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北の国の短い夏が終わり、凍てつく冬の前触れの静かな秋の風があたりをそっと通り過ぎていくころ、オンクルは村おさの家に招かれました。

 マリンカがとっておきの酒をもてなし、上機嫌な村おさはオンクルにたずねました。

「おまえも次の春には成人式を迎える。どこかに嫁のあてはあるのか」

「特に心に決めたものはありません」

 オンクルは少しためらいながら答えました。オンクルの両親は数年前の山崩れに呑まれてすでに亡く、本来なら結婚は親同士で取り決めが進むもの、今のオンクルには村おさが親がわりでした。その村おさがオンクルの意思を確かめようというのですから、その意図は明らかでした。

「それでは、マリンカを嫁にする気はないか」

「まだ私には早すぎると思います」

 オンクルは目を伏せたまま村おさにそう告げました。

「何を言う。成人式を迎えた男は、一日も早く良い女をめとって、強い子供を一人でも多く村に与えるのがつとめだ。われわれは小さく、命は短い。山や川や森は大きく、長い時を持っている。生きる者のつとめを忘れるでないぞ」

「しかし、私には気にかかっていることがあるのです。それがうまくゆくまで、私はまだ自分の結婚のことなど考えられません」

「なんだ、おまえが気にかかっていることというのは」

オンクルは顔を上げて、まっすぐに村おさを見つめて言いました。

「川向こうの村に、アトーヤという娘がおります。その娘は母親と二人で貧しい暮らしをしております。その娘が良い男に嫁いで幸せになるのを見届けるまでは、私は自分の妻をめとる気はありません」

「あの娘は、厄つきだ。向こうの村では母親ともども忌み嫌っておる。幸せな結婚など、かなわぬ夢だ」

 村おさはかすかに侮るような笑いを浮かべて言いました。二人のことは、こちらの村でもよく知られていたのです。

「だからこそ、私は気にかかっているのです。あの娘は、幼いころに川でおぼれかかったところを私が助けました。その時から私は彼女の兄になろうと誓ったのです。彼女は父親の顔も知りません。私を慕ってけなげに暮らしております。私もアトーヤがいとしい。どうかまだしばらくは、私に嫁をとらそうなどとお考えなさらないでください」

 村おさは腕を組んで眉をひそめました。

「もしその娘を嫁にしようとする者がなかったら、どうする」

 オンクルはしばらくじっと考えていましたが、やがてこう言いました。

「その時は、私がアトーヤをめとります。アトーヤを私の妻にします」

 それを聞くと、村おさはたいそう腹を立てました。

「おまえは、私の娘より川向こうの村の貧しい厄つきの娘のほうがいいというのか。そんなにこの村と私たちが気に入らないのなら、どこへでも好きなところへゆくがいい。その娘といっしょにな」

 かたわらでおとなしく話を聞いていたマリンカは、それを聞くと驚いて言いました。

「そんなこと、おとうさま。オンクルは何もこの村や私たちが気に入らないと言っているわけではありません。かわいそうなアトーヤという娘が、幸せな結婚をするのを見届ければいいと言っているのでしょう。心のあたたかい人ではありませんか。私はオンクルのように優しくて強い方のところへ嫁いでゆけるのなら、何年でも待ちますわ」

 そう言いながらもマリンカの心には、たった今オンクルが口にした言葉がつららのように冷たく鋭くとがって突き刺さっていました。

 オンクルは、自分では気がついていないけれど、本当はアトーヤという娘のことを愛しているのではないだろうか。私よりもずっと、それはもう比べものにならないほどに・・・。

「おとうさま、私からもお願いいたします。どうか川向こうの村のかわいそうなアトーヤという娘に、良い人をめあわせてやってください」

 マリンカは村おさの腕にすがって言いました。

 オンクルは黙ってマリンカの言葉を聞いていましたが、マリンカが村おさにアトーヤに良い人を、と言ったとき、なぜか胸に大きな石を投げつけられたような気がしました。

 アトーヤに良い人を。自分でもそう思っていたはずなのに、なぜこんなに腹だたしい気持ちになってしまうのでしょう。まるで大切な宝物を誰かに横取りされてしまうような不安な気持ちを、オンクルははっきりと抱いてしまったのでした。

 マリンカとオンクルをかわるがわる見つめていた村おさは、やがてこう言いました。

「よろしい。オンクル、お前の成人式まで返事は待ってやろう。春になって、お前が成人式を迎えて、それでもまだ今のような繰り言を言うようなら、その時はさっき私が言ったように、村を出てその娘と暮らすがいい」

 オンクルは深々とうなづいて立ち上がりました。


 マリンカが呼ぶ声にも気づかず、オンクルは森に向かってどんどん歩いていきました。

 オンクルの足には夜露がしみこみ、冷たい風がどうっとオンクルに吹きつけてきます。

 アトーヤに良い男を、アトーヤに、アトーヤ、アトーヤ、アトーヤ、アトーヤ・・・・・。

 いつの間にかオンクルはアトーヤの名前を声に出して呼び続けていました。その名前を口にするたびに胸の奥から熱い何かがこみあげてきて、体中にくつくつと湯がたぎるような、何かじっとしてはいられないような気持になってきます。

「今すぐ、アトーヤに会いたい」

 そうオンクルは思いました。

 思えば、これまで一度だって、オンクルは自分から川向こうの村へアトーヤを訪ねたことはありませんでした。そればかりか、なぜアトーヤや母親のトネイが村人たちからうとまれているのか、ふたりが抱えているものが何なのか、これまでオンクルは探ろうともしませんでした。

 そうだ、それをまず知らなければ。アトーヤのためならばこの村を追われてもかまわない、けれどももし何か人々のうわさに行き違いがあって、アトーヤたちに何の咎もないのだとしたら、その時はどうあっても自分がそれを人々に明らかにしてみせなければならない。

 満月の夜でした。オンクルは熱い思いを抱えて、恐れも忘れ、夜の森へずんずん分け入っていきました。どうっと木々を揺する強い北風は、冬がやってきたことを告げるものでした。アトーヤのことを思いながら、川向こうへ行くのとはまるで反対の、森の奥深くに歩みを進めていることに、なぜかオンクルは少しも気がつかずにいました。

 ふと足を止め、自分が森の木々に囲まれていることに気がついたオンクルは、自分がなぜここにいるのか不思議に思いました。森は決して一人では入らない場所と定められていました。しかも、夜に森に足を踏み入れるなど、ありえないことでした。それなのにオンクルは、まるで何かに引き寄せられるようにここまで歩いてきてしまったのです。

 そのとき、森の奥のほうから、低いもの悲しいけものの吠える声が聞こえてきました。今まで聞いたこともない、不思議な声でした。オンクルはあわててあたりを見回しました。そして、いつの間にかずいぶん森の奥深くまで歩いてきてしまったことに、オンクルはようやく気がつきました。

 木々はすっぽりオンクルを包みこみ、来た道も帰る道もわからなくなってしまっていました。うすい月の光が木々の間からさしこんでくるものの、よほど目をこらさなければ、手を伸ばした先に何があるかさえ見えないほどの暗闇の中にたった一人でオンクルはいたのです。こずえの枝が風にしなる弓のような音と、自分の足音のほかには何ひとつ聞こえなくなりました。

「けものはどこへ行ったのだろう」

 オンクルは油断なくあたりを見回しました。こんなところで、オオカミやクマにでも出会ったら。今のオンクルは、弓矢も小刀も持っていないのです。

いや、それよりも、この森にひとりで入っていったものはいない、いたとしても戻ってきたものはいないのではなかったでしょうか。

「おまえ、何をしに来たのだ」

 ふいに背後から太いくぐもった声がして、オンクルはいっしゅん体が凍りついたように動けなくなりました。

「おまえ、どこへ行くのだ」

 もう一度、声が、今度はすぐ耳元で生臭い息とともに間近に聞こえました。

 オンクルはゆっくりと振り返りました。そこには、大きなクマがじっとオンクルを見つめていたのです。

「私は、川向こうの村へ行くつもりだった。だが、どういうわけか、川とは反対のこんなところへ来てしまったのです」

 オンクルはぼんやりとつぶやきました。目の前のクマは、四つん這いになっていました。それなのに、顔の高さはオンクルよりわずかに上でした。立ち上がったらどれほどの大きさになるのか、オンクルには想像もつきませんでした。生まれてから一度も、そんなに大きなクマに出会ったことはなかったのです。

「おまえ、呼ばれて来たな」

 クマはそう言って、フッフッと笑うように息を吐きました。

「そうか。おれのときと同じだ。どれ、確かめてみよう・・・」

 そしてクマはゆっくりとオンクルの周りを歩き始めました。

 オンクルはクマが何かつぶやきながら、次第に輪を狭めながらぐるぐると自分の周りをまわるのを、なすすべもなくじっと立ち尽くしたまま見ていました。

 ほどなくオンクルの頭はぼうっと薄暗くなってきました。体が重い石のように感じて、オンクルは思わず地面に膝をつき、手のひらで体を支えました。しばらくそのままうずくまっていたオンクルがようやく気を取り直して立ち上がったとき、その姿は一頭の大きな灰色のクマに変わっていたのでした。

 オンクルの身に着けていた服は、びりびりに裂けて風に乗ってどこかへ飛んでいきました。オンクルの姿は跡形もなく消えてしまっていたのです。

「ほう、その姿になったとは、おまえはなかなか見どころがある。ついてこい」

 そう言って大グマはオンクルに背を向け、ゆっくりと歩きだしました。クマになったオンクルは半分眠ったようになって、そのあとに従い、森の奥へと消えてゆきました。

<続く>

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