第九話 侯爵家へ②
侯爵家は、パリから離れた場所にあります。都市の喧騒とはうってかわって静かな場所です。
敷地は全長何キロでしょうか。測るのが難しいほどに広大です。わたくしがお世話になる侯爵夫妻とレオン様が住んでいる屋敷も立派で、お城といった方が正しいでしょう。
ちょうど馬車の窓から見えていたのは鉄格子でできた侯爵家の門。それがゆっくりと開かれると、左右対象、シンメトリーになった前庭が広がっていました。
採寸もきっちり同じような区切りのある前庭ですが、右手にだけ馬車小屋があります。ちょうど右側に座っていたわたくしからは、藍色の屋根が見えました。やはり、わたくしの家と同じくらい……いえ、それ以上の広さがあります。
小屋が過ぎると、お庭が見えてきました。その庭は、花はなく緑のお庭です。わたくしの視界には緑の樹木しか見えませんが、上から見ると侯爵家のシンボルマークが剪定されているんだとか。すごい技術ですわ。
緑の庭の先には丸い池と噴水があります。金色に輝く噴水のオブジェからは、太陽に向かって花が開くように豊かな水が流れ落ちていました。
庭を過ぎればまた鉄格子の門があります。館を囲うように四角い用水路があり、小さな橋を渡った先がわたくしがお世話になる館です。
馬車が止まり、階段を十二段上がると、荘厳な玄関扉がありました。思わず顔を上へ上へと上げてしまうほどの高さがある扉です。二人の門番に軽く微笑みかけると、二つある玄関扉の右側を開いてくれました。
二階まで吹き抜けになっている円形の玄関ホールは、圧巻の広さです。
天井には金の枠が見え、その中には美しい宗教画が描かれていました。ホールの対面はまた二つの扉があり、その先にある庭の美しさが垣間見えます。
その先の庭は三キロメートルもあるのだそうです。遠い目をしたくなるほどの広さですわ。
屋敷の一階は三つの目的別のサロン室と、図書室、食事をするための部屋があり、二階は侯爵様方のお部屋と書斎、レオン様のお部屋とわたくしのお部屋もあるそうです。
そうそう。バスルームという耳慣れない場所もあります。湯船というものに体を浸して、身を清めるのだそうです。わたくしの家にはないものですわ。
体を清めるのは絞った布で拭くのが我が家……というか、わたくしの土地では一般的でした。二世紀前に病原菌が大流行したことにより、お湯で体を洗うことが伝染病を広げるという認識が広まり、今でもわたくしのような田舎ではお湯を使うと病気になるから、冷たい水で体を清めなさいという教えがありました。
近年ではその考えは覆されようとしているらしいのですが、少なくともバスルームというものは、わたくしの土地ではなかったものです。どんなものなのか興味があります。
でも、わたくしの一番の興味は半地下にあるキッチンです。入ったことはありませんが、素晴らしいオーブンや釜があるのでしょう。
あぁ、そこでパンを焼けたら……と、思いを馳せていたところで、侯爵夫人であるソフィ様が家令のモンガンさんを伴ってやってきました。
レオン様を産みになられたとは思えない少女のような微笑みでやってきたソフィ様にスカートの端を摘まみ、挨拶をします。
「あぁ、エリアル。今日のこの日をどれほど待ち望んだことか……」
両手を前に添えてうっとりとなさるソフィ様に、わたくしも微笑みます。
「ソフィ様、ご機嫌麗しく。これからお世話になります。未熟者ではありますが、宜しくお願いいたします」
そう言って頭を下げると、やだわ、と少し拗ねた声がしました。
「家族になるというのに、そんな堅苦しくしないで」
ふふっと笑ったソフィ様に、わたくしの緊張も緩んでいきました。
「あぁ、そのドレス着てくれたのね。やっぱり似合うわ」
わたくしのバラ柄のドレスを見て、ソフィ様は満足げに微笑みます。
「エリアルだったら、このバラの花柄が似合うと思ったの。ふふっ」
ソフィ様の言葉にわたくしは目を丸くします。これはレオン様から頂いたものですが、ソフィ様がアドバイスしたということでしょうか?
わたくしの疑問に答えるように、ソフィ様は思い出し笑いをしながら、ドレスのことを話してくれました。
「レオンったら、エリアルのドレスを送るのに毎回、大騒ぎでね。モード商人のデボラと喧嘩になるのよ。最初のドレスは大喧嘩でね。収拾がつかないから、わたしがアドバイスしたのよ」
パチリとウインクされて、わたくしは唖然としてしまいました。
モード商人はファッションアドバイザーの方です。ドレスを仕立てるわけではなく、ドレス選びや、装飾品のアドバイスなど、より美しく着飾るための指導をする職業の方です。
レオン様がプロの方と喧嘩するほど、熱心にわたくしのドレスを選んでくださっていたなんて……顔が熱くなってしまいます。
頬に帯びた熱を誤魔化そうと視線を下げると、ふふっとソフィ様が弾むような笑い声を出しました。
「さぁ、こちらに来てお話をもっとさせてね。あ、でもあなたのお部屋を先に見せたいわ」
ふわっとスカートをなびかせてソフィ様は小走りで歩きだしてしまいます。わたくしは、荷物を持ってきてくれた侯爵家の使用人と共に、ソフィ様の後を歩きました。
美術品が等間隔に配置された回廊を歩き、とある部屋で立ち止まります。
「ここがあなたの部屋よ。入ってみて」
家令のモンガンさんが白い扉を開けてくださり、わたくしは見えた部屋にまぁ、と感嘆の声をあげました。
壁紙は色彩をおさえたピンクと水色の花柄で、一目見ただけで心が浮かれてしまいました。中には茶色い大理石の暖炉があり、上には金の枠で飾られた大きな鏡があります。
壁と一体になった天蓋ベッドのカーテンは壁紙と同じものです。
何より素敵なのは、広大な庭を一望できる大きな窓。そこから惜しみなく陽光が降り注いでおりました。
三脚ある一人がけのイスは木製で、豪華というよりは落ち着いた雰囲気を出しています。
「素敵なお部屋……」
敬語も忘れ、ため息のように呟くと、ソフィ様が指で上をさしました。天井を見てまた驚きました。
「これは……」
「あなたがよく眠れるように、眠り姫ですって」
ソフィ様の言葉通り、そこには淡い色彩で描かれた眠る少女がいました。
わたくしと同じブロンドの髪の少女は、瞳を閉じて腕の中にハートを抱いています。子供の天使が、そばで少女に微笑みかけています。少女はよい夢を見ているのか、微笑んでいました。
「レオン様がこれを……?」
「えぇ。あなたにそっくりの絵を描かせていたわよ。この壁紙もあなたなら気に入るだろうって」
レオン様の心遣いに胸がきゅっとしました。どうしましょう。とても、嬉しい……
「帰ってきたら、真っ先にお礼を言いますわ」
わたくしの言葉にソフィ様は、少女のように微笑みました。
***
夕刻とき、わたくしは玄関ホールでそわそわと落ち着かずにおりました。レオン様と侯爵様が帰ってくると知らせがあり、わたくしは居てもたってもいられずホールまで足を運んでいたのです。
落ち着かずに何度もホールにある全身鏡で、ドレスによれがないか、髪は乱れていないかチェックします。
「まぁまぁ、エリアル様。そんなに心配しなくても充分、きれいですよ」
わたくしの専用侍女になったジュリーが笑って諭します。ジュリーはわたくしより五つ年上で、子供がいるお母さんです。子供は八歳だというので、驚きました。
子供が学校に通う年齢になってから、一度離れたここに戻ってきたそうです。
わたくしはジュリーの諭しに肩をすくめ、曖昧に微笑みました。
「きちんとご挨拶をしたくて……緊張しすぎね」
おどけたように言うと、クスクスとジュリーが笑いました。
「エリアル様は完璧な淑女と聞いておりましたのに……緊張なさるなんて」
完璧な淑女なんて、誤解もいいところです。
「わたくしなんて、田舎娘よ。完璧なんて程遠いわ」
「まぁ。エリアル様は努力を怠らない方なのですね。素晴らしいです。レオン様をお慕いしてこそですね」
──お慕いしてこそ……その言葉にズキンと胸が痛みました。ジャクリーヌ様に「レオンのこと、好きなのよね?」と言われたときと同じ痛み。
胸に手をあてて、思わず視線を逸らします。
不可解な胸の痛み。その意味が分かってしまい、わたくしは苦く笑います。
──やだわ。ジュリーに変なところを見せてしまう……
心を落ち着けるように深呼吸すると、外から馬の声が聞こえてきました。
──帰ってこられた!
わたくしは足早にホールの扉まで近づきます。扉のガラスから下を覗くと、侯爵様とレオン様が馬車から降りてくるのが見えました。
それに口の両端が持ち上がります。
ふと、レオン様が顔を上げました。藍色の瞳が大きく開き、駆け足で階段を上ってきます。わたくしは扉の開閉の邪魔にならないよう、一歩下がりました。
重い扉が開かれると、その勢いのままにレオン様が近づいてきました。