八・のち、豪雨。
その日の夜の事だった。季節は秋。思う以上に辺りが暗くなるのはあっという間で、そして唐突だった。瑞穂を送る、という名目ではあるが、実際のところは泣いてしまった俺が落ち着くまで時間を取らせたことの責任を取る、……というと何だかかっこつけになるのだが、そういうことで俺は瑞穂の家まで付いていく事にした訳だ。そうしたら、偶然父親と家の目の前で出くわしてしまったのだ。
思えば最悪だったのは瑞穂からこの両親についての話を聞いたその当日であったことと、そして俺が傘を持ってきていなかったがために瑞穂の傘を俺が持って相合傘をしている、ということだった。相手が相手だ。別にその手のお説教が来る事はないだろう。現になかった。だが、
「フン。母親そっくりじゃないか。あれだけ良い子ぶっておいて、やることはしっかりと……しているなんてなぁ?」
俺がいるにも関わらず、そんなことを言ってくる事態になっちまったんだ。
「ち、違います! 隆君はそういうんじゃ」
「じゃあ何なんだその相合傘は」
「これは……」
「俺が傘忘れたもんで強引に入れてもらってんすよ……」
もう、遠慮はいらないなって、そう思った。
「ほう? 挨拶するより前にそんなケンカ腰に話しかけてくるなんて、どんな躾されてきたかがよくわかるよ」
ほら。向こうだってその気だろ? てめぇの子ども一人幸せにしてやれない甲斐性なしだってのがよくわかるよ。
「つーか俺がいる目の前でよくそういうことが言えたもんスね」
「別に。君がどういう子なのかってのは知ってるんでね。有名人の君に、この子がどういう子なのか、親としては説明してやる必要があるだろう?」
それで俺に押し付けようってか? 俺の体がゆっくりと前に動き出す。勢いをつけ、そして殴りつけようとして、それができなかった。
「ダメです。隆君。……ダメです」
瑞穂が俺の体を抱きとめていた。雨に濡れることも厭わずに、傘を投げ捨て、全力で俺を抱きとめていた。体格差を考えると、これくらいしないと瑞穂は俺の歩みを止められないのだ。
「何でだよ。離せよ。瑞穂」
「ダメです!」
瑞穂の腕に力が籠もっていくのが伝わる。
「あら、お似合いね。……ほんっと、よぉくお似合いよ。あのインラン女に、よぉーっく、似ているわぁ」
瑞穂の今の母親が、合流してきた。そしてその言葉に、その姿に。瑞穂の体が震えだした。
「お、おかっ、お帰りなさい。お母さん」
引きつった声、引きつった作り笑顔でどうにかこうにか引っ張りだした言葉。
「つーかさぁ。アンタ。もういい加減にしてくんない? そーいう態度、アタシほんっとイヤになんのよ。そういうさ、『私は良い子でーす』ってた、い、ど!」
ヘラヘラと笑いながらこのババアがくっちゃべる。どうにかしようとして、方向はズレにズレまくっちゃいたかもしれないけれど、それでも必死に足掻く瑞穂の気持ちなんて、途方もない程考えられちゃいなかった。
「もう無理して帰ってくる必要もないんじゃないか?」
父親の声は不思議と優しい響きにも感じられた。
「だってそうだろう? 門限も守れないんじゃあなぁ……」
俺は驚いて瑞穂を見る。それは初耳だった。瑞穂の顔が青ざめていく。
「おい」
「……ません」
俺にだけ聞こえる最後の否定の声。瑞穂は、俺の顔を見て、何かの逡巡を振り切るように俯いた顔を上げ、
「うちに、門限なんてありません……」
そう言った。今度は、どうにか俺一人には聞き取れた。
「ハッタリ、かよ……」
気持ちがまた荒れてくる。だが父親のにやけた顔がまだ止まらない。
「いいや。この時間だ。八時だぞ? 健全な中学生が帰るには遅すぎるだろう。まぁでも皆まで言うな。わかってるさ。あの女に似たこいつのことだ。どこぞの不良に良い様に踊らされてよろしくやっていたんだろう?」
瑞穂の顔が下がる。違うんです。口だけでそう言っているのが読み取れる。その違うんです、は自分のことじゃなくて、たぶん、いや、絶対。俺の事。俺が不良じゃないんだって、こと。自分の事を優先しないで人の事ばっかり許す人の良いバカだから。……だから。もう俺はキレていた。
「ふざけんじゃねぇーーーーーー」
手始めに父親の胸ぐらを掴み、家の塀に押し付ける。殴りはしない。こういう奴にそれをしたら、思うつぼだと思った。
反応が遅れた瑞穂が慌てて俺を止めようとして、失敗して、つまづいて、そして転んだ。でも、俺はそれを意に介することができないまま、叫んでいた。
「謝れ! 今すぐに謝れよ!」
胸ぐらを掴まれ、そして背丈が百九十を越えた俺を見上げながら、それでも父親はにやけていた。
「どうして謝る必要がある? 君はもう私に暴力を振るっている。これは立派な不良の行動じゃないか」
ふざけるな! ふざけるな! ふざけるなこの野郎! こみ上げる思いに拳を握りしめる。
「あぁそうだ! 俺は不良だよ! 俺は不良なんだよ。そっちじゃねぇよ! 娘に! 瑞穂にだよこの野郎!」
興奮しているつもりはなかったけれど、妙に息が上がる。ゼエ、ゼエ。息が苦しい。
「血の繋がってない親子なんざ珍しくもなんともないさ。でも、それでも愛情もって育ててる親ってのはいるんだ。……しかもアンタ、繋がってんじゃねぇかよ。繋がってんのに、どうして、何で、だよ……? なぁ、謝れよ。なぁ! 瑞穂に、謝れ、よ……」
腕に、手に力が入らなくなってしまって、瑞穂に、引きはがされる。
「謝って下さい!」
瑞穂は叫んだ。俺に向かって。父親でなく、俺に向かって。
「隆君、謝って下さい。二人に」
背中越しに聞こえる声。俺は信じられない気持ちがして、雨に濡れたコンクリートの上に尻餅をつくようにしてへたり込む。
「どう……して……?」
俺はそれしか言えなかった。
「隆君、早く、謝るんです! 早く」
「だからどうして!」
俺は信じられなかった。俺は瑞穂のために謝れと言ったんだ! 俺のために違うと言ってくれた瑞穂、お前のために俺は! その気持ちを唐突に裏切って両親の側につくなんて、信じられなかった。
「私の手術に、どれくらいお金がかかったか、隆君わかりますか?」
瑞穂の声は、穏やかさを取り戻していた。でも、顔に、表情に光を、今までのような雰囲気を感じる事が、できなかった。
「それは、少なくとも安い金額ではありませんでした。それを、二人は出してくれました。わかりますか。私のために、出してくれたんです。それは、間違いなく愛情だって、わかりませんか? 隆君」
それはきっと、というか絶対、世間体が理由だ……と言いたかったが、さっき叫んだので体が限界を迎えてしまったようだった。薬を吸い込むのに精一杯になって、それを言う事ができなかった。そしてそのまま、どういう訳か仕事をしていたはずのお袋が駆けつけて来て、朦朧とした頭のまま、俺は引き摺られるようにして帰っていく羽目になった。
「うちのバカ息子が、本当にご迷惑をおかけ致しました」
と母が深々と頭を下げているのを見ると、それだけは本当に申し訳なく思えた。




