第十話 侯爵家へ③
「エリアル!」
玄関ホールの扉が開かれると、レオン様に勢いよく抱きしめられました。外の寒さをまとった革製の外套の冷たい感触がして、わたくしの頭は真っ白になります。肩に顔をうずめられ、レオン様の灰色の髪から、ふわりと花の香りがしました。
わたくしは今の状況が理解できず、微笑みを忘れて、全身を硬直させてしまいました。
わたくしの思考停止も意を介さず、レオン様は一度、強く抱きしめると、離れてわたくしの肩と頬に手を添えます。
「帰りを待っててくれたの? 頬がこんなに冷たくなって、一体いつから……あぁ、でも、すごく嬉しい。ここに君がいるなんて夢みたいだ」
うっとりと微笑まれ、わたくしははっと我に返ります。急に恥ずかしさがこみ上げ、冷えていた頬が熱を帯び始めました。
──ち、近い! お顔が近いわ!
藍晶石のような瞳も、すっとした鼻梁も、端正なお顔が目と鼻の先です。
ご挨拶をしなくてはと思うのに、口から言葉がでてきません。
蕩けるような視線で見つめられていると、やれやれと侯爵様が扉の先からやってきました。
「エリアルがいて嬉しいのは分かるが、はしゃぎすぎではないか?」
レオン様とは違う黒い瞳の持ち主。侯爵様はからかうように笑いました。それにご挨拶を!と、思い出します。
わたくしはレオン様からすっと離れました。……離れましたが、なぜか腰に手を回されております……
「父上。エリアルがこんなに冷たくなってまで、待っていてくれたのです。喜んでしまうのは、仕方ないのないことでしょう」
それに侯爵様は、ははっと明るく笑いました。
わたくしはようやく頭を直角に下げ、ご挨拶をいたします。
「侯爵様においてはご機嫌麗しく。ふつつかものですが、これからご指導のほど、宜しくお願いいたします」
そう言うと、侯爵様はまた明るく笑いました。
「そんなに固くならなくていい。私のことは侯爵様ではなく、お義父様と呼んでほしいものだね」
わたくしは驚いて目を丸くします。そして、ソフィ様と同じことを言われました。
「近いうちに家族になるんだ。今のうちからそう呼んでおくれ」
「はい…………お義父様…………」
口が慣れなくて、どもってしまいそうです。後で練習をしなければ。
わたくしがそう決意をしていると、レオン様に腰をくいっと寄せられ、耳元で囁かれます。
「そのドレス、着てくれたんだね。とても似合うよ」
ぽっと火がついたように顔が火照ります。それにレオン様はくすりと笑い、着替えてくるといって、侯爵様と共に行ってしまわれました。
***
軍服から部屋着に着替えたお二人と共に夕食を頂きます。
長いテーブルの上に、ずらりと三十種類ものメニューが並べられていきます。メイン料理からサラダ、デザートまであり、わたくしは呆気にとられてしまいました。四人でこの量は明らかに多すぎです。
わたくしの前には、鳩肉とニンジンなどの野菜を煮込んだポトフ。舌平目のシャンパン蒸し。デーツのサラダ。カボチャのスープ。パリッと焦がしたカラメルの下はとろけるプリンのクリームブリュレ。
目を見開いてしまうほど豪勢な料理です。
──全部、食べきれるのかしら……
残すのは恥と教えられたわたくしは、お腹におさめるだけおさめました。
でも、悲しいことにコルセットをしてては、お腹はすぐ膨らんでしまいます。
「まぁ、エリアルったら。全部、食べきらなくていいのよ。好きなものだけ食べてね」
ソフィ様の言葉に、わたくしは上流階級の食事の方法を知りました。
──好きなものだけを食べるのね……なんて贅沢なの……
「はしたないところをお見せして、申し訳ありません」
素直に謝ると、あらとソフィ様が声を出します。向かいに座っていたレオン様が、すかさずフォローをしてくださいました。
「エリアル。謝らなくてもいいんだよ。少しずつ慣れていこうね」
優しい言葉にわたくしは胸を撫で下ろしました。
そこで、はたとまた気づきます。
──レオン様の口調がくだけているような……? 気のせいかしら?
こてんと首をかしげそうになり、それを慌ててやめて、口元に笑みを浮かべます。
「レオン様。お気遣いありがとうございます」
そう言うと、レオン様は少しだけ寂しげな表情をされました。
──何かまずいことを言ったかしら?
わたくしは少し暗くなった場の雰囲気を明るくしようと、ナプキンで口を拭い、姿勢を正します。そして、感動したあの部屋の話をしました。
「レオン様。ソフィ様に聞いたのですが、わたくしの為にお部屋を用意してくださり、ありがとうございます」
ゆるりと頭を下げて、胸に手をあててあの素敵な部屋を思い出しました。
「壁紙も雰囲気もわたくしが好きなものばかりで……あの天井に描かれた眠り姫には感動いたしましたわ」
思い出すだけで頬が緩み、声が弾んでしまいます。わたくしはパッと顔を上げて、気持ちのままに口元を持ち上げました。
「あのような素敵なお部屋で過ごせるのは、夢みたいです。本当にありがとうございます」
言葉に熱が入ってしまい、少し大きな声が出ました。レオン様のキョトンとした顔を見て、わたくしは慌てて口を手で押さえます。
「申し訳ありません。わたくし、つい……」
美しくない所作だ。失敗してしまいました。
でも、レオン様は咎めるどころか、少年のように顔をくしゃっとさせます。頬はどこか赤みを帯びていて、先程までの寂しさはありません。
「そんなに気に入ってくれるなんて、すごく嬉しい」
とろりと、とけた視線はデザートのケーキよりも甘く、わたくしも同じように頬が火照りだしました。
何か言葉を続けなければ、と思うのに肝心なときに身につけたものが飛んでしまいました。口ごもるわたくしをフォローするように、ソフィ様が声を出します。
「エリアルはあの部屋をみた瞬間、本当に感動していましたからね。ふふっ。よかったわね、レオン。熱心に用意したかいがあったわね」
からかうような口調に、レオン様は苦虫を潰したような顔をします。
「母上……その話は……」
「あら、ごめんなさい。内緒のお話でしたね。職人を震えあがらせながら、用意したなんて」
「母上……」
職人を震えさせた……わたくしを思ってそこまでしてくれたのでしょうか? 驚いてレオン様を見ると、バツが悪そうな顔をされていました。
「ソフィ。レオンをからかうのもそれぐらいにしておきなさい。いくらレオンが一年以上前から画家を五人も変えて、あの絵画を用意したなんて言うものではないよ。男の沽券に関わる」
「あら、アラン様。それは、全部言っていますわよ」
「父上……」
眉根をひそめて、レオン様は額に手を置いてしまいます。わたくしは驚くばかりで、口を挟めずにいました。深いため息をついたレオン様が、ちらりとこちらを見ます。その目に照れが見えて、わたくしは心臓の辺りがきゅっとしました。
そんなわたくしたちをソフィ様とお義父様は微笑ましげに見つめられ、ますます居心地が悪いです。
「ふふっ。内緒の話だったけど、言って正解ではなくて?」
ソフィ様がぱちりとウインクをします。お義父様が同意するように頷きます。
「それはそうだな。女性は分かりやすい表現を好むものだよ」
「それはそうですわね。なので、アラン様の分かりやすい表現にも、わたしは期待していますわよ?」
満面の笑顔になったソフィ様を、お義父様は愛しげに見つめます。
「わかっているよ、ソフィ」
その返事にソフィ様は満足げに微笑みました。
二人の着飾らない言葉にボーッとしてしまいます。理想の夫婦像があるような気がしました。
お義父様はソフィ様だけに愛情があるように見えますが、二人の愛人をお持ちです。一人は貴族。一人は平民と聞いております。こんなに仲睦まじくされているのに、他の女性にも心を移している。ソフィ様もそれをご存知の上で、幸せそうにされています。
──ソフィ様はすごいわ……わたくしは、レオン様が愛人を持たれたら、このように幸せそうにできるかしら……
ズキンと、また心が痛みだします。拒否する心を隠さなければ。わたくしは口元に笑みを浮かべて、レオン様に微笑みかけました。うまく笑えているはず。大丈夫。
「レオン様。わたくしを気にかけて、準備してくださってありがとうございます。言葉にあらわせないくらい嬉しいですわ」
うまく取り繕ったつもりだったのに、レオン様は先程のような満面の笑顔を見せてくださいませんでした。
***
食事が終わると、後は眠るまで、余暇の時間です。
お風呂に入るとレオン様は言っていました。
その話の時、ふと何かを思い付いたのか、レオン様は藍色の瞳を細めます。
「エリアルも一緒に入る?」
わたくしだけに聞こえるように囁かれた言葉。お風呂とは例のバスルームを使うらしいです。
作法を知らないわたくしに、レオン様自らが教えてくださるということでしょうか。
お疲れのところを手を煩わせてはいけません。わたくしは、申し訳ありません、と断りをいれました。
「レオン様が自ら指導をしてもらうわけにはいきませんわ。慣れたら、ご一緒させてください」
微笑んで言うと、レオン様は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしました。
どうしたのでしょう?と目を丸くしていると、藍色の瞳が妖しい色香を纏い始めます。
「……エリアルって……積極的なんだね」
積極的……どういう意味でしょう。ご機嫌になったレオン様の背中を見送り、首をひねりました。
その意味はお風呂を体験してからわかりました。
なんと、バスルームは全裸になるのです! わたくしは仰天しましたわ。
そして、自分の失言に青ざめました。
──無知って怖いわ! もっと勉強しなくちゃ!
自分の知識不足を痛感した瞬間でした。