第四十五話 ヒスイカズラの約束①
目が覚めると自分の体のあちらこちらが痛みました。まだレオン様の名残りが体にあるようです。眩しい太陽の光は、昨晩の一時を感じさせないほど清々しく、わたくしは思わず目を細めました。
体を起こすと、シーツがわたくしの体からなんのひっかかりもなく滑り落ちます。何も身につけていないことに気づきましたが、わたくしはそれよりも隣にいたはずのレオン様の姿がなかったことに目を見開きました。
昨晩の名残りは、花の匂いになったシーツにしみついていましたが、相手がいないことに切なくなってしまいます。
──レオン様の寝顔を見たかったわ……
そしたら、もっと満たされた気持ちでこの日を迎えられたでしょうに。思わず口を引き結び、わたくしは起こした体をまたベッドに落とします。
もう少しだけ。余韻に長く浸りたくてわたくしは少しの間、ベッドに顔を突っ伏していました。
コンコン。
静かに扉がノックされる音がして、目を開くと伺うようにそっとドアが開かれます。ひょこっと顔を出したのはジュリーでした。わたくしが起きていることに気づいたジュリーはベッドのそばに立ちます。
「おはようございます、エリアル様。お風呂の準備ができていますので、支度をしましょう」
それにちょっとだけ、わたくしは口をすぼめます。
──嫌だわ。子供っぽい。まだ洗い流したくないなんて。
レオン様の匂いをまとったままでいたいなんて、わたくしは本当におかしくなっています。ニコニコと笑顔でいるジュリーに、わたくしのちっぽけな抵抗はあっさりとおしまいになります。投げ出されて皺になったドレスではなく、ジュリーの持ってきてくれたシュミーズ・ドレスに着替えて、バスルームに向かいました。
バスルームで体を念入りに洗われると、腹に溜まった濁りはあたたなお湯にとけて、あっけなく元通り。頂戴したものをこぼすなんて、不出来な体だわ、と自分で自分を小さく罵り、わたくしはため息をついてしまいました。
お風呂から出ると、今日の予定はどうだったかしら?と思考は律儀に日常を取り戻そうとします。体の痛みを感じさせないかのようにスムーズに動く足。それがほんの少し恨めしく思ってしまいました。
廊下を歩き、部屋の前までくるとジュリーが扉を開けてくれて、先にどうぞと頭を下げます。わたくしは微笑みで礼をして、中に入りました。一歩、部屋に入ったまま歩みをとめてしまいます。
目に飛び込んだのは、ヒスイカズラの藍色。その中で同じ瞳をした人は微笑んでいました。
「おはよう、エリアル」
わたくしの身長よりも背が高く、大きな花をつけたヒスイカズラが天井からぶら下がるようにベッドの上にくくりつけられていました。
ヒスイカズラは豆科の植物ですから、ポールに太いつるをまいて、シャンデリアのようにぶら下がりながら花と実をつけます。エメラルドグリーンの花びらはくるんと上を向いて、根元には紫とも紺とも言える実をつけていました。
ヒスイカズラのシャンデリアに目をすっかり奪われながらわたくしは、レオン様の元に近づきます。
「お手をどうぞ」
ベッドサイドに立っていたレオン様が手を差し伸べられましたので、わたくしはベッドにのって座る形になります。ベッドサイドに腰かけて微笑むレオン様を見ていると、ドアから銀色のワゴンが入ってきて、香ばしい匂いが漂ってきました。
ジュリーが「朝食です」と、ベッドの上におけるローテーブルを置きます。木製のテーブルの上に銀のトレイがおかれました。野菜やハーブの香り漂うスープに、一口サイズのパン。リンゴなどの果実がお皿に並べられております。薄く焦げ目がついたパンは食べたら中身がふわふわでしょうね。
全てが用意されて、ジュリーが出ていくと、レオン様は涼やかな笑みを浮かべます。
「初めての次の日は、男が奥さんを労って朝食を用意する。だからね?」
小首をかしげて言われたことに驚いてしまいます。ドキンと弾んだ心はわたくしの顔に出てしまっているでしょうね。
「……まぁ、少し早かったけど。体は大丈夫?」
問いかけられて「えぇ」とぎこちなく返事をします。それを見抜いてレオン様が伏せ目がちに尋ねます。
「本当に?」
長い睫毛から覗く瞳は昨晩みた男のもの。
体がひとりでに、残っているレオン様の痕跡へと意識を向けてしまいます。恥ずかしくなり、わたくしは視線をそらしました。
「……大丈夫ではありません」
「痛む? ごめんね。昨日は加減をしなかったから」
前に一筋たれていたわたくしの髪にレオン様が指を絡ませます。くるくると指でもてあそばれると、毛先が頬をかすめて刺激してくるので、わたくしはぴくんと震えました。くすりと笑われて指は離れ、代わりにレオン様はフォークを持ってリンゴを刺します。
「無理をさせたから、今日は一日甘やかしてあげる。エリアルは何もせずに座っていればいいよ」
ずいっと目前に近づいたフォークに戸惑いつつ、わたくしはこれだけは伝えておこうと口を開きます。
「レオン様……体は痛みますけど嫌ではないのです。ただ……痛みがなくなるのが切なくて」
眉根を下げて言いますと、レオン様は驚きの表情を見せ、動揺したのか瞳をゆらします。それがおさまると、喉が欲情を教えるように動きました。それを上目遣いにちらりと確認して、わたくしは懇願しました。
「朝、そばにいないのも寂しかったです。次は寝顔を見たいですわ」
できる限りお側に。と、願いを口にすると唇にリンゴを押し付けられました。ギラつきながらも、ちょっと拗ねたような瞳でレオン様はわたくしを責めます。
「朝から夜のお誘いなんて、エリアルは大胆だね」
「……嫌ですか?」
「ううん。最高に可愛いよ。ほら、食べて。口は大きくね。しっかり噛みついて」
言われるがままにわたくしは口を開き、リンゴを食みます。一口では入りきらないそれにゆっくりと歯を立てていると、興奮を煽ったのか、レオン様の頬が赤くなっていきます。
「噛んで。もっと深く」
命令口調に言われてそれに答えるように、わたくしの口はリンゴを噛みちぎります。
しゃくり。
瑞々しい音を立てて、口に頬張ったそれは、甘く蜜がたっぷりと含まれているものでした。
欲張って頬張ったせいで、わたくしは蜜を口の端からこぼすというそそうをしてしまいます。
慌ててトレイの端に置いてあったナプキンで口をぬぐおうとしましたが、先にレオン様が顔を近づけ、滴った汁を舌でなめあげました。
子犬が水を欲するようになめられ、くすぐったさで身を震わせながら、リンゴを噛んでいきます。大きな音を立てて飲み干すと、嬉々と光る藍色の瞳が見えました。
「エリアル。もっと食べて」
「はい……」
それから、レオン様の食べさせるという甘やかしは続きました。食事が終わるまで、わたくしの指は膝の上に固くそろえられ、小刻みに震えるのみでした。
***
食べ終わった後も、ベッドからでることなくわたくしたちは色々なお話をしました。今日は余暇らしくので、レオン様のお仕事はありません。
レオン様の子供の頃の話や、今までしてこなかった話をわたくしは食い入るように聞いていました。ですが、なぜかわたくしの幼少期の話はぜんぜん、聞いてこなかったです。少し不思議でしたが、レオン様のお話を聞くだけで楽しかったわたくしは、終始、笑顔でおりました。
そうそう。トランプゲームの話もしました。「最後はわざと勝たせたんだよ」と、悪戯を明かすように言われてわたくしは驚いてしまいました。
「エリアルに意識してもらいたくてね。ズルいことをした」
そういうわりには、レオン様は悪いことはしたと思っていないようです。含みがあるように口が持ち上がっていますから。
「……では賭け事をしたら、わたくしは勝てないのですか?」
棘のある言葉に隠れた繊細なものに触れるように質問をすると、レオン様は面食らってポカンとされます。そして、くつくつと喉の奥を震えさせて笑いました。
「それは、賭け事に勝ちたいって意味?」
尋ねられて、わたくしは媚を含ませた声を喉から出します。
「えぇ。レオン様に勝って、レオン様に触れたいです」
するすると言葉は軽やかに想いを紡ぎます。ぴくっと震えたレオン様は、視線をあちらこちらにさ迷わせます。困っているようです。
「……参ったな。エリアルと話をしているとアブサンを飲んでいるみたいな気分になる」
「アブサン……ですか?」




