修行の合間と銅鏡の虚像
さて、今日も久しぶりの「小説日記」です。
東鳴の目に映る自分はまるで意思のある、普通の人間のようだった。
さらに10日経って、修行の脇目に銅鏡を見た。10日前、久しぶりに邂逅した真っ当な東鳴はいまだ確かにそこにいて、健康で一生懸命な疲れを目の下の隈に湛えていた。鳴は疲れていた。心地よい疲れだと言える。
なにしろ数週間前までの鳴は、酒を買う以外外に出ることもなく、ひたすら寝ていた。だから目に隈などなかったし、疲れなど酒を買って戻ってすぐのものしかなかった。あとは、ひたすら二日酔いの中、アルコールを口に運んでいた。正気を取り戻さぬように。不安に取り込まれぬように。不安を忘れるように。すべてを忘れるように。怖いものから逃げるために。
今は違う。朝はリュシカに起こされ、夜は酒どころか食事もろくに喉を通らぬほどバルドにしごかれ、リュシカの家に用意された鳴の部屋に戻ると、なにもせず、なにも考えず、寝床に倒れこんで、意識を閉じる。
夢を見る。最近は夢を見るんだ。とても普通の夢なんだ。
鳴は夜が怖くなくなってきた。少し前の鳴は夜が怖かった。いや、本当に怖かったのは朝だ。朝。人は目を覚まし、出かける。出かけなければならない。だのに鳴と来たら。怖くて震えて出かけられない。いや、実際そんな風に怖くて震えて動けないという経験をしたことはない。ただ、そうなることを確信していた。だから。だから。酒、酒、酒、酒、酒、酒、酒、酒、酒・・・・・・・・・・・・
酒だけが自分のよりどころだった。酒だけが鳴を支えてくれた。酒だけが鳴のそばに居てくれた。酒だけが鳴の泣き言を聞いてくれた。酒だけが鳴の味方だった。酒だけだった。酒だけだったんだ。酒しかなかったんだ。
鳴の心から、酒との癒着が切れたとはいえない。鳴自身がそれを一番危惧し、注意し、恐れている。怖い。今続いている、酒のない日々は、綱渡りなのだ。滑落せば、またあの泥濘に落ち込む。この危惧や恐れが消えることはもうないように感じる。リュシカやバルドのイノセントな笑顔を見るたびに感じる。彼らに笑いかけられるたび度に感じる。へたくそな愛想笑いをする度に感じる。自分はもう戻れない。かつて、日々に疑いなく、一生懸命を当然としてきた、あの幼く無邪気な東鳴は永遠に失われてしまったのだ。
これからの永劫続く綱渡りの恐怖と危惧の日々に、かつてのそれとは角度の違う不安が襲う。かくして鳴は気づく。自分は今まで全く辛くなどなかったのだ。本当に辛い・苦しいというのは、かくのごときことなのだ。瞬間的・短期的な不安に負けてのアルコール依存なぞ序の口であったのだ。怠け心に屈し、尋常なる精進の生活に背を向けて遁走した罪の贖いは、生涯にわたるものとなるのだ。人間のありようの低い場所を知った、その屑人間は、低所を求むる水のごとき心の挙動を日々をコントロールして、底へ落ち込まぬように落ち込まぬようにと、常に気を配らねばならないのだ。
鳴は酒に明け暮れた日々で、死にたいと思った事は戯れ以上にはなかった。しかし、今の鳴は、自分が日々健康に生きることに意義と安らぎを感じながら、心のもっと深い部分で死を望んでいる気がしている。だが、きっとこれが健全な大人の思考なのではないだろうか。皆辛い人生を歯噛みしながら生きて、その死でもって訪れる解放を心の底で希求しているのではあるまいか。
幸福というのは、その解放に至るまでの辛い日々を誤魔化すための腰掛けに過ぎないのではないだろうか。みな、演じているだけではないのか。幸せの振りを。ひょっとして人によっては、自分自身すらごまかしながら。
最近、鳴は恐ろしいほど心がさめる自分を感じている。そんな自分をどう思うのか、なんなのか。不思議なくらい、何の感慨も浮かばないのだ。
銅鏡をじっと見ている鳴に気づいて、鏡の向こうの鳴の後ろで、リュシカが妙なポーズでいたずらしていた。鏡の鳴は笑っている。誰が見ても笑っていると判断する顔だ。少しも心が動いていないのに笑うその男を、鳴は妙に冷静に眺めていた。
最近、元気になってきたんですけどね。どうにも、なんだか。
健康だし、元気なのですが、明るくならない。昔はどちらかなどと言うまでもなくひょうきん者だったのですが。
なんだかキャラが変わってしまったみたいです。まぁ、別に何か問題があるわけじゃあないんですが。
もう、内容進める面倒くさくなってきちゃいましたが、次回はさすがに、ちょっとは動かす・・・・・・かもしれない。