第三十六話 晩餐会の前~廊下①
レオン様の部屋に向かおうと足を一歩、踏み出したときでした。
「エリアル様?」
準備を手伝ってくれていたジュリーに声をかけられます。わたくしは用件も伝えなく出ていこうとしてしまったことに気づいて、足を止めました。
ジュリーはわたくしの咄嗟の行動をおかしく思ったのか、訝しげな顔をしています。わたくしはごめんなさいと思いながらも、ジュリーにレオン様にクグロフのお話をしたいことを伝えます。
ジュリーは眉根をひそめて、考え込んでしまいます。そして、凛とした表情で声を出しました。
「エリアル様。差し出がましいようですが、晩餐会前ですし、お伝えするのは伝言で宜しいのではないでしょうか。……また、あのような事態になったら……」
今朝のコルセットの話をされて、わたくしは身を強ばらせます。
──ジュリーの言うとおりね……今はレオン様よりも晩餐会よね……
心に穴が開き、冬の寒さを感じたようなもの悲しさに包まれていきます。
「そうね……」
未練がましく声が小さくなってしまったので、ジュリーの顔が悲しげになっていきます。わたくしは口元に微笑みをどうにか作り、ジュリーにお願いしました。
「じゃあ、レオン様に伝言をお願いね」
ジュリーはお任せください、と声を上げ、バタバタと駆け出しました。わたくしは一つ息を吐き出し、休憩するためにソファに腰をおろします。
目の前ではまだ使用人の方々が動き回っていました。
一人だけ休憩していて、申し訳ない気持ちになってきます。みなさんはそんなことを気にならないかもしれませんが、なんとなく居心地が悪くなったわたくしは一度、部屋に戻ることにしました。
***
白い手すりにつかまり、階段を登りきった時です。廊下に人影を見つけました。
蝋燭が灯りだし、夜の気配を感じさせる薄暗い廊下。その人を見てわたくしはひゅっと息を飲みました。
これは神様の悪戯でしょうか。
それとも──わたくしの想いが現実に出てきてしまったのでしょうか。
「レオン様……」
ぽつりと呟いた声に反応するようにレオン様がこちらを見ました。その瞳が一瞬だけ大きく広がったように見えます。
わたくしは立ち止まったレオン様に吸い寄せられるように歩き出します。
今、近づいてはいけない気がする。頭のどこかで警笛が鳴りますのに、足は意思を持ったように動いてしまいます。そのまま、わたくしはレオン様から少し距離をとった所で止まりました。
色々言いたいことはありますのに、わたくしの唇は動きを忘れてしまったかのようです。端的にクグロフのお話をすればいい。それだけ、お伝えすれば……
前に揃えていた手を胸に持っていき、わたくしは口を開きました。
「体……大丈夫?」
その前にレオン様が一歩、わたくしに近づいて口を開きます。ゆらりと薄暗いところから明るい場所にきたため、レオン様の表情がよく見えました。
見えすぎて、わたくしはぞわりと背筋に嫌なものを走らせます。
信じられなくて唇が震え出しそうです。確認するためにわたくしは「はい……」と返事をします。
「そう……それはよかった」
ごく普通に交わされる言葉。それなのにわたくしは違和感をぬぐえません。
──わたくしを見ていない……
瞳は合っているのに、レオン様の藍色の瞳は、わたくしを写していないような雰囲気です。薄暗い廊下にいるので、気のせいでしょうか。わたくしはレオン様の顔を見たくて一歩、近づきました。
「あの……今日の晩餐会で、クグロフをお出ししようと思っているのです……」
ぴくりとわずかにレオン様が震えました。陰った瞳がわずかな灯火をつけ、またふっと吹き消したように暗くなります。
「そう……それは楽しみだ」
淡々と流れるような声にわたくしは瞠目します。心臓を絞られ、全身の血の気が引いていくようです。
──拒絶……されている……
ハッキリとそう思ってしまい、わたくしはいてもたってもいられず、また過ちをおかしました。
「レオン様!」
わたくしは駆け寄り、その存在を確かめたくて、手を伸ばします。ですが、手を振り払うように、レオン様が体を引かれます。表情に見えたのは激しい嫌悪。拒絶が明確になり、わたくしは泣き出したくなりました。
届かなかった手をだらしなく下げると、視線まで下にいってしまいます。
──泣くのはみっともないわよ……
ジュリーに散々心配をかけてしまったのだから、と心を叱責して静かな声で問いかけます。
「……至らないところがあればおっしゃってください……」
下に向いた視界の端でレオン様の手が拳を作るのが見えます。ひとつ。ふたつ。落ち着いて声を出せるように小さく呼吸を繰り返して、わたくしは顔を上げました。
顔は笑みを作ります。ジュリーにそうされてわたくしは心があったかくなりましたから、レオン様にもそうなってほしいのです。
どこか遠くを見ていたレオン様の瞳がわたくしを写し出します。視界に入れたことに安堵して、口を開きました。
「悪いところはなおします。なんでも、おっしゃってください。わたくしは、レオン様の為ならなんでもしたいのです」
それが、わたくしの唯一。そう心に占める想いを素直に口にしました。
レオン様の喉仏が大きく上下して、口元がひくりと動きます。
「……無自覚なのもここまでくると罪だな……」
ぽつりと呟かれた言葉。それを皮切りにレオン様が近づいてきます。思わずびくっと震えてしまいそうになりました。
あまりに獰猛な瞳をされるので。死の淵に追いやられるような恐怖を感じてしまったのです。
レオン様から伝わってくるのは、呼吸をするのもためらってしまうような圧迫感。わたくしは逃げ腰になりそうな体を必死に床に縫いとどめました。
わたくしのハイヒールに革靴がかすかに触れそうな距離で立ち止まったレオン様の唇は、細い三日月のような形で持ち上がっていました。
見下すような視線は炎を纏う矢のようです。わたくしを骨まで燃やしかねない強い眼差しに、背筋がぞくぞくしてしまいます。
「僕の為になんでもするなら、今、ここで君を部屋に連れ込んで抱いてもいいよね?」




