綿毛と食パンと彼女の全て
堤防から見下ろした春の河原は彼女の感触がした。
具体的に、どこがどうと言われると僕はとても返答に困るし、そんな僕に彼女は拗ねた様に頬を膨らませるんだろうけど、強いて何とか言葉にするのなら、晴れた雲間から差し込む煌めく日差しとか、甘いようで生々しい草いきれとか、或いは川の水に温度を下げられた涼しげな風とか、土手で遊ぶ子供たちの響く声とか、そういう一つ一つのありふれたことに彼女の作り出す雰囲気を僕は感じてしまう。その雰囲気が何とも言えず、彼女の感触であると僕はただ思う。
思えば、最初に会った時も彼女はこの河原で、焼き立てのパンを齧りながら、白い綿毛を携えた蒲公英を眺めていた。
赤みのあるミドルヘアを風になびかせ、好奇心に溢れた双眸を輝かせながら、一心不乱に白い小さな歯で柔らかそうな食パンをまるでリスのように齧っていた。
時折、彼女は小さな指先で口元を触りながら、桜色の唇を嬉しそうに緩めていた。
後から聞いた話では、蒲公英の綿毛が風で空に飛んでいくのがただ面白かったからだそうだ。
自転車でたまたま通りがかった僕はそんな河原で腰掛けながら食パンを齧る変わった彼女に一瞬で、目を奪われてしまった。
別にそうしようと思ったわけじゃない。
でも、気がついたら、僕の目は彼女にあらかじめ決まっていたかのように吸い寄せられていた。
そして、高性能なカメラのようにその姿の一瞬一瞬を、表情や仕草の一つ一つを克明に写し込み、刻んでいった。
だから、僕は彼女の姿を今でも鮮明に思い出せる。
笑っているときに片方だけできる人差し指の先が丁度収まるくらいの小さなえくぼとか、日の当たり具合によって茶色に見える赤みのかかった髪とか、色相表の肌色からそのまま取り出したかのような肌の色とか、華奢でいて弾力のある身体とか、そういう彼女を作り上げているものの全てを、僕はまだ自分の頭の中からすぐに取り出すことが出来た。
あの時と同じように、蒲公英の綿毛が河原からの少し冷たくなった風によって、浮き上がる粉雪のように空を舞っていく。
雪が空に還っていくみたいで素敵ねと突然立ち上がって、彼女はその場でくるりと服を翻して、回ったことを思い出す。
かつてその白い命の始まりと共に踊っていた彼女の姿が見えた様に、僕は錯覚する。
幻の彼女は何かを祝福するように踊る。
それは、この世界の何もかもを肯定し、慈しむような舞だった。
明るく、優しさと希望に満ち溢れた行動だった。
目を閉じると、そこにそんな彼女が居ることで、どれだけ僕は救われたことか。
どれだけこの世界を愛せたことか。
大げさなようでいて、それでも僕の拙い言葉で言い表せないような奇跡の結晶が彼女だった。
本当に、彼女に会うまで、何も僕は知らなかったのだ。
空に伸びる飛行機雲のきらきら光る白さ、夜の孤独を認識させる深い闇色、新緑の瑞々しい息吹から感じる若葉、灰に見えていた重い牡丹雪の内包した透明の水、世界にこんなにたくさんの色があるなんて知らなかった。
お互いにおはようという言葉一つで始まる一日の尊さ、ただいまって言葉に続くおかえりに含まれたお湯に浸かるような安心感、おやすみを言った後に訪れる明日があることへの感謝、当たり前の挨拶の言葉にこんな楽しい魔法がかかっているなんて知らなかった。
人の体温や心音にもらえる勇気が何よりも力強く、誇り高いものだって初めて知った。
ふとしたときに見せる屈託のない笑顔や、必死で零れないようにした小さな涙の重さ、小さな指先のマニキュアの匂い、よく飲んでいた紅茶の馬鹿みたいに甘い味。
彼女の生活の痕跡の一つ一つが僕にとっての宝物だった。
僕の生きる意味で、証で、望みだった。
食パンが何よりも好きで、蒲公英ばかり見ていて、まだ飛ばすには早過ぎる人生の過程のただ中で、綿毛のように空に昇って行ってしまった彼女。
世界が当たり前のように奪った彼女。
僕は堤防に立ち尽くしたまま辺りを見渡す。
土手で遊ぶ子供たちがチラシや画用紙や、色紙で作った大小様々色とりどりの紙飛行機を投げて遊んでいた。
思い思いに風を切り、目的地のない紙飛行機は空中を彷徨う様に綿毛の合間を飛び交う。
それは何でもない光景のはずなのに、僕にとって心臓を、泣きたくなるくらい優しく触られるような残酷な感触に思えた。
そして、何でもない日常を生きていて、僕の輝いていた世界はどこに行ったのだろうと言いようも無い孤独感の中でふと思う。
僕は電気を消す様に世界の光を瞼で落とす。
目を閉じると、地面の感触がどんどんなくなって言いようも無い浮遊感があった。
このまま僕も彼女の所に連れて行かれるのだろうかと夢想する。
でも、そんなことは決してなく、彼女が居た世界を否定できず、僕はただここに立ち尽くしている。
ふと鼻にパンの焼ける甘い匂いが届く。
彼女の大好きだった岸に面した一軒の古いパン屋。
食パンばかり買って、子供の様に本当に幸せそうに口を動かす彼女。
熱を出した時にも食パンだけは食べて、徐々に回復していく彼女。
食パンが売り切れていて、この世の終わりのような顔をしていた彼女。
そして、食パンが食べられなくなってしまった最期の彼女。
様々な記憶が交差する。
その匂いを嗅いでいると、パンの味や触感が自然と蘇ってくる。
バターもマーガリンもジャムも目玉焼きもなくても食パンはただその触感だけで美味しいと断言した彼女。
けれど、世界の作り出した全ての幸福が詰まっていると評された触感は彼女と共に僕から失われてしまった。
目を開く。
春の河原は彼女という一番欠けてはならない存在を欠いて、ただそこに在る。
ふと足元を見ると、これでもかと綿毛を携えた蒲公英がある。
何気なく、僕はしゃがんで、そっとそれを手に取る。
綿毛が飛んでるのを見ていると、その時だけまるで世界が引き延ばされてゆっくりと流れているように感じるとどこか遠い所を映していた彼女の瞳。
綿毛にふっと息を吹く。
何本かの綿毛が空を舞い、僕の手の届かない所に飛んでいく。
広く淡い色の空に、まるで小さな雲の欠片のようにそれは融けて見えなくなる。
まるで漠然とした日々の中で、しっかり意識をしないと個人を特定できないこの世界のようだと僕は思う。
いつかは僕の全ての感覚も消えていく、空に。
何通も交換した膨大な量のメールも、交わした言葉への喜怒哀楽の感情も、肌に染み付いた幻肢痛のような感触も、まるでいつかそうなることが正しいとでもいう様にこの地平から何の容赦もなく、平等に、ただ空に浮かされてしまう。
でも、私達はその時まで必死で生きていくんだよと彼女の声と顔が脳内に蘇る。
彼女の全て。
それは、彼女が彼女の命を使って教えてくれた、僕が知っている、僕が生きる世界からいつか空に浮き、彼女の世界へ行く方法。
綿毛が空を目指し、パンの焼けた匂いからその触感を想像し、彼女の全てを思い出せる世界。
できる限り優しく、僕は世界を見渡す。
堤防から見下ろした春の河原はやっぱり、彼女の感触があった。