第三十九話 晩餐会の後
晩餐会のお部屋を出て別のサロン室へ移ります。ジャクリーヌ様の侍女とジュリーがついてきました。サロン室の隅で控えてくれています。
そのサロン室はソファが壁際にしかなく、なにもないスペースが広くとられていました。ここは私的な演劇を楽しむ場所です。明るい水色の床に、大きなガラス窓からは演劇の背景になるような美しい中庭が見えました。夜の庭園は仄かな灯りをつけ、昼間とは違う幻想的な美しさを見せていました。
ソファに座ると、ジャクリーヌ様が話を切り出してきます。わたくしは正直に、レオン様の〝ヤンデレ〟が悪化して殺意がわたくしに向かっていることを話しました。
「……レオンが? あなたを好きすぎて殺そうとしているの……?」
ジャクリーヌ様は信じられないような顔をされます。それは無理もないことです。あのレオン様が、犯罪者でもない誰かを殺めるなど想像がつかないのでしょうから。ですが、信じて頂かないと。わたくしは途方に暮れながらも、ジャクリーヌ様に訴えました。
「レオン様の口からハッキリと告げられました……」
わたくしの切実な訴えが通じたのか、ジャクリーヌ様が何か考え込むしぐさをします。わたくしは、じっとジャクリーヌ様を見つめ、答えをお待ちしていました。
ジャクリーヌ様はとても言いづらそうに、でもとても真剣な表情で話しかけてきます。
「エリアル……正直に答えてほしいんだけど……あなた、レオンのことは好きなのよね? 心から愛していると言える……?」
どうして今、それをジャクリーヌ様が問われるのかわかりませんが、その表情を見れば、答えなければいけないような気がしました。
「はい……レオン様のこと、愛しています……」
自分でも不思議なぐらいするりと言葉が出てきました。それを見たジャクリーヌ様は一層、険しい表情をしました。わたくしは眉根をよせてしまいます。
どうしてそんな表情を?
まるで、わたくしがレオン様を愛するのが悪いことのような……
困惑していると、ジャクリーヌ様は声を潜めて聞いてきました。
「……そう。レオンのことを……それなら、その……レオンのこと愛しすぎて憎んだりとかは……ない?」
とても言いづらそうに聞かれてわたくしは首をひねってしまいます。憎むなんてそんな気持ち微塵もありません。
「いいえ……」
端的に答えると、ジャクリーヌ様は大きく息をはいて、心から安堵の表情を見せます。オーバーとも言えるその表情にわたくしは訝しげにジャクリーヌ様を見てしまいます。
「あの……なぜ、そのようなことを?」
疑問を口にすると、ジャクリーヌ様は何かを隠すような顔をされました。考え込んでしまうジャクリーヌ様を、わたくしはじっと見つめてしまいます。その視線が居心地が悪かったのか、ジャクリーヌ様は大きなため息をつきます。
「……これはもう、言った方がいいのかしらね……」
独り言のように呟かれて、毅然とした表情で言われました。その視線の強さにわたくしは自然と背筋を伸ばしました。
「レオンの〝ヤンデレ〟のことは妃殿下が持ってきた本に書かれていたということは聞いた?」
問いかけられわたくしは最初に〝ヤンデレ〟を告げられた日のことを思い出します。
「はい……聖女さまの教本に書かれてあったということだと聞きました」
「そう……エリアル……今のあなたには信じられないことかもしれないけど、最後まで聞いて。その本には、あなたのことも書かれていたのよ」
──わたくしの?
どうしてなのか分からず、わたくしの頭は混乱するばかり。聖女さまの本にレオン様の他にわたくしも? なぜ……?
心臓が不自然に早まっていきます。ジャクリーヌ様の顔を見ると、その理由がとても良くないもののように感じてしまったのです。ジャクリーヌ様は意を決したように口を開きました。
「あなたはね……悪役──」
「ふふっ。なぁに、話しているの? わたしも混ぜて」
話を遮断する軽やかな声が部屋に響きました。びくっと震えてみると、視線の先にソフィ様がいらっしゃいます。
夜の美しさをかき集めたような漆黒のスカートをふわりと靡かせ、ソフィ様は藍色の瞳をにこりと細めていました。
カツン、とハイヒールを鳴らして近づいてきたソフィ様をジャクリーヌ様は睨みながら立ち上がります。
二人は至近距離まで近づくとこそこそと話し出します。
「なんで、止めるの?」とか。「エリアルがバッドエンドをしたら……」とか。わたくしには理解できない事を話しているのが途切れ途切れで聞こえます。
険しい表情をされるジャクリーヌ様に比べて、ソフィ様はいつものように朗らかな笑みです。
「あなたまで〝攻略本〟に囚われているの? バカね。なかった未来を警戒するなんて」
そう言うとソフィ様はわたくしに近づいて隣に座りました。腕を絡ませて、顔を近づけてきます。
「大事なのは本人たちがどうなりたいかってことなのにね? ね? エリアル」
問いかけられても、わたくしには何がなんだか分からず、ぎこちなく頷くだけです。ふふっとソフィ様は笑い声をあげて、すっと藍色の瞳を細めます。
「途中から話を聞いちゃったんだけど、〝殺したいほど好き〟なんて素敵じゃない」
なんてことのない話をしているようにソフィ様は話されています。あまりに自然に話すので内容の狂暴さが出てこないほどに。
「ソフィ! 何を言ってるのよ!」
ジャクリーヌ様が咎めますが、ソフィ様は気にしないようで、わたくしだけを見ています。その瞳の奥はレオン様に似ていて、意識が吸い込まれていきます。
「ねぇ、エリアル。もし、レオンがあなたを殺したいって凶器を振り上げてきたらどうする?」
「ソフィ!?」と、ジャクリーヌ様の叫ぶ声がどこか遠くに聞こえます。この藍色の瞳にわたくしは囚われていくようです。
──いえ、自らの意思で囚われにいくのでしょうね。
すっと静まり返った心。どうしてでしょうか。恐ろしいことを口にするのに怖い気持ちがありません。
「レオン様がお望みならば、わたくしは抵抗しません」
本当にどうしてそんなことを思ってしまうのか。
あぁ、そうね。
わたくしはあの時、覚悟できたのでしょうね。
レオン様が抱かれる覚悟をしたとき。殺したくないと言われた時、この人になら心臓を捧げてもよいと思いました。
きっと、レオン様が何をされても本当に構わないのでしょう。両手を広げて、わたくしはレオン様を受け入れてしまう光景しか見えてきませんでした。
──これは、愛と呼べるものなのかしら……?
愛とひとくくりにするにはあまりに色々なものが渦巻いているような気がします。
清いものも、醜いものも、すべて飲み干してお望みのままに。あなたにされることは、全てが悦び。
それは、愛と呼べるものなのでしょうか……?
わたくしが自分の心と向き合っていると、ソフィ様はどこか焦がれるようにわたくしの頬を両手で掴みました。
「素敵よ、エリアル……そこまで愛するあなたは綺麗ね。うらやましいわ」
何かにしがみつくような声。静かな声ですのにソフィ様から激しさしか感じません。
「それをレオンに言ってしまえばいいわ」
ずるりと奈落の底にわたくしを落とす言葉。楽になれ、楽になってしまえ。そこには悦楽しかないと、囁いているようです。
ですが、その底でレオン様は笑っているでしょうか。
いいえ、きっと。
「……わたくしの命など差し上げます。でも……レオン様は泣いてしまう気がします」
──僕に君を殺させないで……
苦しそうに吐き出された言葉が、わたくしを底へ行くのを食い止めます。
ソフィ様の瞳が大きく開きました。瞳孔が揺れて、動揺しているのがわかります。
「わたくしは……レオン様に笑っていてほしいのです……」
自然と涙がたまっていきました。どうしてでしょう。 わたくしは泣いてばかりだわ。恥ずかしいのに、止められません。
レオン様ではないというのに、わたくしは懺悔するように罪を告白しました。
「それを願っていましたのに、わたくしは愚かです。最初は本心を偽り、ここに来てからは、レオン様だけの女になりたくて、媚を売るようなことを散々しました」
涙が頬を伝いました。嘆かわしい所業の数々です。
「レオン様のご病気のことも気にもとめず、自分のことばかり……結婚のお話をされても、自分の醜い感情をおさえられる自信がなく、心から喜べませんでした……」
醜い顔をさらしたくなくて、顔を手で覆います。堰をきったように本音を吐き出してしまい最低です。
「エリアル……」
ソフィ様が優しく抱きしめてくれました。あたたかい。こんな婚約者として不出来なわたくしを許すような優しさです。
「……レオンに結婚の話をされたのね。でも、醜い感情ってなに? どうしてそう思ってしまうの?」
優しい声がけはわたくしの心の奥にとめたものをするりと抜き出していきます。
「レオン様に愛人ができたときに、ソフィ様のように許す狭量を持てないと思ったのです……」
びくり、とソフィ様の体が震えました。
「すみません、ソフィ様……わたくしは侯爵家の婚約者として相応しくないのです」
ずっと自信がなかった、小さなわたくし。それを吐露してしまいました。
今度こそ婚約を解消されるだろうか。
その時、わたくしは暴挙にでないでいられるでしょうか。
決壊した感情では考えがまとまりません。ただ泣くばかりのわたくしに、ソフィ様がすっと体を離します。
ドレスのポケットからハンカチを取り出して、わたくしの目元にあてていきます。ふわりと独特の香油の匂いがします。優しい手に慰められていると、自然と涙がひいていきました。
潤んだ視界が元の鮮やかさを取り戻していきます。見えたソフィ様は微笑んでいらっしゃいました。そこには穏やかさしかなかったです。
「……謝ることなんかないわ。わたしたちのことが、エリアルを苦しめていたのね。ごめんなさい、ちっとも気づかなくて」
謝られてしまい、わたくしは反応に困ってしまいます。ソフィ様は懐かしむように目を細めました。
「エリアル。アラン様の愛人のこと、わたしは許したわけではないの」
その一言に大きく目を見開いてしまいます。
「エリアルに教えてあげるわ。一人の人を好きで、好きで、好きで、道をはずしてしまったバカな娘の話を」
そう言って少女のようにソフィ様は微笑みました。
そして、立ち上がって腰に手をあててわたくしに向かって微笑みかけます。その瞳はレオン様と同じく仄暗かったです。
まるで、開けない夜を教えるような暗さ。
「わたしと一緒に愛人──リディ。アラン様が結婚の約束をした相手の所へ行きましょう」
その一言に、わたくしはひゅっと息を飲んでしまいました。




