうだろうって理解はできたから」


穏やかな裕也の言葉に、ここからは比較的に穏やかにごく一般的なクラスメイト達の言葉のキャッチボールが始まった。


「さっきの大声って、一ノ瀬優君のせい?」と田中美紀子が春之介に聞いてきた。


「一ノ瀬のヤツは、もうすでに二組のアイドルになった。

 なかなかドラマチックだったね、昨日の報道って」


「たった一日であんなことになっていたとはね…

 驚きだよぉー…」


裕也の言葉に、「さらに驚いてもらうから。ここからはみんなもある意味自己主張してもらいたいんだ」と春之介が言うと、「…ある意味?」と裕也が聞いてきた。


「俺たちと一緒に甲子園に行きたいヤツを募る」


春之介は見逃さなかった。


同じ野球部員は二名いるが、それ以外にひとりだけ大いに反応したのだ。


「この春咲高校野球部の実力を見てもらう前から、

 チームにいて欲しいんだ。

 もちろんこの学校には、

 主に勉強を頑張るために来たことはよくわかっている。

 だけど、野球や陸上などのスポーツに情熱を持っている人もいるはずなんだ。

 できれば、その能力を大いに発揮してもらいたいって俺は思っている。

 俺と行動を共にすれば、勉強を御座なりにすることはないから。

 まあ、初めは疲れて寝てしまうだろうけどね」


すると、このクラスの末席にいる、渡瀬麒琉刀わたせごるとが音をたてずに立ち上がった。


春之介は笑みを浮かべて麒琉刀を見ていた。


「難しい名前だよね。

 麒琉刀… ゴールドっていう意味でいいんだよね?」


「…うん、そう…」と麒琉刀は恥ずかしそうに答えた。


麒琉刀は比較的小柄で、春菜よりも背が低かった。


しかし、その上半身の肉厚はあり、筋肉トレーニングをしていることは一目瞭然だった。


「ボクも、陸上で短距離選手を目指してた。

 だけど、中学の時の君の野球の試合や練習を見て、

 世界記録保持者よりも脅威に思ったんだ…」


「いいじゃないか、大正解だった。

 大いに人を見る目があるってもんだ。

 月例会、出るんだよね?」


春之介の言葉に、「部に所属してなくても実力を知れるからね」と力ない笑みを浮かべて言った。


「体つきを見ていれば、短距離選手だってよくわかるよ。

 100メートル?」


「ううん、二百と四百。

 少し長い方が早いんだけど…

 君の走りを見ていて、なんかこう…

 もっと頑張ってみたいってずっと思ってた」


春太郎は何度もうなづいた。


春之介への想いは、昨日今日のものではなかったとようやく理解できた。


「野球の方は、興味が湧いていたんだよね?」


「全国大会も観戦に行ったよ。

 …俺、君のファンになってた…」


「君の体つきからして、

 セカンド、センター、キャッチャーがお勧めだね。

 キャッチャーは何人いても困らないチームだから出番はあるよ。

 昨日のテレビを見ていたのならよくわかったと思うから」


「…あんな速い球、プロでも怖いはずだ…」


「それがね、そうでもないんだ。

 人にはね、イメージというものがある。

 投げる球の速度がわかっていれば、

 それほど怖くないさ。

 徐々に慣れるとよくわかるから。

 何を投げてくるのかわからない打者は、怖いと思うだろうね。

 さらには緩急をつけて投げ分けられたら、

 手も足も出ない場合もあるよ。

 キャッチャーとしては気分爽快だよ!」


「…八丁畷君は投げないの?

 中学の時の練習では投げてたけど、

 試合では見たことはなかったから、

 ちょっと残念だった…

 あ…」


麒琉刀は今その理由に気付いた。


「そういうこと。

 理由は一ノ瀬と同じで、

 取れる捕手がいなかったから、

 投手以外はすべて経験した。

 うちの投手はそこそこ層が厚かったから、

 俺の出番がなかっただけだから」


「余裕で、全国制覇しちゃったんだぁー…

 さらにすごいなぁー…」


「…はははは… まあ、そういうことになるね…

 だけど、高校野球はそれほど甘くないことはわかってるさ。

 一番の問題はスタミナだ。

 そして故障をしないことだ。

 幸い、俺も一ノ瀬も体格には恵まれたからね。

 だが一ノ瀬のヤツは大会まで走り込みがメインの練習になるはずだよ。

 あいつ、ずっとサボっていたそうだから。

 だけど、甲子園に出られたら、一番いい状態に仕上がるだろうね。

 まさにあいつの剛腕は反則だ!」


春太郎は大いに笑った。


「…あー、だから今日のところはこれでいいって…

 158キロっていう、とんでもない速い球を投げたのに…」


「映像ではなかったけどな、

 野球部員になったらその先を教えてやるよ」


「…入部届、出すから…」と麒琉刀は言って二枚の紙を出した。


「うん、それでいいよ。

 スケジュールは俺と同じになるはずだから。

 陸上も、さらに上の大会に出る予定だから。

 きっと、君のような人がいるって思ってたんだ!」


「お母さん、メダリストだったんだね」


「えっ?」とクラス中の誰もが驚きの声を上げた。


「教頭先生も仲間でね、

 ソフトボールでオリンピックの金メダルを取っていたこと、昨日知った」


「…教頭先生も…」と誰もがつぶやいて大いに喜んでいた。


「しかも、校長先生はプロ野球選手だった。

 あ、麒琉刀君は調べて知っていたかな?」


麒琉刀は眼を見開いて首を横に振った。


「ここはお堅い文系の高校なのに、

 教師の重鎮がスポコン少年少女だった。

 俺としては最高の環境の高校に入学できて最高の気分だよ」


春之介は陽気に言って席に座った。


「…だからこその、この戒厳令かぁー…」と裕也は嘆くように言った。


「生徒を守るのは教師と親の仕事だからね。

 しかも、ついさっき一ノ瀬の父親に会ったけど、

 さらに心強くなったから。

 その正体はおいおいわかるよ」


「あ、そうだそうだ。

 あの工事、一体何なんだ?」


裕也の言葉に、「俺の爺ちゃんの悪だくみだろうね」と春之介は答えた。


そして、「知ってる人いる?」と春太郎が教室を見渡すと、「…何とかドームって書いてたような…」と桜山冬喜子が考えながら言った。


「…ドーム球場かなぁー…

 今じゃ多目的ドームが一般的だけど…」


春太郎はスマートフォンを出して、検索すると、県の事業として載っていた。


「春咲高等学校野球部グランド、かっこ仮、だって…

 多機能開閉式ドーム球場らしいから、

 陸上もできると思う。

 サッカーでも、ラグビーでも、コンサートでもね。

 文化祭、そこでやればいいんだ。

 アーティストを目指している人は、

 ドームで演奏できるかもね」


「素人なのに、ドームコンサート…」と裕也がつぶやいて言うと、春之介は大いに笑った。


「度胸はつくさ。

 日が合えば、大いに活用できると思う。

 作り始めたものは止められないから、

 大いに利用させてもらおう」


春之介は笑みを浮かべた。


しかしこの笑みの意味はドームとは別の想いだった。



「…うっ… ここはなぜだか静か…」と言って、春菜が教室に入って来て、「ごきげんよう」とまさにお嬢様然としてみんなに挨拶した。


「青年団の落ち度発覚だね」


春之介が陽気に言うと、「…ああ、そういうこと… みんな、脅してごめんねぇー…」と春菜が申し訳なさそうに言うと、クラスメイト達はもう納得できていたので笑みで返した。


「多目的ドームらしい」


春之介がスマートホンの画面を見せると、「…あっきれたぁー…」と言って詳細に調べ始めた。


「…落成予定日、来月の5月5日だってぇー…

 西暦を何度も見直したわぁー…」


春菜は大いに眉を下げて言った。


「…なんていう無謀な…

 だけど、水面下では話はしていたはずだよ。

 まずは予算の問題がある。

 業者も抑える必要があるし、

 原材料だって半端ないはずだ。

 まあ、全国からかき集めればできるんだろうけどね…

 不景気だから一般庶民には朗報だと思う。

 あの自然公園は、球場の三倍ほどあるから、

 人も集まって採算は取れるんだろうね。

 駅にも近いから、どんなことでも収益は上げられそうだ」



午前中の授業は難なくこなして、春之介たちは屋上で昼食を摂っていた。


自然公園の工事現場は基礎工事の真っ最中だった。


「道路の封鎖はまさに合理的だね。

 大きな作業車がスムーズに出入りできている」


春菜の視線はここから見える一番近い森にあった。


「…端の方で助かったってところね…」と春菜がつぶやくと、「そうだね」と春之介は笑みを浮かべて言った。


「おい、なんだなんだ」と教師の佐藤と山根が屋上に現れた。


一組と二組の半数以上がここにいたので、ちょっとしたピクニック会場になっていたからだ。


そして9割が女子だ。


男子は比較的弁当組が少なく、学食や購買に行ったので、自然にこうなっただけだ。


「おふたりはセットですか?」


春之介の軽口に、「長い付き合いだからな」と佐藤が答えて山根を見た。


「だからこそ、この学校に雇ってもらえたと思っているんだ」


山根の誠実な言葉に、「ずっといい関係なんですね」と春太郎は笑み浮かべて言った。


「ああ、まさに、お前たちと同じだ」と佐藤は答えて、春之介、春菜、一太、優を順に見た。


「山根先生、佐藤先生」と麒琉刀は言って、ふたりに入部届を提出した。


「…もう、始めやがったかぁー…」と佐藤は春之介をにらんで言った。


「気づいたのでスカウトしました。

 都合はよかったので。

 俺はファンを大切にしますから」


春之介が陽気に言うと、麒琉刀は大いに照れていた。


「だが、それを提出した以上、俺は鬼ともなろう!」と春之介が芝居っぽく言ったようだが、「…こえーな… さすが母譲りの睨み…」と佐藤が嘆くように言った。


「知らなかった俺の方がおかしいですね。

 まあ、巧妙に隠されていたようですけど」


「…うう… 俺だったら、息子と娘に自慢するのに…」と山根は嘆くように言って、春之介と春菜を見た。


春之介と春菜は顔を見合わせたが、ここでは何も言わなかった。


「母も一度は監督に立候補しました」


春太郎の言葉に、「…マジで…」と佐藤は大いに眉を下げてつぶやいた。


「強敵がふたりもできたけど、

 夏樹さんは監督以外の何かをするの?」


山根の言葉に、「…あ、そういうこと…」と佐藤はつぶやいて笑みを浮かべた。


「選手の、メンタル面の管理を申し出てくれました。

 時にはいつもの仏の微笑み、

 だが忽然と鬼が現れることもある。

 と言うようなメンタルアドバイザーでしょうね。

 教師でもあるので、生徒の気持ちはよくわかっていると思います」


「…おまえの母ちゃんのマネ、しよ…」と山根が言って大いに眉を下げた。


「母のこともお詳しいようですね」と春之介は山根と佐藤を見た。


「ああ、後輩だからな。

 俺たちが大学の一年の時、

 夏樹さんは四年だったが、

 もうメダリスト手前の超有名人だったから、

 聞かなくても耳に入ってきたし、

 学部が同じだったから、付き合いもあった。

 もちろん、春拓さんとも知り合いだ」


「だったらその時に、俺とも会っていたかもしれませんね」


「…うっ! 14年前!

 …お前、もういたんだ…」


「素晴らしい証拠の品を見せてもらったので」


「いや、金メダルはわかるが…」と佐藤が言うと、「メダルに何か書いていたんだね」と山根がすぐさま言った。


「俺、山根先生の方が好きかもしれません」


春之介の言葉に、「…察しが悪くて悪かったな…」と佐藤は大いにへそを曲げた。


「…まあ、今となって初めて理解できたんだけどね…

 俺が全国大会で優勝した時に、

 マジックでトロフィーに落書きされたんだ…」


山根の告白に、春之介も春菜もすぐさま大いに謝った。


「そこに書いてあった言葉が衝撃的でね…

 誰にも言えなかったんだ…

 だが、この学校に来て今年に入って初めて理解できたんだ」


「…あー…」と春之介は言って考えてから、「春之介のコーチ役、とか…」とつぶやくと、「俺も春之介が大好きだ!」と山根が言って春之介を抱きしめた。


「…俺には、なぁーんもねえ…」と佐藤は言ってうなだれた。


「春之介の面倒見てね!

 って、丸文字で書いてあったんだ。

 まさに意味不明だった…」


「…母さんも、丸文字書いてたんだぁー…」と春之介が感慨深く言うと、「使い分けてたようだよ。夏樹さんは書道の有段者だから」と山根が言った。


「…あー、習ったなぁー…」と春之介は感慨深く言って春菜を見た。


「春之介と春菜の字は、まさに夏樹さんの字だった。

 懐かしかった…」


山根は感慨深げに言った。


「…丸文字は正義…」と優が感慨深くガッツポーズを取ってつぶやくと、「先生は使い分けてたって言ったよね?」と春之介は言って少し笑った。



「放送はいつなんだ?」と佐藤が不機嫌そうに聞くと、「明日の昼休みって、メールが来てました」と春之介は言ってそのメールを見せた。


「…放送部、浮足立ってるなぁー…」と佐藤は言って大いに苦笑いを浮かべた。


そこには文字はほとんどなく、歓迎の絵文字で埋め尽くされていた。


「文化部にも好影響があって何よりです。

 球場ができたら、

 マイクを使って応援してもらってもいいと思いました。

 まさに、甲子園の疑似体験として」


「音量絞って、今日からやらせる!」と佐藤が大いに気合を入れて言うと、「ほかの部活に迷惑です…」と春之介は眉を下げて言った。


「騒々しい方がいいんだよ。

 まあ、ほかの先生方とも相談するけどな!」


佐藤は大いに憤慨して言ったが、「…それは、大いに言えるかも… 集中できない状況を作る… …これから工事現場はさらにうるさくなる…」と春之介が言うと、佐藤は昼食を流し込むように食ってから、「話してくる」と言って、走って扉に駆け込んだ。


「工事現場の音だけ聞くよりも、

 ウグイス嬢の素晴らしい声の方が安心しそうだ」


春之介の言葉に、「…私、明日の昼部活… 放送部の…」と歌うような声の鷹崎歌子が感動と緊張の声で言った。


「…今日から度胸付けができるかもね…」と春之介が眉を下げて言うと、「…うん、頑張る…」と言ってから、照れながら両手のひらでホホを押さえつけると、春菜は大いに春之介をにらみつけていた。


「俺、なんかした?」


「しておりませんわ」と春菜は穏やかだが大いに憤慨して言った。


「…こんなにモテる男は知らないぃー…」と、優が嘆くように言うと、「…お前が言うなぁー…」と春之介は優を少しにらんで言った。


「…初めは違ったけど、

 なんといっても今は話術と行動力だって思うぅー…

 みんな、もうメロメロだって…」


優が言って女子たちを見回すと、春之介もその視線を追った。


すると、「キャー! キャー!」と黄色い声が沸き上がってきたので、春之介は大いに苦笑いを浮かべていた。


「…調子に乗ってんじゃあないわよぉー…」と春菜が大いに憤慨して春之介に言うと、「乗ってない」と春之介はすぐさま断言した。


「…この学校だったら、調子に乗る男はすぐに捨てられると思うぅー…」と優が春菜に言うと、「…せめて、無細工になるように整形でも…」と悔しそうに言った。


「…春君、キスしてきたのにぃー…」


春菜の言葉に、春之介のホホは大いに引きつっていた。


そして誰もが眼を見開いていた。


さらに、「…実は獣…」などと言って、春之介は白い目で見られるようになった。


すると春菜が立ち上がった。


「私、みんなにも知っておいてもらいたいの!」


春菜の真剣な顔と言葉に、確実に深い事情があるとほとんどの生徒が思っていた。


そして真の春之介と春菜の関係を述べると、「…うっそぉー…」とまず言ったのは山根だった。


もちろん教師なのでそれなりの説明は受けているのだが、この部分だけは春之介の妹と聞いていたようだ。


春之介は口は挟まず、笑みを浮かべて聞いているだけだった。


「従妹は結婚できるのよね?」と二組の委員長の中井真奈が大いに眉を下げて春菜に聞いてきた。


「四親等だから可能よ。

 叔母と甥は三親等だから婚姻はできないわ。

 もちろん、きちんと説明を聞いて、

 隠し事はないって確認は終えてるの。

 だからね、私と春君は祝福された結婚はできないの…」


春菜が下を向いてすぐに笑ったように、春之介は感じた。


「ちょっと待て」と春之介が言うと、春菜は眼を見開いて春之介を見た。


「今、笑ったように見えたけど気のせいか?」


春之介の追及に、「…ついつい、喜んじゃいましたぁー…」と言ってから、今度は本気でうなだれた。


「喜んだ理由の説明…」


「きっと誰も邪魔しないからぁー…

 多分、優ちゃんもぉー…」


春菜が上目遣いで春之介を見て言うと、春之介は立ち上がって、「子供でしかない叔母を許してください」と言って頭を下げた。


「こんな誠実じゃない叔母でも、俺は好きなんだ。

 小さい頃は本気で妹と思っていた。

 だけど、妹じゃないと聞いた時、

 理由はわからないが、他人と感じたんだろう。

 俺は恋に落ちたはずだ」


「…あー…」と女子たちは一斉に嘆くように言った。


「その当時はまだ六才で、

 どういう事情で結婚できるできないなんて理解できるはずがない。

 だけど心だけはもう走り出していたんだ。

 その間に、俺と春菜はキスをした。

 しかし、ここでようやく父が知って、

 俺と春菜にわかるようにきちんと説明してくれた。

 男親はね、蚊帳の外だったんだ。

 これも俺たちの不幸だったのかもしれないね。

 だけど、春菜は不幸じゃないと断言したから、

 それが事実だって、俺は疑わない。

 …だが、それをおまえは…」


春之介は言って、春菜をにらみつけた。


「…妹だ…」「そうね、妹でしかないわ…」と誰もが口々に言い始めたので、「…えー…」と春菜は大いに嘆いた。


「…あー、妹だったかぁー…」と春之介が嘆くように言うと、「恋人だもぉ―――んっ!!」と大いに叫んで大声で泣きだし始めた。


「お兄ちゃんに迷惑をかけるのは妹でしかいないわ!」と同じクラスの大和撫子が真剣な顔して堂々と言ってから、そのどや顔を春之介に向けた。


「こういった自己主張って、恋焦がれていても醒めるって知ってた?」


春之介の言葉に、「…強敵だったぁー…」と撫子は大いに嘆いた。


「…大和さんは全然名前通りじゃないな…

 がっかりだ…」


春之介の言葉に、「…私が決めた名前じゃないもぉーん…」と大いに不服そうに言うと、「あ、そうだね、これは俺が悪かった。許して欲しい」と春之介は言って頭を下げた。


「…許すから、デートぉー…」


「そんな時間はないね。

 昨日の報道でほぼ分かったと思う。

 俺たちの自由時間は、

 今のこの昼休みだけになるかもしれないから」


常識的な考えを持つ学生たちは大いにうなづいていた。


「それに、大和さんの少々ずるがしこい性格は好きになれそうにないから、

 付き合うつもりはないから」


「…はっきりしてるわぁー…」と優が大いに嘆くように言った。


「中途半端に言ったら後々面倒だろ?

 それに今は、お前もないからな。

 親父にもきちんと言っておけよ。

 どうせ、お前との婚姻の件で何か言ってくるはずだからな」


「旦那様、春拓様と夏樹様は

 すでにお断りになっておられますのでご安心ください」


一太の言葉に、「うん、よかった、ありがとう」と春之介は言って頭を下げた。


「…だらしない親父だぁー…」と優は大いに悔しがって言った。


「…そういったことすらしてもらえない…」と春菜はつぶやいてうなだれた。


「今はまだはっきりさせておく必要はないけど、

 俺と春菜は日本の法律上結婚できないだけで、

 結婚したと思うのは本人たちの自由だ。

 結婚式だってしたければすればいい。

 親たちは確実に嫌がるだろうが、

 息子と娘の気持ちを一番に思っているんだったら、

 喜んで祝ってくれるはずだ。

 本来なら、こんな波風を立てるようなことは政治家にとって致命的だろうけど、

 爺ちゃんの場合は実業家でもあるから、

 それほど気にもしないような気がするけどね。

 それに俺たちのように、

 結婚したいのにできない人たちのための実例になると思う。

 そしてもちろん、

 そのデメリットもきっちりと語っておく必要はある」


「…赤ちゃん、作っちゃダメ…」


「出産は賭けじゃないんだ。

 法律で禁じられていない従兄同士の婚姻でも、

 先天性異常が発症する確率は二倍になる。

 リスクを負う可能性が高いのに、

 子供を欲することは俺としては犯罪だと思っている。

 そしてもし、生まれてしまって障害が発覚した場合、

 辛いのは俺たちじゃなく我が子なんだ」


春之介の堂々とした言葉に、「…わかってたはずなのにわかってなかった…」と春菜は、うなだれたままつぶやくように言った。


「…俺、本当に結婚しない男になりそうだなぁー…」と春之介は言って、遠くに見える工事現場を見入った。


「理想的な結婚は、目に見える障害が何もないこと。

 でも稀に、思わぬところに不幸がやってくることもあるんだ。

 俺と春菜は、聞きたくもないのに、

 そんな話ばかりを聞かされていたようなものだからな。

 だからこそ、全く知らない相手と見合いをして、

 恋愛せずに結婚することも、

 ある意味幸せなのかもしれないね」


春之介の言葉に、春菜は大いににらみつけたが、すぐさま肩の力を抜いた。


「八丁畷君、ありがとう。

 私はあなただけは信頼したいわ」


真奈の言葉に、春之介は力ない笑みを浮かべた。


「…余計なことを言った子はただじゃおかないから…」


真奈は誰かに言ったわけではなくひとりごとのように言ってから、扉に向かって歩いて行った。


「そろそろ予鈴だ、教室に戻ろう」


春之介が立ち上がると、春菜は笑みを浮かべて手を差し伸べた。


春之介は笑みを浮かべて手を取って春菜を立たせた。


学友たちはこのふたりに、大いに嫉妬心が湧いていた。



「…予想外に誰も来なかったけど…」と春之介は言って、ただ唯一入部した中井真奈を見ていた。


今はボール磨きやら道具の整備に汗を流している。


「…経験者かなぁー…」と春之介がつぶやくと、「…中学の二年までやっていた経験者だと言っていた」と背後から佐藤が言ってきた。


「辞めたのは受験のためですか?」


「野球部がなくなったからだ」


「…それは悲しい…」と春之介は言って眉を下げた。


「本来なら、真っ先にマネージャーとして働きたかったそうだけど、

 学業がおろそかになると思って躊躇したそうだ。

 だがお前が背中を押したそうだな」


「結果的にはそうなりました。

 勉強に関しては協力はしますよ。

 確実に一太は一緒にいるので、

 彼女とふたりっきりになることはありません」


すると、目を輝かせている麒琉刀が春之介を見上げていた。


「…一体、なに?」と春之介が大いに苦笑いを浮かべて言うと、「合宿、参加してもいいかな?」と麒琉刀が聞いてきた。


「…合宿… まあ、確かにそうだな…」


春之介の家に同居して生活をともにする件だ。


そうしておけば全く同じ時間を過ごすことができる。


チームメイトとしてはこれほどにコミュニケーションを取れる方法はないはずだ。


部活に入ったということは、塾には行きづらくなることになる。


さすがに秀才校だけあって、野球部員で学習塾に通っている者はひとりもいなかった。


「優の場合も赤の他人だし、特別扱いはいけないことだ。

 ここは学校に掛け合って、合宿所も作ってもらうか、

 とりあえずは俺の家を合宿所にする。

 爺ちゃんに頼んで、メイドさんとか入れてもらわなきゃいけないな…

 母さんも忙しくなるから、それでいいかもな…

 まずは希望者だけということで」


するとチームメイト全員が手を上げていたことに、「…宿舎を建ててもらった方が早そうだ…」と春之介は大いに眉を下げて言った。


「野球漬けに勉強漬けか…

 いや、大いに結構!」


佐藤は明るく言って、校長に電話をした。


「いえ、全員が一致した考えを持っていてくれたことが、

 俺は一番うれしいです!」


春之介の陽気な言葉に、誰もが大いにガッツポーズを取っていた。



休憩時間が終わりを告げて立ち上がると、工事現場からではなく、春之介の家の方角から、何かを壊す音が聞こえた。


「…一太、報告した?」「はっ 早い方がいいと思ったので」


一太は執事と友人の間の言葉で答えた。


「だけど、早すぎるだろ…

 用意して待っていたとしか思えない…」


「小さな仕事の場合は、特に小回りが利くようです。

 学校の向かいにあるアパートをすでに買い取っていて、

 誰も住人は住んでいませんでした。

 更地面積が比較的広いので、

 最大収容人数100名ほどの宿舎を建てるそうです。

 広い道路がありますが、校庭まで陸橋を渡すそうです。

 現在は道路を封鎖中ですので、簡単に作業は終わるそうです。

 宿舎の完成は一週間後なので、

 それまでは今の生活を続けてけてください」


「…あー… ユニット形式の建物だったら、

 建物だけはその程度で完成するね」


「今であれば通行の邪魔にならないので、

 さらに仕事は早いはずです」


「マスコミが迷惑をかけてくれたことで助かった」


春之介の言葉に、誰もが陽気に笑った。



日曜は完全休養日だが、春之介、春菜、麒琉刀の三人は、月例の陸上記録会に行く。


日本陸連の方で、マスコミは最小限の入場を許され、参加者との接触はご法度の通達が出ていたので、会場内は比較的穏やかだった。


だが、競技場に入るまでが大変で、マスコミ半分、やじ馬半分の人でごった返していた。


もちろんこの程度は予測していたので、春之介たちは堂々とやじ馬整理をしながら競技場内に入った。


「バレなかった…」と春之介が陽気に言って、係員用のキャップを脱いだ。


「盲点よね」と春菜が陽気に言うと、麒琉刀は楽しそうに笑みを浮かべてふたりを見ていた。


本物の係員にロッカーに荷物を運んでもらっていたので、それぞれの更衣室に移動して着替え、軽くウォーミングアップを始めた。


するとマスコミがだれ彼ともなくカメラを向け始めたので、数名がすぐさま退場を食らった。


一般人がいるので、これは規律違反とモラルにかける行為に当たるので、当然の処置だった。


春之介たちは変装はしていない。


していないのだが誰にも気づかれない服装をしていたのだ。


三人のユニフォームには、『マイティーカウル』という、実在する有名会社の派手なロゴが入っていた。


よって誰もが社会人だと思い、春之介たちを見つけられなかったのだ。


マイティーカウル株式会社は、春太郎の所有する会社の孫会社だが、陸上部はない。


さらには参加者は多いので、名前を呼ぶことはなく参加番号を使う。


よって世界記録が出たとしても、参加番号を知っている者しか、名前がわからないことになっている。


ゼッケンは簡単に外せるので、競技が終わって外せば、まず見破られることはない。


さらに昨日、春之介は少し頭髪を切ったので、多少だが顔つきも変わっている。


入念な準備がまんまとはまったので、春之介も春菜も大いにリラックスしていた。



まさに誰もが、流れるように競技をこなしていく。


100メートル走は参加者が多いので、予定の時間よりも前倒しして一番に始まった。


こうしておけば、騒動は午前中だけで収まるからだ。


春之介と春菜の出番はあとの方なので、まずは麒琉刀の実力に期待した。


麒琉刀は二百メートルではなく百メートルだけにエントリーしていた。


やはり、走りたい競技のエントリーに絞っていたのだ。


号砲が鳴りスタートして、なかなかのスピードでゴールインした。


「…0058 …0058」と春之介は呪文のようにつぶやいて、電光掲示盤を見入った。


「おっ! 好記録!」と春之介は叫んだ。


記録は10秒502で、会場がわずかに湧いた。


だがその声を聴いて、急に辺りが騒がしくなった。


この記録は春之介のものかもしれないと、参加者が騒ぎ始めたのだ。


「…はは、やべえやべえ…」


春之介はこう言ったが、楽しそうだった。



ついに春之介も春菜もスターティングブロックに足をかけた。


そしてフライングすることなく、ふたりは疾風のごとくコースを駆け抜けると、会場内が大いに沸きあがった。


誰が見ても破格に速かったからだ。


春之介は満面の笑みで迎えにきた麒琉刀と、満足した結果だと確信して笑みを浮かべた春菜とともに、すぐさまロッカールームに向かった。


三人はすぐさま着替え、また係員の服を着て外に出て、そのまま駅に向かって猛ダッシュした。


一太と合流して、三人は作業服を脱いで、一太に渡した。


そして三人は何食わぬ顔をして電車に乗って、短い旅を楽しんだ。


駅についてホームでしばらく待っていると、次の電車に一太が乗っていたので、ここからは四人で、工事中の建設現場に向かった。


もちろんドーム球場の方だ。


しかし用があるのは工事現場ではなく、春之介たちが幼い日に遊んだ秘密基地だ。


その場所にはフェンスが張り巡らせてある。


「…私有地?」


麒琉刀が聞くと、「ここだけ爺ちゃんの持ち物なんだ」と言って懐かしそうな顔をして三本の高い木を見上げた。


一太がカギを開けて、三人はフェンスの中に入った。


「…あー、これは… きっと楽しかったはずだ…」と麒琉刀は感動して言った。


「そう思ってくれて幸いだよ」


春之介は大いに照れて言った。


「もっとも、5才児程度ではこれほどの細工はできないから、

 今の青年団の方々が工夫して造ってくれたんだ。

 俺たちにとって、最高の遊園地だ。

 今はもう、さすがに遊べないけどね」


「…滑り台なんで、お尻がはまって抜けなくなちゃう…」と春菜が言うと、麒琉刀は大いに顔を赤らめていた。


「こら、おまえら!」と聞き覚えのある声が聞こえた。


「入って来いよ」と春之介が手招きすると、「…置いて行きやがってぇー…」と優が大いに苦情を言った。


「おまえが目立ってばれると思ったからな。

 お前ほどの大女は、

 日本ではモデルか、

 オリンピックレベルのバレーボール選手しかいないほどだ」


「…ま、まあ、いい…」と優は大いに照れてから、「結果はどうだったのよぉー…」と聞いてきた。


「見てないから知らないけど…」と春之介が言うと、「春菜様は9秒991でした」と一太は大いに笑みを浮かべて伝えると、春菜は黙ってガッツポーズを取っていた。


「私が係員室に行った時に、協会の方になんども頭を下げられました。

 やはり陸上熱がさらに上がったことがうれしかったようです」


「…一太君… こいつのタイムが知りたいなぁー…」と優がかなり控えめに言うと、「はい、失礼いたしました」と一太は言って、「旦那様の記録は、8秒998でした」と告げると、春之介は何も言わずに感慨深く両腕を上げてから、何度もガッツポーズを取った。


そして、「…ニュースニュース…」と言ってスマートフォンから検索すると、文字だけでその記録が掲載されていた。


「おっ 春菜の記録も賞賛されてる。

 よかったな」


春之介の言葉に、春菜は手を組んで何度も飛び上がって喜んだ。


「…おや? ニュースが更新した…」


春之介の言葉に、四人はスマートフォンの画面を見入った。


するとなんと、タイム計測直前の映像が流れ始めたのだ。


映像はホームビデオレベルではなく、正式な放送用のように見えた。


「…スタンドから隠し撮りされてたかぁー…

 まあ、証拠映像としては有効だろう。

 映像からでも、正確なタイムが算出できるはずだからな」


そして春之介の顔がアップになると、「…鬼ですね…」と一太がつぶやくと、四人は何度もうなづいた。


その反面、春菜は大いに陽気な笑みを浮かべていた。


「…ユニフォーム、派手だなぁー…

 まあ、会社の方々がきっと喜んでくれてるからいいか…

 いい宣伝になった」


「もちろん、御屋形様はこの件も見込まれておられたはずですので、

 ドーム建設費の数パーセントは回収できたと判断します」


一太の解説に、「…大人の世界だな…」と春之介は、少しつまらなさそうに言った。


「つまらないことを申し上げました。

 申し訳ございません」


「いや、いいんだ。

 今の一太はきちんと自分の仕事をしているだけだ。

 俺がまだ子供なだけなんだから気にしないで欲しい」


一太は笑みを浮かべて春之介を見ていた。


「…こんなにすごい子供はいない…」と優は画面を見ながらつぶやいた。


『タァーン!』とスタートが聞こえて、ほぼ同時に春之介が飛び出した。


ほかの者はほんのわずかに出遅れたように見えた。


そしてカメラは正確に春之介を追っていて、あっという間にゴールインした。


まさにその姿はかなり派手なピューマだった。


そして二着に笑みを浮かべている春菜が映って、スタートラインからのスロー再生が始まった。


ここからは細かい分析のような数値が画面にインポースされている。


春之介のスタートの反応スピードは、0.156秒だった。


「スタート練習は、様々なパターンで練習したからね。

 計測器によって、多少は違うから。

 だからほとんど勘で飛び出したはずだ。

 フライングはしない程度に抑え込んでね」


「…そこから心構えが違うんだね…」と麒琉刀は感心して言った。


「野球だってそうだ。

 特に硬式の場合は打球音が派手だから判断しやすい場合も多い。

 その音で、ある程度の飛距離を知ることができるから。

 特に外野手は耳の良さは重要だと思う」


「…勉強になります…」と麒琉刀は言って笑みを浮かべた。


映像を観終わると、見知らぬ外国人が映っていて、満面の笑みを浮かべていた。


世界陸連会長のイワノフ・トレジャロワとテロップが出た。


そして英語で話しだして、和訳のテロップが流れた。


『大勢の観客の中で出してもらいたい記録だったが、

 公式の記録には違いない。

 春之介八丁畷は、まさに私のヒーローだ。

 次回があるのであれば、万人を魅了してもらいたいものだ。

 我が友人で春之介の祖父の、春太郎八丁畷もそう願っている』


「…さすが国会議員… 顔は広いね…」と春之介は言って、大いに苦笑いを浮かべた。


「喜んでもらえるんだったらそれでもいいんだけどね。

 その場に立つまでが面倒なんだよなぁー…

 今日のような小細工を考える必要があるから。

 今までの有名選手は快く思っていたんだろうか…」


「人それぞれのようです。

 そして怒りたくても怒れない。

 ですから記録が冴えない場合もあったと判断します」


一太の言葉に、「…やっぱ、それも修行で…」と春之介はつぶやいて笑みを浮かべた。


「逆に、好感の持てるレポーターだけに話し続けてやろうかぁー…

 あ、専属に雇ってもらおう。

 そうだ、それがいい!」


春之介はひとりで盛り上がっていた。


「…放送部でいいか…」と春之介が言って考え始めると、誰もが大いに苦笑いを浮かべていた。


「頭の回転が速くて、誰もが聞きたいことを瞬時に思いつく人。

 もしキャスター志望だったら、

 いい経験になると思うんだけど?」


「はい、校長に報告しておきました」と一太は言って、スマートフォンの電源を切った。


「…いつの間に…」と優は言って一太を見ていた。


「仕事ですので」と一太は笑みを浮かべて言って、スマートフォンをジャケットの内ポケットに納めた。


「…一太君でいいかもぉー…」と優が言うと、春之介は大いに笑った。


「おまえ、気に入ってたからな。

 そのうち言うと思っていた。

 だが、空き時間はそれほどないから、

 うまく時間を作ってデートにでも誘えばいいさ」


「…デート… 生涯初…」


「おいおい、重いな…

 そういうことを言うんじゃない…

 それほど気合を入れずに、

 異性の友人ということにして気軽に遊べばいいだけだ。

 それだったら、一太も付き合いやすいだろ?」


「そうだね、それだったら別にかまわないよ」


一太のフランクな言葉に、春之介は大いに感動して、ガッツポーズを取っていた。


「じゃ、家に帰るまで、ふたりはデートということで」


「いきなりっ?!」と優は叫んで大いに眉を下げた。


「学校の近くまでは安全地帯じゃない。

 もうマスコミはそれほどいないと思うけど、

 面倒は起こしたくないからね。

 そこまでは少し警戒して移動しよう。

 まあ、守ってくれているような気はするけどな」


「足の速い者を数名配備しているようです」


一太の言葉に、「…やっぱりね…」と春之介は少し呆れるように言って、思い出の場所から出た。


だが、春菜だけは三本の木の根元にある、扉が閉まっている小さな部屋を見入っていた。


「小さすぎて入れないから。

 子供を雇って、持ってきてもらうしかないぞ」


「…そうね…

 ここは、ずっと変わらずあるんだもの…」


優は大いに気になって、「タイムカプセル的なもの?」と春菜に聞くと、「うん、そうなの」と春菜は嬉しそうに言った。


「俺、春菜、一太、そしてあとはみんなが知らない三人いるんだ。

 ふたりが男子で、ひとりは女子。

 女子は変わらずここに住んでいるけど、

 男子二人は野球推薦で東京と埼玉に引っ越した。

 幼稚園が終わって、俺たちは真っ先にここにきて遊んだし、

 中学卒業まで同じ時間を過ごした大切な場所なんだ」


「あー、いいなぁー…

 それにまだ三人もいるんだぁー…」


優は大いにうらやましそうに言った。


すると、少し乱暴にフェンスの扉を開ける音がしたので、全員が振り返った。


「…あー、よかった…

 春君たちだった…」


今話に出たばかりの女の子で、才木尚だった。


尚は、この辺りではごく一般的な公立高校の普通科に入学した。


まさに現実的で、自分の実力をよく知っている堅実な考えをもっている、まさにごく一般的な高校生だ。


「ついてたわ!」と尚は叫んで、まずは春菜と抱きしめあった。


「陸上の記録会に行った帰りなの」


春菜の言葉に、「…また大騒ぎになるのね… 今は守ってもらえてるようだけど…」と尚は眉を下げて言った。


「あっ! 春君ごめん!」と尚は言ってすぐに頭を下げた。


「この辺りに住むみんなの声だと受け取ったよ。

 俺の野望を叶えるために、

 みんなに迷惑が掛かってしまっている」


春之介の落ち着いた言葉に、誰も言葉が出なかった。


「だけど、この埋め合わせはきちんとする。

 何年かかってもね」


「言いふらしておくわ」と尚は明るく言った。


「ああ、そうしてくれるとありがたいね」


「翔君と明ちゃんも都合よくここに来ないかしら…

 ふたりとも宿舎だし、今日も練習よね?」


「強豪校はどこでもそうだろうね。

 俺たちのような素人軍団は、

 過剰な練習は毒でしかない。

 自分の身体能力を抑えながら成長するしかないからね。

 ま、甲子園に行けば、

 その時点でみんな満身創痍で痛々しいと思うな。

 だがそんなもの、健全ではないと俺は思っているから。

 それをみんなにわからせてやりたいという思いも、ついでにあるんだ。

 優の左腕と、俺のバットで思い知らせてやりたんだ」


「…弱い者いじめ…」と春菜が言うと、「弱くはないな」と春之介は高校球児たちに敬意を表して言った。


「知恵と経験が足りないだけだ。

 子供でも、大人の積み重ねがあって知っていれば、

 無謀な特訓などしなくても済むものなんだよ。

 俺は監督の指導と独学でそれを手に入れたんだ。

 俺ができたんだ、ほかの者ができて当たり前だ。

 さらには、メンタルも重要だ。

 甲子園に行っても、笑みを浮かべてプレーしたいものだな」


「…春君はもう大人だぁー…」と尚は言って眉を下げた。


「まあね…

 それにまさに青春の悩みが大いにあるからね。

 大人にでもならないと狂ってしまいそうだよ」


春之介の言葉に、春菜は大いにうなだれた。


「さらに時々、肉親がいろいろとやらかしてくれるからね。

 その時だけは子供に見えるよ」


「…子供の父ちゃんでごめんなさい…」と優が頭を下げると、春之介は陽気に笑った。



優と麒琉刀は尚と自己紹介をしあって、全員で清々しい緑濃い道を歩いて、春咲高校の校舎裏の高いフェンスがある歩道に出た。


元々車が通れない道なので、散歩者やジョギング、そして小さな川べりにあるベンチに座って景色を楽しんでいる。


「ん?」と言って春之介はひとりの男性を見入った。


その男性は首から画板を下げて、スケッチをしていた。


「…帰って来てたんだ…」と春之介は笑みを浮かべて言った。


「お兄ちゃん!」と春菜は叫んで、雅春に駆け寄った。


「えっ?」と言って抱きつかんばかりに迫ってきた春菜を見入っていた。


「やっぱりここにいて正解だった」と雅春は言って、春菜と春之介を交互に見た。


「記録会に行ったって聞いてね。

 ここにいれば確実に会えるって思っていたから」


雅春は言ってから、優がここにいることに気付いて、大いにバツが悪そうな顔をした。


「…ここ、通ってきたのに気付かなかった…」と優は言って、雅春にぎこちない笑みを向けた。


「今来たばかりだから。

 兄さんの家に優君はいなかったから。

 まさか同居してるとは思いもよらなかったし…

 春菜と一太君まで」


「何かと都合がよかったからね。

 色々と知って気になった?」


春之介が少し笑いながら言うと、「そりゃ、大いに驚いたさ!」と雅春は今までになかった叫び声を上げて陽気に言った。


「…うふふ… さらに正式になったから。

 春君も私も」


「…正式に、世界記録保持者かぁー…

 誰よりも最高の親族たちだよ!」


春菜は自慢するようにスマートフォンでニュースと公式動画を雅春に見せた。


「…鬼だ、鬼がいる…」と雅春が言うと、春之介は照れて大いに頭をかいていた。


「よく体を壊さないものだね…

 どんな仕組みなの…」


雅春は大いに疑問を持って言った。


「第一に力を入れないことだよ」


「えっ?」と誰もが一斉に疑問の声を上げた。


「倒れそうになるのをこらえるんじゃなくて、倒れる前に足を出すんだ。

 その繰り返しだよ。

 今のアスリートの常識を覆した走りだから。

 だから当然、エンジンは鍛え上げたし、

 燃料タンクも大いに増設した。

 走っていた時間よりも、

 プールで潜水していた時間の方がはるかに長いから」


「…肺活量の化け物になったのか…

 もちろん、無呼吸だよね?」


「200だったらギリギリ持つかな?

 もっとも、貧血を起こしそうだからやらないけどね」


「もう、博士に近い臨床実験の結果だね。

 いや、本当におめでとう!

 その春君に春菜は便乗して、女子の世界記録か…

 うまくやったね」


「まるで、春君に引っ張られるようについていけたの。

 ほんとに楽しかったわ!」


春菜の陽気な言葉に、「ふたりとも、本当におめでとう!」と雅春はまた妹と甥を賞賛した。


「じゃ、帰って自慢するよ」と雅春は言って立ち上がった。


そして駅に向かって歩いて行った。


「画板だけ持ってきたんだ…

 まさに、着の身着のままだね…」


春之介は少し呆れていた。


「…雅春さん、創作意欲が湧いたんじゃないのかなぁー…

 今の話と映像を観て。

 きっと、鬼の絵を描くような気がするわ…

 だからね、きっと、自慢話なんてしないと思う…

 雅春さんは、これからさらにすごい画家になるように思ったの…」


優の言葉に、春之介は笑みを浮かべてうなづいた。


「その絵は俺が買う!」と春之介は気合を入れて叫んだ。


「あ、応援旗にしてもらったら、

 みんな怯えて簡単に勝ち抜けるかも…」


「仲間も怯えるわよぉー…

 怖くないのは描いたお兄ちゃんと春君だけよぉー…」


春菜が眉を下げて言うと、「チームワークが機能しなくなるのは問題か…」と春之介は言って少しうなだれた。



「どうぞ、お通りください」


ガードマンの言葉に、春之介たちは大いに首をひねった。


立ち入り許可証を出す前に許可されたからだ。


住人全員の顔を覚えることはまず不可能だ。


よって、何かからくりがあると思って、ガードマンの耳を見ると、やはりイヤホンをつけている。


そして壁際などを見ると、真新しい監視カメラが数台設置されていた。


どうやら別の場所に監視センターがあって、そこからの指示があるのだろうと、春之介は察した。


カメラのケーブルを眼で追うと、学校に続いていた。


急造なので、簡単に黙認できた。


「…応接室、かなぁー…」と春之介は校舎を見上げて言った。


「そのようですね。

 学校側も協力しているようです。

 騒動にならないだけマシですから」


一太は電柱を見上げて言った。


「顔認証も使っているようだね。

 その方がスピーディーに指示を出せそうだ。

 となると、紛れ込もうと思えばそれほど難しくないから、

 注意した方がよさそうだね。

 まあ、犯罪までは起こさないと思うけどね」


しかし、一太の眼が爛爛と光り、辺りの注視を始めた。


そして、春之介の家よりも高い場所を選んで探るように見回して、合宿所建設現場の端にある電柱に指を差した。


「カメラを仕掛けたようです。

 警察を呼びます」


そのカメラは春之介の家にロックオンされていた。


「合宿所建設の作業員に化けてたのか、作業員が実行犯か…

 ここは大人しく状況を見守ろう。

 怪我をしたら元も子もないからな」


すぐさま派出所から自転車に乗った警官がやって来て、不審な監視カメラを確認して、すぐさま無線で応援を呼んだ。


警官は現場の作業員たちに事情を聞いていると、電柱に昇った者はいないと言った。


しかも、電力会社などは来ていないし呼んでもいないと答えた。


春之介がまたケーブルを眼で追うと、今度は有線ではなく無線装置も備え付けてあるように見える。


よって、この辺りに中継器があって、それを経由して映像を観ているはずだと察した。


「…疑いたくはないが、ご近所さんか…

 電話会社を呼んだ振りをして敵を招き入れた。

 そして部屋を提供して、映像の記録をしている、とか…

 …できれば、結果は知りたくないね…

 みんな、カーテンは開けるなよ。

 体に自信があるのなら構わないけどな。

 ほかにないだろうな…」


みんなで辺りを見まわしたが、目立つものは何もなかった。


あとは警察に任せることにして、春之介たちは家に入った。


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