第三十三話 晩餐会の朝
晩餐会の準備が終わり、迎えた当日の朝。わたくしは桶に張られた冷たい水で顔を洗っていました。
寒い季節のそれは手をかじかませるものですのに、今日は指が震え出しません。きっと、緊張してしまっているせいでしょうね。
すぐにタオルで冷たい雫を拭き取らずに、わたくしは濡れた手のひらと、顔からしたたる水滴をぼんやり見つめます。
ぽたり。……ぽたり。
間を開けてゆっくりと落ちる透明の雫。最初は冷たかったそれも、輪郭をなぞってたれる頃にはぬるくなっていくことでしょう。
指の先まで熱が巡った手は、冷たさをはじいています。脳裏を過るこれから起きるかもしれない出来事。
それを思うと一度だけではなく、二度、三度と体温が上がる気がして、わたくしは目を伏せ、タオルを手にとりました。
首までたれてしまったしずくを丁寧にぬぐいとり、わたくしはタオルを元の位置に起きます。
「あのー……エリアル様」
後ろでジュリーに話しかけられ、わたくしは振り返りました。ジュリーはそわそわと落ち着かない様子で視線をあちらこちらにさ迷わせています。
彼女の背後には、ドレスの準備が完璧にされていました。
「もし、レオン様が来たら……わたしは退室しておきます! ですから、どうぞ、ごゆっくり!!」
顔を真っ赤にして言われたことに、わたくしはポカンとしてしまいました。緊張感がゆるんで、何とも言えない笑いが込み上げてきてしまいます。
ふふっと笑ってしまったわたくしに、ジュリーは不思議そうな顔をします。
「気をつかわせて、ごめんなさい。……でも、もしレオン様が来たらそうしてくれると嬉しいわ」
そういうと、ジュリーは「お任せください!」と、力強く言ってくれました。
着替えの確認をしていると、コンコンと扉が叩かれました。びくっと震えてしまい、ジュリーと目を合わせます。
ジュリーも緊張した面持ちでいましたが、ひとつ頷くとドアへ向かいました。
ギッ……
開かれた扉の音がやたら耳につきます。全身の神経が尖ってしまっているせいでしょうか。
ゆっくり開かれた扉の先に見えたレオン様の姿。くすんだ金色の生地に深い茶色の蔦模様が刺繍されたベストを着ていられました。
その姿に切ない思いが込み上げてしまいます。
──来て、くださったんだ……
もしかしたら、来ないかもしれない。諦めかけていたことが現実となり、わたくしはきゅっと唇を引き結んでしまいました。泣きそうなくらい嬉しくて。
コルセットを縛ってくださいと、ねだった日。強い抱擁された後、わたくしは部屋に早々に戻されてしまいました。わたくしを引く腕は強く、足をもつれさせながら歩いた廊下。視線を逸らされながらおやすみを言われて、返事を拒絶するように扉は閉められました。
それから今日に至るまでの間。レオン様はわたくしを避けているみたいで、目を合わせてくださらなかったのです。
どうして避けれているのか。わたくしの何が悪かったのか。問いかけたくても、ずっと視線は逸らされたまま。
それがとても寂しくて……だから、わたくしは賭けにでました。
コルセットを結ぶ話を現実にしたくて「今日、お待ちしています」と、ジュリーを通してメッセージを伝えたのです。
ですから、まともに視線を合わせるのは本当に久しぶりです。
レオン様の表情はすっきりと晴れているわけではなく、わずかな戸惑いが見られました。
やはり、わたくしと会うのが嫌だったのでしょうか……
それでも、わたくしの口元はいやしく笑みを形作ってしまいます。
お誘いするように。
レオン様を引き寄せたくて、自然と出る笑みは女そのものをあらわしていることでしょう。
匂い立つ花の香りが、わたくしをふしだらな女に演出してくれればよいです。格好もシュミーズドレス姿なので、余計にそう見えてくれれば。
それで、レオン様がこちらに来てくださるのなら……
わたくしは女に成り果てても構わないとさえ思っておりました。
視界の端でジュリーがそそくさと出ていく姿が見えます。パタンと小さな音を立てて扉が閉まると、もう二人だけの世界です。
しばらく黙っていらしたレオン様が歩みを始めます。
一歩。また一歩。
近づいてくれるたびにわたくしの胸は歓喜に打ち震えました。
あまりに強く思いすぎたせいか、レオン様の姿が今日は違って見えました。
──……レオン様はこんなに綺麗だったかしら……
体の線を隠す室内コートも、厚手の外套も羽織られておらず、引き締まった体を魅せるベスト姿なので余計にそう思ってしまいます。
男らしさを象徴するようながっしりとした肩回り。胸から腰にかけてはしなやかなラインを描いていますのに、胸元のたくましさは獰猛さを隠しきれていません。
すらりと長い足は、女のそれとは違う美しさ。
──本当に綺麗……誰にも見せたくないくらい。
陽光が差し込む明るいうちだというのに、カーテンをひいて閉じこもってしまいたい気分になります。
この姿のレオン様をわたくしだけのものに。
それができたら、わたくしはますます恍惚に酔いしれることでしょうね。
──こつり。
止まった足音。わたくしたちを隔てる距離は靴一足分くらいでしょうか。
湯船から上がったばかりのような濡れた瞳で、レオン様はわたくしを見ています。
何か言おうとして開きかけた口は、出てくる言葉に迷ってしまい、結局閉じました。
「……おはよう。僕の奥さん」
名前で呼ばれなかったことに、わたくしは大きく目を開いてしまいます。
「……今は夫婦の真似事だからね。そう呼ばせてよ」
甘いお願いにわたくしの鼓動は早まり出します。はい、と細い声で返事すると、艶やかな声は始まりを告げます。
「じゃあ……コルセットをつけようか」
わたくしは返事をして、そばの丸い机に置いてあったコルセットを手に持ちます。それを頭から被り、背中を見せました。きつく絞られるような気がして、指先は机の上に。
顔を横向きにすると、のけぞったような体勢になります。淫らな格好に羞恥はありますが、わたくしはそれを隠すことなくレオン様に合図します。
「お願いします……」
媚が含んだ声が出てしまいました。それをどこか浅ましく思いながらも、わたくしは熱いときめきを瞳に宿します。
レオン様の顔から朝の晴れやかさは消え、秘めた獰猛さが顔を出します。
──食べられてしまいそう……
背中から噛みつかれ、骨まで折られるかもしれない雰囲気です。恐怖に似たものを感じますのに、真の心はそれを望んでいます。
──この人になら、きっと、何をされても構わない。
そう思った瞬間、わたくしの望みのままに背中に衝動が走りました。
するね、とも。いくよ、とも言われず、無言で与えられた締め付け。悪いことを願うわたくしに、罰を与えているようです。
予想を越える引きの強さに、わたくしはひゅっと息を飲みます。机の上に立てていた指は衝動に耐えきれずに崩れ、体重を支えるように手のひらを押し付けています。それでも、言葉ひとつかけられません。
「っ……」
また無言で紐を引っ張られ、たまらない締め付けに吐息が漏れました。
細くなる腰に比例して、強まる圧迫。ギリギリと絞られる感覚は、別のなにかを与えられているようです。
息も絶え絶えになっていると、独り言のようにレオン様が呟かれます。
「……コルセットってさ……意外と残酷なものだよね」
なぜですか?と、問いかけたかったのに、わたくしの唇は、はくはくと無意味な動きを繰り返すのみ。苦しさを顔ににじませます。
「コルセットをだれかに解かせたくないって思えば思うほど、君の腰は細く艶やかさを増す。今の君を見たら、他の男はどうみるだろうね……きっと、下心なしで見れない」
ぐっと引かれてわたくしは吐息を噛み殺します。
「僕ががんじがらめにするほど、君は美しくなるんだ。そして、男は欲の目で君を見て、僕はもっと君を拘束する……残酷な繰り返しだ」
強まった語気と共に痛みを伴う圧迫を感じました。
「レオン……さま……」
苦しくて名前を呼ぶと、引っ張られる感覚が途切れます。背中を丸めて耐えていたわたくしはテーブルの上に崩れました。
胸を上下させて肺に呼吸をおくると、覆い被さるようにレオン様がわたくしを支え、抱きしめます。
「ごめっ……強くしすぎた」
焦った声にわたくしはゆるゆると首をふります。痛みで瞳は潤みましたが、口元に笑みを浮かべました。
「大丈夫です……」
微笑んだというのに、レオン様が悲しそうな顔をされている気がします。酸素が足らない頭でボーッとしていると、背中を掻き抱かれました。
「ごめっ……好きすぎてごめん……!」
焦燥が帯びた声に返事をしようと口を開いたとき、首の後ろで鮮烈な痛みが走りました。
……そんなこと言わないでください。
そう言いたかったのに、わたくしから出たのは殺せなかった声のみでした。




