第三十二話 晩餐会の準備③
──結婚……
わたくしの心がどくんと痛みます。レオン様はありえない夢を語るように話し出します。
「うん。母上にもね、いつ結婚するんだって言われててね。エリアルの心が決まったら、もう準備を始めようかなって。大勢の人を呼ぶ、盛大な披露宴になると思う。……どうかな?」
ぎしっと奇妙な音を立てたわたくしの心。……なぜでしょう。嬉しい未来のはずなのに、わたくしはうまく笑えません。
レオン様と結婚すれば妻になれる。離婚はめったなことではできませんから普通ならば、わたくしは死ぬまでレオン様の妻でいられるでしょう。
子供を産み、侯爵家の一員としてサロンを開き、社交界でレオン様を支えることになるのでしょう。
考えたくはありませんが、愛人を持たれ、その方たちとも折り合いをつけてつつがなく過ごすことになるかもしれません。
……それは、一つの幸運な結末なはずなのに、わたくしは満たされません。
──……本当に嫌になるわ……わたくしはレオン様だけの女になりたいのね……
母でもなく、支えるパートナーでもなく、ただレオン様に心までどっぷりと愛される存在に。そんな考えにいきついて、わたくしは苦く笑ってしまいます。そんなこと許されるはずないですものね。
「嫌かな?」
どこか不安げになったレオン様の声にわたくしはまた思いを隠して、首をふりました。
「いえ……サロンのことで頭がいっぱいでしたので……驚いてしまいました。……嬉しいです」
うまく笑えている自信はありません。それでも、わたくしは笑います。拒否することなんてできませんから。
「……そう、よかった。でも、あまり乗り気じゃなさそうだよね?」
「それは……申し訳ありません。……まだどこか夢のようでして……」
不安のかけらを口からこぼすと、レオン様はどこか遠くを見つめるような眼差しをします。わたくしの方を向いているのに、その先を見ているようです。
「……夢か……現実味がないってことかな。……それなら、夫婦の真似事でもする?」
──夫婦の真似事?
こてんと首をかしげてしまいます。ふっと花の香りをただよわせ、レオン様がわたくしに、一歩、近づきます。
境界線を越えるように。あるいは今の関係を壊すように。線をはみ出した、たった一歩の距離。
「……夫婦って何をするかな……たとえば肉体的な接触……とかかな?」
花の匂いを撒き散らしながらするりと頬が撫でられます。びくりと震えましたが、レオン様の指先は離れません。わたくしの輪郭を繊細な指先がつぅと撫でていきます。
ゾクゾクっとした奇妙な感覚をもて余していると、レオン様の親指がわたくしの下唇に触れます。顎はとらえられ、顔は上へ。
「エリアルって敏感だよね……触れるとすぐびくびくしちゃう」
「……すみません……慣れなくて……」
好きな思いがわたくしの肌をより感じやすくしてしまっているのでしょう。恥ずかしいですわ。
「なんで、謝るの? すごい可愛いよ」
否定されずに微笑まれると、くらくらと目眩に似たものを感じて意識が混濁していきます。
そうなるのは、この花の香りのせいでしょうか。わたくしから出ているものなのかレオン様から出ているものなのか……交じりあって分からなくなります。
「もし……このままエリアルの唇に触れたらどうなるかな……」
ぽつりと呟かれた言葉と同時にレオン様の親指がわたくしの口を薄く開いていきます。意味がわかってきゅっと身を縮めてしまったわたくしに、レオン様はくすりと笑います。
親指は軽く下唇をはじいて、そのまま下へ。顎を伝い、首から鎖骨まで線を描いていきました。強すぎないタッチ。それがかえって辛かったです。体を小刻みに震わせないようにしたくてもできませんから。
「口だけじゃなくここら辺に痕をつけることもできるよね?」
骨が浮き出たところをなぞられ、刺激に耐えながらも質問します。
「……痕とは……?」
「うーん。つけぼくろみたいなものだよ。お化粧のひとつとして流行っているよね?」
つけぼくろは、顔や胸元にほくろを描いてセクシーさを出すお化粧のことです。つけぼくろ師という職業もありますから、ほくろを描くのはファッションのひとつですわ。
「……レオン様が描くのですか?」
そう尋ねると、レオン様は唇の端をあげました。
「そうだね。……まぁ、僕のは黒ではなく鬱血した色だけど」
わたくしは意味がわからず、レオン様を見上げます。
「……それはまだ早いかな。ひとつじゃおさまらなさそうだし。そうだな……」
レオン様の指が鎖骨を通りすぎ、深紅の服にひっかかりながら、胸元のところでとまります。固く締め付けたコルセットの感触に気づいたのか、レオン様の口元から笑みが消えました。
「……今日はコルセット、つけているんだね」
すっと急に冷えた声色。瞳は星が消えた暗い闇に落ちているような気がして、わたくしはひゅっと息を飲みました。
「コルセット……ね」
にやっと持ち上がった唇。何か企んでいるような顔をされて、わたくしは反射的に震えます。
「……妻のコルセットを夫が縛るなんて、よくある話だよね?」
「それは……」
わたくしも聞いたことがありました。夫婦の一つのコミュニケーションだとサロンで耳にしました。
淑女方が扇子でひそひそと囁き合いながら「夫は締め付けがゆるい」だの、「強すぎて痛い」だの。
不満の種とも言える話ですが、それを話す淑女がたから妙な艶を感じました。
それを思い出しながら、わたくしはゆっくり頷きます。
「夫婦の真似事をしよう。今度のサロンでエリアルのコルセットを縛らせて」
そのお誘いにわたくしは目を見開きました。どうなってしまうのか、想像がつくというのに、わたくしのお返事はすぐに決まってしまいました。
わたくしは抗えないなにかを感じとりながら、レオン様の肩に頭を預けます。
目を見て、こんなこと言えませんから。
「……わたくしを、縛ってください」
どうかわたくしの思いが暴れださないように。
その手で、たしなめてください。
願いを口にすると、わたくしは抱きすくめられ、全身は危険な花の香りだけになりました。




