第二十五話 キッチンでの出来事②
「エリアル様。気になることがありましたか?」
白いシェフ服を着たジョスさんが、にこやかな笑顔で話しかけてきました。ジョスさんは長く料理長を勤めているらしくお年はわたくしのお父様と同じくらいです。
「いえ……素晴らしい蛇口だと思いまして」
「あぁ。確かに。ここの水道は最先端のものを使っていますからね」
そう言ってジョスさんは蛇口の上にある銅製の筒を指さしました。
「あれは浄化器です。パリの水は綺麗ではないので、レオン様が取り付けようと提案してくださったのですよ」
──レオン様が?
驚いていると、ジョスさんは目尻に皺を作りながら、くしゃっと微笑まれました。
「えぇ。前は水道水を飲んでおなかを壊す者が多かったのですが、エリアル様にそんなことはさせられないと言われていましたよ」
あたたかな言葉に胸がいっぱいになります。頬に熱が帯び、わたくしは微笑みます。
「そうだったのですね。レオン様に感謝を伝えます」
そう言うとジョスさんは何度もうなずいて笑顔になりました。
***
いよいよパン作りです。わたくしは女性の料理人の方と一緒にジョスさんの指導の元、パンを作っていきます。今日、作るのはブリオッシュ。
バターと卵をたっぷりと使ったふわふわのパンです。一口かむと甘味が広がるので、パンというよりお菓子に近いでしょうね。
使われるのは真っ白な小麦粉。卵、砂糖、塩、生イースト、バターです。きちんとひかれた小麦粉を使うのは贅沢です。
わたくしは真っ白な小麦粉を使うのは稀でした。小麦粉をひくのも勿体ないので、外皮もすべて含まれたものを使っていました。ライ麦を混ぜることもあったので、スープに浸さないと食べられない黒くて固いパンしか作れませんでした。だから、白い小麦粉は宝石のように煌めいて見えてしまうのです。
バター以外のものをすべて混ぜて、こぼさないように丁寧にこねていきます。
材料が混ざったところでジョスさんが声をかけてきました。
「バターを入れていきましょうか。少しずつ。でも、ここからは温度調整が大事ですよ。バターが溶けだしてしまうと、風味をそこねますから」
わたくしはますます表情を固くして真剣に作り続けます。
二度の発酵を経て、やっと焼く段階になり、わたくしはほっと胸を撫で下ろしました。
パンを焼いている間、わたくしは落ち着かなくてそわそわとオーブンの前にいました。するとジュリーが近づいてきます。
「エリアル様、ずっと立ちっぱなしでお疲れでしょう。サロンでお休みになられてはいかがですか?」
わたくしはゆるゆると首を振ります。
「ごめんなさい。出来上がりが気になってしまって……焼き上がるまでここにいたいの。皆さんのお邪魔にならないようにするから、お願い」
しゅんと項垂れて言うと、うつむいた視界の先にジュリーの拳がふるふると震えているのが見えました。
「消えるわけにはいかないのよっ……」と何かを噛み殺した声がジュリーから聞こえてきます。
「ジュリー?」
顔を上げると頬を紅潮させたジュリーがいました。でもそれも一瞬で、優しげな眼差しに変わっていきます。
「ではせめて、椅子にお座りください」
そう言って、奥から椅子を持ってきてくれました。わたくしはそれにお礼を言って、座ります。ふと周りの視線に気づき、わたくしは頭を下げました。
「お仕事を邪魔してごめんなさい。もう少しだけいさせてください」
そう言うと、皆さん口々に「気にしないでください!」と言ってくださったので、わたくしは甘えることにしました。
そして、やっとブリオッシュが焼き上がりました。
見るからに美味しそうな焼き色がついたブリオッシュからは、豊かなバターの匂いがして鼻孔をくすぐります。
バターもあまり溶けだしておらず、綺麗な見た目に頬が緩みます。
わたくしは周囲をぐるりと見渡して、その場にいた人数を数えました。
──大丈夫だわ。ちゃんとみんなの分がある。
出来上がったブリオッシュを前にして、みなさんへ笑顔で言いました。
「素人が作ったもので申し訳ありませんが、よかったら皆さんも一緒に食べてくださいませんか?」
食べてくれたら嬉しいなと思っていましたのに、その場にいた全員が凍りつくように顔から表情を消しました。
シンと静まり返ったキッチン。あまりに蒼白した表情でしたので、いけないことを言ったのかしら……と動揺します。
ジュリーが顔をひきつらせながら、わたくしに話しかけてきました。
「エ、エリアル様……わたしたちのことは気になさらないでくださいっ……レ、レオン様に全部、召し上がって頂ければよいかと……」
ジュリーにそう言われてしまいましたが、目の前には十二個もブリオッシュがあります。これを全部というのは無理があります。
「でも……全部は食べきれないわよ……」
困ってしまってジュリーに言いましたが「いいえ!」と強く否定されました。
「レオン様ならば必ずや完食させると思います! おなかが空いてなくても食べきりますよ!」
ジュリーに強く言われてしまい、わたくしは弱り果てました。焼き上がったブリオッシュに視線を落とします。
「焼きたてが美味しいと思ったのだけど……」
ですが、つかえる相手が作ったものは食べれないと思うのかもしれません。残念ですが……
「レオン様に全部食べてもらうには量が多いから、一つだけお出しするわ。他のは食べれるだけ食べてしまうわね」
そうすると、わたくしのお夕食は少なくして欲しい。わたくしはジョスさんに向かってお願いをしました。
「わがままばかりで申し訳ありませんが、わたくしのお夕食は少なめにお願いします。きっと、ブリオッシュでおなかが満たされてしまうので。……いつも綺麗に作ってくださっているのに残すのは心苦しいです。……できれば食べきりたいので、よろしくお願いします」
そう言うと、ジョスさんは驚いたように目を見開きました。
しばらくの沈黙後、意を決したような表情をされます。
「エリアル様のブリオッシュ。私が頂きます」
静かな決意が込められた顔をされて、周りにいた料理人がざわめき、洗いものをしていた女性は、水を出しっぱなしにして手の動きを止めます。
「料理長……はやまらないでください!」
ひとりの料理人が声高に叫びましたが、ジョスさんの決意は固いようで、「黙っていなさい」と一蹴します。ジョスさんは目に涙を浮かべて、感極まったようにわたくしに言いました。
「エリアル様の優しい心に感動しました。食べきりたいなど、料理に携わる者としてこれ以上、嬉しいことがありますでしょうか!」
くっ、と感情を殺し、ジョスさんは涙を拭います。まるで演劇のクライマックスのような雰囲気にわたくしはポカンとしてしまいました。
「エリアル様のブリオッシュ。食べさせて頂きます」
そう言って、ジョスさんはブリオッシュを口にしました。噛み締めるように味わって、ごくりと飲み干すと双眸から、はらはらと涙を流しました。
「美味しいです。初めて作ったとは思えない美味しさです」
あまりの様子に、わたくしの口は開きっぱなしです。ジョスさんの様子を見たジュリーが近づいてブリオッシュを一つ手に取りました。目にはキラリと光るものがあります。
「エリアル様……わたしも頂きます……」
「ジュ、ジュリー?」
ジュリーは今まで見たことない優しげな微笑みをしています。
「何も言わないでください。たとえ、これが最後の晩餐になろうとも、わたしは後悔をしません」
何かがとても変です。わたくしのブリオッシュを食べるのは、決死の覚悟が必要のような……
わたくしはあまりの雰囲気にジュリーを止めようとしました。
「いいのよ、ジュリー。無理しないで」
「無理はしていません。本望です」
そう言って、ジュリーはパクリとブリオッシュを食べました。そして、口元を押さえて一筋の涙を流します。
「こんなに美味しいブリオッシュは初めて食べました」
そう言って、ジュリーは聖母のように微笑みます。
「エリアル様。どうか末永くレオン様のお側にいてください。わたしたちの願いはそれだけです」
ジュリーがそう言うと、ジョスさんまで泣きながら、頷いています。
何がなんだかわたくしには分かりませんでしたが、ひとまず頷きました。
「えぇ、もちろんよ。レオン様のお側にいつまでもいるわ」
そう言うとジュリーは安心したように微笑みました。
***
その日の夜。レオン様と余暇を過ごすことになりました。突然のお誘いに驚いてしまいました。
いつもでした、お帰りの時に声をかけてくださるのに、今日はお風呂に入った後。わたくしは慌てて支度をしました。
レオン様と夜を共にするのは久しぶりですので、緊張してしまいます。わたくしはコルセットをせずに、またハイ・ウエストの白いワンピースドレスに着替えました。
そのドレスにしたのはバカな期待をまたしてしまったから。
そう。トランプをした日に着たものです。
今日は遊戯を楽しむためのサロンに呼ばれたわけではありませんのに、わたくしはあの夜の魔法にかかりたくて、そのドレスを迷うことなく選んでおりました。
今日、呼ばれたのはレオン様の書斎です。レオン様のプライベート空間に足を踏み入れるのは初めてなので、すでに心臓は高鳴っております。
書斎はわたくしの部屋の隣のレオン様の私室を通りすぎた先にあります。わたくしは、緊張をほぐそうとひとつ息を吐いて、ドアをノックしました。
しばらくすると返事はなく扉が開いていきます。
ドアの隙間から香った花の匂い。木の軋む音が静かに響き、先に見えた煌めく藍色の室内コート。人が通れるほど開かれると、細められた藍色の瞳が見えました。
「やぁ、エリアル。……こんばんは」
たった一言。そう言われただけなのに体はあの夜を思い出し、勝手に火照りだしました。
「廊下は寒かったでしょ? 入っておいで」
差し出された手に吸い込まれるように、手に指を添えました。指が手のひらに触れた瞬間。
いつになく強く捕まれ、引きずり込まれるように部屋に入りました。




