第十九話 パリへお出かけ③
──アイスクリームは僕が?
レオン様の言っている意味がわからず、こてんと首をかしげます。
「まずはコーヒーを飲もうか」
満面の笑顔のレオン様に勧められるがままに、白いカップに手を添えます。シンプルなカップには茶色い文字で店名が入っていました。飲み口は紅茶のカップよりも厚く、ぽってりとしています。
紅茶の花の香りとは違う焦げた匂いが鼻をくすぐり、わたくしはカップに口をつけました。
こくり。一口飲んで、吐きそうになりました。あまりにも苦くて。
──こ、これは……
二口目が飲めずに固まります。
甘さが欲しくなる苦さ。薬かしら?と思いたくなります。
ちらりとレオン様を見ると、平然と飲んでいました。あまりに自然に飲まれているので、わたくしの味覚がおかしいのでは?と思ってしまいます。
わたくしは戸惑いながら二口目をすすり、苦味に眉根をひそめます。そして、カップを受け皿に置きました。
「コーヒーはどう?」
率直に尋ねられて、びくりと体が跳ねました。どうにか笑みを作りましたが、まずいです、とは言えません。
レオン様はそんなわたくしを見て、くすりと笑いました。
「苦いよね? 昔は病原菌や虫歯に効く薬と言われていて、日に四度、愛飲した王もいると聞くし」
レオン様はそう説明しながらも、涼しげな顔でコーヒーを飲みます。そして、アイスクリームに視線を落としました。
「コーヒーが苦いから、このホイップクリームを凍らしたアイスクリームと一緒に飲むのが店の流行りみたいだよ。砂糖と蜂蜜をくわえているから甘いし、柔らかくなってから出しているから、喉ごしもいい。口の中でとろけるよ」
口の中にまだ苦味の残るわたくしは、アイスクリームに釘付けになります。
──口でとける……美味しそう……
思わず喉が鳴りました。
食い入るように見つめていると、レオン様は銀のスプーンでアイスクリームをひと匙すくいます。そして、しっとりとしたそれを、わたくしの顔の前に差し出しました。にっこり微笑んで。
「ほら、エリアル。食べてごらん。すっごく美味しいよ」
わたくしは微笑んで「ありがとうございます」と言い、スプーンを受け取ろうと手を伸ばしました。
わざわざすくってくれたんだ、と思ったのですが……
ふいっと手が空を切ります。レオン様は目を細めて、違う違うと言います。
「口を開けて。食べさせてあげるって言ったでしょ?」
わたくしは目を白黒させて、固まります。そして動揺しながら、小声で尋ねます。
「えっと……食べさせてあげるとは……」
尋ねると、レオン様は口を開きます。大胆に開かれた口は赤い舌が丸見えで、ぎょっとしてしまいます。レオン様はごく当たり前のことをしているかのような雰囲気で微笑みをたやしません。
「こうやって口を開いて。はい、あーん」
たっぷりと時間をかけて言葉を理解します。
えっとこれは……赤ん坊に与えるみたいに食べさせるということでしょうか。赤ん坊は消化器官が発達していないので、食事はどろどろに煮込んだものをスプーンで与えると、本で読んだことがあります。
だから、レオン様の食べさせてあげるというのは、そういうことなのでしょう。納得しました。
──……って、違うわ! わたくしは赤ん坊ではないでしょう!?
行動の意味はわかりましたが、それをわたくしにする意味がわかりません。わたくしは混乱のままに、早口で言いました。
「あのっ……わたくしはいい大人ですから。そのっ……ひ、一人でできますから」
どうしましょう。すごく噛んでしまいました……
それなのにレオン様は無邪気な笑顔でいます。
「ははっ。いい大人でも、甘えたかったら、食べさせてもらうんだよ。おかしなことじゃないよ。ほら、早く。アイスクリームが溶けてしまう」
銀の匙の上では、冷たいクリーム色が溶けて光っています。わたくしは首を横に激しく振って、抵抗します。
「そ、それは淑女らしくないですから……やはり……」
「──そう。それだよ」
わたくしの声に被さるようにレオン様は言葉を重ねました。呆気にとられていると、藍色の瞳がまた蠱惑的なものに変わります。
「淑女らしくってエリアルがすごく頑張っているのは知っているよ。でもね。僕の前では気を張る必要はないんだ」
また……藍色の瞳がわたくしを捕らえて、呪文をかけます。
「僕の前では、淑女らしくしなくていいんだ。ただのエリアルになって」
「ただのエリアル……?」
まるで幻惑にかかったようにレオン様の瞳に意識が吸い込まれていきます。
「そうだよ……ただのエリアルになって、僕に甘えて」
どきりと心臓が跳ねました。わたくしの動揺をあらわすように動悸が激しくなっていきます。
レオン様はスプーンを左手に持ちかえて、右手にはシルクハットを持ちだしました。それを横にして、わたくしの顔に近づけます。
シルクハットで隠されたわたくしの顔。丸くできた影は隣の人の視線を遮断します。
丸い影の中にレオン様が体を近づけてきました。そっと、獣が気配を殺すように。
「ほら、こうしたら隣の人にも分からない。誰にも気づかれないよ」
低く囁やくような声。
ここは四隅の端なのでほんとうに誰からも見えないでしょう。シルクハットがわたくしたちを二人っきりの世界に閉じ込めてしまったかのようです。どくり、どくりと、心臓は高鳴り、人々のざわめきも、どこか遠くに感じます。
ちらりと、銀の匙に視線を落とすと、とけだした白いアイスクリームがスプーンを伝い、雫をたらしそうです。それに喉が鳴りました。
「僕しか見えないから。ほら、口を開けて」
わたくしは魔法にでもかかったように口を開きます。ドキドキしすぎて、唇は小刻みに震えてしまいます。
「もっと大きく開けて。舌が見えないよ? あーん、てして」
恥ずかしいのにレオン様の声を聞いていると抗えません。わたくしはぎゅっと目をつぶり、舌を差し出しました。
冷たいスプーンの感触がして、舌を滑るように動かされます。甘いものが喉に流れてきて、こくりと反射的に飲み干しました。
焼けつくような甘さを喉に感じて、わたくしは震えてしまいます。
スプーンの端から垂れたアイスクリームが、わずかに唇を濡らし、わたくしはそれをとっさに手で隠します。
──冷たくて甘い……なのに、体が熱い。
いけないことをしてしまったかのような罪悪感と興奮が体を巡り、いたたまれません。テーブルの上にあった白いナプキンで、軽く唇をぬぐいます。恥ずかしくて目をふせていると、視界が明るくなりました。
どこか遠かった人の喧騒が戻り、わたくしは顔を上げます。レオン様はシルクハットを元のフックに戻していました。
それが終わると、スプーンをアイスクリームののったお皿に添えます。すっとわたくしの前に差し出されたアイスクリームの皿。
「溶けてしまうから、後はエリアルが自分で食べなよ」
先程までの艶やかな雰囲気を微塵にも感じさせない爽やかな笑顔。魔法が溶けて、現実に引き戻されたかのようです。
わたくしはいつの間にか、口を強く引き結んでいました。
──わたくしだけが意識していたのね……
よくよく考えて見れば、たかがスプーンでアイスクリームを食べただけのこと。それを濃密な時間だと勘違いしたのは、わたくしだわ。
溢れだしそうな気持ちをあらわすように、アイスクリームが溶けて雫をたらしています。
わたくしはまだ恥ずかしくて火照る体をのろのろと動かし、スプーンを持って、ひとさじすくいました。
「……頂きますわ」
歯切れ悪く言って、それを食べようと口元に持ってきたときでした。
「ねぇ、エリアル」
アイスクリームが口に触れる前に呼びかけられました。声に導かれるように顔を上げると、嬉々とした藍色の瞳とぶつかります。端が持ち上がった口元は、ぞくっとするほどの色気を出していて、わたくしは目を見張りました。
「また、僕に甘えてね」
わたくしが呆然と魅了されていると、匙の上のアイスクリームが我慢できずに溶けていきました。
スプーンの裏を通って白い線を描いたそれは、雫の形を作りながら、皿の上にぽとりと落ちました。




