ヴァンパイアガールに血を吸われないと出られない献血ルームで俺の血を全部抜く
まるで白衣の悪魔。
その八重歯を見たときに抱いた印象だ。
「初めてですか?」
「いえ、十年前に一度だけ」
簡単な質問に答えながら、書類に必要事項を記入していく。
注射が怖くて献血には行っていなかったが、ちらりと見えた彼女の姿に釣られて入った事は伏せておく。
「嬉しいな」
彼女の笑顔に年甲斐もなく胸が熱くなるのを感じた。
献血に対する恐怖心を無くす彼女の魔性だろうか。献血ルームの壁には『O型が不足していますが、私はA型の血が好きです』と書かれていた。
「ヘモグロビン値を見るのに、指先チクリしますね」
柔らかくて少し冷たい指が、私の手を取った。
小さなプラスチックをグッと押すと、指先に痛みが走った。
ぷっと血が出る。
それを素早く容器に吸い込ませ、機械に押し込む。
「舐めて測ってもいいんですけど、最近は機械の方が正確ですから」
はにかみの笑顔もまた美しい。
これから血を取られるというのに、そんなことばかりを考えてしまう。
「はい、正常です。今日は400ml献血にご協力で宜しいでしょうか?」
全部抜く。思わず出かかった言葉を慌てて呑み込んだ。
一つ頷き、彼女の顔を見る。
「わぁ! ありがとうございますね!」と、手を合わせて八重歯を見せた。
もう血を抜くことに対する恐怖心は一切無かった。
手首にバンドを巻き終えると、彼女と目が合った。
笑ってくれた。それだけで献血がとても善意的な行為に思えた。
「それでは順番でお呼びしますから、お待ち下さいね」
奥では他の人が献血を行っていた。
献血を終えた初老の紳士が、ふらふらと歩き出す。
「大丈夫ですか?」とスタッフが声をかける。
「ええ」紳士がこたえたが強がりにしか見えなかった。
歳を考えろ。と、思わず嫌味が出た。
「次の方どうぞ」
可愛い白衣の悪魔に呼ばれ、強く歩き出す。
見てろよ俺は400ml抜いた程度じゃビクともしない。そんな顔で席に着いた。
「座席倒しますね」
横になり、タオルがかけられた。
ちらりと血の詰まったパックが見えた。
先程の紳士の物だろう。色が少し悪く見えた。
「消毒拭きますね」
冷たい感触が首筋に触れた。
アルコールを含ませた脱脂綿が首の辺りを往復する。
すうっと気化するアルコールの感じがむず痒かった。
「スポーツドリンクをどうぞ。献血中に飲んでくださいね」
彼女が触れたスポーツドリンク。出来れば飲まずに取っておきたい衝動に駆られる。
「それでは献血中にこちらの運動を行って下さい」
手渡された紙には手を握ったり足を動かしたりの運動法が書かれていた。
どうやら貧血を防ぐものらしい。
「では少しチクリとしますね。ごめんなさい」
チクリ。その言葉を聞いてそれまで何処かへなりを潜めていた恐怖心がひょっこりと顔を出し、目を閉じて横を向いてしまった。
「ふふ、大丈夫ですよ。こう見えてベテラン揃いですから」
頼もしい彼女の言葉。
気が付けば両手を強く握り締めていた自分が少し恥ずかしくなった。
「ふふ、美味しそうな血管。もしかしたら止められなくていっぱい抜いちゃうかも」
彼女の声が耳元で聞こえた。
うっすらと目を開けると、そこには笑顔の天使がいた。
「構いません」
焦る気持ちか嬉しさからか、そうこたえるのに何ら迷いは無かった。
「やった。ではいきますね」
慌てて目を再度閉じる。やはり怖いものは怖い。
顔が近づいたからだろうか。吐息が首にかかる。
口を開く音が微かに聞こえた。
湿った吐息が首にかかると同時に、強い衝撃のような痛みが首から全身を駆け巡った。
「──ッ!!」
「痛くないですか?」
案ずる彼女の声が聞こえた。
「ええ、多分」
精一杯の強がりだ。本当は叫びたい程に痛い。
うっすらと目を開けると、彼女が目の前で手を口に当てて心配そうに見つめていた。
「?」
彼女何故居ることにというよりも、誰が首に齧り付いているのか。そんな率直が疑問が沸いた。
「大ベテランの方ですから、安心して下さいね」
目いっぱい横を見ると、白髪混じりの太ったオバチャンが首に齧り付いているのが見えた。
当然、抗議の一声を放とうとするが声が出ない。
首を強く齧られているからだろうか。
「吉村さん。全部抜いていいそうですよ?」
待て。
ぱくぱくと力無く口が開くが、声にならない。
オバチャンが右手の親指を立ててやる気を見せた。
血の気が引いてゆく。明らかに違法レベルの吸引力で。
「吉村さんはO型が好きですから、相性は抜群ですよ? 良かったですね」
何も良くない。そんなツッコミが全身に渦巻いた。
これは詐欺だ。終わったら訴えてやる。
薄れゆく意識の中、怒りだけが心の支えとなった。
「吉村さん。私も吸いたくなっちゃいました。少し残してもらえませんか?」
朦朧とする意識が少しだけ晴れた。
規格外の罰ゲームのような、地獄めいた献血の後に天使の献血が待っている。
虎の子のスポーツドリンクを一気に飲み干した。
「ゴホッ!」
むせた。
もう飲み込む力もあまりないらしい。
早く終われと強く念じた。
「あー美味しい」
オバチャンの口が離れたと同時に心の中でガッツポーズを決める。
今なら分かる。あの紳士の気持ちが。
早く変われ早く変われ。
足の指が忙しく動いた。
ガブッ。
二度目の衝撃。
思わず足がびくんと動く。
齧り付いたのは、またもやオバチャン。
話が違う。しかし声が出ない。
オバチャンは親指を下に向けた。
「あらあら。お気に召してしまいましたか」
天使の苦笑い。
最後の景色に相応しい美しさだった。