第六話 サロンにて③
スカートを持ち上げてまで早く近づきたい相手。ジャクリーヌ様はわたくしの憧れの方です。
三十代とは思えない美貌の持ち主で、宰相閣下の夫人であらせられます。
美しさを引き立てる所作。それにドレスの着こなしがわたくしの理想そのもので、いつも見とれてしまいます。
今日のドレスも素敵ですわ。
とろみのある生地で作られた深紅のドレスは、胸元の開きかたが変わったものです。左肩は生地で覆われ、滑るようにななめのラインを描いて下がっています。右肩は出ていて、美しい肌が覗いておりました。
胸から腰までは体のラインに添うようにぴったりとしたデザインで、装飾はありません。ですが、スカートに大輪の薔薇が咲いているので、何もない方がかえって自然です。腰にはウエストの細さを強調するように、シルバーのベルトが巻かれて、ダイヤモンドが光っておりました。
腰から下はふわっと軽やかにスカートが広がり、何より目を奪われるのは、一輪の薔薇の飾り。スカートの生地を持ち上げて作られた薔薇は、ジャクリーヌ様の腰から足にかけて、誇らしげに咲いていました。
流行りの盛髪も取り入れておりますが、高過ぎず、編み込んだ髪に添うように、真珠がついたシルバーのチェーンが輝いていました。
うっとりと惚けるわたくしに、ジャクリーヌ様は柔らかい笑みを浮かべて声をかけました。
「ごきげんよう、エリアル。今日のドレス、素敵ね。流れ落ちる星たちの一瞬の煌めきを閉じ込めたような、贅沢な美しさだわ」
ドレスを褒められ、わたくしは思わず顔をほころばせます。
「ありがとうございます。ジャクリーヌ様のドレスも素敵ですわ。ジャクリーヌ様そのものをあらわすような大輪の薔薇。あまりの美しさに目を奪われました」
胸にふくらんだ感動を伝えると、ジャクリーヌ様はふふっと弾むように笑いました。
わたくしたちは並んで歩きだし、一番後ろのソファに腰かけました。
ジャクリーヌ様が来たことにより、わたくしの周りは元の静かさを取り戻しています。
ヴェロニク様に槍玉に上げられて、好奇の視線にさらされていましたが、今はそれもありません。
ジャクリーヌ様の影響でしょうね。このサロン室の中で、ジャクリーヌ様ほど力のある方はいませんから。
ソファに座ったジャクリーヌ様は、スカートに手を入れて、ポケットの中から扇子を取り出すと、はらりと広げました。そして、内緒話をするように、わたくしに囁きかけます。
「うまくかわしていたわね。あの場をおさめるには、笑顔でかわすのが最善だわ」
ヴェロニク様のやりとりを見守ってくださっていたのでしょう。それは嬉しいことでした。
あの場でジャクリーヌ様が出ていっても、火に油を注ぐようなもの。社交界であのような出来事は、日常茶飯事です。穏やかに静めて、初めて一人前とも言えます。わたくしもようやくそこにこれたような気がして、嬉しくなってしまいました。
「ありがとうございます。でも、ヴェロニク様たちの言うことも一理あります。わたくしは、まだ土臭さが抜けない田舎ものでございますもの」
肩を少し上げておどけたようなしぐさをしました。それに、ふぅと息を吐いて、ジャクリーヌ様は扇子をゆるやかに扇ぎます。
「相変わらず謙虚ね。それがエリアルらしいけど」
気さくになった口調にふっと笑顔をこぼします。
ジャクリーヌ様はレオン様とも親しく、古い付き合いがあります。半年前に社交デビューしたわたくしを気遣い、出会ったサロンではこうして声をかけてくださっています。
二ヶ月前から、サロンへ一人で行くようになってからも、変わらぬ気遣いをしてくださって、好奇の目でさらされているわたくしには心強い存在です。
ジャクリーヌ様がいなければ、わたくしはこうやって楽しくお話することもできません。本当にありがたいことですわ。
笑顔でいると、ジャクリーヌ様は扇子を扇ぐのをやめて、また内緒話をするように囁きました。
「最近はどう? レオンとは会ったの?」
何気ない言葉でしたが、わたくしは笑顔が張り付いてしまいました。レオン様のご病気を思い出してしまい、うまく口元に笑みを作れません。
ジャクリーヌ様は眉を上げて、怪訝そうな顔をされます。
「その顔……何かあったのね」
鋭い指摘に心臓がきゅっとして、腰の辺りがひやりとしました。わたくしは眉尻を下げて困り果ててしまいます。
ジャクリーヌ様になら、レオン様のご病気のことを言っていいのかもしれない。
ですが、レオン様はご病気のことを苦悶の表情でいってらしたので、口外するのを躊躇ってしまいます。
言いよどんでいるわたくしをとらえるように、ジャクリーヌ様は鋭い眼差しを向けます。そして、低めの口調で尋ねられました。
「言ってごらんなさい。あなたのその控えめさは美徳だけど、時には素直に思いを吐露すべきよ。レオンのことなら、私にできることがあるかもしれないから」
ね?とだめ押しをされて、心は揺れます。
──病名をふせれば構わないかしら……
どう振る舞えばよいか困り果てていたわたくしは、つい口を軽くしてしまったのです。
「実は……レオン様に先日、心の……そのご病気のことを打ち明けられまして……」
「病気?」
ジャクリーヌ様が訝しげな声をあげたので、わたくしは慌てて場を取り繕います。
「ご病気とは言っても治るものです。ただ、その方法がわたくしの……け……」
「け?」
わたくしは息を吸い込み、声が震えないように背筋を伸ばしました。
──これは療法。何も恥じることはないはずよ。
「献身的な愛なのだそうです」
毅然とした表情で伝えると、ジャクリーヌ様は怪訝そうな顔をされたままでした。
その表情のまま、無言の時間が過ぎていきます。
一分、十分……それ以上過ぎますとさすがに恥ずかしくなってきました。
──いくら特殊なご病気とはいえ、献身的な愛なんて、おとぎ話の世界ではあるまいし、療法とは言えないわよね……
ジャクリーヌ様に気にしないでくださいと、話を流そうとした時でした。彼女の口からありえない言葉が出たのは。
「レオンの病気って……まさか〝ヤンデレ〟のこと?」
「なぜ、それを!?」
わたくしは驚きのあまり淑女らしくない声を上げてしまいます。慌てて口元を手でおさえました。
そんなわたくしの行動を咎めもせず、ジャクリーヌ様は額に手を置いて、深いため息を吐かれました。
「あの子……ついに言ったのね……」
どこか遠い目をされるジャクリーヌ様にごくりと生唾を飲み干します。
「あの……ジャクリーヌ様は〝ヤンデレ〟のことを御存知なのですか?」
「まぁね……あの子は甥っ子のようなものだし……色々と特殊な子だから、私も気にはかけているわ」
レオン様と交流があることは知っていましたが、お二人の仲は想像以上に深いようです。
「それで? レオンが〝ヤンデレ〟だと分かって、あの子に献身的な愛を捧げろと言われたの?」
わたくしは頷きました。
「レオン様のご病気に有効なものは、それだと聞きましたので……」
ジャクリーヌ様がぽそりと「あの子は……」と苛立ちをにじませた声を出したような気がしました。
でもきっと、聞き間違えでしょう。ジャクリーヌ様はそのように感情を表に出さないでしょうから。
いけないわ。レオン様のことを引きずって、幻聴まで聞こえている。心を乱さないようにいつものようにしなくては。
わたくしは姿勢を正して、ジャクリーヌ様を見つめます。
「レオン様はわたくしを頼ってくださいました。婚約者として、できうる限りのことをしたいのです」
レオン様がわたくしのことをどう思われているかは分かりませんが、頼られて嬉しかった。だから、彼のご病気を治す方法があれば知りたいのです。
「ジャクリーヌ様。〝ヤンデレ〟のことを御存じでしたら、具体的に何をすべきかわたくしに教えてくださいますか?」
すがるように尋ねれば、ジャクリーヌ様はまたひとつ深いため息を吐きました。
「……あの子には何をすべきか言われた?」
そう言われてレオン様の言葉を思い出します。
「今までとは違うことをするが、受け止めてほしい、と」
またもジャクリーヌ様は無言になられてしまいます。珍しくお顔がひきつっています。
「……なるほどね。確かに有効かもしれないわ……」
そうなのね!
わたくしは一縷の光が見えたような気がして両手を組みます。
「では、受け止めてさえいればよいのですね」
思わず声が弾みます。
──よかった……それをしていればご病気が治るんだわ。
ジャクリーヌ様はまたひとつため息を吐くと、付け加えるようにわたくしに言いました。
「それに、あなたが素直になることも大事かしら?」
──え?
予想外の言葉にわたくしは動揺します。
ジャクリーヌ様は穏やかな声色で諭すように言いました。
「……あなたはレオンの為に立派な淑女になろうと努力しているわ。だけど、少しだけ自分を出してもいいと思っているの。……あの子もそれを期待していると思うわよ」
「レオンのこと、好きなんでしょ?」
その一言は強烈に心を抉りました。
腹におさめていたはずのものがぐらついてしまいそう。
──好き。えぇ、好きよ。レオン様のこと……誰よりも、きっと……
わたくしは強く唇を引き結びます。
そうしてしまうのは、わたくしの心でぐらつくものが、幸せに満ちた「好き」とは違うと思うからです。
たぶん、きっと……この腹の中にあるものは、出してはいけないもの。
心の中に留めておかなければ、わたくしはレオン様の隣で淑女らしく微笑めないでしょう。
大丈夫。本心を悟らせないように訓練はしてきている。
わたくしは鏡の前で練習した淑女らしい笑みを浮かべます。気持ちをはぐらかすように、なるべく艶やかに。
「……レオン様は尊敬しておりますわ。あの方の婚約者であることは光栄です」
ジャクリーヌ様が眉根をひそませます。きっと、作り笑いだとバレているのでしょう。わたくしは、ごまかすように視線を逸らしました。
「わたくしはレオン様に恥じない婚約者でありたい。それ以上の望みはございません」
最後の方は声が震えてしまいました。
肝心な時にわたくしはダメね。
失敗に落胆しつつも、わたくしは笑みをやめませんでした。