第二十三話 レオン視点②
「ハンプティ・ダンプティ、塀にのる」
湯船に浸かりながら、レオンは歌をうたい続ける。
こんなにご機嫌なのは、今日のエリアルとの外出が成功したからだった。
コーヒーハウスでのやりとりを思い出すと勝手に口が笑いだす。四隅の席を用意したのはわざとだったが、予想以上にいい演出をしてくれた。
──あのアイスクリームを食べるときの顔ったら……誘いすぎだよ……
潤む瞳に、恥じらう頬。差し出される舌の赤さに興奮は募る。思わず喉がなったのは仕方ないことだ。
そもそも今日はエリアルを外でうんと甘やかすつもりだった。
そのために、彼女がなりたいと言っていたダリアの花に見立てたドレスを用意した。彼女はレオンの思いに気づかないかもしれないが、それはそれでいい。ジュリーを使って彼女を監視していると気づかれ、怯えて頑なになられる方が厄介だ。
──まだだ……僕のすべてをさらけ出すのはまだ……先……
そう思いつつ、願うならば、この歪んだ盲執を全て見せつけたくなるのも事実だ。どっぷりとエリアルに浸った心を見せたら、さぞかし溜飲が下がることだろう。それによって、彼女が壊れてしまっても、自分は笑って、彼女の残滓をかき集めて眠るだけだ。
脳裏にあの〝バッドエンド〟が過る。
聖女にフラグを折られたもう一つの未来。
自分の盲執が最悪の方向へ動き出したとき、レオンは笑い声をあげながら、部下を皆殺しにしていた。戦争中の出来事だ。最終局面というところで、先陣をきっていたレオンは聖女を裏切り、その戦は大敗した。
そして、聖女の前で自害をした。
レオンは聖女を愛し、憎まれることを望んだゆえに起こした行動だった。
自爆型ヤンデレ。
それが〝攻略本〟に書かれていたレオンのステータスだ。
相手を殺して、自分だけのものに……なんて、無意味なことはしない。
相手のいない未来など、なんの価値もないからだ。
亡骸を抱いて夢に閉じる現実よりも、相手を追い詰め、憎まれ、その心に生涯消えない爪痕を残す方法をレオンは取る。
愛する人の心に残るなら、この命など実に軽いもの。思いを貫けるなら惜しくはなかった。
そして、今もその思いは変わらない。根本的に自分はあの攻略本になぞられた通りの性格なのだろう。
こんな性格を狂っている、と思うのに、止める気はなかった。
もう止められないところまできている。
愛する対象は変わったが、エリアルに対しても同じような想いを抱いている。極端な行動を起こしているかいないかの差だけだ。
もう、エリアルの存在しない未来など、レオンには描く気がない。
彼女に三度、恋に堕ちたからだった。
一度目は、〝スチル〟を見たとき。
二度目は、初めて会ったときだった。
初めて会ったとき、絵画の中で見た少女は美しく清楚に成長していた。くせのあるブロンズの髪を風に揺らして、彼女は突然の婚約話に戸惑っていた。
「本当にわたくしなどがフォーレ様の婚約者などで宜しいのでしょうか。わたくしの家は見ての通り、田舎です。都会の華やかさも知らぬ田舎者です……」
あの時の彼女は慌てて用意したそっけないドレスに身を包んでいた。今のエリアルとはかけ離れた純朴な少女は不安を吐露していた。侯爵家の申し出を断わらないが、理由が分からないという風だった。
まさか〝スチル〟の話をするわけにもいかない。あの彼女に落とされたなど、目の前の彼女に言ってもわけがわからないだろう。
──それに……
目の前の彼女は〝スチル〟の彼女とは正反対だった。聖女の策が効いたのか、激しさとは無縁の場所にいた。なのに、この心臓が掴まれた衝動はなんだろう。
パリで見た香水を振りまく女性とは全く違う、生まれながらに持つ清らかさに惹かれた。そして、この清楚な顔が激しく歪んだら……と思うだけでゾクゾクした。
そんな醜い劣情を隠して、レオンは爽やかに微笑んでみせた。
「君の美しさに感動したんだ。婚約者になってほしい」
心からの笑顔が出たのは、なぜだろう。
婚約者になることを了承されたとき、スチルを見たときとは別の歓喜が含まれていた。
三度目は、半年の遠征を経た時だ。
正直に告白すると、レオンは参っていた。
あまりにエリアルが美しくなりすぎていて。
半年で彼女は洗練された淑女になっていた。
そのままでも美しかった原石が磨かれてダイヤモンドになったかのようだ。余裕すら感じさせる微笑みは、レオンを初な男に戻した。口調を変えたのは、本当に単純に格好をつけたかったからだ。
今日の外出では、その時の淡い気持ちを思い出してしまった。
ドレスを身につけた彼女はどのダリアよりも、鮮やかで可憐だった。
あのドレスを着てはにかむ笑顔を見たとき、叶うならばこの瞬間を切り取って絵画に閉じ込めておきたいと願ってしまうほど見惚れた。
全身を巡る歓喜を微笑みに変えて、彼女の手をとった。
〝レディ・ファースト〟は外でエリアルに触れるための言い訳だ。それは、国王エドモンに教えてもらったことだった。彼はツンと澄ました聖女から「レディ・ファーストも身についていない男は好みじゃない」と言われて、女性を優先させる方法を教えてもらったらしい。
「なつかない猫みたいで可愛いんだ。手懐けたくなるだろ?」国王は心底楽しげにレディ・ファーストのことを話していた。それを聞いたレオンは、女性のエスコートにそんな方法があるのかと感心した。
──レディ・ファーストか……それなら、照れ屋なエリアルも素直に僕の言うことを聞くかもな。
彼女は触られると緊張してしまうから、「異国では普通」とルールを言う方がいい。その方がごく自然に身を委ねてくれるだろうと、期待した。
結果は上々だ。エリアルは不思議に思うことはなく、素直にレオンの腕に身を絡ませてきた。
彼女と密着した瞬間、鼓動が跳ねたのは内緒だ。秘密にしておかなければ、今すぐ彼女を横抱きにして、何をしたかわからない。ベッドに組敷いていたかもしれないし、我慢できずにサロン室に連れ込んだかもしれない。
自分の突然の行動によって、泣きはらす彼女を見るのも興奮するが、今日は甘やかすと決めていたから……レオンは我慢した。
その自分への洗脳がよかったのか悪かったのか。素直に謝罪はできた。
あの謝罪はエリアルが、外で身分のことを気にしなくてすむようにするためのものだ。
侯爵家の中では、淑女の仮面を外しつつあるが、外ではまだその仮面をつけたままだ。
トランプをしたときも思ったが、エリアルは一歩引くと素直になる。こっちが引くと絆されてくれる。だから、今まで悪かった。冷たくしてごめん、と謝ったのは計算だった。
いや、正しくは彼女を攻略するルートを参考にしたと言うべきか。
すべては計算。彼女を自分のいる位置に落とすための。
──だけど。
エリアルに寂しかったと言われたら、心臓が貫かれたみたいな痛みを覚えた。途方もない罪悪感が襲ってきた。
クグロフやパンを作っていたことも、彼女の家に紛れ込ませた料理人から聞いていたはずなのに、顔を赤くして告白する彼女に歓喜した。
自分への思いをあらわす態度が素直に嬉しかった。
それは、自分には欠けていた何かを取り戻したような感覚に似ていた。だから、あんなに無邪気に喜べたのだろう。
〝ヤンデレ〟にきくのは、献身的な愛。それは、エリアルに自分の行動を受け入れやすくするための嘘だったが、案外、本当なのかもしれない。
このまま穏やかに、うまく本性を隠して、ただエリアルを健やかに愛する男になってもよい気分になる。
パリから帰って来た後、エリアルはレオンの希望通り、クグロフを焼いてくれた。ドレスを簡素なものにして、キラキラと輝く笑顔で料理をする彼女は、見たことのない美しさがあった。
本性を隠しておけば、ずっとこんな幸せな笑顔を見つづけられるのかもしれない。それは一つの幸運な結末だ。
だけど。
「ハンプティ・ダンプティ、落っこちる。王の馬も家来も。ハンプティを戻せない」
一度堕ちたら、もう元には戻らない。
この歌のように。
レオンは湯船から上がり、ガウンを羽織っていく。引き締まった体躯にはぬるい雫がつたり、ポタポタと床に円を描いた。
隅々まで香るチューベローズの香り。危険な快楽に身をこがした男の末路はどうなるのだろう。案外、悲惨なものかもしれない。
それでもいい。
自分は〝攻略対象者〟──攻略すべき相手だ。善か悪かでいえば、悪の方だろう。
思わずあの〝バッドエンド〟になぞられた言葉を心の中で吐きだす。
──死が僕たちを結びつけてくれるんだよ。
自分が描く未来に、その台詞はあまりにしっくりきた。だから、自然と口元は弧を描いてしまった。
ハンプティ・ダンプティの歌はマザーグースの歌の一つになります。
お風呂の話で、悪魔が~という話はキャサリン・アッシェンバーグの著書『図説 不潔の歴史』に書かれていたものをアレンジしたものです。情報をくれたAさまありがとうございます。そして、シラミ話は活動報告で私に切実と恐怖を植え付けてくれたBさまに捧げます。




