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翌朝、日が昇って人々がそれぞれの仕事を始めたとき、オンクルの姿が見えないことに真っ先に気付いたのはマリンカでした。
マリンカは昨夜、自分の家を出ていったオンクルをしばらく追いかけていたのですが、森のほうへ消えてゆくオンクルをどんなに声をからして呼んでも、立ち止まりもしなかったのを思い出しました。
「まさか、一人で森へ行ったのだろうか。でも、なぜ・・・」
不安な気持ちを抱えながら、川で織ったばかりの布をさらしていたマリンカのもとへ、キノコ狩りに行った数人の若者が何か叫びながら駆け戻ってきました。
「たいへんだ、森の入り口にこれが落ちていた」
若者たちが差し出したのは、ぼろぼろの上着でした。マリンカは一目でそれがオンクルのものだと気がつき、息を呑みました。上着は何か強い力で引き裂かれたようにいくつもの切れ端になっていました。
「なんてこと。オンクルは森でけものに襲われたのだろうか・・・」
マリンカはオンクルの上着の切れ端を抱きしめてむせび泣きました。
「何の騒ぎだ」
集まってきた人々をかき分けて、村おさがやってきました。涙にむせぶマリンカが差し出した上着を見て、村おさは顔を曇らせました。
「オンクルは、森の魔物にやられた。これは災いだ。いいか、春が来て、神の祭りが終わるまでは、今後だれも森に入ることはならぬ」
「おとうさま、オンクルはゆうべ、アトーヤの名を呼びながら森へ入っていきました。アトーヤなら何か知っているのではないでしょうか。私は川向こうの村へ行って、アトーヤをたずねようと思います」
マリンカはりんとした声で村おさを見つめました。マリンカには、オンクルが森の魔物にやられたなどと信じることはできませんでした。そんなにかんたんに、愛する人をあきらめる気にはなれなかったのです。
「むだだ、やめておけ」
村おさは首を振りましたが、マリンカは聞き入れませんでした。
「いいえ、おとうさま、見つかったのはこの上着の切れ端だけです。オンクルの体はもちろん、地面に血の跡さえ残っていなかったと聞きました。オンクルはどこかで傷ついて助けを待っているのかもしれません」
あまりに熱心なマリンカに、村おさはとうとう数人の若者をつけて、川向こうの村へ行くことを許しました。
村のはずれの小さな小屋で、アトーヤは織りあげた布に丁寧に縫い取りをしていました。細かく刺せば刺すほど、布は暖かくなり、じょうぶになるのです。今アトーヤが手がけているのは、これまででいちばん丁寧に織り上げ、いちばん細かい針目で縫い込んだものでした。春から少しずつ、たくさんの時をついやして作り続けていたのです。そしてアトーヤは、これは売り物にはせずに、オンクルへの新年の贈り物にするつもりでした。
かたわらではトネイが手探りで今年最後の豆をさやから丁寧に取り出しているところでした。
日差しは穏やかで、木々の間を小鳥がさえずり、これから冬が来るのが不思議なほど暖かい朝でした。
ふと何か騒がしい気配を感じて、アトーヤは顔をあげました。村おさを先頭に、何人もの村人たちが足早にこちらへ向かってくるのが見えます。後ろのほうには、川向こうの村おさの娘の姿も見えました。みんななぜか険しい顔をしています。
「アトーヤ、おまえは川向こうのオンクルを知っているな」
立ち上がったアトーヤに、村おさが低い声でたずねました。アトーヤが黙ってうなづくと、後ろにいたマリンカがぼろぼろになった上着を差し出しました。
「ゆうべ、あなたの名前を呼びながら、オンクルは森に向かって行きました。朝になって、村のものがこれを見つけました。オンクルはどこにもいません。あなたは何かご存じではないですか?」
マリンカは真っ赤に泣きはらした目をして、アトーヤにたずねました。アトーヤは見覚えのあるオンクルの上着を見て、わななきながら首を横に振りました。
「今まで、憐れみをかけてやってきたが、もう見逃すことはできない。アトーヤ、おまえは森の魔物の子だ。トネイはその魔物に魅入られ、光と音を失った。災いを起こした以上、生かしておくわけにはいかない」
村おさはそう言うなり、まわりの者たちに命じて、あっという間にアトーヤとトネイを縛り上げました。
「待ってください。私には何の事だか、わからないのです。オンクルの身に何かあったのですか?」
母のトネイさえも手荒に縛られるのを見て、アトーヤは勇気を振りしぼって村おさにたずねました。しかし、村おさは冷たい目をアトーヤに向けて言いました。
「何をとぼけたことを。おまえがオンクルをそそのかし、森へ引き寄せたことは明らかだ。さあ、二人を家の中へ」
何もわからず恐れおののくアトーヤとトネイは、粗末な家の中へ連れて行かれました。そして、家の真ん中の太い柱に縛りつけられました。
「火を放て。魔物の妻と子を、焼き殺すのだ」
村おさはそう言って、二人の家を指さしました。
村人たちはたきぎを集め、家の周りに積み上げました。そして、何本もの火のついた矢が放たれると、家はあっという間に燃え上がりました。
村人たちはこわごわとアトーヤとトネイの粗末な家を取り巻いていました。その中には、泣きぬれた瞳のマリンカもいました。マリンカはもはや、アトーヤの命乞いをするほどアトーヤに優しい気持ちにはなれなかったのです。川向こうの村おささえ、オンクルは魔物に殺められたと言うのです。それに、村おさはアトーヤとトネイを魔物の妻と子だと言いました。それならば、ゆうべオンクルがアトーヤの名前を呼びながら森へ入っていったのもうなづけます。マリンカの愛した若者は、魔物に魅入られ、命を落としたのでしょう。あのたくましく優しい村一番の漁師、マリンカと村を守って立つはずだったオンクルは、二度とマリンカのもとへ戻っては来ないのです。
柱に縛り付けられ、身動きもままならないアトーヤは、みるみるうちに炎が壁をはうのをぼうぜんと見つめていました。あんなに心をこめて縫っていたオンクルのための着物は、アトーヤの目の前で炎に包まれて黒い灰になって崩れました。わずかなたくわえだった豆やオンクルからもらった干し魚や、これまで暮らしてきたすべてが、次々と炎に食いつくされていきます。
やがて、黒い煙がアトーヤとトネイの息をふさぎました。熱さと苦しさに泣き叫ぶことも出来ず、絶望してアトーヤが目をつぶった時、トネイがかすれた声で叫びました。
「ホーメイ!」
その声は燃えさかる炎を一瞬さえぎるほど力強く、屋根の煙出し窓から天高く響き渡りました。
「さあ、わたしと闘うのだ」
森の木々がとだえた氷河のほとりの荒野で、大グマは振り返りました。
オンクルがためらっていると、大グマは前足を振るい、鋭い爪がオンクルの肩を深くえぐりました。オンクルは苦しみの声をあげましたが、それは人の叫び声ではなく、けものの吠える声でした。
痛みと血の匂いが、オンクルの人の心をかき消しました。クマになったオンクルは雄たけびを上げると、生きるための闘いを大グマに挑んだのです。
何度も組み合い、そのたびにオンクルの痛手は増えていきました。勝負は初めからわかっていました。
オンクルはこの大グマに倒されるのでしょう。けれどもそれならばなぜ、オンクルはクマに姿を変えなければならなかったのでしょう。
「私の跡を継ぐものは、クマの姿になるほどのものでなくてはならない」
オンクルの問いに答えるように、大グマは言いました。
「私がこれまで出会った人間は、そのものの周りを私が三回まわる間に、うさぎや野ネズミのような小さいけものになるか、鳥になって飛び去るか、中には小さい虫になるものさえいた。私と同じクマの姿になったのは、おまえがはじめてだ。だからおまえは私に屠られる。そうして、私の一部になってよみがえるのだ」
オンクルの背も腹も裂けてぼろぼろになっていました。オンクルは苦しい息を吐きながら大グマを見上げました。
「あなたは、森の王・・・?」
「そう。オットー」
大グマが最後のとどめをオットーの首筋にふりおろそうとした瞬間、風に乗ってかすかな声が聞こえました。それはか細い女の声でした。
ホーメイ・・・。
大グマはぎくりとして空を振り仰ぎました。
まるで時が止まったような不気味なひと時でした。
オットーと名乗った大グマは、ゆっくりと顔を森の向こうに向けました。
そして、大地がとどろくような咆哮を上げると、小山のような体で軽々と氷河に沿って険しい斜面を駆け下りて行きました。
村人たちは火柱に包まれた家を、恐れおののきながら見つめていました。炎になめつくされた家がとうとう崩れ落ちようとしたその時です。
にわかに空に灰色の雲が立ち込め、太陽を覆い隠したと思うと、大地をとどろかす雷鳴が鳴り響き、いきなり吹雪があたりを吹き荒れました。吹雪は一条のつむじ風となって燃え尽きるばかりだった家を呑み込みました。そして村人たちが見たのは、見たこともない一頭の大きなクマが、家の中でぐったりと頭を垂れた母と娘をその縛られた柱ごとくわえてさらっていく姿でした。
「・・・魔物だ」
だれかがつぶやきました。
「魔物だ!伝説の魔物だ!」
「逃げろ!」
「この村はもうおしまいだ!」
「氷の山津波が来るぞ!」
村人たちは口々に叫んで、逃げまどいました。
マリンカも村の若者たちに手を引かれて、川向こうの自分の村に向かってひたすらに走り続けました。
しっかりと胸に抱きしめていたオンクルの形見の上着の切れ端は、騒ぎに紛れて風に舞い飛んで散り散りになってしまいました。
<続く>