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雪や霜や、たくさんの冬のものたちが生まれてくる北の大地に、大きな森がありました。
森はどこまでも大きくて静かで、湖や底なし沼や、深い谷や暗い洞穴がたくさんありました。人間は恐ろしがってこの森に入っていく勇気のある者はほとんどいませんでした。時々迷い込んでしまった人間は二度と里へ戻ってくることはありませんでした。ごくまれに戻ってきた者は、なぜか誰も森の中でのことを覚えていませんでした。だから人々は、森には何か不思議な力を持った魔物がいるのだと信じていました。
その森の奥深くに、一頭の大きなクマが住んでいました。名前をオットーといいました。
オットーは森の動物たちの中で一番大きくて一番賢いクマでした。森の動物たちはみんな、オットーのことをこの森の王様だと思っていました。オットーの胸には、森の女神からいただいた白い大きな三日月の勲章がかかっていましたし、オットーは森の誰よりも年をとっていたのです。オットーがいつ生まれて、どこでどう育って、どこに住んでいるのか、知っているものは誰もいませんでした。
森で一番大きな洞穴には、カジャンカという暴れグマが住んでいましたし、森で一番澄んだ泉のほとりの大きな木のうろには、マオナンという太った狐のおかみさんが、五匹の子狐たちと暮らしていました。森で一番深い谷底には、氷の河がごうごうとすさまじい音をたてながら、時々氷の山がぶつかりあってなだれのような地響きも混ざりあって、それはもう恐ろしい勢いで流れていたのです。
オットーはほとんど誰の前にも姿を見せることはありませんでした。森の動物たちはみんな、オットーに一度でいいから会ってみたいと思いながら、会うのが怖いような気もしていました。
それでも、森の中で誰かがオットーの名前を口にするとき、その名前を聞いたものは誰もが恐れと尊敬の入り混じったひそかなため息をつくのでした。
満月の夜には、森のどこかで悲しげな、けれどもりんとした、聞く者に生きている喜びと悲しみのどちらをも感じさせずにおかない、オットーの遠吠えが聞こえてきます。
生まれて間もない赤ん坊たちが耳を澄ませてかすかにふるえると、母親たちはこう言ってきかせます。
「あれはね、坊や、オットーという森の王様がいつも私たちを見守ってくださる声なのよ。私たちがどこにいても、オットーはちゃんとどこかで見ているの。誰か怖い目にあってはいないか、苦しい目にあってはいないかってね。だから私たちはいつも安心して生きていられるの。この大きな森にいるかぎり、私たちはいつもオットーと一緒なのよ」
森の動物のこどもたちは、そうして森の王オットーのことを学ぶのでした。
山のふもとの小さな村に、貧しい母娘が住んでいました。お母さんのトネイは目が見えず、耳も不自由でした。しっかりものの優しく美しい娘のアトーヤは、体の不自由な母親の分まで、わずかな畑で豆を育てたり、木の皮を細かく裂いて布を織ったり、毎日くたくたになるまで働きづめの毎日でした。
アトーヤのお父さんは、アトーヤが生まれる前に森で行方知れずになったまま、もう二十年もたちました。
村の人々は、なぜかアトーヤとトネイ母娘を冷たい目で見、なるべく話をしないよう、そばに近づくことさえいやがっているようでした。だからアトーヤは、畑で取れた豆も、木の皮で織った布も、わざわざ遠くの川向こうの別の村まで売りにいかなければなりませんでした。
けれども、村人たちの冷たいそぶりはアトーヤがうんと小さな時からのことでしたから、アトーヤはもうそんなことにはすっかり慣れてしまって、毎日川向こうの村へ行く途中の森のはずれの道を通るときに出会う小さなけものや鳥たちに、自分のひるごはんの豆や塩づけの魚をふるまってやるのを楽しみにして暮らしていました。
森の動物たちもアトーヤのことをちゃんと知っていて、アトーヤが高く澄んだ朗らかな声で歌いながら森の小道へやってくると、必ずどこからかりすやらうさぎやら、たぬきやらきつねやら、鳥たちはアトーヤの歌に合わせてさえずりながら、アトーヤの周りに集まってくるのです。アトーヤは優しい目をしたけものや鳥たちに会うたび、村での人々の冷たい目やことばに感じるさびしさがすっかり消えて、心が明るくなってくるのでした。
それにもう一つ、アトーヤには誰にも言わない小さな幸せがあったのです。
それは、川向こうの村に住む漁師の若者に会うことでした。
若者は名前をオンクルといい、川向こうの村の一番腕のいい漁師でした。オンクルの操る小舟は、嵐の後のどんなに激しい濁流もすいすいと下っていきますし、オンクルの放った網には、いつでもたくさんの魚がかかりました。もちろん、泳ぎの腕も大したもので、人々はオンクルの守り神は魚に違いないとうわさしていました。アトーヤがまだずいぶん小さいころ、そのころは目が見えなくても耳はまだ聞こえていて元気だったトネイに連れられて、はじめて川向こうの村に布を売りに行ったとき、アトーヤが足を滑らせて川の深みにはまって流されていくのを助けてくれたのがオンクルでした。
そのころはオンクルもまだ小さな少年でしたが、毎日父親と一緒に川で漁をしていたのですから、幼くてももう川は歩きなれた道のようなものだったのです。
まだ春浅いころのことでした。怖さと寒さにぶるぶるふるえながらオンクルの腕にしがみついて泣きじゃくるアトーヤに、オンクルは言いました。
「森の奥深くに、この世が生まれた時から一度も溶けたことのない、氷の河があるんだって。そこには神様が住んでいて、この世の始まりから終わりまでを眠りながら夢に見つづけているんだって。この川は、その神様の眠っている氷の河からずっと流れてきたんだよ。だからこんなに冷たくて流れが速いんだ」
それははじめて聞いた不思議な言い伝えでした。アトーヤは、自分をのみこんだ渦巻く川の流れを見つめました。そのとき、なぜでしょうか、アトーヤはこの川が恐ろしいだけでなく、どこか引き寄せられるような心地よさも持っているような気がしたのです。
それがオンクルの優しく語る声のせいなのか、それとも神様の住んでいるところから来たこの川の持つ力のせいなのか、幼いアトーヤにはわかりませんでした。
今ではもう、水の少ない時には、遠回りして橋を渡らずに岩伝いに身軽に川を渡っていくアトーヤでしたが、それでも時々、水底からふっと何かが出てきてアトーヤをひと呑みにしていきそうな気がすることもありました。
そしてまた、自分でもはっきりと気づいてはいませんでしたが、アトーヤは川の流れに身を任せて、どこまでも行ってみたいような気もしていたのです。
オンクルは今ではもうすっかり大人になって、アトーヤが川の向こう岸に現れるのを誰よりも一番最初に見つけて、わしの翼のようにたくましい腕をふって、アトーヤを迎えてくれます。
アトーヤもオンクルのすがたを遠くからでも見分けることができました。オンクルは村の誰よりも背が高く、あかがね色のはだは太陽のようにまぶしく、黒い宝石のような瞳は若さと力にあふれて星のようにきらきらと輝いていたからです。
けれどもこのごろは、オンクルのかたわらに一人の若い美しい娘がいつもそばにいるようになりました。
その娘は、村の誰よりも美しく、高貴そうな面だちをしていました。そして彼女の着ている色鮮やかな着物や美しい石をちりばめた首飾りや腕輪は、なおさら彼女の美しさをきわだたせていました。アトーヤは自分のそまつななりがいやだとか恥ずかしいと思ったことはそれまで一度だってなかったのですが、娘がオンクルのそばにいつもいることに気が付いてからは、ひょっとしてオンクルが彼女と比べて自分を醜いと思っているのではないかとひそかに悲しくなることが時々ありました。
けれどもオンクルは今までとかわりなく、アトーヤを妹のようにいとしく思っておりました。
娘がその村のおさの一人娘のマリンカだということを、アトーヤは人々のうわさから知りました。
そして村おさはオンクルが成人式を迎えたら、マリンカの婿にして次の村おさにしようとしているらしいとも聞きました。
アトーヤはそのうわさが本当かどうか、オンクルにたずねることができませんでした。ただ、今は川向こうの村に行けば大好きなオンクルに会える、それを楽しみに毎日を過ごしていたのです。
<続く>