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同じ街にて

碧の天球

作者: 深江 碧

 碧の天球




 最近、よく空を見上げるようになった。

 どこまでも澄み渡った青い空に、まぶしいくらい白い入道雲が浮いている。

 高校受験を控えた中三の夏、セミの大合唱を聞きながらあたしは陽炎の立ち上るアスファルトの上を歩いていた。

 夏休みに入ってからというもの、あたしは近くの図書館に通いつめ、やる気のない勉強を形だけこなしていた。受験生だから、とか、志望校を目指して、とか、そんな気持ちは全くなくて、楽しくもない勉強を言われたとおり機械的にやっていくだけ。やる気もなければ、頭にも入らないらしい。次の日には前日覚えた公式も忘れている、そんな毎日。

 でも夏休み他にやることもないし、友達も受験生なので誘いにくいし。父さんと母さんはお盆まで休みが取れないし、兄の光治はたった一人の妹を置いて友達と海外旅行に行っちゃうし。(確か、イタリアのベニスとか、ヴェネツィアとかだっけ、うらやましいよ)

 あたしも外国行きたいよ。夏休み中、図書館にこもって勉強なんてまっぴら。海でも山でもいいからどこか行きたい。と、言っても誰かが連れて行ってくれるわけでもなく、今日も一人さびしく図書館に向かう。

 セミの鳴き声に混じって車のエンジン音が聞こえる。慌てて道路の右側に寄る。

 白い普通乗用があたしの左脇を通り過ぎていった。

 あたしはぼうっとその車の行く先を見ていた。するとその車は十メートルほど行ったところで急ブレーキをかけた。

 あたしはちょっとびっくりして車を見ていたのだけど、運転席の窓が開いて男の人が顔をのぞかせた。 男の人はあたしのほうに顔を向けて、大声で叫ぶ。

「おおぃ、山音ちゃん。山音ちゃんだろ?」

 男の人は四十代初めくらいで、よく日焼けした肌に立派なあごひげをたくわえていた。窓から身を乗り出す男の人に、あたしは首をかしげる。

 はて、誰だったかな?

 あたしが考えている間に、車はバックしてあたしの立っているところまで戻ってきた。

「俺だよ。君のお父さんの弟、康之だよ」

「あぁ、康之叔父さん」

 ようやく合点がいった。

 康之叔父さんも安心したように目元を緩ませる。

「覚えてなかったらどうしようと思ったよ。山音ちゃん、大きくなったねぇ」

 以前に会ったときよりも背も体重も増えたあたしを見て、叔父さんは素直な感想を述べた。前に会ったときは、あたしが中学に上がる前だったと思う。叔父さんはフリーのカメラマンをしていて、世界各地で写真を撮ってるんだって。たまに思い出したようにふらりと父さんを訪ねてくるんだけど、それも半年後だったり、三年後だったりとまちまちだ。

「なに、今日はどうしたの?」

「それなんだが」

 叔父さんは困ったように頭をかいて、助手席を振り返った。助手席には一人の男の子が座っていた。黒い髪に浅黒い肌、男の子はあたしに気がつくと屈託のない笑顔を向けた。

「詳しい話は家に行ってからしよう」

 かくして今日のところは図書館に行かず、もと来た道を戻ることになった。

 空にはあたしの行く手を拒むかのように、入道雲がでんと立ちふさがっていた。



 鍵を開けて、ひんやりした玄関に入っても家の中に人の気配はしない。そりゃそうだ、父さんも母さんもまだ仕事だもんね。それに、兄さんは旅行中。

それでもいつもの習慣でただいまを言ってから、靴を脱ぎ廊下に上がる。叔父さんを居間に案内し、

「いま麦茶入れるから」

「お、すまないね」

 テーブルの前に残し、あたしは台所に向かう。冷蔵庫を開け、麦茶を取り出す。それをコップに注いだついでに、戸棚の中のめぼしいお菓子を器に盛ってテーブルに持っていく。

「どうぞ」

 折り返し台所に戻り、自分の麦茶をコップに注ぐ。適当な椅子に腰を下ろし、叔父さんに話しかける。

「父さんと母さんは当分帰ってこないと思うけど」

 あたしは向かいに座った男の子に視線を向ける。

「叔父さん、結婚したの?」

 麦茶をちびちびと口に運びながら、叔父さんを見つめる。

 叔父さんは盛大に麦茶を吹き出した。無論、お菓子は非難済みだ。

 咳き込みながらおじさんが聞いてくる。

「山音ちゃん?」

「まあ、叔父さんなら隠し子の一人や二人どこかにいそうだけど」

「こらこらこら」

「でも、責任は取ったほうがいいと思う。男として」

「だから、違うんだよ!」

「冗談よ」

 あたしの一言に絶句する叔父さん。

 話題の中心にいる男の子は不思議そうに首をかしげていた。


「だから、これは俺の子じゃなくて」

 それでも律儀に説明する叔父さんに、あたしは突込みを入れる。

「じゃあ、誰の子なの?」

 叔父さんは口を開けたまま硬直している。

「あー、まあ、それはだな…」

 叔父さんはそういって机の上を見回した。

「叔父さん、うちに灰皿はないわよ。家の中は禁煙だから、吸うなら外行ってね」

 視線をあたしに戻し、残念そうな顔をする。

「まあ、その件で兄さんと義姉さんに相談しにきたんだがな」

 席を立ち、玄関のほうへ歩いていく。

「ちょっくらタバコすってくる」

 玄関の扉が閉まる音がして、部屋の中は急に静かになった。

 あたしは向かいに座る男の子に話しかける。

「きみいくつ、名前は?」

 年は小学生くらいだと思う。黒くて丸い瞳が無邪気にあたしを見ている。

男の子は答えない。

何度か話しかけて返事が返ってこないのをみて、あたしはあきらめた。

じきに叔父さんが外から戻ってきた。

「叔父さん、この子しゃべれないの?」

「ん、ああ。日本語はまだ教えてないな」

 叔父さんはあいまいに笑って男の子に話しかけた。

 その言葉は英語だった。

 男の子はにっこりと笑って何事かをじゃべったが、英語の苦手なあたしには聞き取れなかった。

「すごい」

 あたしは驚いて叔父さんを見つめた。

「叔父さんがはじめてかっこよく見えた」

「おいおい、これでも外国暮らしが長いんだ。英語ができなきゃ生活できないだろ?」

 あたしは黙ってうなずいた。

 じゃ、あたしは一生日本暮らしでいいや。

「この子の名前はテウマ、年は十才くらい。男の子だ」

「見ればわかる」

 あたしの余計な一言に、叔父さんはすこし寂しそうな顔をした。

「それで、その子はどこの生まれなの?」

 あたしはあわてて先を促した。

「あれは確かケニアだったか? いや、南アフリカか?? ま、とりあえずアフリカの出身だ」

「へー、でもどうしてそんな子が叔父さんと一緒にいるの?」

 叔父さんはそこでいったん言葉を切って、深刻な顔をする。

「別に答えたくないなら、答えないでいいから」

 また余計なことを言ってしまったと感じたあたしは、手を振ってそれをさえぎる。

 叔父さんは表情を変えず、黙り込んでいた。

「どうせ兄さんたちに話そうと思ってたことだ。隠すことでもないしな」

 そういって叔父さんはその男の子の生い立ちを話し出した。



 夕食が終わってから、叔父さんは父さんと母さんに男の子の件で話があるようだった。

 あたしは自分の部屋に戻り、ベットに横になって漫画を読んでいた。

 昼間叔父さんが話したことで頭がいっぱいで、漫画の内容も頭に入ってこなかった。

 本を閉じて、本棚に戻す。

 あたしはベットに仰向けになって白い天井を見つめた。

「知ってたわよ、そんなこと」

 あたしは独り言をつぶやいた。

 頭の中がもやもやして、どうにも気分がよくない。

 あたしは部屋のドアを開け、廊下に出た。

すると薄暗がりの中にひっそりと男の子が立っていた。

「どうしたの?」

 と言いかけて、あたしは日本語が通じないことを思い出した。

「えーと、ハウだっけワットだっけ、えーと」

男の子はあたしの様子を気にせず、手を引いた。

「え? あの」

 男の子はあたしにかまわず手を引いて廊下の突き当りまで来ると、やっと手を放してくれた。

男の子は窓のガラスを指差した。

 あたしは男の子の指差した先を見た。

 今夜はきれいな月夜だった。紺色の空に白い月が浮かんでいた。

 あたしが月を眺めていると、男の子は隣にきて一緒に月を見ていた。

 男の子は満足そうな笑みを浮かべた。

 あたしはそのときなんとなく理解した。

 この男の子は自分の境遇を不幸なんて思っていない。そしてあたしに同情されることも望んでいない。

 男の子が本当にそう考えているのかわからなかったけど、あたしにはそう思えた。

 空は青暗い光を放ち、あたしたちを見下ろしているように見えた。

 


 今日も昨日と同じ晴れ。青い空が目にまぶしい。

 今日一日、あたしは叔父さんに男の子のお守りを任された。叔父さんはあたしに男の子のお守りを任せてどこかへ行ってしまった。お小遣いは前もって両親にもらってあるからお金の心配はないけど。

 叔父さんに頼まれた本を図書館で借りてから、買い物にでも出かけようと思い、あたしは男の子をうしろに乗せ、自転車で図書館まで行った。

 図書館の中は冷房がかかっていないのにひんやりとして、静かで張り詰めた空気が漂っていた。薄暗い部屋に窓から吹き込む風でカーテンが揺れて見える。

「すみません」

 カウンターに座る司書のお兄さんに本の題名を言うと、すぐにある場所を教えてくれた。

 貸し出しの手続きを済ませ、入り口を出ようとしてはたと男の子がいないことに気づく。部屋の中に戻ると、司書のお兄さんの仕事を興味深そうに見ていた。

「あの」

 あたしはお兄さんに話しかけようとして硬直した。

 二人が話している言語が日本語ではないことに気づく。

 ええ、そうですよ。あたしの苦手な英語ですよ。

しかもこんなハイスピードの会話についていけってほうが無理ですよ。

あたしは二人に話しかけるのをあきらめて本でも読むことにした。

いいんだ。英語しゃべれなくっても…。


それから数十分して、男の子があたしのほうに歩いてきた。さっき一緒に話をしていた司書のお兄さんも一緒だった。

お兄さんはあたしと男の子を休憩室に案内して、ジュースを出してくれた。

男の子が笑いながら話しかけてきたのを律儀にお兄さんが同時通訳してくれた。

ありがとう、お兄さん。なにからなにまで親切だね、お兄さん。

その話の内容は他愛のないものだった。今日の天気とか、この町のみどころとか、叔父さんのことについて、もろもろ。

ジュースをごちそうされたお礼を言って、あたしが部屋から出ようとすると、

「その子は風の吹く場所がいいと言っていた」

 と声をかけられた。

 男の子を見ると、期待のまなざしで見上げてくる。

 じゃ、今日は山にでも登るとしますか。

「まずは風波神社に連れて行ってやったらどうだ? あそこなら近くだろう」

 お兄さんのアドバイスに、第一の目的地は決まった。

 あたしが男の子に向かってうなずくと、男の子はいまにもはしゃぎだしそうだった。

「今日はいい風が吹く。きっとその子も満足するだろう」

 部屋を出る直前に不思議な言葉をかけられた。

 よくわからないけど、この子が喜んでくれるならいいや。

 あたしはその言葉の意味をよく考えることはしなかった。



 風波神社は山の上にある。長い石段を登ってたどり着くぶん、町を見下ろす眺めは絶好である。

見上げると、石段が空まで続いているようで気が重い。

 自転車を石段の脇に止め、あたしが石段に足をかけようとしたところで男の子が袖を引っ張った。

「え?」

 振り返るとあたしの自転車を指差している。

「大丈夫、大丈夫。ちゃんと鍵かっておいたし」

 しかし男の子はあたしの袖を離さない。

 ジェスチャーであたしに何かを伝えようとする。

 しまいには自転車を引きずり始めたので、あたしはあわてて止めに入った。

 ジェスチャーとあたしのつたない英語で男の子の真意はなんとか理解した。

 つまり自転車を神社まで持っていけと。

 あたしは見上げるほどの石段にめまいを覚えた。

 この暑い最中、あたしは汗水たらして自転車とともに石段を登る羽目になった。


 神社の社がある場所は木々で木陰ができており、涼しい風が渡っていった。

 木々の隙間から見える空は、吸い込まれそうなほど青い。

 あたしは神社の社の下に座り、しばらくは動けない状態だった。

 男の子は疲れた様子もなく、ものめずらしそうに辺りを駆け回っていた。

 下の自販機で買ってきたお茶もすっかりぬるくなっていた。

 それをちびちびと飲みながら、あたしは眼前に広がる町の景色を眺めていた。

 汗の乾いたころに、あたしは立ち上がり男の子の方に近づいた。

「どう? 気持ち居場所でしょ」

 男の子の喜びように、あたしもうれしくなった。ここに来てよかったなって。

 眼下に広がる町の景色を目に留め、自然に頬が緩む。

 

しばらくして、男の子があたしの自転車をまた指差した。

「はいはい、今度は何?」

 あたしは男の子に自転車のハンドルを手渡す。

 男の子が自転車に乗ろうとしたが足が届かなかったので、あたしが後ろを支えてやってようやく乗ることができた。

「ヤマネ」

 男の子はあたしの名前を呼んで、目線で自転車の後ろを指し示す。

「後ろに乗れってこと?」

 すこしだけ嫌な予感がした。

 でもそれは気のせいだと思って、あたしは男の子の後ろに座る。

 掛け声とともに自転車は動き出し、あたしは男の子の腰につかまった。

「ええ?!」

 男の子の背中に阻まれてよく見えないけど、あっちって今登ってきた石段のほう?

「ええええ、ちょっとストップ、ストップ!」

 あたしは慌てて地面に足をつけて止めようとするけど、男の子も負けずにこぎ続ける。

 石段まであと一メートルくらいしかない。

 確かに冒険心は大切だと思うけどさ、それはあたしとは関係ないところで発揮すべきだと思うな。

 石段まであと五十センチをきった。

 どっかの競技で階段を自転車で駆け下りるものもあったかもしれない。でもそれは見ているのが楽しいのであって、実際にやってみようとは思わない。

 石段まであと三十センチ。

 石段の上から駆け下りたらあたしの自転車確実に壊れちゃうよ。あと三年は乗ってやろうと思ってたのに。

 自転車が変なふうに落ちこんだ。振動が来て、自転車が徐々に斜めに傾いていく。

傾いていった後は、たぶん誰が考えても同じ答えが出ると思う。

 答えは単純。落ちるしかないね。

「ぎゃああああぁぁぁぁぁ」

 自転車は石段を転げるように落ちていく。

 あたしは必死に男の子につかまっているしかなかった。

 自転車に伝わる振動で口をあけることさえままならない。

 男の子はさかんに何事かつぶやいている。

 自転車の振動が少なくなったのに、あたしはすぐには気付かなかった。

 だってまだ石段の半分も行ってないのに、到底気を抜ける状態ではなかったのだ。

 しだいに振動が少なくなって、やがて平らな道を走っているのと同じようになる。

 あたしは自分の目が信じられなくなった。

 石段はまだ続いている。でも揺れが感じられない。

 あたしは自分の足元を見てはじめて納得した。

 自転車のタイヤが石段からすこし浮いていたのだ。

 水に浮く船のように、自転車は空を泳ぐ。

 白昼夢かもしれない。最近暑い日が続いたから、ついに頭が変になってしまったのだ。

『雲の上にいくよ』

 男の子はあたしを振り返った。

 男の子の話している言葉は聞き取れないのに、言っている意味はなんとなく理解できた。

 不思議に思いながらあたしがうなずくと、男の子は自転車のペダルを漕ぎ出した。

 男の子が漕ぐにしたがって、タイヤが石段から離れていく。

 そして空に向かって上っていく。

 あたしはどこかでこういう映画があったのを思い出したが、題名まではわからなかった。

 後ろを振り返ると、風波神社の緑の茂みが遥か下に見えた。

 目もくらむほどの高さ。あたしは下を見るのをやめて、前だけを見るようにした。

 白い入道雲が眼前に迫り、あたしは目を閉じた。

 冷たい空気が頬をなで、耳の奥を風の音が通り過ぎる。

 雲を抜け、さらに上昇する。


 やがて雲海という言葉の示す通りの光景が続くだけの場所にたどり着いた。

 あたしはいままでこれほど高い場所に来たことはない。

 飛行機にだって乗ったことのないあたしだから、それが現実のことなのか、夢の中のことなのか判断できなかった。

「ここは?」

 正直あたしは答えを期待してなかった。

『碧の天球』

 男の子はぽつりとつぶやいた。

『命の集まる場所。記憶の倉庫。みんな最後はここに戻ってくるんだ』

 男の子はよどみなく答える。

『ぼくらの村では、そう信じられてきた。誰も、確かめたことはないけれど』

「そう」

 あたしは地平線とも、水平線とも違うまっすぐに横切る雲の線を眺めていた。

 青と白の境目。それが水と油のようにはっきりとわかれているのを見るのは、不思議な感じがした。

 ふと視界の端に白い塊がちらついた。

 それはみるみるあたしたちの方に近づいて来た。

「ねえ、何か来るわよ」

 あたしは男の子の肩をたたく。

『あれは』

 それは雲にもぐり、あたしたちのすぐ近くの雲から飛び出した。

 それは大きな鯨みたいな形をしていたが、すぐに白い粒でできていることに気づいた。

『記憶の倉庫にして、記憶の番人。あれはみんなの記憶のかたまりなんだ』

 それはあたしたちには目もくれず、悠然と泳ぎ去った。

 雲の中に消えたのを見届けてから、あたしは男の子に話しかけた。

「記憶って?」

『死んだ人の記憶、死んだ生き物の記憶。みんな死んだらあれの一部になるんだ』

 男の子の顔ははっきりとは見えなかったが、声のトーンがわずかに下がった。

『じじもばばも、サクタ兄やニノ姉、村の人はみんなあそこにいる』

「テウマ」

 あたしは言葉をかけようとしたが、男の子は首を振った。

『大丈夫だよ。空にはみんながいる。ヤスユキやヤマネも、みんな優しい。ぼくはとても幸せだから』

 屈託もなく笑う男の子を見ていると、胸の辺りが痛い気がする。

 悲しいわけでもないのに、悔しいわけでもないのに。

 ただその強さがうらやましくて。

「テウマはすごいね」

 あたしはほかに何を言ったらいいかわからない。

 どこまでも青い空を見上げて、その痛みをこらえることしかできなかったのだ。



 空に浮いてる不思議な物体。

 あたしたちはそこで休憩してお昼ご飯にした。

 岩のような、木のような。人工物のような、自然物のような。

 これが何のために、どういう原理で空に浮いているのかさっぱりだった。(それを言うなら、あたしたちがどうやって自転車で空を飛んだのかも謎なんだけどね)

 買ってきたサンドイッチなどもをそもそと食べる。

「テウマ、これって何なのかな?」

 返事はいともあっさり返ってきた。

『鳥の巣』

「え、だって木の上とかにある鳥の巣はもっと小さくて」

 あたしは巣の中で鳥のヒナがいる光景を想像する。

『これは渡り鳥の巣だよ。渡り鳥はたくさんいるから、これくらいでちょうどいいんだ』

 数十メートル四方はある建物に、渡り鳥が巣を作っている光景を想像した。

 うん、広くて困ることはないか。

 ここに来る途中、いくつかこれと同じものを見つけた。きっとみんな鳥の巣なんだろう。

 あたしは建物のせり出した部分に腰をかけ、まっすぐな雲の線を眺める。

 お茶を飲みながら、ここでお茶をこぼしたら下では雨になるのかな、とかどうでもいいことを考えながら。

 相変わらず空は静まり返っていて、時々鯨のようなものが目の前を横切るだけだ。

 本当に静かで眠くなる。

『そろそろ行こうか』

 男の子はそういって立ち上がった。

『ヤマネはどこへ行きたい?』

 あたしは少し考えて、

「エベレストは遠いから、富士山で」

 軽い気持ちでいった言葉は、富士山の山頂で寒さに震えることによって、ものすごく後悔する羽目になる。



 夕暮れの茜色の空。薄く染まった雲に白い鯨が映える。

 雲海に沈む夕日を眺めながら、今日あった不思議なことを振り返っていた。

 自転車で空を飛んだなんて友達に言ってもきっと信じてはもらえまい。

 空で鯨や鳥の巣を見たなんてましてや。

 心地よい疲労感にあたしは目を閉じた。

 さっきから男の子の口数が少ない。どうしたのかな?

 あたしは男の子の顔をのぞき込む。

 急に視界が反転した。

 さっきまで下にあった雲があたしの目前まで迫ってくる。

 ごうごうと風のうなり声が耳元を通り過ぎる。

 へ、あたしもしかして落ちてる?

 それに気づいたのはあたしが雲の中に落っこちてからだった。

 薄暗い雲の中で、あたしは必死に男の子を捜した。

 手を伸ばした先に自転車を見つけ、その先に男の子を見つけた。

 黒い髪の影になって男の子の表情までは見えなかったが、まったく動かないところを見るとどうやら気を失っているらしい。

 あたしはスカイダイビングの経験者じゃないので、空でどういう行動を取ったらいいのかわからなかったが、とりあえず平泳ぎでもしてみた。風をかきわけて自転車に手が届く、次いで男の子に近づく。

 雲がとぎれ、地上の景色が見渡せるようになった。眼下を見下ろすとあたしの住んでる町が見えた。目もくらむ高さだった。

 あたりまえだけど高所恐怖症とか、そんな事を言っている場合じゃないよね。長い間高いところにいたので感覚が馬鹿になっている。

 あたしは男の子に手を伸ばす。

 あ、あと少し。

 男の子の腕を引き寄せ、抱きかかえた。

 地上までまだ間はあったので遺言でも考えとくことにする。

 父さん、母さん、ついでに兄さん。先立つ不幸をお許しください。

 ついでに叔父さん、こんなやっかいな男の子、先に一言教えてください。おかげであたし死ぬことになるじゃないですか。

 そのときのあたしは死ぬという実感が全くなかった。

 どこかこれが夢の中であるような気がしてならなかったのだ。

 だから家々の屋根が目前に迫ってきてもとくに動揺しなかった。


 最初は強い横風が吹いてきたとしか感じなかった。

 それが竜巻だと知ったのは、風の渦にもみくちゃにされてからだった。

 目を開けていられなくなって、あたしは声にならない悲鳴を上げた。

 ぎゃあああぁぁぁ、竜巻! 竜巻って、こんな町でも発生するの? たしかにこの町海沿いではあるけどさ。

 自分でも何を考えてるのかわからなくなった。

 ついでにどちらが上で下なのかまったくわからなくなった。

 何の前触れもなく風がとぎれ、あたしは宙に放り出された。

 思ったより地面は近く、尻餅をついて地面に着地する。

 こ、腰にきた。

 あたしは腰の痛みに耐えて、周りを見回した。

 どうやらあたし達が放り出されたのはどこか大きな建物の屋根らしい。緩やかな曲線の屋根に、夕日が山際に隠れようとしている。

すぐ側に誰かの足が見えた。あたしはゆっくりと視線を上に向ける。

 近くに立っていたのは朝に会った司書のお兄さんだった。腕組みをしてあたし達を見下ろしている。

「大丈夫か?」

 お兄さんはあたしと男の子の様子を確かめるようにしゃがみこむ。

「あ、大丈夫です。ちょっと腰が痛いけど」

「そうか」

 淡々と話す様子に、あたしは今更ながら体が震えてきた。

 あたしの震えにお兄さんは気づいたのか、額に手を当てる。

「翼をもたないものが、あまり長い間空にいるものではない」

 手を放すと、さっきまでも恐怖がうそのように消えていた。ついでに腰の痛みもなくなっていた。

 あたしは立ち上がり、一緒に落ちてきた自転車のことを思い出した。

「あたしの自転車」

 すこし離れた場所に無事な姿で落ちているのを確認し、あたしは胸をなで下ろした。

「家まで送っていこうか?」

 お兄さんの提案をあたしは丁寧に断った。これ以上迷惑をかけるわけにはいかなかった。

 あたしは気を失っている男の子を背負い、家へ帰ることにした。

 自転車は図書館で一時預かってもらって、明日にでも取りに行くことにする。

 あたしが家に帰り着く頃には山際に黄色い月がかかっていた。



 叔父さんと男の子は一週間くらい我が家に滞在し、また外国へ旅立っていった。

 空を見上げるときはいつでも、この時のことを思い出す。

 あの夢のような、そうでないような一日の出来事。

 あたしの中三の夏は他に面白いこともなく終わっていった。

 その後、あたしがこのときの男の子と再会するのは数年後。

 それはまた別の機会にでも。


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