第八話 侯爵家へ①
「えっと……今、なんておっしゃいました?」
わたくしはあまりの動揺にレオン様に聞き直してしまいました。
本日は前触れもなくレオン様が屋敷にこられて面食らっておりましたのに、言われたことが予想できなかったことで、わたくしは平静さを失っています。
レオン様は慌てて用意したお茶を一口飲むと、爽やかな笑顔で言いました。
「俺の家に来てほしい。エリアルは社交にも慣れた頃だ。次は家のことを少しずつ覚えていく時だと思っている」
侯爵家に行く。それはつまり、わたくしが侯爵家に住み、花嫁修行を本格的にするということを意味します。
レオン様の言っていることは、別におかしなことではありません。
貴族の、特に家柄を重んじる家では、婚約期間中に相手の家に行くという話を聞いたことがあります。レオン様の家もそのような風習があるのでしょう。
理解はできますが……わたくしは冷や汗が止まりませんでした。笑顔は消え、顔から血の気が引いている気がします。
喜んで行きますわ、と明朗に言いたいところですが、心が拒否するのです。
まだ早い!と。
──落ち着きなさい。ここで沈黙していると変に思われるわよ。しっかりしないと……でも……レオン様と一つ屋根の下など、色々と耐えられるのかしら……
今のところ、レオン様は愛人を持っている気配はありません。でも、それはわたくしが知らないだけのこと。もしかしたら、邸に住めば見たくない光景を目にするかもしれない。
ズキリと、痛んだ心が、わたくしに覚悟はできているのかと問いかけているようです。
──そんな場面を見たくはない……だけど……断るのも変だし……
こんな痛みを感じなくなるようになるまで、待っていてほしい。それが本音です。わたくしはどうにか先延ばしにできないものかと、頭をフル回転させます。
加熱するだけで、ちっともいい案が思い付かないわたくしに、レオン様は寂しげな表情をされました。
「……嫌かな?」
切ない笑みに心が締め付けられます。わたくしは動揺を誤魔化すように視線を逸らしました。
「嫌ではなく……その……急なお話でしたので」
歯切れ悪く言うと、レオン様はそうと呟き、また穏やかな笑顔に戻ります。
「そうだな。エリアルには急な話かもしれない。驚くのも無理はないだろう。だが……」
テーブルを挟んで対面に座っていたレオン様が立ち上がり、わたくしに近づいてきます。前とは立場を変えるように、レオン様は膝を地面につけて、わたくしの手を取りました。
動揺でびくりと手が跳ねてしまいましたが、レオン様はしっかりと握っていて、離れることは許されません。
レオン様は穏やかさを顔からなくし、真面目な顔でおっしゃいました。
「エリアル。よく聞いてほしい」
ただならぬ雰囲気で言われて、わたくしはぎこちなく頷きます。
「もう、症状が末期に入っているんだ」
わたくしは、はっとしてしまいました。ごくりと唾を飲み干し、恐る恐る尋ねます。
「それは……〝ヤンデレ〟がでしょうか」
「あぁ……」
──なんてことなの。
症状が末期ということは、もしかして手遅れなのでは……
血溜まりの暗い未来が見えてしまい、わたくしはひゅっと息を飲みます。
思わず顔に出てしまったのでしょう。レオン様は安心させるような声色で語りかけてくれます。
「君が側にいて俺を見守ってくれれば、これ以上、〝ヤンデレ〟は悪化しない」
──悪化しない……本当に……?
寸前で食い止められているということでしょうか。わたくしは強ばった体の力をゆるめました。
「では、侯爵家に行くお話も……」
レオン様は困ったように微笑みます。
「あぁ。俺の病気の為だなんて、格好がつかないだろ? だが、侯爵家に来て学んでほしいというのも事実だ」
ふっと緩んだ藍色の瞳を見ながら、わたくしは考え込んでしまいました。
──〝ヤンデレ〟が末期ならこのままでは、レオン様は犯罪者になってしまうわ……
人殺しは公の場での斬首刑です。目の前の人の無惨な姿を想像してしまい、わたくしはひっと小さく悲鳴を上げそうになりました。
そして、すぐに打ち消すように頭を振りました。
──愛人がいるかもとか言っている場合ではないわ。レオン様の命がかかっている。しっかりしないと!
わたくしは背筋を伸ばして、レオン様に毅然とした顔で言いました。
「わたくし、侯爵家に参りますわ。ご指導のほど宜しくお願いいたします」
頭を深々と下げました。すると、あぁ、と感嘆の声がしました。どうしたのだろうと?と、顔を上げた瞬間、全身を抱きすくめられていました。
勢いがよかったのか、椅子の背もたれに体重がかかり、傾いてしまいます。
重心が後ろにいく不安定な状況にも驚きましたが、なによりこの体勢は……
逞しい体に包まれ、わたくしの頭は真っ白になります。
「ありがとう、エリアル」
歓喜の声が耳をくすぐるように届き、心臓が急ピッチで動き出します。
──え? 抱きしめ……え? えぇ!?
頭は混乱して、毛穴からは汗が吹き出しそうです。あの、と声をかけたいのに、口から音が出ません。はくはくと呼吸をするだけのわたくしをレオン様は、しばらくの間、離してくれませんでした。
***
フラフラになりながら、レオン様をお見送りして、わたくしはぐったりと客間のソファに腰かけます。
まだ心臓が痛いです。汗も引きません。
抱擁などされたことがありませんから、驚いてしまいました。
いくら感謝を伝える為とはいえ、あのような過剰なスキンシップはレオン様らしくありません。
──……これも〝ヤンデレ〟のせいなのかしら……
らしくないことをしてしまう〝ヤンデレ〟。それなら、レオン様の行動も理解ができます。
──これくらいで動揺していたら、ダメなのね。否定しないで受け止めないと……受け止めないと……
わたくしは抱擁を思い出して、顔を手で覆います。
──動揺を出さずにできるのかしら……
不安しかなく、わたくしはもっと厳しい訓練をしなければならないと思ってしまいました。
***
後日、侯爵家からお父様とお母様宛に、わたくしが侯爵家に行くという話が伝えられました。
手紙を読んだお父様は深いため息をついて、なんとも言えない表情になります。
きっと、わたくしを心配してくださっているのでしょう。
お母様は厳しい表情のまま、わたくしに尋ねてきました。
「エリアルには直接、レオン様からお話があったと書いてありますが、あなたは了承しているのね?」
わたくしは真剣な眼差しで、こくりと頷きます。
「はい。侯爵家に行って、レオン様を支えたいと思っています」
話を言われた時に感じた不安は、まだ完全には拭えていません。ですが、側で支えたいという意思に迷いはありませんでした。
お母様は厳しい表情のまま、わたくしを見つめると、この一年を振り返るように、教えを説きました。
「エリアル。私の言ったことは覚えていますね?」
「はい、お母様」
「艶やかにいること、その為には?」
「お金はかけません」
よろしいとお母様が頷きます。
「エリアル。向こうのしきたりを守るのですよ。価値観の違いはあるでしょう。でも、まずは弱音を吐かずにやってみなさい」
「はい、お母様」
「それに過剰な宝飾品のおねだりはいけませんよ。パリでは美しい宝飾店がたくさんあるでしょう。でも、欲しいからと言ってねだるのはなりません。あなたは一枚のコインの重みを知っていますね?」
「はい、お母様」
「あと、賭博もしてはいけませんよ。見境なくお金を使ってしまいますからね」
「はい、お母様」
そこまで言うとお母様は厳しい表情を緩めて、優しげな眼差しをしました。そして、愛しげに頭を撫でられます。
「色々と言ったけど……あなたは立派よ。立派な淑女になったわ……」
お母様の目が潤み、わたくしの目尻に涙がたまっていきます。
「……どうしても辛かったら、帰ってきなさい……」
呟くような声に胸がしめつけられました。わたくしは今までの成果を見せるように微笑みます。
「きっと、大丈夫よ。ありがとう、お母さん」
ぎゅっとあたたかく抱きしめられ、わたくしはぬくもりに身を委ねました。
その後、わたくしはレオン様から贈られたドレスや宝飾品を纏め、荷造りをしました。
荷造りをしているとき、押し花になった〝ヒスイカズラ〟を引き出しから取り出しました。
たくさん頂いたそれらをどうにか保たせたくて、何度も何度も失敗してできた一番、お気に入りのものです。元々の翡翠の色は褪せてしまいましたが、花弁の美しさはそのまま。
それを見てわたくしは決意を新たにしました。
──形が変わっても花は花。態度が変わってもレオン様はレオン様だわ。
わたくしはしおりを本に挟み、鞄にしまいます。
そして、侯爵家に行く当日の朝、しまいこんだドレスの着付けをお母様にお願いしました。
バラ園を見ているかのような可憐なドレスは、レオン様に初めて頂いたものです。
ワインのしみがついたら……躓いて破けでもしたら……と思って、着れなかったものでした。
今日はそれに袖を通します。
このドレスで一番目を引くのは、繊細なタッチで描かれたバラ柄のスカートですが、控えめに開いた胸元から、腰にかけての立体的な刺繍も美しいです。
きゅっとすぼまった腰から先のスカートは膨らんでいて、その柄はまるでキャンバスいっぱいに、無数の紅と紫のバラが描いたようです。
引きずるほど長いスカートの端は、白いレースが顔を出し、その上を紫色の花びらが散っています。まるで、スカートに描かれたバラがはらりと、舞い散ったように。
袖は肌になじむぴったりとしたもので、細い腕のラインを描きながら、袖口はぱっと花が開いたようになっていました。
腰に巻くリボンがまた素敵です。
とろみのある生地でできた鶯色のリボンには、バラのブーケがついています。それを前にくるようにつけ、後ろは蝶のように結んでもらいます。
髪は編み込んでアップにして、バラの花の冠をそっと置いてもらいました。花の冠からは、白いベールが肩まで伸びています。
全身を見ると、ベールとドレスの可憐さから花嫁衣装のようです。
──堂々と着こなして、レオン様のところへ行こう。
このドレスを着ることは、わたくしなりの覚悟のあらわれでした。
そして、侯爵家から馬車がやってくると、荷物を運んでもらい、それに乗り込みました。