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第四十一話 愛人宅へ

 

 ソフィ様と共にアラン様の愛人の一人であるリディ様の元へ行くことになりました。


 馬車に揺られること10分ほど。そんな近い場所にいらしたなんて、驚きました。ソフィ様の口ぶりでは、リディ様へは良い気持ちを抱いていないと感じていましたので、もっと遠い場所にいると思っていました。


『──アラン様の愛人のこと、わたしは許したわけではないの』


 あの言葉を隣で笑うソフィ様はどんな思いで言ったのでしょうか。


 憂いを微塵にも感じさせない笑顔でいるソフィ様の顔は、レオン様の張り付いた笑みに似ているような気がしました。


 だから、放っておけなくて。


 ソフィ様に言われるがまま。

 この先に何を知るのか分からないまま。

 わたくしは馬車に揺られていました。



 馬車が止まった場所にわたくしは大きく目を見開きました。


 一言で例えるなら、そこは穏やかさしかない場所でしたから。


 まず視界に入ったのは、枯れた芝の広場。春になれば美しいグリーンが見れると想像できる場所は、森に囲まれていて、ひっそりと建物がありました。聞こえてくるのは小さな鳥のさえずり、風が木や葉をなでる、さわさわとした音。よく晴れた日に来ましたので、緑が豊かな陽光を喜んで揺れているようでした。


 建物の前には人工的に作られたと思われる湖が見えます。脇を通って横目で水面を見ると、底までは見えませんが、魚が泳いでいる姿は見えました。丸い円を描いて湖面を進むのは、小さな虫でしょうか。


 小さな生き物たちの気配を感じて視線をあげると、リディ様の住む屋敷が見えました。


屋敷は侯爵家の絢爛さからはほど遠い素朴なもの。ペールライトの壁に、薄茶色の屋根。煉瓦(れんが)で縁取られた窓を見ると、わたくしの育った故郷の建物を思い出してしまいました。


 ソフィ様の侍女が赤茶色の玄関扉をノックすると、しばらくしてから屋敷の使用人と思われる人が出てきました。


 初老を迎えそうな年齢の女性は、目尻のしわを緩ませて、穏やかな笑みで出迎えます。


「ソフィ様。ようこそ、いらっしゃいました」


 ソフィ様も朗らかな笑みで挨拶を交わします。わたくしのことも紹介されました。彼女はリディ様に付き添う侍女の一人だそうです。


 なぜ、侍女にわざわざ紹介をしたのか。

 その理由はリディ様を見てわかりました。


 リディ様は長く病を患っているらしく、ベッドに起き上がるのもやっとのご様子でした。


 こけた頬に微笑を浮かべたリディ様は、簡素な白いワンピースドレスに、天使の模様が描かれた肩掛けをしていました。


 細い。あまりに細い体に、わたくしは驚かないようにするのを必死でおさえます。


「ソフィ様……わざわざ、ありがとうございます」


 リディ様がぎこちなく、でも深々と頭を下げるとソフィ様が駆け出して近くに寄ります。リディ様の寝ていられたベッドの端に指先をおいて、心を寄せる眼差しをします。


「リディ。頭を下げないで。寝ていて、体にさわるわ」


 ソフィ様はリディ様の背中を支えるように彼女をベッドに横たえます。リディ様は何もかもをソフィ様に預けているような親愛の眼差しで微笑みます。


「ありがとうございます……」


 それをソフィ様は慈愛の眼差しで見つめ、一つうなずきました。


 不思議な。どこか奇妙な光景でした。


 まるでお芝居を見ているような……いえ、役者として同じ舞台に立っているのにわたくしだけ幕に控えて、二人の舞台を見ているような……不思議さ。


 労りと信頼に満ちた美しい光景ですのに、心がそれを理解したくないと言っているようです。


 一人の男を愛した女たちがこんな風に、できるものなのでしょうか。これが貴族というものなのでしょうか。


 きっと、わたくしには真似できないものです。だから、こんな風に心が拒否してしまうのでしょうね。


 ぼんやりと二人の姿を見ていると、ソフィ様に名前を呼ばれてリディ様に紹介をされました。わたくしは心の淀みを隠してあくまで健やかに笑います。


 リディ様は残り少ない命の灯火を揺らすように微笑まれます。


 返してくれた言葉はありませんでした。ただ、何もかもを受け入れた透明な茶色い瞳を細めただけでした。


 その笑顔はわたくしの腰をひやりとさせます。なぜでしょうか。


 きっとこの方の歩いてきた道が、平坦なものではなかったのだと、感じてしまったからでしょうね。



 リディ様の体調を思いやり、挨拶するとすぐにおいとましました。


「なんのおもてなしもできませんで……」と、申し訳なさそうにするリディ様に、ソフィ様はからっと晴れやかに笑います。


「顔を見れただけで充分よ。またね、リディ……」


 リディ様の名を呼ぶとき、ソフィ様の声が清濁を含んだものに聞こえたのは、わたくしの気のせいでしょうか。


 わたくしたちはそのままリディ様の屋敷を去りました。


 馬車が走り出したとき、一度、振り返って屋敷を見ました。草がさわさわともの悲しげに風になびいています。


 人の喧騒や悪意から離されて、穏やかさだけが切り取られたような不思議な場所。あそこにいれば、心がゆるゆると楽に死ねそうだと感じてしまいました。


 ソフィ様は馬車の中では何もお話になりませんでした。わたくしも感じた奇妙さを口に出していけない気がして、窓の外を眺めます。



 馬車は徐々に喧騒に包まれ、現実に引き戻すように走り続けました。


***


 屋敷に戻り馬車から降り立ったソフィ様はうーんと両手を伸ばした後、体の力をぬきました。わたくしも馬車から下りると、ソフィ様はくるっと振り返り微笑まれます。


「お茶を飲みながら話をしましょうか」


 ね?と小首をかしげて言われ、わたくしは頷いてソフィ様の後に続きます。



 お話の場所にソフィ様が選んだのは、水色の床があるサロン室。愛人の屋敷に行きましょうと誘われた時に話をした場所です。あの時は夜でしたので、広いガラス窓からは見えなかった中庭の素晴らしさがよく見えます。整然とシンメトリーに続く庭からは、ダリアの花壇が遠くで見えました。


 紅茶を用意されて、それをひとくち含んだところで、ソフィ様は話を始めました。なんてことはない会話をするように朗らかな笑みで。


「リディとわたし、どう見えた?」


 質問から始まると思わなかったので、わたくしはあの奇妙さを言ってもいいのか迷います。けれど、包み隠しても無駄のような気がしました。わたくしはソフィ様の前で本心を打ち明けてしまっています。いまさら隠しても……という思いと、藍色の瞳の前で、もう嘘はつきたくないと思ってしまいました。ですから、正直にお話しました。


「美しすぎる関係だと思いました」


 ソフィ様は少し驚いた表情を見せた後、なぜ?と理由を問われます。わたくしはうつむき、胸の中のもやもやを噛み砕いて言葉にします。


「ソフィ様もリディ様も互いを慈しむ心があるように見えました。ですが、清らかすぎて、わたくしには真似できそうにありません」


 もし、誰かがレオン様を愛して、レオン様がそれに答えたら……わたくしは憎しみに心を病ませるでしょう。激しく嫉妬をして、笑顔を忘れるでしょう。いえ、それどころか……


 道を外れた想像が巡り、わたくしはゆるく首を振ります。


「わたくしなら、あんな風に笑えません」


 ぽつりと呟くように言うと、そう、とソフィ様はどこか嬉しそうに笑います。褒めてはないというのに、ソフィ様は無邪気な笑みをされて、わたくしは眉根をひそませました。


「あなたの瞳にそう見えるのなら、わたしの演技も大したものね」


 上機嫌にソフィ様は紅茶をすすります。


 窓から陽光が注いでいたのが、ふっと陰ります。大きな雲で太陽が隠れたのでしょうか。光のトーンを落とした室内。それに合わせるようにソフィ様の瞳も暗く、深いものを見せ始めます。


「リディなんて早く死んじゃえばいいって思っているから」


 とっても無邪気にソフィ様は残酷な言葉を口にします。言葉と釣り合わない笑顔にわたくしは目を開いてしまいました。


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