もう、大きい声で話さない方が良いと思った
ミレーヌは、悪口や悪評だけは人一倍声が大きい令嬢だった。
誰かを褒める時は扇の陰で曖昧に微笑むだけなのに、誰かを貶める時だけは、まるで大広間の隅々まで届ける義務でもあるかのように声を張る。
しかも本人には、それが悪意だという自覚がない。気づいたことを皆に教えてあげているだけ。間違っている相手を正してあげているだけ。そう信じて疑わないから、なおさら始末が悪かった。
茶会の席で一人の令嬢の失敗を笑い話にし、廊下では婚約者に逃げられた娘の名をわざと明るく口にし、庭園では使用人の不手際まで聞こえよがしに語る。周囲が困ったように黙ると、ミレーヌはそれを同意だと受け取った。
誰も反論しないのは、自分の言葉が正しいからだと勘違いした。声を潜めるべき話ほど大きく、慎むべき言葉ほど楽しげに響かせる。それが彼女の社交であり、彼女にとっての正義だった。
◇
ある日、ミレーヌは特ダネを持ってきたかのように、自信ありげに話し始めた。まるで、自分だけが社交界の裏側を知っているとでも言いたげだった。
「皆さま、これはまだ大きな声では言えないのですけれど」
そう前置きしたミレーヌの声は、庭園の端で茶を飲んでいた夫人たちにも十分届く大きさだった。取り巻きの令嬢たちは、また始まったと言いたげに扇を寄せ合う。けれどミレーヌは、その反応を期待の眼差しだと受け取ったらしい。満足げに顎を上げ、声だけは少しも落とさないまま続けた。
「エレナ・クラウディア様、婚約破棄されるそうですわ」
その場の空気が、わずかに止まった。クラウディア侯爵家の令嬢エレナと、王家に近い名門の嫡男であるアルフレッド卿の婚約は、社交界でもよく知られている。家格も釣り合い、本人同士の関係も穏やかで、王妃主催の茶会にも揃って招かれるほどだった。その二人に婚約破棄の話が出たとなれば、ただの噂話では済まない。
それでもミレーヌは、周囲の動揺を自分の話術の成果だと勘違いした。
「驚きますわよね。わたくしも耳を疑いましたもの。でも、確かな筋から聞いたのです。クラウディア侯爵家の使いが、王宮の文官に“婚約に関する書類を破棄する手続き”について尋ねていたそうですわ。エレナ様のお名前も、アルフレッド卿のお名前も出ていたとか。つまり、そういうことでしょう?」
「ミレーヌ様、それはまだ確かな話では……」
控えめに止めようとした令嬢の声は、ミレーヌの笑い声にかき消された。
「まあ、優しいのね。でも、皆さまも分かっていらっしゃるでしょう? 婚約に関する書類を破棄するなんて、婚約破棄以外に何がありますの?」
その言い切り方は、疑う余地などないと言わんばかりだった。ミレーヌは扇で口元を隠しながら、わざとらしく声を潜める。だが、その声は相変わらずよく通った。
「お気の毒ですわよね。けれど、仕方ありませんわ。エレナ様はいつも澄ましていらっしゃるでしょう? アルフレッド卿も、あれでは息が詰まってしまったのではなくて?令嬢は家柄だけで選ばれるものではありませんもの。殿方に愛される可愛げも必要ですわ」
取り巻きたちは困ったように目を伏せた。
「それに、エレナ様は少し怖いところがありますもの。いつも静かで、何を考えているのか分からなくて。アルフレッド卿も、ようやくお気づきになったのでしょうね」
「何に、ですの?」
背後から声がした。
ミレーヌが振り返ると、そこには話題の中心にされていたエレナ・クラウディア侯爵令嬢が立っていた。薄青のドレスをまとい、背筋を伸ばしている。驚いた様子も、怒った様子もない。ただ、聞くべきではないものを聞いてしまったというように、ミレーヌを見ていた。
周囲の令嬢たちが一斉に青ざめる。だが、ミレーヌだけは一瞬固まったあと、すぐに強気な笑みを浮かべた。
「まあ、エレナ様。ちょうどよかったですわ。皆さま心配していらしたの。婚約破棄されるというのは、本当ですの?」
「いいえ」
エレナは短く答えた。
「ですが、婚約に関する書類を破棄する手続きがあることは事実です」
ミレーヌの目がぱっと輝いた。
「ほら、ご覧なさい! やはり――」
「破棄するのは、古い書類です」
エレナの声は大きくなかった。けれど、不思議とその場の誰もが聞き逃さなかった。
「アルフレッド卿が正式に爵位を継承されることになりました。それに伴い、婚約契約の一部を新しい身分表記に改める必要がございます。古い写しを破棄し、新しい書類を作成する。ただそれだけの話です」
庭園に、何とも言えない沈黙が落ちた。
「で、でも……婚約に関する書類を破棄すると……」
「ええ。婚約に関する書類を破棄する、です」
彼女はミレーヌにも負けないほどよく通る声で、庭園中に聞こえるように言った。
「もしや、ミレーヌ様は、“婚約の書類を破棄する”を、“婚約破棄”と聞き違えたのですね」
その一言で、耐えきれなかった誰かが小さく吹き出した。
アネットはにこりと微笑む。
「まあ、大変ですこと。勘違いまで、そんなに大きなお声で広めてしまわれるなんて」
ミレーヌの頬が、みるみる赤く染まった。だが、今さら声を小さくしたところで遅かった。
彼女が得意げに広めた「婚約破棄」の噂は、その場にいた令嬢や夫人たちの耳にすっかり届いている。そして同時に、それが「婚約の書類を破棄する」という言葉を勝手に聞き違えただけだったことも、同じだけ広く知られてしまった。
誰かを貶めるために張り上げた声が、今度は自分の浅はかさを証明してしまったのだった。
婚約(の書類を)破棄 でした。




