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アトーヤは夢の中で誰かの物語を聞いていました。
むかしむかし、まだアトーヤが生まれる前のことです。
村に、ホーメイという若者がいました。ホーメイは村一番の猟師でした。山の獲物は、ホーメイがいればいつでも村人すべてにじゅうぶんに行き渡るほどに手に入りました。ホーメイには美しいいいなずけがいました。トネイというその娘は、村一番の織り手でした。トネイの細い指先は目の詰まったやわらかいよい布を織りあげ、冬の着物のために布に細かく縫い取りをする技にもすぐれていました。トネイの刺す模様は美しい文様を描き、誰もがトネイの作った着物をほしがりました。
ある日、獲物を深追いして森の奥深くに行ったきり、ホーメイは帰ってきませんでした。何日も、何週間も、何か月もトネイは祈りながらホーメイを待ち続けました。夏が終わり、秋が来て、厳しい冬が過ぎ、うららかな春も終わり、また短い夏がやってきました。
トネイはとうとうホーメイを探しに、村人が止めるのも聞かずに一人で森へ分け入りました。そのまま行方知れずになったと誰もが思ったころ、幾月もたってひょっこり戻って来たトネイの目は光を失い、森にいた時のことは一つも覚えていませんでした。
やがて、トネイは一人の女の子を産み落としました。それは、トネイが森にいた時に身ごもった子供でした。村人たちはトネイが森の魔物にたぶらかされて、その子を産んだのだと思いました。それから、トネイとその娘のアトーヤは村人から忌み嫌われるようになりました。村には古い伝説がありました。森の魔物の子を身ごもった女は、いつかその村を滅ぼしてしまう。けれども、その女や生まれた子の命を取ることも、魔物を恐れる村人たちはできませんでした。
私は、もう死んでしまったのかしら。アトーヤは夢見心地で思いました。この物語は、だれが話してくれているのかしら。とても優しい、低い、歌うような声。
すると今度は、高くやわらかい女の声が聞こえてきました。
トネイは、森の奥へ奥へとホーメイを探して歩きました。やがてトネイはおそろしい音をたてる氷の河に行き当たりました。それは森の女神のすみかでした。
トネイは恋しいホーメイに会いたい一心で、森の女神に向かって手を合わせました。
どうか、お願いです。ホーメイに会わせてください。もしも願いをかなえてくださるならば、私の持っているものはなんでも、あなたの望みのものを差し上げます。
すると女神は言いました。私は暗い穴の底で生まれ、氷の河で育ち、目というものを持ったことがない。おまえのその目をくれるならば、ホーメイに会わせてやろう。
そこでトネイは喜んで自分の目を女神に差し出しました。すると盲目になったトネイの前に、ホーメイの気配を感じました。トネイは喜びの涙を流しながら、ホーメイに身をゆだねました。
けれども、トネイはホーメイとともに村に帰ることは許されませんでした。そして、森を生きて出るためには、森であったことをすべて忘れなければなりませんでした。トネイは森で女神と出会ったことも、ホーメイと再会したことも忘れ去りました。けれどもしばらくしてアトーヤが生まれると、おぼろげながらホーメイが森にいることだけは思い出すことができました。
アトーヤが歩き、言葉を話すようになると、トネイにたずねるようになりました。私のとうさまはどこにいるの。どこへ行ったら、とうさまに会えるの。
トネイはもう一度だけ、アトーヤを連れて森へ行くことにしました。アトーヤに父親を会わせたかったからです。トネイとアトーヤは森の奥深く、女神の住む氷の河にたどり着きました。
どうか、お願いです。もう一度ホーメイに会わせてください。この子を父親に会わせたいのです。
すると、女神は言いました。
私は生まれてからずっと、氷の河の激しいとどろきだけを聞いてきた。だからもはや何の音も聞くことができない。もし、おまえのその耳をくれるのなら、もう一度ホーメイに会わせてやろう。
そこでトネイは今度は自分の耳を差し出しました。どうぞ女神様。世界はすばらしい音で満ちあふれています。どうぞ美しい鳥のさえずりを、心地よい木々の葉ずれの音を、お聞きください。そして、どうぞ川のほとりに住む人々の暮らしにも耳を傾けてください。女神さまが森のけものや木々や花々を愛でるように、人々にもあなたの憐れみを注いでくれますように。
幼いアトーヤは父親のホーメイのたくましい腕に抱かれ、幸せなひと時を過ごしました。けれども、森から出た時には、トネイとともに森での出来事はすべて忘れてしまいました。
そうだったの。アトーヤは深くうなづきました。暖かい、豊かな思いが胸にあふれていました。生まれてから今まで、これほど幸せな思いに浸ったことはありませんでした。
自分がどんなにすばらしい両親を持っていたか、そしてどんなに愛されていたか、それを知ることができたのです。
アトーヤは目を開けました。そして自分が一頭の大グマの懐に抱かれているのに気づきました。
大グマは、じっとアトーヤを見つめていました。その瞳は喜びと悲しみの両方をたたえて揺れていました。
そういえば、かあさまは。アトーヤはあたりを見回しました。そして、大グマの足元に横たわるトネイを見つけました。急いでトネイを抱き上げたアトーヤは、トネイがすでに冷たく、永遠の安らかな眠りについていることを知りました。
「トネイは逝ってしまった。わたしももうすぐ眠りにつくだろう。新しくオットーになる若者がここにいる」
そうつぶやいて大グマが前足をあげたその先に、一頭の死にかけた灰色のクマが横たわっていました。
アトーヤはなぜかそのクマになつかしい気配を感じてそっと近寄りました。クマはうっすらと片目を開けてアトーヤを見つめました。けものの目をしていてもなお、瞳はアトーヤにある人を思い出させました。
「オンクル!」
アトーヤは悲鳴を上げて、クマの体をかき抱きました。それがまぎれもなく、アトーヤの愛するオンクルの変わり果てた姿であることを、アトーヤはつゆほども疑いませんでした。
「ああ、あなたも逝ってしまうの?私はこれからどうすればいいの?」
涙がアトーヤの頬を伝わり、クマの姿になったオンクルの毛むくじゃらの額に落ちました。オンクルはかすかにのどをならして目を閉じるとがっくりと首をたれました。
「アトーヤ、森の女神のところへ行くがいい。オットーになったおまえの愛する若者とともに・・・」
それが、アトーヤの聞いた父ホーメイの最後の言葉でした。
大グマは立ち上がり、空を仰いで、天地をとどろかす咆哮を上げました。
それは、オットーの魂からホーメイが去り、オンクルが宿った瞬間でした。
「アトーヤ、おまえの母を葬らなければ」
懐かしいオンクルの声がアトーヤの心に響きました。オンクルは今、森の王オットーに生まれ変わったのです。
「はい」
アトーヤは胸を震わせてうなづきました。たとえ姿はクマに変わっても、愛するオンクルがよみがえったことがアトーヤには何よりうれしかったのです。
ふたりがいるのは、氷の河のほとりの荒野でした。オットーの斧のような爪が荒野の大地を深く掘り、トネイの体を包みこみました。
「アトーヤ、おまえはもはや村に居場所はあるまい。だが、ここでただ一人、人として暮らしていくのはあまりにもつらかろう。おれにはもう、何もしてやることができない。それがおれはたまらなくつらいのだ」
オンクルの魂を持つオットーはアトーヤの前にうなだれました。
オットーのからだに宿った時から、オンクルの魂は森の王の役目を知り、そしてそれに誇りを感じていました。森の王として生きていくことに何のためらいもありません。けれども、アトーヤのことを思うと、心が乱れます。
アトーヤはそんなオンクル、今は森の王オットーとなった気高い大グマを見て、悟りました。
アトーヤは激しくぶつかり合う氷河を見下ろしました。
「森の女神さま。どうか私のすべてをお取りください。私の手足であなたの森を駆け巡り、私の声で森の歌を歌い、私の心で森を愛してください。そして、どうかオットーとともに、いつまでもこの森が豊かで平和であるようにお守りください」
そしてアトーヤは氷の河を見下ろす高い崖から身をひるがえしました。
氷の河はアトーヤを呑み込みました。そしてアトーヤは二度と浮かび上がることはありませんでした。
氷河は、アトーヤを呑み込んだ後、しばらく小刻みに震えていました。そしてそれは次第に激しく、大地を震わす地響きとなりました。
アトーヤの命は氷河の氷を溶かし、氷河は大きくうねっていました。
やがてそれは濁流となり、川下へとなだれ落ちて行ったのです。
川のほとりの二つの村は、一瞬で溶けた氷河に流されてあとかたもなくなってしまいました。
命からがら逃げ延びた人たちはほんのわずかでした。川の向こうがわとこちらがわで生き残った人々は一つの村を作り、なんとかきびしい冬を乗り越えました。
やがて、人々はオンクルのこともアトーヤのことも忘れ去りました。ただ、森の魔物の伝説だけが残りました。人々は森をおそれ、決して奥深くまで入り込もうとはしませんでした。それでも人々は森の入り口でけものや木の実やきのこなどの森の恵みをじゅうぶんに受け取ることができました。だから、村人たちは森を恐れながらも敬い、大切に思い続けました。
どこまでも大きな森には、美しい湖や深い谷や暗い洞穴があちこちにありました。森の生き物たちは豊かな森にはぐくまれ、生き物の営みを繰り返していました。
森の王はいっぴきの大きなクマでした。名前をオットーといいました。森の生き物たちは、時折オットーの背に一人の娘が腰かけているのを見かけました。娘は自由に森を歩き、駆け、時には歌い、時には花の香りをかぎ、湖に身を浸し、けものたちと言葉を交わしました。ふたりはそれはそれは仲むつまじく幸せそうに見えました。オットーは娘を大切に見守り、いつでもそばにいるのでした。
森の生き物たちは、娘が森の女神で王と一緒に森を見守っているのだ、とささやきあうのでした。