心の甘えと逆光の獣
東鳴の前には見知らぬ草原が広がっていた。鳴は目を疑い、頭が真っ白になる。しばらく呆然と立ち尽くしてから、辺りをゆっくり見回す。やはり、自分の目の前に草原が広がる理由に心当たりはない。草原に灯りは見えず、だだっ広い目の届く限りが静寂と暗闇に支配され、天に近づくにつれ、月灯りが闇を弱めている。
小道で引き返すときにてんでにおかしな方角へ来てしまったのだろうか。しかし鳴の住む地域は田舎とはいえ秘境ではない。これでけ見晴らしがよければ、家の灯りなり街灯が目に入ってしかるべきというものだった。
自分の身に何か尋常ならざる現象が降りかかったことを確信し、鳴に様々な感情が怒涛のように押し寄せ、渦を巻き、ひび割れた砂地のようだった鳴の心を一気に水浸しにした。その中でも、鳴に特別大きく湧いた感情は――喜び――だった。
異世界に潜り込んでしまったに違いない。どうして、こんな現象が起こったのだろうか。再現性はあるのだろうか、ここはどこなのだろうか。一体どういうカラクリがあるのだろうか。知りたい。知りたい。知りたい、知りたい。知りたい!
目の前の現象は鳴を狂喜させ、埃かぶった知的好奇心を引っ張り出した。鳴の目はかつて科学に出会った時のような輝きを放ち、心に久方ぶりに火が入った。
鳴はまず一番の手がかりである自分の歩いてきた小道に向き直る。鳴の目に入ったのは、深そうな森、そしてその森の奥へと進む小道であった。さっきまで住宅地の隙間にぽっかり口をあけていた小道は、いまやずっと納まりよくそこにあった。
好奇心を思い出した鳴はしかし、その小道へ足を踏み入れない。この小道を戻れば、元の世界に戻ってしまうかもしれない。そして、二度と来れないかもしれない。そう考えると、鳴はとても足を進められなかった。
ところがこの時、鳴の深層では、二度と来れないことよりも、戻ってしまうということに重きがあった。実のところ、鳴を支配した狂喜の正体は特殊な現象を目の前にした好奇心の爆発によるものでなく、退屈という名目で逃げ続けてきた自分の現実から、本当に逃避することが神か何かに公認された気がしたことにあった。
鳴自身その身の内の力学に内心気づかないではなかったが、見てみぬ振りをした。鳴は小道を離れ、辺りを散策することにした。
鳴は小道の位置をしっかり見定めながら、歩数を数えて森と草原の境界に沿って歩く。結局、鳴は甘えていたのだ。自分に甘えていた。何もかもに甘えていた。目の前の特殊な現象を解明できるなんて心からは思っていない、けれどもなんの土産もなしに去るのは心残りだ。だから少し歩く。でも鳴の中で最終的に帰ることは確定していたのだ。
鳴はその甘えのツケを払うことになった。
鳴にその音が聞こえてきたのは、その数十秒前だった。ガサガサと木の枝を掻き分ける音がした。その音はあっという間に間近に迫り、鳴の目の前に登場した。獣であることは間違いないが、見上げるような巨躯で月明りがさえぎられて逆光になり、その姿はよく見えない。あ――という間は、実際にはあった。だが、それしか発声されなかった。
巨体の右腕が斜めに振り下ろされる様は、爪が月明りを反射して光り、とてもきれいだった。ひどくゆっくり振り下ろされるその腕は鳴の肩先に冷たく触れ、衣服なんて意に介さず、じっくりゆっくり胸から腹の方まで進み、体から離れた。なにをされたのかわからぬ内に、鳴の視界に黒い液体が迸る様が入る。なんだか不気味だな――そう心で呟いて、鳴の意識は閉じた。
血塗れで倒れた鳴に一瞥もよこさず、獣は背を返して走り出そうとする。しかし、筋肉が躍動する寸前、その首に鎖が撒きついた。狂ったように咆哮する獣を複数の人影が囲み、それぞれが鎖を飛ばし、腕、足の自由を奪っていく。獣の束縛が四肢全てに及んだ瞬間、一人の大男が跳びかかり、青龍刀のような大きな刀を振り下ろした。獣は頭から唐竹割りにされ、絶命した。
『やった!父さん』
『危ないところだった。よく捉えた』
最初に首に鎖を巻いた人物と、青龍刀の大男が互いをねぎらう。その会話で集団の緊張が一気に弛緩する。
『なんか一瞬動きが止まったんだ、その辺で・・・・・・わっ父さん、あれ!』
『!・・・・・・あいつにやられたのか』
『ま、まだ生きてますよ!』
『父ちゃん、早く村へ!間に合うかもしれない』
『むぅ・・・・・・・・・・・・おいっ、担いでやれ』
大男が渋い声で命じると、周りの男衆から二人ほど進み出て鳴に軽く血止めをし、一人の背に乗せた。それを見届けると、獣狩りの集団は来たときのように声もなく、森へと消えた。
目を覚ました鳴の目に入ったのは見覚えのない天井だった。