第四十二話 愛人の話
ソフィ様は子供が危ない遊びを楽しむような雰囲気でくすくす笑います。ひとしきり笑い終えると、ふぅと力を抜いて、ソフィ様は陰った中庭を見つめます。過去を思い出しているのか、その瞳は中庭を見ていないようでした。
「アラン様とはね、デビュタントの日に出会ったの。彼がわたしのパートナーでね。ふふっ。とってもダンスが下手くそだったわ」
当時のソフィ様がのりうつっているのか、少女のように彼女は笑います。
「彼は地方貴族でお金もなくてね。軍人になって家を建て直すためにベルサイユに来たのよ。当時は戦争の真っ只中だったし、爵位よりも王への忠誠が大事な時だったからね」
それは前国王時代のお話です。独裁国家だったこの国は王の忠誠があるもので戦に出向けるものなら、地位はなくともベルサイユに集められたそうです。
一旗上げたいと野心を燃やす者、独裁に辟易してベルサイユから去ったものなど、国は不安定な状態でした。
「彼は家の建て直しとか、誰かの為に動くようなお人好しが服を着て歩いているような人でね。性格も純朴で真面目で、野心なんて無縁の人だったわ」
その話を聞いて、わたくしは疑問を感じました。ソフィ様の話が本当ならば、アラン様が侯爵になったことは、大出世といっていいくらいです。野心がなければ、なぜ……と、思ったところでソフィ様の言葉を思い出します。
──一人の人を好きで、好きで、好きで、道をはずしてしまったバカな娘。
一つの考えにいきついて、顔を上げるとソフィ様はそうよと肯定するように微笑まれました。
「彼は真面目に働いて領地にいる幼馴染みと結婚する気だった。それがリディ。わたしはね。二人の仲を裂いて、無理やりアラン様をものにしたの」
雲が通りすぎたのか、部屋が元の明るさを取り戻します。ですが、ソフィ様の瞳は暗いままでした。
「体を使って無理やりものにしたわ。籠絡にしては、情けない初めてだったけどね」
その言葉にひゅっと息を飲みます。酷い行いだと思ったわけではなく、わたくしも同じようなことをしようとしたからです。
「貴族の女の処女を奪ってしまった罪悪感に漬け込んで彼をものにしたわ。アラン様の思いも無視してね。それが見えないくらいわたしは彼が見えていなかった。一人、幸せな夢に浸って現実から遠ざかっていたの」
なんとお返事したらわからなかったです。ソフィ様のしたことは、倫理的には外れてしまっているかもしれません。ですが、それを願ったことがあるわたくしは責められませんでした。
「ちょうどレオンが生まれて二歳ぐらいかしら。大きな戦があってね。それには勝利したけど、幾人も犠牲者がでたわ。リディも夫を失くした。一人の子供を抱えて」
その先は、言わなくても分かる気がして、心痛な顔でソフィ様を見てしまいます。ソフィ様は大丈夫よと言いたげな穏やかな表情を見せました。
「財もなく、子供を抱えた女がどう生きていくか。なりふり構ってられないでしょうね。だから、彼女はアラン様に助けを求めた。アラン様はそれに答えた。まだ彼女を愛していたのか、そこはわからないわ。わたしは自分の過ちを忘れるほど、彼は優しかったから」
わたくしの膝の上でそろえていた手がぐしゃっとスカートを歪めました。
「彼らは手紙のやりとりをしていた。わたしに黙ってね。それをわたしは見てしまった」
ソフィ様はテーブルに置かれたカップの淵を指でなぞります。無意味な行動をして気をまぎらわせたいのか、何度も指がカップをなぞりました。
「裏切られたと思ったわ。奪ったのはわたしなのにね。憎んで、憎んで、わたしは粉々に壊れてしまったのよ」
カップをなぞる指がすっと止まり、ゆらりと影のように動いてソフィ様はまた中庭を見ます。
「それでもわたしは彼を離さなかった。逆にしとやかな妻でいたわ。リディを愛人にすればいいって言ったのは、わたしよ」
その言葉にわたくしは驚きを隠しきれませんでした。それなのに、ソフィ様はなんてないことのように話します。
「ただ、元婚約者を愛人にすると変な噂が立つから、寡婦を庇護しているという風に見せればよいっていったのよ。もう一人の愛人は同じく戦争で夫を失くした人よ。二人しか認められなかったのは、わたしの度量の狭さね」
ソフィ様は種明かしを続けます。
「庇護している体裁を保つために、アラン様はリディの元にはいかないことになっているわ。彼女の元に行くのはわたし。わたしは過去の罪があるから、彼女に尽くしたわ。献身的にね。彼女はわたしを警戒していたけど、見ての通りの関係になれた。社交界での評判はわたしに同情的でね。献身的な妻と呼ばれたわ」
ソフィ様はふふっと弾むように笑いますが、わたくしは笑えません。
ソフィ様がどのような思いでそれをしたのか分かってしまったからです。
「これが愛人の話。一人を好きで、好きで、好きで、道をはずしてしまったわたしの話よ」
おしまいと言いたげに、ソフィ様は冷たくなった紅茶を一気に飲み干しました。
「わたしは酷い女でしょ。ごめんなさいね」
わたくしはゆるゆると力なく首を振ります。そして、ソフィ様に言っていない過ちを告白しました。
「わたくしも同じようにレオン様を体で引き寄せようとしました。ですから、わたくしはソフィ様を責められません」
そう言うと、ソフィ様は片方の眉をつり上げてブスッとした顔になります。
「そうなの?それで、あの子、手を出さなかったの?」
空気が変わったことに戸惑いながらも、わたくしは頷きます。ソフィ様は心底呆れた顔をしました。
「意気地がないとこまで父親そっくり」
不満げに吐かれたことにわたくしは慌てて説明をします。
「でも、それは〝ヤンデレ〟のせいで──」
言った後ではたと気がつきます。ソフィ様は〝ヤンデレ〟のことを知らないかもしれませんのに。どうしようか迷っていると、ソフィ様は不思議に思うことはなく、まだ怒りの表情をときません。
「あぁ、〝ヤンデレ〟ね。レオンが患っている恋の病でしょ?」
その一言に呆気にとられてしまいました。〝ヤンデレ〟のことを知っているのか尋ねると、母親だからねとお見通しの言葉が返ってきて、わたくしは気が抜けてしまいました。
「妃殿下の本のことも知ってはいるわ。そのせいで、面倒なことになっているってこともね」
ソフィ様はわたくしが知らないものを全てご存知のような口ぶりをされます。
わたくしはごくっと生唾を飲んでソフィ様を見つめました。
「ソフィ様。その本にわたくしのことも書かれているということもご存知ですか?」
ジャクリーヌ様の言っていたことがひっかかっていました。それがレオン様を知る鍵のように思えてしまったのです。
ソフィ様は驚いた顔をした後、すっと立ち上がって、どうしようかなと悪戯っこのように笑います。
ソフィ様はたんたんと、二段の階段を弾むように下りて、水色の広い舞台に立ちました。まるで舞台女優のように。ふわっとスカートを軽やかになびかせて体を反転させると、微笑まれました。母が子に見せる愛しい眼差しでわたくしを見ます。
「わたしね。レオンには幸せになってほしいのよね」
澄んだ声が響いたとき、太陽が照明のようにソフィ様を写しました。すっと、目が細く柔らかくなっていきます。
一縷の望みを託すようにソフィ様は笑いました。
「わたしみたいにならないでほしい。だから、エリアル。あの子を解放してあげて」
その笑顔にわたくしは小さく息を飲みます。そして、大きく頷きました。
覚悟はとっくにできていますから。
何を知ろうとも、わたくしは受け入れる気でいました。




