第三十一話 晩餐会の準備②
──同じ色……
レオン様を見て最初に思ったことがそれでした。奇遇とも思える同じベルベットローズにわたくしは呆然としてしまいます。それを不思議に思ったのか、レオン様が立ち上がって近づいてきます。
歩く度に光を取り込んで模様が浮かび上がり、宝石のような輝きを放っています。青は深い海のようでしたが、赤は燃えおちる太陽のようです。
わたくしは戒めも忘れ、またも惚けてしまっていました。
「エリアル?」
近くで声をかけられ、わたくしは意識を現実に引き戻します。
「すみません……あの、こんばんは、レオン様」
慌ててしまって口からでたはのは、気の抜けた挨拶でした。それを聞いたレオン様は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をされます。わたくしは自分のしたことが恥ずかしく、ドレスのパンフレットを両手に抱えこみました。
「こんばんは、エリアル。こっちに座って」
いつも通りの穏やかな声色。それに緊張がゆるんでいきますが、促されたソファを見てわたくしはまた身を硬直させました。
──あの時のソファ……
触れたかすかな唇の感触と、蕩けるような視線を思い出します。熱くなりはじめた指先が持っていたパンフレットをくしゃりと歪めます。
「どうしたの? 座って」
「はい……」
意識を散らすために肘掛けのない方へ、そろりとソファに腰かけます。生地の固いソファなので、座るときに軽く腰が弾みました。
小さな振動にもかかわらず、わたくしの心臓の鼓動までも跳ねあがります。
空気に飲まれないようにと思っていましたのに、わたくしは愚かですわ。記憶したものを体が勝手に蘇らせてしまうのですから。
──期待しすぎているわ……今日はドレスの相談をするだけなのに……
わたくしが心もとない気持ちでいると、レオン様はごくごく自然に横に座り、話しかけてきます。
「ドレスの相談だっけ? それがパンフレット?」
はっとして、わたくしはパンフレットをレオン様に見せました。端がくしゃっとなってしまっていたので、慌てて手で伸ばします。
「はい……こちらになります」
わたくしはデボラさんの説明を思い出しながら、ドレスの話をします。レオン様は間に口を挟むことなく聞いてくださって、話が終わると問いかけてきました。
「エリアルはこのドレスが気にいったんだよね?」
てっきりドレスの指摘をされるかと思いましたので、意外な一言です。
「えぇ。素敵なドレスだと思いました」
「そう。なら、僕は何も言うことはないよ」
あっさりとした承諾。デボラさんの話ではレオン様のこだわりはすごいと聞いていましたから、拍子抜けしてしまいます。
「……そうですか。ありがとうございます」
いいと言ってくださっているのに、これ以上話すのも変なので、そそくさとパンフレットをしまいます。
「後は何かある?」
問いかけられて、わたくしは戸惑いつつデボラさんのお願い事を口にしました。それを聞いたレオン様は一瞬、眉根をよせましたが、すぐににこりと微笑まれます。
「そう。デボラとエリアルは話が合うんだね。僕は相性が良くないから、今度からは君が話すといいよ」
またもあっさり許されてしまいました。話が終わるとレオン様はソファから腰を上げてしまいます。
「部屋まで送るよ。短い距離だけど、暗いからね」
おしまいを告げられて、わたくしは心にポッカリ穴が空いたようでした。
用件はすんだはずですのに、この空虚はなんでしょうか。
ぽっかりと空いた穴を覗いてみると、自分の本心が見えて、わたくしは妙に納得してしまいました。
──あぁ、そっか……わたくしはもうダメなのね……
いくらコルセットで締め付けようとも、いくら違う装いにしようとも、もう気持ちを拘束できません。わたくしの心はレオン様に一直線に向かっているのだと悟りました。
漏れたのは苦い笑み。それは今まで積み上げてきたものがガラガラと崩れる音を聞いたせいでしょう。それでも──
わたくしはレオン様に手を伸ばしてしまいます。つかんだのは室内コートの端。
わたくしの行動に驚いたのか、レオン様は目を見開いています。すがるような瞳を向け、わたくしは心のままに口を開きました。
「もう少しだけ……そばにいていいですか?」
甘えを言葉にすると、空気は夜の香りに包まれていきました。わたくしから香る花がふわりと強くなった気がします。きっと、体温が高くなったせいでしょう。
レオン様の藍色の瞳から爽やかさが消えていきます。陽が沈み、夜の訪れを告げるような暗い青。静かな瞳が語りかけてくるものはなんでしょうか。
ポーンと鍵盤に指を落としてピアノソナタが始まりだすような雰囲気です。指が奏でる音は夜の暗闇に溶けるように静かに始まり、静かに終わるでしょうか。恋人たちが夜の木陰で睦言を囁く雰囲気にぴったりの甘いバラードのように。
それとも──一時の逢瀬にしがみつく時に奏でられるような激しい旋律になるのでしょうか。
「いいよ……」
なまめかしく持ち上がったレオン様の口元。それは、わたくしたちを包む旋律は後者なのだと教えているようです。指は鍵盤を強く叩き、リズムは加速する。心を乱す音階はわたくしを今宵も揺さぶるのでしょう。
それはたまらなく嬉しいことです。
負けないくらいうっとり微笑むと、レオン様は静かにソファに腰を下ろされました。
戻ってきてくださったのに、わたくしは離れがたくてコートの端を掴んだままです。それをレオン様は一瞥しましたが、何も言いません。暗い青の瞳にわたくしは囚われ、じっと見つめてしまいます。
無言の二人だけの時間が過ぎていきます。交わす言葉はないというのに、それでも満たされていくのはどうしてでしょうね。この瞳をずっと見ていたい。一秒でも長く。
胸が苦しいのに離れがたいのは、わたくしがすっかりレオン様の虜になってしまったからでしょう。
──だから……わたくしは無意識に出してはいけないと感じていたのね……
腹にずっと溜めて、目を逸らしていた本音。蓋をあけたらレオン様のことしか考えられなくなるから、わたくしは閉じていたのでしょう。
侯爵家の婚約者としての責務を放棄して、ただレオン様を求める浅ましい女になってしまう。淑女らしく誰かに微笑むくらいなら、この藍色の瞳を見ていたい。そんなわたくしを他の方はどうご覧になるのでしょうね。
愛想もなく、媚びへつらうようにレオン様を見て、社交をなんだと思っているのか。そう蔑みの目で見られるような気がします。
それはダメだと分かっているのに気持ちに歯止めがきかなくなる。見えた未来にわたくしの心は沈んでいきます。
──それは……婚約者というより、娼婦にもなれない卑しい生き物だわ……
きゅっと引き結んだ唇。なんともいえない焦燥を感じてしまい目の奥がツンとしました。
「どうしたの? そんな、目を赤くして……」
レオン様がわたくしの変化に気づいてくださり、優しく声をかけてくださいます。わたくしは口元に微笑を浮かべて、狂暴な思いを隠します。
「こうしているだけで幸せなので……」
時が止まってしまえばいい。そうできればきっと、幸せなのでしょうね。無理とわかっていますから、焦がれるのです。
「……そっか。エリアルはずっと僕といたい?」
「えぇ……」
間をおかずに答えると、レオン様は夢見るようにうっとりと微笑みます。
「……じゃあ、サロンが終わったら、結婚式の準備を始めようか」




