第三十七話 晩餐会の前~廊下②
予想外の言葉にわたくしは目を大きく開き、口まで薄く開いてしまいます。
レオン様はくすくすと笑いだします。新しい玩具をあれこれ弄りまわし壊す、子供のような残酷な笑い声。
「あれ? 意外な言葉かな? エリアルもそれを望んでいたんじゃないの? あんなに魅せつけるように背中を見せて、色欲にまみれた目で僕を見ていたよね?」
かっと火をついたように頬が熱くなります。わたくしは口を引き締め、羞恥にたえます。
「あんな姿を見たら、男は理性を保てない。わかってて、やったよね?」
全てお見通しの言葉に声がでません。わたくしは情けなく眉尻を下げて、視線を下に向けます。
レオン様は追い討ちをかけるように声をひそめ、悪いことを望んだらどうなるか、教えていきます。
「火をつけたのは君だよ……それとも、今から逃げる? 部屋に入ったら、晩餐会はめちゃくちゃだろうしね……」
その言葉にはっとします。顔を上げると、からからと不協和音を奏でるようにレオン様は笑っていました。
元の旋律を失くし、歪に乱れる音はわたくしの足を震えさせ、心をぐらつかせます。
くつくつと喉を震わせていたレオン様がふぅと、一つ息を吐かれました。
嵐の前のような奇妙な静けさ。ですが、それもほんの一時のこと。
お遊びはおしまいと言うようにレオン様の視線が鋭さをましていきます。凍てついた眼差しは、わたくしの心臓に真っ直ぐ突き刺さる剣のよう。切っ先を心臓に突きつけられ、レオン様はわたくしに道を選ばせます。
「選びなよ、エリアル」
「部屋に引きこもって、僕に抱かれるか……それとも僕から逃げて晩餐会をするか。君が選んで」
わたくしは思わずひゅっと息を飲みます。
──レオン様は本気だわ。本気でわたくしを……
甘いときめきも何もない声色だと言うのに、冗談には思えない気迫です。
ドアを閉めたら……
その先を想像してしまい、わたくしの体は無条件に反応してしまいます。いやらしく嘆かわしいわたくしの体は、きっとそちらを望んでいます。
この方の前ですべてをさらけ出すのは、ちっとも怖くないのですから。
「……っ」
熱くなる体を叱責するように、脳裏にみなさんの懸命な姿が過ります。この日の為に、尽くしてくれたみなさまの声、笑顔。それを思い出して、わたくしはぐっと力をこめて目をつぶります。
──ごめんなさい……本当にごめんなさい……
みなさまを裏切っても、わたくしの唯一は決まってしまっているのです。
レオン様を満たしてあげたい。なんでもしてあげたい。恥ずべき行為と言われようとわたくしは……
全てを振り切るようにわたくしは顔をあげます。もしかしたら、これを口にしたら全てが終わるかもしれません。晩餐会を台無しにしたなんて醜聞もよいところです。でも。それでも、この一瞬がわたくしは大事でした。
「レオン様……」
大事なものを壊してしまうかもしれない恐怖に口は震え、視界は霞みます。わたくしは目の前の人を受け入れるように両手を広げました。飛び込んできてくれることを願いながら。
「お望みならば、わたくしを奪ってください……」
そう告げるとレオン様の瞳がかっと見開き、体が震え出します。一歩、二歩。うつむいたレオン様は何かに耐えるように頭を抱え、ふらつきます。口元は奥歯を噛み締めているのか、歯が見えました。
突然の豹変に心配になり、お声をかけようと手を伸ばします。その手は払い除けられ、両肩を強く持たれて壁にわたくしの体は打ち付けられました。
「っ……」
衝動は強く、壁にかかった燭台の炎が揺らめきます。壁面の絵画はがたりと揺れて、歪に傾きました。
一瞬、何が起きたのか分からず目を閉じたわたくしは、肩に強い痛みを覚えました。
骨を壁に擦り付けるように拘束されて身動きがとれません。レオン様の顔はうつむいたまま。表情が見えないことが不安になり、わたくしは痛みにあえぎながら声を出します。
「レオンさ……────!」
細く弱い声は片方の手が動き、塞がれてしまいました。
──どうして……?
拒絶と衝動。二つを感じてしまい、わたくしは距離を詰めたくて、小刻みに震える指でレオン様の服を掴みました。
ぶるっと震えたレオン様の体。口元がまた奥歯を噛み締めだし、肩を押さえつけていた手が離れます。わたくしの両手首はあっけなく掴まれ、下に拘束されます。
──どうして……? 触れることもダメなのですか……?
強い拒否反応にわたくしの視界は霞みます。声をかけたいのに口は閉ざされ鈍い音しかでません。
ギリギリとわたくしの心も体も鈍い痛みを与えるレオン様が、はっと乾いた笑いを出しました。
「ほんとうに……自分でも嫌になるよ……」
内に溜め込んだ醜さを吐き出すような声色。顔をあげたレオン様は憎々しげにわたくしを睨み付けていました。
視線で、拘束する強さで、わたくしを咎めつづけます。きっと、血の巡りを止められて手首は白くなっていることでしょう。
強く。痛みだけを与えられる時間が過ぎていき、その時の流れと共にレオン様の顔が悲しげに歪んでいきました。
ふっとゆるんだ表情。
「エリアル……」
呼ばれた声は切ない音で、それにわたくしは目を見開きます。
「エリアル……エリアル……!」
助けを乞うような声でわたくしの名前を呼び、レオン様はわたくしの唇を塞いでいた手に自分を寄せました。
手を一枚隔てただけの、情熱的なそれ。
押し付けるように触れた衝撃で、わたくしの頭は壁にめり込むのではないかと思いました。
ふっと、手首の拘束が離れ、唇が離れます。薄く瞳を開いて見えたのは、レオン様の加熱した瞳と赤い舌。
口は塞がれたままだというのに、体は密着していきます。
感覚は伝えず情熱のみを伝えるようなそれに、わたくしはレオン様の服にしがみついていました。
「エリアル……好き……好き……僕だけのエリアル……」
熱に耽りながら、甘すぎる言葉が耳から流れていき、毒が巡られたようにわたくしの体を痺れさせます。
これほどのものを与えられているというのに、手が邪魔です。
好きと言わせてもらえないのなら、せめてレオン様を感じたい。
感覚がないのなら、せめて好きと言わせてほしい。
どちらも与えられないのはもどかしく苦痛になるばかり。
それなのに体のみは喜びを得ているのですから、わたくしははしたない女です。
こぼした涙の意味はなんでしょう。
浅ましい体を卑下してでしょうか。
いいえ、きっと。
レオン様のみが唇を濡らすことが切なくて。
この涙がわたくしの唇に届けばよいと願ってしまったからでしょうね。
長いような。一瞬のようなその時間が過ぎ、レオン様が唇を手から離します。
レオン様だけが濡れた口元を見て、わたくしは距離の遠さを嫌でも感じてしまいます。
届かない涙はわたくしの唇ではなく、レオン様の手を濡らしただけでした。
レオン様は置いてきぼりにされた子犬のような弱々しい表情をされ、こてんとわたくしの肩に頭を預けました。
「……お願いだから……僕の病を深めないで……」
ぽそり、と呟かれた言葉。
「……君を殺したくはない」
その小さな訴えに巡った熱は急激に冷えていきました。
ふっと解放された口。息を止めて瞠目したわたくしにレオン様は何か言いたげな顔をしましたが、それを噛み殺し、わたくしを置いて行ってしまいます。
かつん。かつん。
遠退く靴音を聞きながら、わたくしは壁づたいにずるずると、だらしなく体を滑らせました。すとんと落ちてしまった腰。気が抜けてしまい、足は動きません。
わたくしは口元を手でおさえ、言われたことの意味を考えました。
殺したくない……それは〝ヤンデレ〟の症状をわたくしに思い出させます。
──レオン様の殺意がわたくしに向かっているの……?
それは病が悪化していることを意味します。無差別に殺意を抱いてしまう〝ヤンデレ〟抗えない衝動にレオン様は身を焦がしているのだと、愚かなわたくしはやっと気づいたのです。
──どうすれば……
この心臓を差し出したらレオン様は止まるのでしょうか。
唇に感じなかった情熱を心のなかでそっとなぞりながら、わたくしはこれからのことを考えました。
ですが……レオン様に焦がれるあまり、献身的な愛情を見失ったわたくしはその方法を見つけられませんでした。




