陰陽仙華
時刻は深夜。
生暖かい風が吹き抜ける都の大路を、一人の青年が歩いている。
颯爽と水干を身にまとい、しゃんと背筋を伸ばして歩く姿からは、闇夜への恐怖が感じられない。
夜歩きには慣れている、といった風情だ。
彼はその名を橘行実といった。
行実は貴族階級の人間だが、今は牛車も使わず供の者も連れていない。
馴染みの女の家へ通うわけでもない。彼が今徒歩なのは、仕事の為である。
京の夜には、しばしば怪異が湧き人々を恐怖に慄かせる。ただの与太話だという者もいるし、構わず女の元へ通う貴族もいる。
しかし、そういう噂があるのならば行実が動かないわけにはいかなかった。
なぜなら行実は、陰陽寮に属する陰陽師だからである。
陰陽寮の仕事といえば卜占を行ったり暦の編纂をするなど、地味なものだと民草たちは思い込んでいる。
時に体を張って悪鬼悪霊の類と渡り合っている事については、あまり知られていない。
きっとそれは、知らないほうが幸せな事なのだろうとも、行実は思う。
知ってしまったならば、何の力も持たぬ者達は恐ろしくて外を歩くことができなくなるだろうから。
力持たぬ者達が安心して暮らせるように、陰陽師は密やかに戦うのだ。
歩いていた行実が、ぴたりと進むのをやめた。嫌な気配を察知したのだ。
ざわざわと、胸中をかき乱すような不快感。あやかしが近くにいる。
そしてあやかしの気配に混じって、血の匂いも漂っていた。また誰かが喰われたのか。
陰陽寮に調査の依頼が入ったのは、数日前のことであった。
夜更けに出かけていった者が、何人も行方知れずになっているのだという。
これといった手掛かりも掴めずにいたのだが、ある日偶然五条大路の辺りを通りかかった男が怪異に遭遇したのだそうな。
あやかしの噂は聞いていたものの、どうしても行かねばならぬ用事があって怯えながらも歩いていたらしい。
この男が、生臭い匂いに気づいて足を止めた。嫌な予感がしたので明かりを消して物陰に隠れ、闇の中へと目を凝らす。
すると一瞬の月明かりが差し、恐るべき光景が夜の中に浮かび上がった。
黒い血だまりの中、あやかしが人間を喰らっていたのだ。哀れな犠牲者は四肢をばらばらにもぎ取られ、そこかしこに散らばっている。
背中を丸めたあやかしは、生首を手に持ちこりこりと頬の肉を齧っていた。じゅるじゅると血を啜る音も生々しい。
この犠牲者がいなければ、男も喰われていたかもしれない。いや、気づかれれば男の命もまた危ない。
胸中で犠牲者に哀悼の祈りを捧げつつ、男は静かにその場を離れたのであった。
怪異に遭遇しながらも生き延びた男により、出没場所の特定がなされた。
後は適切な能力を持った者が対処するだけである。こうして、行実が現場となった五条大路へ来ることとなったのであった。
辺りを見回すと、廃墟となった古い屋敷が目に留まった。嫌な気配はそちらから漂ってきているようだ。
背の高い草がぼうぼうと生い茂る庭を通り抜け、行実は屋敷の入り口へと歩を進めた。
あやかしの気配はいよいよ強まり、禍々しさを増してくる。行実は懐から紙のようなものを取り出し、短く呪を唱えた。
紙からしゅるりと薄く煙が立ち昇り、細長い体の四足獣が姿を現す。青白い毛皮に包まれたその獣は、やはり同じように青い炎を纏っていた。
行実の式神、狐火である。
「行実様、おりますぞ。いかがいたします」
「炎月、部屋の奥まで照らしてくれ。逃げられないよう炎で囲むんだ」
炎月と呼ばれた式神は、身にまとった炎をめらめらと燃やし尾のように伸ばした。
中空にいくつか炎の塊を飛ばし、広い空間を照らしだす。
「君か、行方知れずの人たちを喰っていたのは」
奥まった一角に、そのあやかしはいた。周辺に骨やら臓物やら、散々に人間を食い散らかした形跡が残っている。
あやかしは行実の姿を見て、にいと牙を向き笑った。
「陰陽師を喰ったことはまだないのう。どんな味がするか楽しみじゃ」
血で汚れた長い爪をだらりと下げて、あやかしは様子を窺っている。隙あらば肉を引き裂こうという明確な殺気が放たれていた。
「我が主がお前ごときに喰われるわけがなかろう。潔く滅ぶがよい」
炎月が、炎をあやかしへと飛ばす。それを合図に、戦いの火蓋が切って落とされた。
炎をかいくぐりながら、あやかしが行実を狙うべく近づこうとしてくる。
「さて、ではこうしようか」
顔色ひとつ変えることなく行実は、懐から呪符を取り出し呪を唱えた。
指先より放たれた呪符が素早くあやかしに張り付き、その動きを封じる。
「なにくそ、こんなもの」
あやかしが呪符をはがそうと試みるものの、爪はむなしくかりかりと表面をひっかくばかりで一向にはがれる気配はない。
そこへ炎月が炎の尾を伸ばし、一気にあやかしを包み込んだ。
断末魔の絶叫を残し、あやかしが灰となって燃え落ちる。
周辺に他の妖気がないのを確認して、行実は呪符を懐にしまった。
「今回の一件はこれにて終了かな。これでもう夜中に人が喰われることはないだろう」
「流石は行実様。いつもながら、鮮やかなものですなあ」
「君たち式神が力を貸してくれるからだよ。これからもよろしく頼む」
静寂が戻った室内をぐるりと見渡し、行実は散らばった屍の前でそっと手を合わせた。
「怪異は滅んで安全になったから、昼間に人を呼んで弔ってもらうとしよう。・・・おや、あれは何だ?」
散らばった屍の中、滅んだあやかしがいた辺りに、何やらきらりと光るものが見える。
行実が近づいてよく目を凝らすと、そこには細長い針のようなものが落ちていた。
「針・・・か?しかし何やら文字が刻まれている。そして微かながら、妖気も感じられるな」
「危険なものかもしれませぬ。行実様、関わるのはおやめになったほうが」
「いや、少し気になる。持ち帰って陰陽寮で調べてみよう」
行実は懐から再度呪符を取り出すと、呪符ごしに針をつまんでそのまま包み込んだ。
「触れると発動する類の呪いもあるからな。こうして掴めば安全だろう」
針を回収した行実は、屋敷へと戻ることにした。
翌日、行実は仕事終了の報告と針の調査を兼ねて陰陽寮へと赴いた。
聞けば、他にも何件かの仕事で針が発見された事例があったという。詳細については未だ不明らしく、調査を進めているとのことであった。
「他の場所でも同じようなものが見つかっているとは。この針は、元を辿ればひとつのあやかしへと繋がるのではないだろうか」
別件で回収されたという針も見せてもらったが、行実の見たところ残留している妖気の質は同じもののようだ。
「もう少し情報がいる。あやかしのいる所に針があるというのなら、針についてはあやかしに訊ねてみるのがいいかもしれない」
行実のもとに新たな仕事の依頼が舞い込んだのは、数日後のことであった。
都のはずれにある古い神社の跡で、夜な夜な怪異が出るという。
「朽ちて誰にも手入れされることのない神社か。そういう場所にはあやかしも住み着きやすいからな、針についての情報もつかめるかもしれぬ」
行実が、仕事道具を準備する。退魔の呪符と、式神を封じた式神符。
そして清められた短刀を懐にしまいこむと、下見のため昼間のうちに現場を訪れることにした。
あらかじめ伝え聞いた話を元に、怪異が出るという神社跡を探す。
しかし、発見までには少々の時間を要した。深々と草木に覆われていたので、元が何であったのかよくわからない状態になっていたからだ。
たまたま付近に住んでいた老婆が神社のことを覚えていたので、そこが神社であったという事が判明したのである。
人の寄り付かなくなった領域は、たやすく獣やあやかしの支配する場所へと変わる。
「ここならば、昼の陽の中であっても何か出るやもしれぬな・・・」
周囲をそれとなく警戒しつつ、行実は草木の生い茂る神社跡へと足を踏み入れた。
手入れがされていないので雑草は多いが、奥の境内へ向かって石が敷かれているため歩行にはさほど苦労せずに済む。
頭上には年季の入った木々が自由自在に枝葉を伸ばし、緑の天蓋を作り出していた。
しばらく進むと、奥の少し広くなった場所に朽ちた社が見つかった。そして社の前に立つ人影がある。
行実は恐れることもなく、人影に向かって声をかけた。
「こんにちは、よいお天気ですね」
行実が近づくにつれ、人影の正体がはっきりと見えた。
桜色の小袖を身にまとった、若い女性だ。きめの細かな白い肌に、しっとりと濡れたような黒髪の対比が美しい。
小袖の色ともよく似た桜色の唇から、静かに言葉が発せられた。
「陰陽師の方ですね。いずれ来るだろうとは思っていました」
「ほう。それはなぜです?」
「ここに出るあやかしを、退治していただきたいのです」
「あなたもそのあやかしには迷惑しているのですか」
「わたしは、ここでの静かな暮らしを邪魔されたくないのです」
行実は目の前の女性をじっと見つめた。彼女が人間ではないのは、気配で解る。しかし、邪悪なものは感じない。
「あやかしについて、あなたが知っている事を話していただけますか」
女性はやや黙して考えた後、あやかしの事を語りはじめた。
「そのあやかしは、夜になるとやってきます。周囲に妖気を発して通りすがる人間を誘い込み、生気を吸うのです」
それについては行実も聞いていた。生気を吸われた者は死ぬまではいかずとも、しばらく寝込むことになるという。
しかし、あやかしがこれから先もその程度で済ませてくれるという保証はない。むしろ味を占めれば、さらなる生気を求めて人を殺めるかもしれない。
「あやかしが人を害することで、かつて清浄な神域であったこの場所も邪気に汚染されつつあります。そうなれば、わたしたちも狂って人を襲うようになるかもしれない」
「そうなる前に、ここを去ることもできるのでは?」
「獣の精ならばそうするでしょう。けれど、ここに住む者の大半は木精。ゆえにここから離れることはできないのです」
年経た獣や樹木が霊的な力を得ることは、しばしばある。木の精霊はその性質上、土地に縛られ動くことができない。
邪気に染まった土地から、逃れる方法がないのだ。行実はうなずいた。
「なるほど・・・わかりました。やはり一度そのあやかしと会って話をする必要がありそうですね。また今夜ここへ来ます」
「陰陽師の方ならば大丈夫だとは思いますが、念のためこのお守りを差し上げます。妖気の影響から逃れられるはずです」
女性が懐から桜色の小さなお守り袋を取り出し、行実に差し出す。それを受け取ると、行実は来た道を引き返して戻ることにした。
日が暮れようとしている。太陽の加護が失われ、世界に闇が満ちていく。
なりを潜めていたあやかしたちが宴の時間とばかりに騒ぎ出す、夜の始まりである。
行実は再度神社跡を訪れ、朽ちた社の陰に身を隠してあやかしを待っていた。
元より目につきにくい場所ではあるが、念には念を入れて目くらましの術をかけている。
時々風に揺れる木々がざわざわと葉を鳴らす以外は、音もなく静かな夜であった。
辛抱強くじっとしていると、不意に辺りの気配が変わった。
社の前に、禍々しい気配がわだかまっている。黒い靄のようなそれは、徐々に人の姿へと変化していった。
派手な金色の着物に身を包んだあやかしだ。背はあまり高くない。着物と同じ金色をした目が、らんらんと輝いている。
行実がいることに気づく様子もなく、あやかしは薄く笑うと額の前で印を結んだ。
すると薄くたなびく妖気が、意思のある生き物のようにすうっと広がって周囲に伸びていく。
なるほど。これが獲物を狙う魔手か。
口には出さず、胸の内で行実はつぶやいた。さらにあやかしの様子を観察する。
妖気を放散させていたあやかしが、くくっと小さな笑い声を立てた。
「おお、今宵もさっそく餌がかかったわ。そうら、こっちへおいで・・・」
暗い参道の向こうから、ふらふらと人影が歩いてきた。近づいてくるにしたがって、はっきりと様子が見て取れる。
焦点のあわない虚ろな目をした男が、妖気に導かれるようにしてあやかしの目の前へ進み出ようとしていた。
「我が力増す糧となれる事、光栄に思うがよい」
「そこまでです。その人に害を加えるのは許しませんよ」
行実が進み出た。突然現れた人間にあやかしは驚いたような表情を見せたが、すぐに金色の目を吊り上げて行実を睨みつける。
「盗み見ておったのか、こざかしい陰陽師めが。我の食事の邪魔をするな」
「人を襲うというのなら、見過ごすわけにはいきません。それに、あなたには聞きたい事があるのですよ」
「お前の問いになぞ、わざわざ答える義理はないわ。去らぬというなら殺して喰うまでよ」
あやかしが印を別の形に組みなおした。すると周辺に漂っていた妖気が、凝縮されて触手のような形態へと変化する。
うねうねと邪悪な動きを見せる触手が、行実へと向かってきた!
慌てる様子もなく行実は、式神符を取り出して素早く呪を唱える。
伸ばされた触手を炎の帯が薙いでいき、狐火の炎月が姿を現した。
「炎月、戦いに巻き込まれないようあの人を守ってくれ」
「御意」
虚ろな目をしていた男は、正気を取り戻して怯えた目で震えていた。あやかしが妖気を行実への攻撃に振り向けたため、支配から逃れたのであろう。
行実は続けて別の式神符を取り出すと、新たな式神を召喚した。
一陣の風とともに現れ出でたその式神は、背中の翼を広げて上空で静止する。
修験者のごとき装束を身にまとい、ひと際目を引くのは黒い羽毛に覆われた鳥の頭だ。
年経た烏が霊力を得て人化したもの・・・烏天狗であった。
「行実様、お怪我はありませんか」
「大丈夫だよ空哉。彼を捕らえてくれないか、少し話がしたいんだ」
「小生にお任せを。この程度の相手、すぐに制圧してみせましょう」
この程度呼ばわりされたあやかしは、怒りにかちかちと歯を噛み鳴らした。
触手の先端が鋭く尖り、幾筋もの槍へと変化する。
「我の力を侮りしこと、その身で後悔させてやるわ。死ねい!」
触手の槍は複雑な軌道を描きながら、烏天狗の空哉めがけて殺到した。
「烏修法・迅風!」
空哉の黒い翼が力強く羽ばたき、速く研ぎ澄まされた大風を巻き起こす。
風の刃が触手の槍を切り刻み、ばらばらに吹き散らした。
「そうら、今度はこちらからいくぞ。烏修法・真燕斬!」
空哉が自身の羽で作った黒い羽扇を取り出し、正面に構える。
喝と一声大きく鳴けば、羽扇の先を中心に風の渦巻きが発生した。
あやかしは回転する渦の刃をまともに受け、ざくざくと手足に切り傷が生まれる。
「ぐうぅっ!おのれ・・・式神ごときが調子に乗りおって!」
切られた触手を再生させると、今度は行実を狙って突きを放った。
しかし苦し紛れの攻撃は、空哉の斬撃によってあっさりと防がれる。
「お見通しだ。行実様に手出しはさせぬよ」
「・・・こうなれば、またあの力を使うまで。マガツ針よ、我に力を・・・!」
あやかしは懐から1本の針を取り出すと、それを自らの額に刺した。
針がうっすらと赤身を帯びて光り、あやかしの額から全身へと赤黒い妖気が満ちていく。
「あの針は・・・!空哉、気を付けてください。妖気の質が変わりました」
「そのようですな。今までとは比べ物にならぬ凶悪さを感じます」
あやかしは不敵な笑みを浮かべると、無数の触手を伸ばして行実と空哉に向けた。
それぞれが赤黒い妖気によって、より禍々しく強化されているようだ。
「我を怒らせし事、あの世で後悔するがいい。この力があれば我は無敵よ!」
触手が走る。空哉が風を起こして吹き散らそうと試みるが、ぎしりと軋んだ程度でその進行を妨げることはできなかった。
「くうっ!なれば、これはどうだ!」
羽扇の先に霊気を集中させ、硬度を上げる。真横に薙ぎ払い、かろうじて触手をはじき飛ばした。
「くくく、まだまだ触手は増やせるぞ。そうら、そこの人間ともどもいつまで守り切れるかな」
触手のうち1本が、操られ連れてこられていた男へと向かう。守護についている炎月が、正面から触手に噛みつきかろうじて動きを止めた。
渾身の力で触手を噛み砕き男を守ったが、炎月は力を使い切って式神符へと戻る。
「炎月、ありがとう。さて、次は・・・鏡夢にお願いしましょうか」
行実が、新たな式神符を取り出して式神を召喚した。唐衣に身を包み、目元涼やかな女性が現れる。
「行実様、お困りとあればこの鏡夢にお任せを。いかがいたします?」
「まずはあの人を安全な場所へ避難させてください。それから、空哉と連携してあやかしを倒します」
「ではあの方には、一時鏡の空間に入っていてもらいましょう」
鏡夢は宮中で長らく使われた鏡に、魂の宿った付喪神・・・照魔鏡である。
真実を照らし出すと共に、目くらましで相手を惑乱させることもできるのだ。
鏡夢が衣の袖でふわりと男を包み込めば、たちまち姿が見えなくなった。
「さて、あやかし退治と参りましょうか。空哉殿、お願いいたします」
「うむ、これで心おきなく暴れられるぞ。小生の本気を見せてやろう」
空哉が羽扇の先をあやかしへと狙い定め、おもむろに呪を唱え始める。
空気がビリビリと震え、力が集められていく。
「烏修法・千斬鋼!」
羽扇から、速さと鋭さを増した斬撃が放たれあやかしの触手を切り刻んだ。
一振り、二振り。羽扇を振るごとに斬撃は数と威力を増していく。
「こんなもので我を止められると思うな!我は・・・負けぬ!」
あやかしが、束ねた触手で必死に斬撃をさばく。反撃しようと試みるものの、触手が奇妙な方向へと曲がってしまい空哉には届かない。
「わたくしは、あなたの心を映す鏡・・・焦るほどに、正しき道を見失いますわ」
鏡夢の幻術の影響であった。鏡像により空間が歪んで見えるため、本来狙った場所とはまったく違うところへ攻撃が逸れてしまう。
半面、空哉の斬撃は確実にあやかしの体力を削っていた。息は上がり、表情には焦りの色が見て取れる。
「お前を殺せば、式神も力を失う!死ねい!」
あやかしは行実に向けて触手の一撃を放った。残りの力すべてを込めた、渾身の一撃であった。
行実は落ち着き払った様子で、呪符を投げつけ触手をただの妖気へと戻し霧散させる。
そこへ空哉が上からあやかしの背に飛び乗り、地面へと押さえつけた。
「くそっ、放せ!放さぬか!」
「所詮借り物の力ではその程度よ。我らの絆には及ばなかったな」
もがくあやかしを見下ろしながら、空哉が淡々と勝利宣言を放つ。
行実はあやかしに近づくと、身をかがめて顔を覗き込むようにして問うた。
「改めて聞きたいんですが、あの針について知っている事を教えてください」
「針・・・マガツ針の事か?あの妖怪女め、力を出し惜しみしおって・・・!もっと力を寄越していれば、お前たちなどに負けなかったものを」
あやかしの顔が、苦々しい怒りに歪んだ。行実が重ねて質問する。
「やはり別のあやかしから貰った物なのですね。その人は何と言って、あなたに針を与えたのですか」
「針を通じて力を貸してやるから、人を喰らって得た力の分け前を寄越せと。自分の力があれば、陰陽師など恐れるに足りぬと・・・」
あやかしは素直に語りだした。見下すこともせず目線を下げて話しかけてくる行実の様子に、何か感じ入るものがあったのかもしれない。
行実は、さらに言葉を促した。
「針をくれた女性のことについて、何か知っている事があれば話してもらえますか」
「あの女は・・・実際、強い力を持っていた。貸し出してもまだ余りあるくらいの力をな。不知火山を彷徨っていた時に出会った、針永姫という女だ。山の中腹に・・・」
そこまで語ると、あやかしは突如うめき声を上げ始めた。苦悶に満ちた顔には、脂汗が浮かんでいる。
額に刺さったマガツ針から、黒い妖気が出ていた。妖気はあやかしの体に巡り、皮膚をどす黒い色へと変えていく。
「いけない!針を抜かなくては」
針を掴もうとした行実を制して、空哉が針を引き抜こうと試みた。しかし、空哉の力を持ってしても針はぴくりとも動かない。
そうこうする内にも、黒い妖気はあやかしの全身に広がっていく。
全てを真っ黒に覆いつくした時・・・あやかしは灰となって崩れ落ちた。
風が灰を吹き散らし、後にはただ色を失った針が残るのみである。
服についた灰を払いながら、空哉が静かに呟いた。
「口封じですな。よほど自分の事は知られたくなかったと見える」
「しかし彼が語ってくれたおかげで、手掛かりはつかめました。後日、不知火山を調べに行きましょう」
行実は、残った針をまた呪符でつまんで拾い上げると懐にしまいこんだ。
その時、ふわりと心地よい桜の花の香りがした。
見知った気配だ。香りの元を辿れば、そこには昼間あった桜色の小袖の女性がいた。
「あやかしを退治してくれたのですね。ありがとうございます」
「しかしまだ、これで終わりというわけにはいきません。不知火山まで行かなくては」
「不知火山?」
首をかしげる女性に、行実は回収したばかりの針を見せる。
女性は針を見ると、わずかに眉をひそめた。
「何だか嫌な気配がします」
「そうなんですよ。この針を使って悪さをしているあやかしが、不知火山にいるようなので会いにいきます」
しばし何かを考えた後、女性は再び静かに口を開いた。
「でしたら、私も共にお連れください。あやかしの脅威を除いてくださったお礼に、あなたの式神となりましょう」
「ですが、あなたは木精。ここから動けないのでは?」
「無論本体は動けませんが、この姿であれば大丈夫。わりと気軽に散歩に出たりもするんですよ」
ふふっと女性が笑みをこぼす。始めて見せる表情であったが、温かで魅力的なその笑顔は行実に好ましい感情をもたらした。
「わたしの名は桜鈴。社の裏手にある桜の精です。今後ともよろしくお願いしますね」
桜の精・桜鈴の姿がふっとかき消え、一枚の式神符がひらりと行実の目の前に落ちてきた。
それを掴んで懐にしまうと、社の裏手へまわりそこにあるという桜の木を確認する。
古く立派な桜が月明かりの下で、ひらひらと花びらを風に遊ばせていた。
行実は良い酒で酔った時のような、夢見心地の高揚感に包まれながら桜の木をうっとりと見つめた。
「力を貸してくれてありがとうございます。共にあやかしを倒しにいきましょう」
社の前に戻った行実は、鏡夢の保護していた男を解放すると屋敷へ戻った。
男はしきりに頭を下げて礼を言っていたが、しばらく夜歩きは控えることだろう。
それからまた何日か経った。その間に行実が調べたところによると、不知火山の中腹には昔きこりが住んでいた小屋があるらしい。
今は使われなくなって久しいが、時折付近を通る者もいた。
その中でも霊感の強い者は、小屋の方から何ともいえぬ嫌な気配を感じると言う。
まず間違いなく、そこに何かが棲んでいるだろうと行実は見ていた。
いつものように行実は、淡々と仕事道具の準備をする。
いろいろある式神符の中から、桜色の小袖を着た女性の絵姿が描かれたものをそっと取った。
「約束ですからね、行きましょうか。後は・・・」
式神は各々違った強さや特徴を持っている。あやかし達に警戒されず持って歩ける札の数にも限りがあるので、行実はその都度適切な能力を持った者達を選んでいた。
今回新しく仲間になった式神は木精だが、今まで木精を扱ったことはない。ゆえに、能力を見せてもらうにはよい機会となることだろう。
数枚の式神符を選んで追加すると、行実は不知火山へと出かけることにした。
不知火山のふもとまでは、牛車を使う。山道は険しく車で上がるには向かないので、そこからは徒歩で行く予定だ。
牛車を先導するのは、化け狸の式神である。戦闘能力は低いが、人に化けるのが上手く頭の回転も速いので日常の用や使者として活躍していた。
無論屋敷には人間の使用人もいるのだが、行実はあやかし退治に出る時に同道させることはしない。
仕事の特性上どうしても危険が伴うし、あやかしに操られたりすることもあるからだ。
「狸政、ふもとに到着したら私が戻るまで牛車の番をお願いします」
行実は御簾の内から、外を歩く狸の式神に向かって声をかけた。
やがて牛車は、ごとりと音を立てて止まる。外から狸政の声がした。
「行実様、到着いたしました。山から何やら良からぬ気配がいたします」
行実は御簾を上げて外へ出た。日はかなり傾いてきており、山中を歩くうちに夜になってしまうだろう。
あやかしの主たる活動時間帯は夜間なので、歩きにくい山中といえど行かないわけにはいかないのだ。
灯りと気配探知のために、今日も炎月を連れてきている。式神符を取り出し、さっそく召喚することにした。
炎月が現れ炎を灯火のように2つ、3つ宙に浮かべる。これで山歩きの支度は整った。
「では、針永姫さんとやらに会いにいきましょうか」
「行実様、ご武運をお祈りしています。炎月、行実様の事を頼んだぞ」
山中に分け入ると、生い茂った草木のためさらに辺りは暗さを増したようだ。夜の闇は確実にすぐそばまで迫っていた。
「道は一応ありますが、これは少々難儀するかもしれませんね」
行実がそう呟くと、懐の中で微かに式神符が震えた。おや、と思って取り出してみれば、震えていたのは木精の符であった。
「桜鈴、どうかしましたか」
符から桜の精・桜鈴を召喚する。いつもの桜色の小袖に身を包んだ桜鈴が、すうと静かに現れ出でた。
「お困りのようでしたので。私が山の木々たちに話を聞きながら、道案内を務めましょう」
「それは助かります。炎月は、周囲の気配を警戒しながら彼女の後を進んでください」
「御意」
行実と式神の一行が、すっかり暗くなった山道をひたひたと進む。炎月が照らし出す範囲の他は、ただ暗闇がわだかまるばかりである。
それでも、桜鈴の先導により迷う事もなく目的の場所へと近づいていった。
胸のざわつくような嫌な気配が、確実に濃さを増してきている。
「この山の木々たちも、良くないあやかしの存在を憂いているようです。行実様、どうか彼らをお救いください」
「そうですね。ほら桜鈴、あそこに見える建物で間違いないようですよ」
行実の指さす先には、木造りの簡素な小屋がひとつ。相応に年季が入ってはいるが、荒れ果てた様子はない。
普通に今も人が住み暮らしているかのように整えられている。放棄された山中の廃屋としては、不自然であった。
「お邪魔しますよ」
行実は小屋に近づくと、玄関の戸をすっと横に引き開けた。炎月が中を照らす。
室内は、無人であった。そして、さらに不自然な点があった。内部の広さが、外から見た時より明らかに広いのだ。
土間の向こうに、細長い廊下が続いている。こじんまりとした小屋なのに、先が見通せないほどの長さがある。
「あやかしが、異界を形成しているようですね。入ってこい、という事でしょうか」
力の強いあやかしには、異界を作ることのできる者がいる。獲物を閉じ込め逃がさないためでもあり、自身が身を隠すためでもある。
いずれにせよ、異界に入るということは敵の懐に飛び込むということであった。進むも退くも、おそらく簡単にはいかないだろう。
「奥で待っておられるようなので、行きましょう。空哉も来てください」
行実は式神符をさっと取り出し、素早く呪を唱えて烏天狗の空哉を召喚した。
一行はしずしずと、異界へ足を踏み入れる。
先頭に狐火の炎月、二番目は烏天狗の空哉。そして行実が続き、後ろに木精の桜鈴という順番で細長い廊下を歩いている。
見られている気配は常にあったが、行く手を阻むものが現れるということもない。
ただし背後を振り向けば、今しがた歩いてきたはずの道はすでになかった。
まっすぐ続いていた廊下は、通った覚えのない四つ辻になっている。まっすぐ戻った所で、元の場所に戻れるとは思えなかった。
どのくらいそうして前に進んだだろうか。やがて、目の前に花鳥風月の意匠がほどこされたふすまが現れた。
「行実様、よろしいですか」
「ええ、お願いします」
行実が頷いたのを見ると、空哉は勢いよくふすまを左右に開いた。
大きな広間の中央に、女が一人立っている。豪奢な着物に身を包んだ、すらりと背の高い女だ。
容貌も整ってはいるが、どこか険のある冷たさを感じる。やや吊り上がった切れ長の目が、行実たち一行を見ていた。
「あなたが、針永姫さんですか」
「いかにも。わらわは針永姫、とこしえの美の化身である。下賤の者どもよ、何用でここへ来たのか」
「お分かりのはずですよ。他のあやかし達に針を渡して、人を喰わせていたでしょう」
行実がそう問うと、針永姫はふふんと鼻を鳴らして不敵な笑みを浮かべた。
「汚れ仕事は馬鹿どもに任せ、労せずして美と力を増すのじゃ。おかげで、こんなにも強くなったわ」
針永姫が妖気を放つ。辺りの空間を包み込むような禍々しい気配に、式神たちが身構えた。
「人と共存して生きていくつもりは、ないようですね」
「人間なぞ、わらわが虐めるために生きているようなものじゃ。大人しく喰われて力を寄越せばよい。・・・陰陽師はただの人より美味そうじゃな」
針永姫は元々細い目をさらに細めてにいい、と笑った。あやかしの間では、陰陽師を喰らうとただの人を喰らった時より強い力を得られる、というのが通説になっている。
悪意あるあやかしにとって陰陽師は脅威だが、同時に力を増すための好機ともなりうるのだ。事実、そうした野心的なあやかしによって喰われた陰陽師もいる。
「仕方がありません。祓わせていただきます」
事務的にそう告げると、行実は懐から呪符をいくつか取り出して構えた。
それを合図に、式神たちも動き出す。空哉が羽扇を構えて、念を込めた。
「烏修法・真燕斬!」
風の渦巻きが、一直線に針永姫へと向かって走る。舞扇で事もなげにそれを払った針永姫は、着物の袖から無数の針を飛ばしてきた。
空哉を狙うかと見えた針は、急に進路を変えると行実の元へ殺到する。雨のように降り注いだ針はしかし、突如生えてきた木の幹によって遮られた。
「行実様を傷つけるのは、わたしが許しません」
桜の精である桜鈴によって作られた、樹木の盾だ。針永姫は木に突き立つ針を見やると、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「木精ごときが、わらわの攻撃を防いだつもりか。この針は、そんなに甘いものではないぞえ」
桜鈴の顔が苦痛に歪む。思わずよろめいた体を、行実が支えた。
「桜鈴、大丈夫ですか。この針は・・・毒が仕込まれていますね」
「毒の効果は、先日の戦いで見知っておろう。じわじわと蝕まれる苦痛に悶えながら滅ぶがよい!」
針永姫は扇で口元を隠しながら、ほほほと甲高い声で笑った。己の有利を微塵も疑わぬ、尊大で高慢な態度は隠そうともしていない。
「毒が回りきる前に、おぬしを倒せば済むことよ。烏修法・千斬鋼!」
空哉が素早く斬撃を繰り出しながら、接近を試みる。針永姫は扇と針で応戦する構えだ。
二人がそうしてやりあっている中、行実は桜鈴の手当てをしていた。
木の幹に呪符を張り付け、呪を唱える。しばらく念を送っているうちに、少しずつ桜鈴の顔から苦痛の色が消えていった。
「呪によって毒の巡りを遅らせました。ですが、完全に毒を除去できるわけではありません。急いであやかしを倒さなくては」
「わたしは大丈夫です、行実様。ここは山中、木精はたくさんいます。彼らの力を借り、毒を浄化できるかもしれません」
桜鈴は地に膝をつくと、胸の前で手を組み祈りをささげるように目を閉じた。
「炎月、桜鈴の守護を頼みます。私は・・・もう一人、呼びますか」
行実は懐からまたひとつ式神符を取り出すと、呪を唱えて新たな式神を召喚した。
直垂に身を包んだ少年が、ふわりと式神符から現れる。腰には太刀が下げられていた。
整った顔立ちに少し眠そうな気だるさを纏ったその様は、どこか神秘的なものを感じさせる。
「行実様、敵はどこですか?」
「あちらですよ、朧。あの舞扇を手にした女性です」
朧と呼ばれた少年は、空哉と戦っている針永姫を見るなり、眉をひそめた。
「見た目を綺麗に繕っていても、性格の悪さがにじみ出てる。あれはだめですね」
何気なく口にした朧の呟きが聞こえたのだろう、針永姫が怒りに顔を歪ませる。
細い目がきりきりと吊り上がり、口元からも牙を剥き出して黒い炎を吐いた。
「わらわはこの世で一番美しいのじゃ!生意気な小僧め、たっぷり苦しませてから殺してやるわ!」
「怒ってばかりいると、顔の小じわが増えちゃうよ。あと、手元も狂う」
怒りに任せ放たれた針を、ひょいとかわして朧がさらに針永姫を煽った。
腰に下げた太刀をすらりと抜き放つと、目にもとまらぬ速さで針永姫の腕を斬り飛ばす。
「この程度の煽りで隙を見せるなんて、大したことないね。修行して得た力じゃないから、当然か」
「腕一本斬ったくらいで図に乗るなよ、小僧。わらわの力は無尽蔵じゃ、針を欲しがる愚か者はいくらでもおるからな」
新しい腕を即座に再生させ、針永姫が笑う。斬られて地に落ちたはずの腕も動き、朧の首に取り付いて爪を立てた。
「くっ!!」
「烏修法・迅風!」
腕を引きはがそうと格闘する朧の元へ、空哉が駆け付け技を繰り出す。空哉の操る風は、針永姫の腕だけをばらばらに切り刻んで吹き散らした。
「くはっ!はぁ、はぁ・・・空哉さん、ありがとうございます」
「油断禁物だ、朧。あの女、おそらくまだ力を隠しているぞ」
「ふふん、烏のほうは少しは知恵が回るようじゃの。そうとも、わらわが他のあやかしに貸し付けている力を全て回収すれば・・・どうなると思う?」
針永姫がにたり、と嫌な笑みを浮かべる。その瞬間、ぞわぞわする妖気が濃さと量を増して部屋中を満たした。
やがてその妖気は天井のほうへと集まり、針の雨となって部屋中に降り注いだ。
「いかん!皆を守らねば」
空哉が念を込め、風の膜を傘のように広げて針を防ぐ。範囲が広いため、集中を途切れさせないよう防御に徹する必要があった。
「ほうら、ぼんやりしてると命が危ないぞえ」
針永姫が舞扇をくるりと回せば、巨大かつ鋭利な針が現れた。標的を串刺しにしようと、槍のように突き進んでくる。
「空哉さん、針の槍は僕が引き受けます」
朧が太刀を振るい、槍の軌道を変えて攻撃を防ぐ。主軸の戦力である二人が、守勢に回らざるを得なくなってしまった。
炎月も祈る桜鈴を守りながら時折炎を飛ばす。が、針永姫の舞扇でひらりと吹き消されてしまう。
元々炎月はさほど攻撃力の高い式神ではないので、仕方のないことではあった。
行実は全体の様子を見ながら、必要な場所へ呪符で援護を入れる。なんとかして、針永姫の隙を伺う必要があった。
「行実様、全ての準備ができました」
それまでじっと祈りを捧げていた桜鈴が、すっと立ち上がるとそう言った。
「桜鈴、毒はもう大丈夫なんですか。それと、準備とは」
「山の木精たち皆が力を貸してくれたので、毒は抜けました。そして彼らは、あの人と力の源である針たちとの繋がりを断ち切ってくれています」
桜鈴の言葉を聞いて、行実は状況を素早く理解した。繋がりが断たれているという事は、あやかしたちに配った針から力を吸うことができないという事だ。
上を向けば、天井から降っていた針の雨はいつの間にか止んでいた。針永姫は今自身が持っている力のみで戦うしかない状況になっているはず。
「空哉!雨は止みました。彼女は今、針から力を補給することができません」
空哉は広げていた風の傘を解除し、再び針永姫への攻撃に移る。針の槍と戦っていた朧の斬撃に、風で威力をかさ増しすると槍はあっさり砕けて散った。
「馬鹿な!なぜ、なぜ力が送られてこぬのじゃ!」
動揺してわなわなと舞扇を握りしめる針永姫に、桜鈴が語り掛ける。
「山の皆は、あなたの振る舞いにとても迷惑していました。邪気を集めて山を汚し、静かな暮らしを脅かすあなたを排除するために、力を貸してくれましたよ」
行実は地に手を当て、地脈の動きを探っていた。外からこの場所へと向かってくる力の気配はある。が、山全体がそれを拒絶しせき止めているのがわかった。
「あなたは地脈を通じて力の供給を受けていたようですが、今それは山の力によってすべてせき止められていますね。使えるのは、自身の力のみという事になります」
行実がそう告げると、針永姫は一瞬愕然とした表情を見せた。しかしすぐに気を取り直して、畳んだ舞扇をびしりと突き付けてくる。
「だから何だというのじゃ。長きに渡り蓄えたわらわの力があれば、お前たちなど恐るるに足りぬわ。陰陽師さえ倒してしまえばこざかしい山の木精どもも、わらわに手出しできまいて」
針永姫は大きな針の槍を、今度は三本出現させる。一本は空哉に、また一本は朧に、最後の一本は行実に向かって突き進んできた。
「はあっ!」
空哉は風を使って槍の威力を削ぎ、千斬鋼で風の刃による斬撃を叩き込む。朧は太刀を水平に構え、向かってくる槍をじっと見据えた。
「瞬花映月」
銀の光がきらりと踊る。優れた舞い手のような華麗さで太刀が閃き、槍を一刀両断にした。
行実へと向かった槍は、進み出た桜鈴によって防がれる。爆発的に伸びた木の枝が、しっかりと槍を絡めとって動きを封じたのだ。
「これは私だけの力ではありません、山の皆の怒りです」
ぎしりぎしりと軋んだ槍は、やがて粉々にへし折られた。針永姫がへたり込む。
「あり得ぬ・・・強く美しい、このわらわが・・・」
「さあ、もうそろそろ終わりにしましょう」
行実は、手にした呪符を針永姫へと投げつけた。真っすぐに放たれた呪符は、針永姫の額に張り付き光を発する。
「嫌じゃ嫌じゃ。まだまだ虐め足りぬ。もっともっと、人間を虐めたいのに・・・」
呪符の光が消えた時、針永姫のいた場所に残っていたのは古びた一本の針だった。呪符によって浄化され、もはや何の力も残っていない。
「これが彼女の本体ですね」
行実が無造作につまむと、針はボロボロと崩れ落ちた。それが他のあやかしを巧みに利用し、人の精気を吸い取り続けた針永姫の最期であった。
「終わりました。皆、力を貸してくれてありがとう。では、帰りましょうか」
針永姫が祓われたことで異界はなくなり、元の古いきこりの小屋へと戻っていた。再び桜鈴の先導で、山道を降りていく。
桜鈴は、山の木精たちに聞いたという昔話を語りながら歩いた。
「昔々、あの小屋にはきこりの他に、母親と妻も一緒に住んでいたそうです」
きこりの母親は意地悪な姑で、きこりの妻を毎日つまらない事で叱りつけたという。
裁縫箱から針を取り出しては、事あるごとに刺して虐めていたのだと。
やがてきこりの妻は、耐えきれなくなって家を出ていった。きこりもまた、妻を追いかけ母親を捨てて山を下りた。
残された母親は、二人がいなくなってから元気をなくして急速に老け込んでいった。
すっかりぼけてしまっても、なお虐めるために嫁を探して山をうろついていたらしい。
その母親も、やがて小屋で孤独に死んだ。亡骸は通りがかった者が弔ったが、かつて使われていた家財道具はそのまま残された。
「針永姫さんは、かつてお嫁さんを虐めるために使われていた針なのでしょう。持ち主のよくない念が死後も残ってしまい、あやかしに変じたと考えられますね」
桜鈴の話を聞きながら、行実が専門家らしく解説を入れる。気づけば、東の空が白みはじめ朝日が昇ってこようとしていた。
そしてふもとにたどり着き、狸政の出迎えを受けた時にはもうすっかり日が昇りきって明るくなっていた。
「お帰りなさいませ、行実様」
「全て済みましたよ。さあ狸政、屋敷へと帰りましょう」
狸政以外の全ての式神を符に戻し、行実は牛車に揺られ帰途についた。
屋敷へ戻れば、また新たな依頼が舞い込んでくることだろう。心地よく眠気をさそう牛車の揺れに身を任せ、つかの間の休息を楽しむことにしたのであった。
陰陽仙華・おしまい