第十二話 ジュリー視点
三人称になります。やや長めの話です。
エリアルの侍女を務めるジュリーは、労働階級の家の出身である。あまり教育が行き届いていない階級ではあったが、祖母や母が上流階級の侍女をしていたこともあり、文字の読み書きは覚えられた。礼儀作法、家事も二人から教わっている。
労働階級の多くの娘は十二歳になると、上流や中流の階級へ奉公へゆく。住み込みで働く暮らしは、農業をすることより安定していた職業だった。
ジュリーも祖母や母に習い、十二歳には侯爵家にきた。
聖女による国の改革が推し進められ、労働階級の雇用も広がっているとはいえ、ジュリーが伝統的な侯爵家に勤められたのは運が良かった。
侯爵家は根っからの貴族。貴族らしい貴族だ。湯水のようにある資産をこれと思ったものには惜しまず使う。
それは、あけすけもなくドレスにお金をかけたり、賭博に没頭したりするわけではない。彼らが時間とお金を惜しみなく使うときはただ一つ。
それは、愛する者へだけだった。
エリアルが初めてここにきたとき、侯爵夫妻はレオンが用意した部屋について微笑ましく話していたが、ジュリーを含め、使用人全員は表情をなくしていた。
あの恐怖を思い出して、戦慄していたのである。
彼女の部屋は、侯爵家の中でも婚姻が決まった人しか入れない場所だ。あの部屋に入ったものは、死ぬまで侯爵家を出れない。
それは比喩表現でもなんでもなく、文字通り、死ぬまでである。あの部屋に入って生きて侯爵家を出たものは、今までいなかったからだ。
そもそもミュレー家は、執着愛から始まり、その歴史を辿ってきた一家だ。
初代は王族で、王太子であったが、身分が釣り合わない貴族の娘と恋に落ちて、その娘との婚姻にこぎつけた。
そのせいで、彼は王位継承権を剥奪されたが、時代は戦争真っ只中。名だたる軍人であった彼につくものは多く、結局、貴族として爵位を与え、王家に忠誠を誓わせるという形におさまった。
そのため、レオンもまたミュレー家の人間らしく、これと決めた人が住む部屋へのこだわりは尋常ではなかった。
まず壁紙だが、パリで有名な店に注文をした。
彼が注文したのは、ピンク色と水色の花模様の壁紙。花の曲線は手書きのようで、強い線で描かれていないもの。控えめながらも華のある雰囲気を要求した。
商人は意気揚々と、表紙が革でできたノートを広げて、壁紙のサンプルをレオンに見せていた。ノート一ページにつき、五枚ずつ。四角い壁紙の一部が、几帳面に並べられていた。どれも、ピンクと水色の花の壁紙だ。
ぺちゃくちゃと絶えず話しかける商人を無視して、レオンはそのノートをめくっていく。そして、見終わった彼は口の端を持ち上げた。
「ねぇ、これのどこが僕の要求通りなの?」
口調は柔らかいのに、相手を蒼白させるほどの凄みがあった。商人の顔を見ていないので、余計恐ろしい。
商人はあれこれ言い訳していたが、レオンはそれを興味なさげに聞いていた。
そして、その商人は次に現れることはなかった。
それどころかパリにあった店は、一ヶ月後には空き家になっていた。
なんでも、レオンが出席したサロンで、「あの店は良い品がない」と肩をすくめて言っていたらしい。
「店主もおしゃべりすぎて、僕は好きではないな」とも。
たったそれだけのことだが、レオンは若い世代では一目置かれる存在だ。先の司教の撲滅が、彼を英雄にしていた。くわえて端正な美貌と、気品のある着こなしが人気を高めている。
リーダー格のレオンの言葉は、社交界であっという間に広まった。店には誰も寄り付かなくなり、閉店に追い込まれた。
それを聞いたレオンは「ま、当然だよね」と、実に爽やかな笑顔で使用人に言ったらしい。
ジュリーを含めて使用人たちは、顔を蒼白させたものである。
「エリアル様のことでレオン様の不興をかったら消される!」と。
後に違う商人が壁紙のサンプルを持ってきたが、彼は噂を耳にしたのだろう。可哀想なくらい青ざめ、ノートは十冊持ってきていた。
エリアルの部屋は男性向けのデザインだったので、それをレオンの指導の下、大改築が行われた。
職人は真顔で……いや血の気の引いた顔で仕事をしていたものである。
ソフィはそんな様子を見て、ふふふっと笑っていたが、使用人は改装が終わるまで、レオンがピリピリしすぎて、生きた心地がしなかった。
暴力や理不尽なことをしないレオンだったが、纏う空気が黒すぎるときがある。それに根を上げたのが、若い小姓である。
侯爵家では将来性のある若者にあえて、食事を支給させていた。食事を出すというのは単純なように見えて、奥深い。
好みを把握し、好きなものは取りやすい位置に配置する。メインからデザートまでいっぺんに出されるので、好きなものが遠いと取る指示をしなければならない。
ビリビリと殺気を放つレオンにそんな手間はかけさせられない。恐ろしくて。
小姓は入念に配置して、レオンが席につく直前まで、血眼になって、フォークをピカピカに磨いていた。そんな日々が続き、彼の心は折れた。
使用人をまとめあげる立場にいるモンガンに泣きながら訴えていた。
「もうあの殺気に耐えられません!(意訳)」と。
それから暫くはレオンへの食事の給仕は熟年の使用人がしていたが、終わったあと年老いた背中を丸めて長すぎるため息を吐き出していた。
絵画も部屋も満足する仕上がりになったときは、使用人全員が心の底から安堵した。
──やっと、地獄の日々が終わった……と。
そんな重圧はありつつも、使用人は誰一人として辞めようとはしなかった。琴線にさえ触れなければ彼らは使用人にも気配りをするよき主で、給料もよかったからである。
それに貴族の一部には理不尽なことをする者もいる。それに比べたら、ある意味分かりやすい彼らに遣えた方がよかったのだ。
そんな背景を知るジュリーだったが、彼女は特別な仕事をレオンより任されていた。
それは、エリアルが一日どう過ごしたか報告をする、というものである。
最初、その話を聞いたときはジュリーも戸惑った。だが、レオンは爽やかな笑顔でお願いしてきた。
「僕は心配性なだけなんだ。エリアルは控えめな性格だし、ここの生活に不便はないか知りたいだけなんだよ」
一見、思いやりのある言葉に聞こえるが、ジュリーの耳にはこう聞こえていた。
「僕のエリアルを逐一、監視しろ。その意味はわかるよね?」と。
爽やかな笑顔の背景にそんな黒いものが見えて、ジュリーはその仕事を受けた。
断れるわけない。子供を置いて、甲斐性なしの夫を置いて、消えるわけにはいかないのである。
レオンへの報告は、家政婦長やモンガンにも内緒だが、二人は察してくれているのであろう。黙認は命が惜しいからなのか……ジュリーは遠い目をしたくなる。
そんな事情を抱えていた彼女は、今日の庭での出来事をしくじった!と思い込んでいた。
「わたしはまだ死ぬわけにはいかないのです!」はレオンの凶暴性を伝えてしまう失言だ。
エリアルは〝ヤンデレ〟だとかなんとか言っていたが、ジュリーは必死で隠しとおそうとした。
それは、レオンがエリアルの前では、あのブラックな雰囲気を巧妙に隠そうとしていることを察していたからだ。
エリアルに見せる蕩けるような眼差し、幸せそうな微笑みは、涙が出るほど嬉しい。
彼はエリアルが側で微笑むとブラックさが消え、安定してくれる。それは使用人たちの心の平和につながる。
だから、彼のブラックさは隠さなければいけないものとジュリーは思っていた。
──失言したと報告したら、命はないかもしれないわ……
今日の出来事は、二つの事実をもみ消して、報告しようと心に決めていた。
もう一つはもちろん、エリアルが儚げな眼差しで「抱きしめて」と言ったことだ。
あの時のエリアルは女性のジュリーから見ても、くらりとくるものがあった。理性を砂にさせる破壊力があった。レオンのことがなければ、喜んで抱きしめていただろう。でもその一歩を踏み出したら、朝日は拝めないかもしれない。危険すぎる行為だ。
──抱きしめてと言われましたは、墓場まで持っていこう。
ジュリーは固く心に誓っていた。
***
レオンの報告の時間は、エリアルが入浴している時にする。バスルームに入るときは違う侍女が彼女を磨き上げている。
マッサージの心得もある者たちだ。レオンが指定した〝シャンプー〟で彼女は頭皮をよく洗われているはずだ。
この〝シャンプー〟はレオンが聖女から教えられたものらしい。
この国では衛生面の発達は遅く、バスルームも彼女がくるまでなかったものだ。
しかし、彼女は匂いにうるさかった。特に〝加齢臭〟というものを嫌った。
そのため、レオンも「エリアルの前で〝加齢臭〟を撒き散らせないでしょ?」と言い、バスルームを作り、香油と香水を混ぜた〝シャンプー〟を作らせた。
カレイシュウとはなんですか?と、ジュリーは思ったが、きっと強烈な臭いなのだろう。使用人にも〝シャワー〟で体を洗うように徹底されたため、耐えられない臭いだろうと想像していた。
***
レオンの部屋についたジュリーは扉をノックした。
二回叩いて、間を置いて二回。さらに小刻みに二回。これはジュリーが来たときの合図である。
返事がないのはいつものことなので、ジュリーは扉を開く。
「失礼いたします」
死の瀬戸際に立たされる憂鬱さを顔に出さず、ジュリーは中に入った。
レオンはけだるそうな雰囲気から姿勢をただして、普段なら決してしない朗らかな笑みを浮かべる。
「やぁ。今日のエリアルは何をしていたの?」
ご機嫌に話を聞きたがるレオンとは正反対に、ジュリーは淡々と今日の出来事を語る。
淡々としているのは、前に情感豊かに話したら「君の感想はいらない」と、笑顔で言われたことがあるからだ。ひぇっと思ったジュリーは、以後、能面のようになった。
今のジュリーはしゃべる新聞である。事実のみを伝え、エリアルの表情をこと細やかに話す。それによってエリアルを称賛したり、感想をいうのはレオンの楽しみなのだ。
だから、ジュリーは感情のないしゃべる新聞に徹する。
家庭教師とのやり取りを話し、エリアルが読んでいた本の話をする。そこで題名を尋ねられたので、答えたら眉根をひそまれた。ついでに先程まで穏やかだった空気が冷ややかになる。
思わずジュリーは視界の端で暖炉を確認した。ガンガンに燃えている。ならば、この悪寒の原因はレオンからであろう。
「へぇ……エリアルがその本に興味を……ね」
へぇの一言に含みがありすぎる! 怖い!と、思うが今はしゃべる新聞だ。黙っている。
何か思案しているレオンに、ジュリーは耐えきれずに中庭の出来事を話した。ダリアのようになりたいと言っていたこと、それとレオンのスキンシップに戸惑っていることを。
「レオン様との距離感に戸惑わられています。でも、エリアル様は受け入れようと心に決めているようです。ただ、全面に受け入れるのは、淑女らしくないと思われているようです」
それにレオンは「なるほどね……」とため息まじりに言い、椅子に深く腰掛け直す。そして、口の端を持ち上げた。
「僕を受け入れようと必死なのか……可愛いな、エリアルは」
クスクス笑った声は無邪気にも聞こえるが、藍色の瞳は何かを企んでいるように見えて笑えない。
報告が終わると、ありがとうの声と共に過剰なお給金が出る。
「また明日も頼むよ」
「かしこまりました」
ゆっくりとお辞儀をして、静かに部屋を去った。
回廊を数歩、歩いたところで、フラフラっとジュリーは壁に寄りかかった。
緊張の糸が切れて、やっと呼吸ができる。全身に空気を送り込み、最後に深く息を吐いた。
──申し訳ありません。エリアル様……命を惜しむわたしを許してください。
主人を売っている罪悪感を抱えつつ、ジュリーは気を取り直した。
そして、そろそろ終わるであろうエリアルの入浴後の準備に取りかかった。