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わたしとわたし

作者: おじゃま犬
掲載日:2026/05/20

野良の黒猫にエサをあげていたところ、ある日2匹になってやってきました。そこでこんなお話を思いつきました

紫陽花が咲いている!

雨上がりの夕刻、帰宅途中の私は、民家の塀から顔を覗かせている鮮やかな紫陽花を見つけました。

おそらくそれは昨日も一昨日もその場所に咲いていたのでしょう。しかし今まで私はそれに気が付く事ができませんでした。それだけ今回の仕事が、私の心の余裕を奪っていたのだと思います。


私こと伊藤和美は会社に入社して3年、初めて一人で新商品のプレゼンを任され、それから数ヶ月間文字どおり全力でその仕事に取り組んできました。

日夜迫り来るプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、そのプレゼンは数時間前、関係者が大勢出席する中で無事終了しました。

本来ならサポートしてくれた先輩と打ち上げと行きたいところでしたが、つい最近妊娠がわかった彼女を飲みに誘うのは少々はばかられるものがあります。それでこうして一人、心地よい達成感と充実感に浸りながら、夕闇が迫る帰り道を、散歩を楽しむように一人暮らしの自宅マンションに向かって歩いていたのでした。


道端に咲く綺麗な紫陽花眺めていたその時、塀の向こう側でガサゴソと音がして、突如小さな黒いかたまりが現れました。

「クロ!」

それは2週間ほど前から姿を見せなくなっていた野良猫のクロ。

野良猫と言ってもクロは以前人に飼われていた事があるようで、最初に私のマンションの1階の部屋に現れた時も、クロのほうから近寄ってきて、私が冷蔵庫にあったカニカマを与えるとその後毎日顔を出すようになったのです。


もちろん賃貸のマンションで猫を買う訳にはいかず、毎日決まった時間に現れるクロにエサを与えるだけでしたが、そのうちクロは私に抱きかかえられても平気なほど馴れてきました。そんなクロがここしばらくマンションに顔を出さないのが、私の最近の心配事の一つだったのです。


しばらく見なかったクロはどこでどんな生活をしていたのでしょう。自慢のビロードのような綺麗な毛並みが少し荒れていて、ちょっとワイルドな感じになっています。

「クロ」

と声をかけてみましたが、クロは一瞬私のほうを振り返っただけで、何か気になるものがあるのかスタスタと塀づたいに歩いていってしまいます。


何かいつものクロとは様子が違うのを感じ、気になった私は小走りでクロの後を追ってみました。

しかし相手は小さな猫です。

人間が通るには狭すぎる隙間を抜けていくため、何度か見失いそうになります。そして小走りで公園の隣の小さな赤い鳥居のある祠の前まで来た時、今までその祠の後ろにいたはずのクロがふっと見えなくなりました。


たそがれ時の薄暗さに幻惑されたのでしょうか。不思議に思った私は鳥居をくぐり祠に近づいてみます。

てか、ここにこんな祠あったっけ?

そしてクロの消えた祠の裏に足を踏み入れたその瞬間、周りがゆらゆらと揺らいだかと思うと、私は意識がフッと遠のくのを感じたのです。


どのくらいそこに倒れていたのでしょう。

時計を見ると5分も経っていないようです。

そう言えば会社の健康診断でも貧血の兆候があると診断され、医者から注意を受けたばかりでした。

今までこんな風に意識を失った事はありませんでしたが、クロを追いかけて急に走ったのが良くなかったのかもしれません。

幸い乾いた木の葉がクッションとなって、硬い地面に体を打ち付ける事はありませんでした。

しばらく祠の近くの石の上に座っていたら気持ちも落ち着いてきてきました。ふらつく事もありません。


とりあえずクロは無事元気にしていた事だし、またひょっこりと私の所に現れるかもしれません。

落ち着いた途端グーとお腹が音を立てました。

そんな訳で気を取り直して帰宅する事にしました。


しかしこんなふうに倒れるようだと、やっぱりちゃんと貧血対策しないといけないなあ・・・でもレバーとか嫌いだし、何食べれば良いんだろう?

帰ったらネットで貧血に良い食べ物とか調べよう、などと思いながら歩いていると遠くに見慣れた自分の部屋が見えてきました。


アレッ?部屋に灯りが点いている。

出かける時電気消さなかったのかな?と思いつつ玄関に近づくと、気のせいかもしれませんが、中に人の気配を感じます。

でも私の部屋の鍵を持っているのは、私の他にはマンションの管理人さんと実家の両親だけで、今日両親が来るなんて言う話は聞いていません。

そう言えば最近この辺は空き巣被害が多発していると聞いた事もあります。

不審に思いながら鍵を差し込むと鍵はちゃんとかかっていました。

なんだやっぱり灯りを点けたまま出かけたんだと安心して勢い良く玄関を開けると・・・


そこにはフライパンを握り締め、怯えた表情の私が立っていました!



えっ?ナニどう言うコト?

コレなんかのドッキリですか?


まさにこう言う状態をフリーズすると言うのでしょう。

しばらく無言でお互いを見詰め合っていましたが、その視線の先にはいつも鏡で見る私がいます。でもなんとなく鏡で見る自分と違うのは、鏡で見るのとは左右が逆になっているせいかもしれません。

ほぼ同時にお互いの口をついて出た言葉は

「だ、誰?」

あっ!声も全く同じです。

着ている服も同じです。

もちろん仕草も同じです。


「ここ私の部屋なんだけど・・・」

フライパンを握り締めたままの私そっくりな人が言います。

負けじと私も

「いや、ここ私の部屋んだけど」

と言い返しますが、お互い相手が何者なのか必死で探っている感じ。


しばらく相手を観察して、これが誰かが私に変装したイタズラで無い事だけはなんとなくわかってきました。

だって目の前の相手はどう見ても他人の変装と言うレベルでは無いのです。

目の前にいるのは外見や仕草を見る限り、完璧な私のコピー。

これっていわゆるドッペルゲンガーってヤツですか?

やだ、ドッペルゲンガーを見たら死んじゃうんじゃなかったっけ?


さてこの状況を説明する一つの方法は私が双子だったと言う事ですね。

もちろん私が双子だなんて事は、両親からいた事がありません。そして25歳になってこんな形で私にサプライズを仕掛けるほど、私の両親は頭がブッ飛んだ人ではないはずです。

それでは私の目の前にいる、この私そっくりな人は一体何者なのでしょう?何の目的で私の部屋にいるのでしょう?

どうやら相手も私と同じ事を考えているようで、激しく動揺しているのがわかります。

と言う事は、これは私に一方的に仕掛けられたサプライズでは無いのかもしれません。


どう考えても理解できない事態ですが、やがてこの目の前の私もまた、本物の私なのではないかと思えてきました。

理屈では否定しても、本能的にそれが偽者で無いと感じるのです。

そして私たちは、同時に着ていたブラウスをめくってヘソの左下にあるホクロをお互いに見せ合っていました。


こんな所にホクロがあるなんて、私以外誰も知らないはずです。つまり私本人しか知らないホクロがここにある事をお互いが確認する事で本物の伊藤和美である事を証明しあった訳です。

さらにこの状況で全く同じ行動に出た事も、相手が私と同じ事を考えていると言う事なのです。


なにがなんだか良くわからないけどともかく落ち着こう!


「とりあえず入いって」

先に部屋にいた私がそう切り出すと、ここは私の部屋であるはずだけれど、なりゆき上頷いてリビングに向かいます。

途中どちらともなくキッチンの冷蔵庫を開けて、冷えたウーロン茶を一杯。

これは今日の朝私が入れたものですが、もう一人の私も当然のように飲んでいます。お互いここが自分の部屋だと思っている事は間違いないようす。


ちょっと現実的には考えられない事だけど、これってSF映画みたいに、次元の違う所からもう一人の私が現れたのでしょうか?

でもそれはフィクションの世界の話であって、現実世界で本当に起こるとは到底考えられません。ましてそれが自分自身に降りかかるとなると・・・


どうやら目の前の私も今同じ事を考えていて、何かを言おうとしているみたいです。

「あの・・・」

あっ!ハモった。


そして次に考えたのは、もしかしてこの状況は私たちだけに起こっている事では無いのではないだろうかと言う事です。

そう思った瞬間、二人同時にテレビのリモコンに手を伸ばしていました。NHKのニュースを見てみましたが、世間では何も変わった事は起きていないようです。

じゃあやっぱり、この状況に陥っているのは私たちだけ?


さてこんな時どうすれば良いのでしょう?

しかしこんな状況に陥った人の話は聞いた事がありませんから、どうすればいいのか誰もわからないかもしれません。

いちおう二人いるので会話を試みましたが、考えている事が一緒なので会話が成り立ちません。

だって自分が言おうとしている事を、同時に相手が言い出すんですもんね。


そんな時、お互いの携帯電話が鳴りだしました。ディスプレイを見るとかけてきたのは哲也です。私たちは携帯を見せ合い一緒に頷いて、もう一人私が電話に出ます。もちろん哲也の声は私の携帯からも聞こえます。

「あっ和美?久しぶり。今電話していて良い?」

「うん良いよ、今ちょっととりこんでいるけどね」

ちょっとどころか、だいぶとりこんでいます。

「そうなの?後でかけ直そうか?」

「いや大丈夫。てか、哲也、今からこっちに来られない?ちょっと相談したい事と言うか、話を聞いて欲しい事があるんだけど」

もう一人の私が私に向かって「いいよね?」と言う表情をします。もちろん私もそれに賛成なので大きく頷きます。

「良いよ。最近会っていなかったから会いたいな~と思っていたんだ」

「じゃあ待ってる」


あっ!どうせ来るならついでに・・・


「あっ!待って。哲也、夕ご飯食べた?」

「まだだけど」

「じゃあ駅前のマックで適当に何か買ってきて!哲也と私の・・・3人分!」

「えっ?3人分。誰かいるの?」

「電話じゃ説明できないけど、とりあえず3人分買ってきて」

「よくわからないけど3人分買えば良いんだね。わかった」


普段から私のワガママにつき合わせているので、こう言う時彼は素直です。理由はわからなくても私の指示に従います。

哲也は私より2歳年下で、普段頼りにならないヤツですが、とりあえず信用できる第三者に相談したいと言うのが私たちの気持ちだったのです。

そして彼はSFとか超常現象に詳しく、いつも私はそのヲタク趣味を馬鹿にしているのですが、今日に限ってはその知識が多少は役に立つかもしれません。


自分の部屋でありながら、どこか居心地の悪さを感じながら待つこと30分。

玄関のチャイムが鳴りました。

「和美~開けて~」

本当なら哲也を混乱させないためどちらか一人が出て行くべきだったのでしょうが、二人とも玄関に来てドアを開けます。

なぜならお互い藁にもすがりたい気分だったのです。呼び出しておいて人を藁クズ呼ばわりするのもなんですが。


そしてドアを開けて中を見た哲也は・・・

ポカンと口を開け、買ってきた3人前のハンバーガーを地面に落としていました。


「まっ、ともかく上がってよ」

またまた私たち見事にハモリました。

狐につままれたような表情を見せながら、哲也は訳がわからないままリビングに連れてこられます。

この時の様子は、昔、哲也がネットで見せてくれた、両脇を地球人抱えられながら連行される宇宙人に似ていたに違いありません。


とりあえずダイニングキッチンの椅子に座らせると

「和美って双子だったんだ」

まあそう言うだろうと思っていました。

でも目は泳いでいます。たぶんどちらが本物の私かわからないからです。

「で、どっちが和美なの?」

そりゃわかんないよね。


「えっと、とりあえず落ち着いて私の説明を黙って聞いて欲しいんだけど」

と言う訳で、今までのいきさつを話して聞かせました。


「う~ん、だいたい話はわかったけど」

「本当は双子なんじゃないの?僕の事また騙していない」


そうだよね~そう思うよね。

今まで年下なのを良い事に、付き合っていると言いながら散々だましたり、いじめたりしてきたので彼はこんなにも私に疑心暗鬼になっていたのです。

仕方ない。二人同時にブラウスをめくってヘソの左下のホクロを見せてやりました。

アンタこのホクロに見覚えがあるだろう!


二人の和美のホクロをしげしげと見比べながら、哲也はようやく私たちの話を信じる気になったようです。

と言うより、私たち二人が寸分違わない容姿と体型で、声もしぐさも同じである様子を見て、ただの双子ではないと言う事が彼なりに納得できたようです。


「ねえ、コレってどう言う事かな?」

こう言う系統の話に詳しい哲也は、ちょっともったいぶった様子を見せながら

「非現実的な話だけれど二人のうちのどちらかがこことは違う世界から迷い込んだって事じゃないかな」

哲也が続けます

「SFの世界では多元宇宙論って言うのがあって次元が違う場所で違う世界が存在すると言う考え方があるんだ。つまり二人のうちのどちらかが、こことは違う他の次元から迷い込んで来たと考えれば、どちらも本物の和美なのかもしれないね」

フムフム。わかっていたけど人に言われるとより納得できます。

「そう言えば、最初に二人が遭遇したのは玄関だったって言っていたけど先に帰っていたのはどっち?」

もう一人の私が手を上げます。

「って事は今は同じ時間の進行の中にいるけど、その時はこっちの和美のほうが家に帰るのが早かったんだ」

おっ!ヲタクのくせになかなか鋭いところを突くじゃない。


そして突然「あっ!もしかして」と言ったかと思うと、私たち二人の腕を自分の目の前に引き寄せて、腕時計の時間を確認します。

「こっちの和美の時計が5分遅れている!」

この時計はこの前の誕生日、哲也がプレゼントしてくれたものです。安物なので電波時計では無く時間調整は手動で行います。


「この時計は、それぞれの和美の時間を表示しているんだ。この時計を最後に合わせたのはいつ?」

「今日のプレゼンが始まる前だから、朝の9時半」

と私たち。

「って事は・・・」

「今の時間が夜8時50分だから、8時45分を指している時計を着けている和美が、ここに迷い込んだ和美なんだ!」


アンタすっごく得意そうだけど、この世界の住人じゃない事を宣告された私はどうすりゃいいのよ?

あっ、言い遅れましたが先ほどから主人公目線でいるのは、この世界から5分遅れの私です。

「じゃあナニ?私が時をかける少女になっちゃったって事?」

「少女じゃないだろ」

と哲也

「そこじゃないでしょ」

ともう一人の私。

たぶん私たち今大混乱しています。


ともかく何の確証も無いけど、なんとなく一つ疑問が解けた感じがして、その後私たちは哲也が買ってきたハンバーガーを電子レンジで暖め直して遅い夕食をとりました。


まあなんですね。

お腹がふくれると気分も落ち着くもので、私はさっきよりだいぶ冷静になってきました。

そしてコーヒーを飲みながらこちらの和美と私が今日一日の出来事を振り返り、全く同じであった事を確認しました。

つまり私たち二人は、5分ずれた状態でそれぞれの世界で同じ事をしていて、どっかのタイミングで私が、こちらの世界に紛れ込んでしまった訳ですね。


私が続けます

「言い忘れていたけど、そう言えばさっき、家に帰る時久しぶりにクロを見つけて跡を追ったんだよね」

「そしてそのまま、近くにある祠まで来てそこでクロを見失って、私も貧血で倒れたんだよ」


「えっ?私今日そんな事していないよ」

ともう一人の和美

「それだ!」

哲也が何かを発見したと言わんばかりに、得意げに声をあげます。

「僕が本で読んだ多元宇宙ってのは、同じ事象を時間をずらして進行しているもので、二人の間で経験した事が違うって言う事は基本的にあり得ないはずなんだね。だってもしそんな事が起きたら、次元が違う所でのそれぞれの人生も無限に変化して行く事になるからね」

ふむふむ。

「つまり二人の間で違う事象が現れた時こそが、次元を超える原因が起こった時でもあるんだ」

わかるようなわからないような・・・


「って言うかさ、こちらの和美が倒れた場所がいわゆるワームホールになってるんじゃないの?」

哲也が私の方を指差して解説した所によると、ワームホールと言うのは次元や空間を飛び越える、「ドラえもん」のどこでもドアみたいなものだそうです。

「じゃあナニ?そこに行けば元の世界に戻れるって事?」

この混沌とした状況から脱する方法が、おぼろげながら見えてきました。


「今から行ってみよう!」

いつもは決断力・行動力ゼロの哲也が今日は頼もしく見えます。

とりあえずこっち和美が服を着替え、女二人と男一人のグループと言った体で現場に向かいました。

さすがに同じ顔で同じ服を着た女が二人いたら目立ちますからね。

それでも時間は既に夜の10時半ですから怪しいと言えば相当怪しい集団です。


「こんな所に祠なんてあったんだ」と、こちらの世界の和美。

「倒れたのはあの辺なんだけど」と私。

恐る恐る私がその場所に立ってみますが、何の変化も起きません。

「やっぱりなあ・・・」

「何がやっぱりなの?」

自分だけ納得している態度に、私たちはイラつき気味にハモッてみました。

「つまりここに安定したワームホールが存在するなら、日ごろから二つの世界が行き来できる訳で、今までここでそんな話を聞いた事が無い事を考えると、仮にここにワームホールがあったとしても、それは現れたり消えたりする非常に不安定なものだと言う事なんだよ」

「じゃあ私はやっぱり帰れないって事?」

「もう少し調べてみないとわからない」


哲也はしばらくあちこちを調べたものの、何の収穫も無く、とりあえず家に戻る事にしました。

帰り道で

「あの~さっき久しぶりにクロを見つけて跡を追ったって言ってたよね」

こちらの和美が私に尋ねます。

「こっちのクロは毎日私の所に来ていたよ。それも2週間前から2匹になって。私はてっきりクロの兄弟だと思っていたんだけど」

「えっ?私んとこのクロは2週間前から行方不明だったよ」

3人が顔を見合わせます。

「クロは2週間前から両方の世界を行き来していたんだ!」


つまりクロは2週間前、何かの拍子でワームホールを通ってこちらの世界にやってきて、2匹で生活していたのだと推測されます。

それがたまたま今日、再びワームホールを通ってあちらの世界に戻り、そこでクロを見つけて跡を追った私までこちらの世界に来てしまったのではないかと考えられます。

「って事は、そのワームホールってヤツが現れれば、そこを通って私は元の世界に帰れるって事だよね」

「・・・」

「何どうしたの?」

「さっきは興奮して勢いでワームホールなんて言っちゃったけど、そんなのSFの世界での話で、本当のところどうなっているのかは僕にも分かんないよ」

「でも他に解釈のしようが無いのも事実でしょ。名前はワームホールでも何でも良くて、大事なのは私がこの場所を通って違う世界から迷い込んできたって事なんじゃない?」

私たちは深夜の公園で熱弁をふるっていました。しかし私の主張はおおむね正しいとそこにいた全員が思ったのです。


この時私は、明日にでも元の世界に戻れるものだと思っていました。それが甘い考えだと言う事が、後々判明していくのです。


興奮して寝付かないかと思いきや、仕事の疲れもあってか私たちはベッドに入るとすぐに眠ってしまいました。こう言う事を見越していた訳ではありませんが、セミダブルのベッドを購入したのは正解でした。

なんとなく帰るタイミングを逸した哲也はそのままソファで眠る事になった訳ですが、後日聞いたところ私たちの寝相は見事にシンクロしていたそうです。


明けない夜は無いと言いますが、夜が明けていつものように私一人ならどんなにほっとしたかしれません。しかし残念ながら相変わらず私は二人でした。

哲也を含めた三人で簡単な朝食を済ませ、これからどうするかを相談します。三人寄れば文殊の知恵と言いますが、この場合、二つの脳ミソは同じものなので、なかなか良いアイディアが浮かびません。

幸い今日は土曜日なので仕事は休みです。


「できれば誰か頼りになる人に相談したいね」

こちらの世界の私の発言に、頼りにならない哲也は不満そうです。

「でもこんな事、誰に相談するんだよ?警察に言って事情を説明しても追い返されるのが関の山だぜ」

「だから、こう言う事象に詳しい専門家とか」

「多元宇宙を行き来する事に詳しい専門家ってどこにいるんだよ?」

哲也言い方に私たちはちょっとムッとします。

でも確かにそのとおりかもしれません。もしかしたら何処かの大学にそう言う事を研究している人がいるかもしれませんが、心当たりはありません。


「いっその事、実家のご両親に相談してみるってのはどう?」

哲也が唯一現実的な意見を言います。しかし両親に相談したところでこの状況が改善するとも思えません。

「万が一、この状態が長引くようなら、私がこっちで生きて行くために、両親を頼ると言う選択肢もあるけど、それは最後の手段だよね」

「ともかくこの和美が元の世界に帰る方法を探るのが最優先だね」

こちらの和美が私の肩に手を乗せて言いました。


そんな時、庭側の掃き出し窓を外からトントンと叩く音が聞こえ、カーテンを開けてみると、クロが二匹でこちらを伺っていました。

「クロ!」

窓を開けて、二人同時にクロを呼びます。

不思議な事に二匹のクロは迷う事なくそれぞれの和美に近寄ってきて抱き抱えられます。

「クロはどっちがどっちの私かちゃんとわかっているみたいだね」

「アナタは分からなかったくせにね」

チクチクと哲也を苛めていると、なんとなく普段の生活に戻ったようで安心します。


「あっ!」

嫌味を聞かなかったように哲也が声をあげます。

「もし明日クロが一匹になっていたら、片方のクロが向こうの世界に戻った可能性が高い訳で、その時すぐにあの祠に行けば、帰れるかもしれないね」

そうか!私と私のクロはある意味運命共同体って事なんだ。

キャットフードを食べているクロが、いつも以上に愛しく感じられる瞬間でした。


なんの確証も無い話ではあるものの、一筋の光明が見えた気がしてきました。そしてその後我々は昨日に引き続いて、例の祠の現場検証に向かいました。

こちらの和美も同行したそうでしたが、さすがに三人でいるところを知り合いに見られたりしたら説明が大変なので、私たち二人で出かける事にしました。


そう言えばそろそろスーパーに食料品を買いに行かなければいけないけど、私がそう思うって事はこちらの和美も同じ事を考える訳で、たぶん任せておいて大丈夫でしょう。

子供の頃、何かのマンガを見て、私のコピーがいれば学校に行かなくても良いのにと考えた事がありましたが、これって案外その状況に似ています。

そんな事を考えている間に、祠に到着。

赤い鳥居をくぐって昨日倒れた場所周辺を念入りに捜索します。

昨日の夜に来た時は暗くてよく分かりませんでしたが、祠の裏側は樹木が生い茂り、意外と広いスペースがあります。

この場所だけ、なんとなく周りよりひんやり感じるのは気のせいでしょうか?それともやはりここには、何か特別な空気が流れているのでしょうか?


何でも良いから手がかりのようなものは無いかと、祠の格子の中を覗き込んでみたり、祠が乗っている石を叩いたりしてみましたが、特別なものは何も見つかりません。

「やっぱり何も変わった所は無いねえ」

正直そう簡単に手がかりが掴めるとも思っていませんでしたが、現実に何も見つからないと徒労感に襲われます。


小一時間もそうして色々調べてみましたが、結局何の収穫もありませんでした。とりあえず一度帰ろうかと、来た道を引き返します。

ところでさっきからずっと気になっていたのですが、哲也の態度が今日は妙に他人行儀に感じます。いつもなら普通に手をつないだりするのですが、今日に限ってはそんな雰囲気がありません。


そうだ!

考えてみれば私は本来ここの住人では無い訳で、目の前にいる哲也も、私の世界の哲也ではないんだ!

言ってみれば私はこの世界では他所者で、哲也にしてみれば顔かたちが同じでも、こちらの和美と私は違うんだ。


それに気が付いた途端、どうしようもない孤独感に襲われ先を歩く哲也の背中が急激に曇って見えてきました。

そして私の異変に気づいた哲也が振り返った時には、私は大粒の涙を流していました。

「どうしたんだよ!」

哲也は驚いて私に問いかけますが、すぐに私の涙の訳を悟ったようです。彼は普段頼りない男ですが、男にしては珍しく人の感情をいち早く理解する繊細さを持ち合わせています。私が彼を好きになった理由もそこにあったのだと思います。


「ごめん」

哲也は無言で私の手を取り抱き寄せます。私はしばらく哲也の胸で泣いていました。思えば昨日から私の周りで起きた事は私一人で抱え込むにはあまりにも大きすぎます。

通りすがりの人が好奇の眼差しで私たちを見ていきますが、事情を知らない他人から見れば、休日の午前中から痴話喧嘩をしているバカカップルにしか見えないでしょう。

それでも涙を流した事で、私のモヤモヤが一つ晴れて落ち着きを取り戻す事ができました。


マンションに戻ると、こちらの私が昼ご飯を作って待っていてくれました。しかし私の泣き腫らした赤い目を見るなり

「ちょっと哲也、私に何をしたの!」

と哲也に迫ります。

「違うって!何もしていないって」

私が私の彼と痴話喧嘩をしている姿を第三者の目線で見るのは、とても興味深いものがあります。

ずっと見ていたいと言う気持ちもありましたが、話がこじれるのもなんなので、一応訳を説明しました。

しかしあえて説明するまでもなく、こちらの私は私の気持ちに気づいていました。考えてみれば私以上に私の理解者はいないのです。

さっきの痴話喧嘩も私を元気付けるためのおふざけだったんでしょうね。可愛そうなのはそんな茶番に付き合わされた哲也ですが、そうキャラなのだから仕方がありません。


昼ご飯は最近私が得意としている、キムチチャーハン。

うん、私の味だ!作ってないけど。

「結局何の手がかりも見つけられなかったけど、あの祠には絶対何かあると思うよ」

哲也が少々興奮気味に話しだします。

「もともと祠とか神社って言うのは、ある種のパワースポットに建てられる事が多くて、その力を封印する目的で作られる事が多いんだ」

「じゃああの祠はワームホールを封印するためにあるの?」

チャーハンに添えた紅生姜の形が鳥居に見えてきます。

「そう断言はできないけど、その可能性があるって事だよ」


哲也が言うには、そう言った経緯で建てられた祠は、不思議な力が封印された後、何代もの管理者に受け継がれる間に、本来何の目的で立てられてのか忘れ去られてしまう事がよくあるそうです。

しかしその目的が定かで無くなっても、古くからある祠を取り壊すのは意外と勇気がいるもので、八百万の神が信じられている日本では、それに新しい解釈や伝説が生まれ、その地域で大切にされ続けている事も多いのだそうです。

「だからこの後、昼から図書館に行って、あの祠の事を調べてみようと思うんだ」

「あんな小さな祠の事が載っている本なんてあるの?」

と私。

「わからないけど、郷土史のコーナーか何かににこの地域の歴史とかが載っている本があるはずだよ。それを見れば何か手がかりを掴めるかもしれない」

ちょっと哲也、ご飯とばさないでよ。

「あとね、市役所でこの祠の土地の所有者を調べて、その人に祠の事を聞いてみるってのも一つの手だね。幸いこの辺は新興住宅地じゃないから、地主は昔から変わっていないんじゃないかな。今日は土曜だから市役所に行くのは来週になるけど」


ちょっと哲也どうしちゃったのよ?

普段はどうしようもない優柔不断のくせに、今回はがぜん頼りになるじゃない。バカとヲタクは使いようって事かしら?さすがに口には出さないけど。

もう一人の私と目が合うと、肩をすくめて笑っています。たぶん同じ事を考えているのだと思います。


そんなこんなで昼からは市の図書館に行ってみる事にしました。今回は午前中留守番をしていたこちらの和美も同行します。

哲也が知り合いに見られたらどうするんだと反対しましたが、ナニ、髪型とメイクを変えて、服も違った雰囲気にすれば大丈夫よ、とこちらの和美。

なんだかどこか楽しんでいるようにも見えます。あっ分かった!アレやるつもりだな。


しばらくして隣の部屋から出てきた和美は、ポニーテールにミニスカートと言う姿で、頬に濃いチークを入れた姿は見ようによっては10台後半にも見えなくありません。

いやあ普段、私は仕事でナメられないよう私服もカチッとしたのが多いから、こう言う格好は滅多にしないのよね。

でも女の子だから本当は可愛い格好もしたいのだけれど、こんな機会でもない限り、なかなか人前で可愛い女にはなれないんだよね。

しかも客観的に見て結構イケてる感じ。

哲也があっけに取られて見ています。

「なんだよ。普段からそう言う格好してくれれば良いじゃん」

イヤよ。可愛い女を演じたらアナタが勘違いするから。


図書館は電車で二つ隣の駅にあり、30分もかからず着きました。途中誰かに同じ顔だと気づかれないかとヒヤヒヤしましたが、案外みんな他人の事なんか見ていないものですね。

土曜日の午後と言う事で、図書館は学生で混雑していましたが、目当ての郷土史のコーナーは人気が無く私たち以外誰もいません。早速めぼしい本を片っ端から調べます。

その中で古びた「郷土史研究」と言う、そのまんまの名前の本を発見しました。

ハードカバーの表紙をめくってみるとカビ臭い匂いがあたりに充満します。しかし狙いどおり、そこにはこの地域一帯の歴史が詳しく書かれていました。


それによるとこの地域は、室町時代に地元の豪族によって開墾された土地で、江戸時代以は鉄分を多く含んだ地層からたくさんの砂鉄が採取され、肥沃な土地と相まって大きな発展を遂げてきたそうです。

砂鉄が取れるため、たたら吹き製鉄で作られる日本刀などの刃物類が特産だったらしく、そう言えば駅前に刃物会館なんてものがあった事を思い出します。

さらにその先を読み進んでいくと・・・


江戸時代の製鉄は神聖なものとされていたため、各地にそれにまつわる神社が多く見られるが、この地域一帯に語り継がれる天狗伝説と関係があるかどうかは不明である。


天狗伝説?

声に出してそのくだりを読んでいた哲也の表情が何かを発見したように気色ばみます。

「天狗がどうかしたの?」

怪訝に感じた私が聞いてみると

「天狗伝説の代表的な事象って何だか分かる?」

「???」

「神隠しだよ!」


最初、哲也が何を言っているのか分かりませんでしたが、そう言えば今の私の状況はまさに神隠し。

「やっぱりこの辺では昔から突然人が姿を消す事があったんじゃないかな」

つまりこのような事がこの地域では昔から多くあり、それが天狗伝説につながったのではないかと考えられるのです。

もちろん江戸時代に神隠しと言われた事件の多くは、ほとんどが不慮の事故であったり、時には人さらいだった訳ですが、そう言った事件は当事の日本各地で起きていたはずです。それが特定地域でのみ伝説として伝わっているのであれば、その地域で神隠しが際立って多かったと言う事だとも考えられます。


しかし神隠しについての記述はそれ以上されておらず、また肝心の祠に関して書かれた文献はどこにも見当たらず、この件に関しては空振りに終わりました。

そろそろ帰ろうかと思った矢先、哲也は先の「郷土史研究」を持ってスタスタと窓口に向かいます。

「えっ?そんな重い本借りるつもり?」

「違うよ。この本を書いた郷土史研究家の事を聞いてみるんだよ」

ああ、なるほどね。郷土史研究家なら地元の人のはずだもんね。良いアイディアだけど褒めると調子に乗るので、何も言いません。


「あの~この本を書かれた方の事を知りたいんですけど」

司書とおぼしき中年の女性に哲也が声をかけます。みかけが優しそうな哲也は中年女性の受けが良く、こう言う場合、話がサクサク進みます。

表紙の著者名を、司書の女性がライブラリ管理のパソコンに入力すると、著者の詳細が出てきました。

「えっとこれを書かれた秋山徹とおると言う男性ですが、地元の大学で郷土史の講師をしておられた方です。今もこちらで郷土史の研究をしていらっしゃるようです」

「直接会ってお話を聞く事はできますか?」

「先方の住所をお教えする事は個人情報保護の観点からできませんが、図書館から問い合わせる事は可能です」

「それではぜひ直接お会いして話が聞きたいとお伝え願えますか?」

「分かりました。追って連絡しますので、ここに住所と名前と電話番号をお書き下さい」


事がスムーズに運びすぎて怖いくらいです。とは言えその人に話を聞いても例の祠の事は知らないかもしれません。

しかし今は哲也の予想外の行動力にかけるしかありません。ともかく図書館まで足を運んだ甲斐は十分ありました。


図書館を出ようとする時エントランスで

「あっ、あのおねいさんたち双子だ」

と無邪気に指を指す子供がいました。

そうか変装してもやっぱり分かるんだ。知り合いがいない所ならOKだけど今後は気をつけなくちゃ。


なんのかんので時刻は5時を回りました。そのまま哲也も一緒に来るのかと思えば

「とりあえず今日はもうする事が無いから、僕は一度家に帰るね」

思えば昨夜から良いように引っ張りまわした事で、彼も疲れているようです。駅で彼と別れた後は、お互いちょっと距離を置いて、別々に帰宅しました。


ところで昨日から気になっていた事だけど、私はこのままこの部屋にいて良いのでしょうか?

もちろん最初はここが自分の部屋である事に何の疑いも無かったけど、5分遅れの腕時計のおかげで私がこちらの世界の住人で無いと分かった時、この部屋の本当の住人はこちらの和美であるのが判明したのです。

つまり言ってみれば私はここでは居候的な存在なのです。

とは言え手持ちの現金は僅かだし、外泊する余裕なんてありません。

もしもこちらの世界に滞在するのが長引くとしたら・・・


玄関で部屋に上がるのを一瞬躊躇した私を見て、こちらの世界の和美が切り出します。

「あのさ、はっきり言っておくけど」

「私たちは今、別々の体だけど、もともと時間を違えて同一の存在なんだから、この部屋は5分後のあなたのものでもあるの」

「だから変な遠慮はしないで。この部屋もここにある全てのものもあなたのものなんだから」


やはり考えている事は同じなようです。

私が逆の立場だったら同じ事を言うだろうけど、こう言う事って口に出して言うのが大切なのかもしれません。

ありがとう私、やっぱり私って良いヤツだ。

「飲もうか?」

同時にグラスを傾ける仕草をして、夕食は久しぶりにお酒を飲みました。

しかしまさか自分自身とサシで飲む事になるとはね。

なかなか貴重な体験だったけど、トイレに行きたくなるタイミングも同じなのには困りました。


翌日は窓を叩くクロたちに起こされました。

今日もクロが2匹いると言う事はワームホールが開いていないと言う事です。

2匹にエサを与えながら私がクロに話しかけます。

「早く一緒に戻れると良いね」


朝食を終えこちらの和美がシャワーを浴びている時、哲也がやってきました。一足先にシャワーを浴びた私が迎えに出ると哲也は

「どっち?」

と聞きます。

こちらの和美だよと答えると哲也は突然私を抱きしめました。

それをシャワーからあがった本当のこちらの和美が睨んでいます。可愛そうに、後でとっちめられるだろうな。


さて今日は特に予定はありませんが、とりあえず例の祠に行ってみる事にします。今日は私が可愛いいスタイルです。

マンションを出ようとした時、むこうから歩いてくる人を発見しました。

「ヤバイ!管理人さんだ」

私の住んでいるマンションはマンションと言っても小さな建物で、管理人のおばさんとは顔見知りの間柄です。

ここで引き返すのもかえって怪しく思われるので、3人で平静を装って出て行くと、管理人さんは私たちを見て一瞬驚いた様子を見せながら、いつもの大人っぽい服装のこちらの私に

「ご姉妹?」

と問いかけます。

「ええ、妹です。似ているっていわれるんですよ~」

「妹さんそっくね。双子だと言ってもみんな信じるわよ」

でも本人だと言っても誰も信じないでしょうね。


とりとめもない会話をして、管理人さんをやりすごすと

「ねえ、あの管理人さんってこのマンションのオーナー?」

と哲也が聞きます。

「そうよ。確か旦那さんの退職金でマンション経営始めた

って言っていた」

「この辺に住んでいるの?」

「このマンションの隣の一軒家に住んでいるみたいだけど、それがどうかしたの」

「それじゃああの祠の事、何か知っていないかなあ。あの土地の持ち主の事とか」

「そうね、ちょっと聞いてきてみる」


こちらの和美が駆け足で管理人のおばさんを追いかけ、色々聞いています。二人がこちらを見ていると言う事は哲也か私の話題が挙がっているのだと思います。

しばらくしてこちらの和美が戻ってきました。

「えっとね、あの祠の事は良く知らないけど、祠あるのは川原神社の土地だって。この辺一帯の一軒家以外の土地はほとんどが神社の土地なんだって」

川原神社は駅の近くにある大きな神社で、例祭の時にはたくさんの露天が並びます。

「二人でこっちを見ていたのはなんで?」

哲也が聞きます。

「哲也が郷土の歴史研究をしていて、祠に興味があるって言ったから」

「よくそんな嘘がポンポン出てくるね」

「女ってそう言うものよ」


その時突然クロが威嚇するような鳴き声と供に階段の手すりから飛び出してきたかと思うと、ジャンプして私の胸に飛び込んできました。驚いた私は転んで尻もちをついたのですが、その途端さっきまで私が立っていた場所に植木鉢が落ちてきました。ものすごい勢いで落ちてきた植木鉢は、地面に当たると目の前で砕け散りました。


突然の出来事に驚いた私は腰が抜けて口をパクパクしながらしばらく何も言えませんでした

「大丈夫か?」

哲也とこちらの私が真っ青な顔で私に駆け寄ります。びっくりしたけど体のどこにも異常が無い事を確認すると皆でほっと胸をなでおろしました。

マンションの高層階から落下したものだと思われますが、もしクロが飛び出してこなかったら私の頭を直撃していたと思われます。って事は私はクロに助けられたの?


一部始終を見ていた管理人さんも走り寄って私の無事を確認しながら言います。

「ごめんね。高層階の人にベランダに植木鉢を置かないように言ってあるんだけれど聞かない人もいて・・・今度こそ強く言っておくわね」

しばらくしてクロが私の足元にやってきてじゃれ付き始めました。管理人さんも猫好きらしくクロを抱きかかえて言います

「それにしても妹さんの危機を救うなんてお利口さんな猫ね。でもどうして植木鉢が落ちて来ることがわかったのかしら?」

私たち全員が答えを求めて目を合わせます。

「黒猫は縁起が悪いって言う人もいるけれど、日本では魔除けとか厄除けの力があるって事で大切にされていたのよ。この子にもそんな力があるのかしら」

やがてクロが管理人さんの腕をもがいて下に降りたかと思うと何事も無かったようにスタスタとどこかに行ってしまいました。残された私たちは危うく大事故になりかねない事件に驚いてしばらくその場所に留まっていました。


ともかく私は無事だった訳だしずっとこうしてもいられません。管理人さんのおかげで市役所に行って祠の所有者を調べる手間は省けたので、これは一つの収穫です。

そしてまずは今日も祠の調査からスタートです。

そしてここに通い続ければいずれ何らかの手がかりが掴めるような気がします。それに運よくワームホールが出現していれば、私は元の世界に戻れる訳で、やっぱりこの場所が鍵になるのだと思うのです。

そんな事を考えていた時、私たちの携帯電話が同時に鳴り出しました。ここはこちらの和美に電話を譲ります。


電話の主は会社の部長からでした。

「もしもし、伊藤です。ああ、はい、そうですか。えっ?今からですか。分かりました、一時間後くらいならそちらに行けます」

横で話を聞いていて大体の成り行きは分かりました。

「なんだか昨日のプレゼンが好評で、週明けに早速商品化に乗りだすんだって。月曜に部長が専務に報告に行くから、今から必要な資料を作り直すんで手伝って欲しいらしいんだけど・・・」

「良かった、今すぐ行ってきてよ」

今の私には仕事より祠の調査が大事ですが、こちらの和美には仕事も頑張ってもらわないといけません。

「良いよ。川原神社は俺たち二人で行ってみるよ」

哲也もそう言います。

「二人っきりだからって、私に変な事しないでよ」

どうやらまだ朝の事を根に持っているようです。


そんな訳で川原神社には哲也と二人で行く事になりました。まあ考えてみればこの方が知り合いに見られても安心なんですけどね。

神社に着くと、ちょうど神主さんとおぼしき40代くらいの男性が境内の掃き掃除をしていました。


「お忙しいところを失礼します。あのちょっとお話を聞かせていただいてもよろしいでしょうか?」

「何でしょうか?」

哲也の丁寧な態度に神主さんも好意的です。

「私は今、郷土史について色々調べているのですが、桜木町の公園の辻にある祠は、こちらの神社の所有なのでしょうか?」

「そうです。私どもが管理しているものです」

「あの祠は、どう言ういわれで建っているんですか?」

「あそこには地蔵菩薩が安置され、子供の守り神として祭られています。あのあたりは昔から民家が集まっていて、子供もたくさんいましたからね」

「そうですか。実は私は郷土史の中でも特にこの地方の天狗伝説を主に調べているのですが、そう言ったものと何か関わりはありませんか?」

「さあどうでしょう。私もその辺についてはあまり詳しくは知らないのですが、なんなら私の父に聞いてみましょうか。

今は神社の仕事は引退していますが、この辺りの歴史や古い事には詳しいはずです。

「ぜひお願いします」


神社の隣にある住居に案内されると、くだんの老人は縁側で一人碁を打っていました。

「父さん、こちらの方が桜木町の祠の事について聞きたいらしいよ」

神主さんは父親を紹介すると、会釈をしながら元の仕事に戻っていきました。ちょっと退屈そうにしていた老人は、思わぬ訪問者にうれしそうです。

「始めまして。私は今この地域の郷土史を調べている、山崎哲也と申します」

「加藤と申します」

おじいさんが話を切り出します。

「で、あの祠がどうかしましたかな?」

「実は私は郷土史の中でも特にこの辺りの天狗伝説について重点的に調べているのですが、あの祠はそう言ったものと何か関りがありませんか?」


哲也が「天狗伝説」と言った瞬間、老人の表情が一瞬曇るのを感じましたが、その後平静だったところを見ると私の気のせいだったかもしれません。

「山崎さんとおっしゃいましたな」

「はい」

「山崎さんは、どうしてあの祠が天狗伝説に関係があるとお思いなんですか?」

「特に何の根拠もありませんが、この辺はかつて神隠しが多く発生した土地ですから、あの祠には実はその天狗の神隠しの力を封印するような意味があったのではないかと考えたんです」


「ふう」

老人は吸っていた煙草の煙を吐き出すと、遠い場所を見るように話します。

「そのような話は聞いた事がありませんが、そう言えば、以前にも同じような事を聞きに来た御仁がいましたな」

「どんな方ですか」

「山崎さんと同じ郷土史研究家の大学の講師さんでしたよ」

「えっ?もしかして秋山徹さんですか」


一瞬誰の事か分かりませんでしたが、すぐに昨日図書館で見た「郷土史研究」の著者の名前だと思い出しました。哲也ってふだん私の話は何も覚えていないくせに、こう言う事はちゃんと覚えているようです。

「秋山さんをご存知でしたか。しかしその方にも言いましたが、あの祠が天狗の力を封印しているなどと言う事は聞いた事がありません。だだの子供の守り神ですよ」

何かを掴みかけた気がしていたのですが、拍子抜けでした。

しかしその秋山徹氏が哲也と同じ事を考えていたのなら、ますます直接会って話を聞いてみたいと言う気持ちになりました。

「ニャア」

ちょうどその時首輪をつけた黒猫が縁側伝いに歩いてきました。そしてそこが当然の居場所であるように加藤さんの膝の中で丸くなりました。クロに似ているけどもちろんクロではありません。

「可愛い猫ちゃんですね」

加藤さんも相当の猫好きらしく、飼い猫が褒められたことがうれしそうです。

「お嬢さんも猫を飼っとるのかね?」

「飼ってはいませんけど、毎日餌をあげている黒猫がいます。

実はさっきその子に命を助けられたんです」

加藤さんが怪訝そうな表情をします

「実はここに来る前、私の住んでいるマンションの玄関に上から植木鉢が落ちてきて私に当たりそうになったんです。その時クロが、あっ、その例の黒猫なんですけど、それが突然飛び出してきて、それで私が転んだせいで難を逃れたんです」

加藤さんはしばらく何かを考えているようでしたが、元の様子に戻って話を続けます

「それはまたすごい偶然ですな。お嬢さんを助けてくれた猫ですから大事にしてあげて下さい」

加藤さんに丁寧にお礼を言い、いとまごいを告げると

「また何か聞きたい事があれば、いつでも訪ねて来て下さい」

と優しい言葉をかけてくれました。


帰り道で

「僕がさっき天狗伝説の話をした時、あのおじいさん、少し表情が変わらなかった」

「私もそう思った。何かあるのかなと思ったけど知らないみたいだったよね」


会話が途切れた時、今度は哲也の携帯電話が鳴り出しました。

「もしもし、山崎です」

「もしもし、わたくし神谷市図書館の佐藤と申します。昨日お尋ねになられていた秋山さんの件ですが、先ほど電話に出られて用件をお伝えすると、お会いしても良いとの事でした」

「あっ!ありがとうございます」

「先方の連絡先をお伝えしますので控えて頂けますか。電話番号は・・・」

「分かりました。こちらから直接連絡してみます。お忙しい中ありがとうございました」

「どういたしまして。またいらして下さいね」


「秋山さんの連絡先、教えてもらったよ」

「図書館にしては対応が早かったわね。あの司書さんに相当気に入られたわね」


哲也が聞こえないふりをして、早速秋山さんに連絡を入れます。

「始めまして。わたくし山崎と申します」

「ああ先ほど図書館から電話がありましたよ。私の著書を読まれて興味を持たれたなら大歓迎です。明日なら私はいつでも来て頂いて結構ですよ」

「え~と残念ですが明日私は仕事の都合でちょっと行かれないのですが・・・」

困った表情をした哲也が、私を見て何か閃いたようです

「秋山さん、実は私には共同研究者がいまして、その者を明日そちらに伺わせてもよろしいでしょうか?」

「私はかまいませんが」

「それでは明日午後1時ごろそちらに伺わせます。伊藤と言う女性です。どうかよろしくお願いします」

「ほう女性ですか。郷土史に興味がある女性とは珍しいですね。楽しみにしていますよ」


電話を切った後、次々と話を進める哲也の交渉能力に感心しながら

「何?一緒に行ってくれるんじゃないの?」

と一応聞いてみます。

「ごめん、明日の仕事はどうしても外せないんだ。とりあえず和美一人で行って話を聞いてきて」

「う~ん、でも具体的に何を聞けば良いと思う?」

「重要なのはこの辺りの過去の神隠しの話と祠が何か関係していないかって事だね。そのあたり色々聞いてみて」

まあね、これは私の問題なんだから私がなんとかしないとね。


夕方ころ哲也と二人でいる所に、こちらの和美は既に会社から戻ってきました。

「どう、プレゼン上手く進んでる」

私自身はこんな状況にありながらも、やはり私の担当の仕事は気になります。

「うん、明日朝イチで部長が今回のプレゼンの内容を専務に説明に行くみたい。思った以上に早く話が進むかも」

こちらの和美の仕事が順調なのは何よりです。でもどうも私の事が気にかかっている様子です。


このままだとこちらの和美は、明日も私に付き合って仕事を休むと言い出すかもしれないので私から提案します。

「明日からの事なんだけど、明日からは私一人で元いた場所に帰る方法を調べてみるので、あなたは仕事に行ってよね」

「でもそれじゃ・・・」

立場は違えど私たちは同じ思考の持ち主なので、本当のところそれが一番良い方法である事はお互いが分かっています。

「分かった。それじゃ何かあったら私か哲也にすぐ連絡して」

私が頷きます。

「僕に連絡するのはともかく、和美同士はどうやって連絡を取るの?」

私たちはお互いの携帯電話を取り出し、私が自分宛にメールを出してみます。すると思ったとおり数秒後、メールは両方の端末に送られてきました。

「なるほど、そんな使い方もできるんだね。和美ってメカ音痴だと思っていたけど意外だね」

いや私もあまり自信が無かったので試してみたんだけどね。


翌日は朝から雨。

梅雨なので雨が降るのはあたりまえですが、雨の中一人で祠を監視するのかと思うと少し憂鬱です。今朝もクロが2匹仲良く現れたと言う事は、例のワームホールは開いていないと思われ、祠に行っても何の収穫も無いかもしれません。

とは言っても今の私にはそれ以外する事が無いので、支度をして祠に向かいます。


雨の中、先日見つけた紫陽花が美しく咲いています。この前これを見たのがはるか昔の事のように感じられます。

祠に到着して周りを調べた後、公園の屋根のあるベンチからしばらく祠を監視する事にしました。

しかし昨日と違うのは雨が降っているだけで、やはり何も変わった様子はありません。

小一時ほど間経った頃、ふと誰かに見られているような気配を感じ後ろを振り返ると、品の良さそうなおばあさんが傘をさしてじっとこちらの様子を伺っていました。

考えてみれば若い娘が平日の公園でずっと祠を見ていると言うのはかなりおかしな状況で、不審者に思われても不思議ではありません。

変に話しかけられても困るので、ここは一時退散する事にしました。


一旦マンションに戻り濡れた服を着替え、ちょっと早めの昼食を済ませると、秋山さんを訪問する時間が近づいてきました。秋山さんのお宅は地図で見ると電車で一駅隣なので30分もあれば着きそうです。

と言って時間に遅れては失礼なので、早めにマンションを出ます。


秋山さんのお宅はすぐわかったものの、少し早く着きすぎたようです。玄関で声をかけようかどうしようか迷っていた時、後ろから初老の男性に声をかけられました。

「もしかして伊藤さんですか?」

「あっ!はい伊藤です。秋山さんでしょうか?」

「そうです。まだいらっしゃるには早いかと煙草を買いに出かけていました」

「すいません。私早く来すぎてしまって」

「良いんですよ。それにしても昨日山崎さんから聞いた話では、郷土史に興味がある女性と言うから、てっきり年配の女性かと思っていました。こんな若い娘さんとは驚きました」

「はあ、そうですか」

なんとも答えようがないので適当に相槌を打っておきました。

「ともかくこんな所で立ち話もなんですから上がって下さい」


奥の応接間に通されると、家政婦らしきおばさんが冷たい麦茶を持ってきてくれました。一口飲んで落ち着くと

「お言葉に甘えて突然訪問させて頂きました。お忙しいところ申し訳ありません」

「いえいえ、こちらはずっと前に仕事を定年退職して、時間だけはたっぷりありますから平気ですよ」

聞けば秋山さんは以前高校の物理の先生をしていたそうで、郷土史は趣味で調べていたものが高じて、地元の大学で講師をするまでに至ったのだとか。

「伊藤さんがこんなにお若いとなると、山崎さんもお若いのですか?」

「ええ、山崎は私より2つ年下です」

「電話では丁寧でしっかりした話し方だったので、もっと年上の方を想像していました。若い方が郷土史に興味を持たれるのはうれしいですね」

秋山さんは煙草に火を点けると一呼吸おいて話を続けます

「で、今日はどんな事をお聞きになりたいのですか」


ここは変な小細工をせず、単刀直入に本題を切り出す事にします。

「実は私たち、この地方に伝わる天狗伝説について調べています。そして、ある事から桜木町の公園にある祠に何らかの秘密があるのでは無いかと考えるようになったんです」

今まで穏やかだった秋山さんの表情が一気に険しくなります。

「図書館で秋山さんの著書を読んだ時点では、単に郷土史研究家で天狗伝説に詳しい秋山さんにお話を聞こうと思っただけだったのですが、昨日、その祠の管理者である川原神社に行って加藤さんにお話を伺ったところ、秋山さんも何年か前に同じような事を聞きに来たと言うじゃありませんか」

秋山さんの表情がだんだんと曇って行くのが分かります。でもここで話を止める訳にはいきません。

「加藤さんはあの祠はただの子供の守り神だと言っていましたが、私にはどうもそれだけでは無いような気がするんです。

ちなみに秋山さんがあの祠に何かあるとお思いになったのは何故なんですか?」

一気にまくしたてて咽がカラカラです、目の前の麦茶をいただきます。


突然激しい雨が降り出し、家の中にいてもその勢いが分かるくらいになってきました。

「この事はあまり人に話した事は無いのですが」

長い沈黙の後、秋山さんは小さな声で話し始めました。

「実は私は若い頃、自分の不注意で子供を亡くしています。私が25歳の時、幼い息子を連れて例の祠のあたりを散歩していた時、ほんの一瞬目を離した隙に息子がいなくなってしまったんです」

「・・・」

「その後警察が徹底的に辺りを捜索したのですが息子は見つかりませんでした。誘拐の線も含めて調べたのですが、そのまま息子は行方不明になってしまいました」

私は触れてはいけない他人の心の中に土足で踏み込んでしまった事を激しく後悔しましたが、同時に話に引き込まれます。。

秋山さんの話は続きます。

「それが原因で家内とも別れる事になってしまいました。しかし私はどうしても息子がいなくなった事に納得がいかず、その頃趣味で研究していた郷土史の天狗の神隠し伝説に興味を持つようになったのです。そして息子を見失ったあの場所に何度も通ううちに、あの祠に何か秘密があるんじゃないかと考えるようになったんです」

「それであの祠の管理者である、神主の加藤さんにお話を伺いに行った訳ですが、全てを聞いた加藤さんから、それを調べて何になると逆に諭されました。その時私は身も心もボロボロの状態で、確かにそんな事を調べても何の解決にもならなかったのです。そしてその日、涙ながらに加藤さんに全ての胸の内を語った後、私はようやく立ち直る事ができたのです」


私はその話を聞いて、しばらく何も言えませんでした。

「何も知らず、安易な質問でつらいお話をさせて申し訳ありませんでした」

「いえ何十年も前の事です。本当の事を言うと私もこんな昔話を人に聞いてもらいたかったのかもしれません。おかげで少し胸のつかえが取れた気がしますよ」

全てを話し終えた後の秋山さんは、確かに元の温和な表情に戻っていました。


「まあそんな訳で私はあの祠に興味を持ったのですが、伊藤さんたちは、なぜ天狗伝説とあの祠に関係があると思ったのですか」

そう言えばその理由を他人に説明する事を全く考えていませんでした。しかしこんな風に自分のつらい経験を話してくれた人に、適当な答えをして良いのでしょうか。

そして秋山さんの話は、あの場所でかつて神隠しが起きた事を証明するもので、やはりあの祠が鍵である事がはっきりしたのです。

私は覚悟を決めました。


「秋山さん。実は私自身が今その神隠しにあっているんです」


きょとんとする秋山さんにでしたが、話を進めて行くうちに再び真剣な表情になります。彼にとっては心の中に封印した忌まわしい記憶を、再び引きずり出されたような感覚なのでしょう。驚きと悲しみが入り混じった表情を見せながらも、この前の金曜日に私に起きた事を最後まで真剣に話を聞いてくれました。

普通に考えればとうてい信じられる話ではないはずですが、かつて同じような経験をした秋山さんには、それが他人事では無かったのです。


「もしそれが本当だとすると、やはりあの祠の周辺は、神隠しが起こる場所だったと言う事ですね」

「山崎はあそこにはたぶん多元宇宙の壁を越える、ワームホールのようなものがあるのではないかと言っていました」

「私もかつて物理の教師をしていましたから、SF雑誌などを読んでその可能性を考えた事はあります」

そして一瞬考え込んだあと、秋山さんはこう切り出しました

「伊藤さん、もしよろしければ今から一緒にその祠に行ってみませんか」


電車に揺られる事数十分、私たちは祠にやってきました。

「ここに来るのは本当に久しぶりです」

過去の記憶を思い出すかのように、秋山さんはしばらくじっと祠を眺めていましたが、やがて辺りを調べはじめました。

「伊藤さんが意識を失ったのはどの辺りですか」

「えっとこのへんですね」

その場所をじっと眺める秋山さんは、息子さんを失った時の記憶と重ね合わせているようです。

そうして色んな角度から祠を観察してみたものの、やはり特に新しい発見はありませんでした。


その後再び雨が強く降り出したため私たちは一旦その場を離れ喫茶店に避難しました。

「今日のところは何も見つけられなかったけど、あの祠が鍵である事は間違い無いでしょうね。私も今後できる限り協力しますから一緒に頑張りましょう」

「ありがとうございます。本当に私なんかのために色々とすいません」

しばらくの沈黙のあと秋山さんが続けます

「違いますよ伊藤さん。あなたがこうやって今ここで生きている事が、私には息子が別の世界で今も元気に暮らしているって言う希望になるのですよ。息子のためにも私にできる事があれば何で言って下さい」


こちらの世界に迷い込んでから、ようやく希望が持てた気がしました。こちらの和美と哲也の仕事もそろそろ終わる時間なので二人に連絡を入れ、駅の近くのファミレスで顔合わせとなりました。秋山さんは私ともう一人の私を交互に見比べ、驚きを隠せないようでした。

「お話はこちらの伊藤さんから全て伺いました。話を信じていなかった訳ではありませんが、こうしてお二人を見ると、今までの話が真実だと確信しますね」

百聞は一見にしかずと言う事です。


「秋山さん、もし良かったらこの二人にも秋山さんに起きた事件を話してもらえませんか?」

あまり人に話したい事では無いのはわかっていましたが、私の口から伝えるよりも、本人から直接話してもらうほうが良いに決まっています。

しかし秋山さんの話ぶりからは既に悲壮感は消え、共通体験からくる連帯感のようなものを感じました。


そして一瞬の沈黙があり、外から威嚇するような猫の鳴き声が聞こえました。驚いて全員が窓の外を見ると、駐車場を急発進した車そのままの勢いでがこちらに向かってくるのが見えます。

「ぶつかる」

咄嗟の事でしたが外に注意を払っていたため、何とか皆通路まで避難できました。

そしてその直後車は窓ガラスを割って席に飛び込んできたのです。


「・・・」

目の前で起きた惨事に全員言葉を失っていました。

そして外には悠然と歩くクロの姿が見て取れたのです。


その後しばらくして警察がやってくると、一部始終を見ていた私たちは事情聴取をされました。もちろん私たちは被害者ですから、ありのままを話しました。

狼狽した運転手からアクセルとブレーキを踏み間違えたとの証言を得た事でこの件には事件性は無く事故と言う事で処理されたのですが・・・


私たちはその後秋山さんも含め全員で私のマンションに来ていました。傍らに2匹のクロが寝そべっています。

最初に重い口を割ったのは私です。

「これって偶然じゃないよね」

先ほど起きた事故と昨日マンションから植木鉢が落ちてきた件です。どちらもクロが現れた事で難を逃れたけれど、私が死んでいてもおかしく無い事件です。二日続けてそんな事が起きるのは偶然とは思えません。さらにそれらをクロが察知して私を助けた事を考えれば、それが何らかの意図をもって起こされたとしかえられません。

「何か得体のしれない力が働いているのかもしれないよね」

哲也がぼそぼそ話し出します。

「何かってナニ?」

もう一人の私が聞きます。

「わからないけど自然界の摂理と言うか道理のようなものが、本来この世界に存在しないものの排除に動いていると考えられない?」

「つまり何者かが私を抹殺しようとしているって事?」

部屋に重苦しい空気が流れます。


「実は私もそれを考えていました」

と秋山さん。

「山崎さんの言う多元宇宙論は平行宇宙とも呼ばれますが、その原則はお互いが平行であり交わってはいけないのです。しかしこうして交わった結果、全く同じDNAを持つ和美さんが同じ次元に存在する事となり、自然界ではあり得ない事象が起きているのです。ごく微小ではあるものの次元全体の質量も変わってきます」

「それを察知した何者かが、よそ者の伊藤さんを排除にかかっていると考えれば説明が付きます。その何者かは山崎さんの言う自然界の摂理と言っても良いと思います」

みんな秋山さんの話に食い入ように耳を傾けます。

「実は十数年前、この地域で夏に蛾が大量発生した事がありました。野菜や植物が食い荒らされ被害が大きく、我々は翌年どうなるかと心配していたのですが・・・

なんと次の年に今度は蛾の天敵である蜂が大量発生し、蛾の繁殖を食い止めたのです」

「私はこの事に非常に興味を抱きました。蛾の天敵の蜂が大量発生したのは単なる偶然ではなく、何者かの意図を持って起こされた訳で、ではその何者かは何なのかと考えたのです」


「神様みたいなものかな」

と哲也が言います。

「そう言ってしまうと稚拙な感じがするんですが、結局自然界と言うのはバランスの取れた環境を維持するため、管理者のようなもの、若しくはそう言う管理機構を持っていると考えられます。文字どうり自然の摂理ですよね」


私はとてつもない巨大な何かを敵にしていると言う事でしょう。今こうしていても何か身の回りで起きないか気が気ではありません。私の不安を感じて秋山さんが続けます。


「大切なのは、どうすれば良いかと言う事です」

秋山さんは自信ありげに語ります。

「まず他所から来た伊藤さんはなるべくそこにいるクロと一緒にいる事ですね。クロは間違いなく伊藤さんに降りかかる災いを察知する力を持っています。クロがあなたの元を離れないのはあなたに危機が迫っている事に気づいているからでしょう」

そうか、クロは私を守ってくれているんだ。

「そしてこれはもしかすると子ども騙しかもしれませんが、伊藤さんのどちらかが明日髪を切ってきて下さい。できるだけバッサリと。そしてお二人の食事を別の物にして下さい。食べ物を変える事で体組成に違いを生じさせ、例の何者かにお二人が別人だと錯覚させるのです」


なるほど、納得がいく提案です。

「お二人は行動も別にした方が良いでしょう。こちらの伊藤さんには今まで通り仕事に行ってもらい、二人が別々の生活をする事で思考パターンにも違いを生じさせるのです」

秋山さんが続けます

「DNAと言う言葉を持ち出すと同時にクローンなんて言葉も連想されます。だけど現在クローン動物が作られても、そのどちらかがすぐ死んでしまう事はありませんよね。クローンを作ったと言いながらも私たち人類はまだ完全にDNAの構造を解析していないから、完全に一致している訳ではないのだと思います。そう考えれば少しでもお二人の体の組成を変える事が重要なのかもしれません」

秋山さんは先生をやっていただけあって、論理的な提案をしてくれます。


「そしてこれが一番難しい事ですが、一刻も早く元の世界に戻る方法を見つける事です。私も及ばずながら協力します」

不安に押しつぶされそうでしたが、私は力強い協力者を得たと確信しました。


少しほっとして気が抜けたせいでしょうか。

次の日の朝起きてみると、妙に体が熱っぽく頭がガンガン痛みます。おそらく昨日雨の中で祠の周辺を調査して、濡れたままの服でファミレスの冷房に当たったのが良くなかったのでしょう。

こちらの和美が心配そうに私の顔を覗きこみます。

「風邪だとは思うけど、悪くなるようならすぐに連絡してね。それからおかゆを作っておいたから、食べられるようなら食べて。今日はなるべく早く帰るから」

こちらの和美にとって、私の体調不良は文字通り人ごとではありません。何かあったらすぐに連絡するよう何度も念を押して、出勤して行きました。


それにしても興味深いのは、私が風邪をひいてもこちらの和美は平気だった事です。

もちろんこちらの和美は昨日雨の中を歩き回ったりしていませんから、風邪をひく理由はありませんが、これでわかるように、同一人物であっても体験する事が違うと異なった未来が待っているのです。

そう言えば初めて二人が出会った時は、話そうとすると全て被っていたのですが、ここ数日それぞれが違う行動をしているせいで、普通に会話できるようになってきました。

やはり人間と言うのは後天的な要因により変わっていくものなんだなあと思いながら、風邪薬が効いてきたせいかそのまま昼過ぎまでぐっすりと眠りました。


さて、起きてみると朝に比べて体調はかなり良くなっていました。雨も小降りになっていたので傘をさして昨日秋山さんに言われたとうり私が髪を切りに行きます。

祠を見て行こうと角を曲がって公園が見えてきた時、祠の前に先客がいるのに気づきました。よく見ると昨日、私の事をじっと見ていたおばあさんです。

引き返すのもかえって変に思われそうなので、傘を深く被って通り過ぎる事にしました。すれ違いざまチラッっとおばあさんのほうを見ると、彼女は私には目もくれずずっとある一点を見つめています。


少々気になる状況でしたが、もしもおばあさんに見つかって私がここに来ている理由を聞かれるとやっかいなので、何事も無かったように通り過ぎました。朝方クロが二匹いた事を考えれば、ワームホールは出現していないと考えても良いでしょうからそのまま通り過ぎるのが賢明です。


そしてそのままいつも通っている美容室に行きました。私の髪は肩まであるロングヘアーで、容姿に自信は無いけれどこの髪だけは私の自慢です。そんな髪をバッサリ切ってくれと言うのですから、美容師さんは何があったのか気になっているようでした。

声には出さないけれど「失恋」と言う言葉が顔に書いてあります。まあ本当の事を説明できないので、そう思ってくれる方が好都合です。本当は失恋なんかよりもっと深刻な事態なんですけどね。


その日私の事を心配して早く帰宅したこちらの和美に、おばあさんの事を話しましたが、やはり変に話しかけられて事を複雑にしないほうが良いだろうと言う事になりました。

まあ若い女性ですから他の人に見られても不審者として警察に通報されるような事は無いでしょうが、この状況が解決するまでは目立つような事は避けるべきです。

風邪の症状は治まったものの、気分はすっきりしない一日でした。ただ髪の毛を切る作戦が功を奏したのか、今日は私の周りで事故が起きる事はありませんでした。ちなみに食事は私が家で作った物、こちらの和美がコンビニやスーパーで買ったもので済ませました。今私たちの胃袋は違うもので満たされています。


さて次の日は昨日昼間に寝たせいか私のほうがこちらの和美より早く目が覚めました。まどろみの中でもう一人の私の寝顔を見ながら、高校生の頃読んだ哲学の本の一片の言葉を思い出します。


我思う、ゆえに我あり


つまり人は自分がなぜ存在するのか考える事自体が、自身が存在する証明になるのだそうです。でも自分自身の姿をこのように客観的に眺める事ができるとしたら、それは先の言葉をもしのぐ自身の存在の確認になるのかもしれません。


そんな事を考えていたら、いつものようにクロが2匹揃ってやってきました。

そう言えば夏目漱石の「我輩は猫である」の中で、主人公の猫がこの命題について

「人間は長い歴史の中でこんな当たり前のことしか思いつかない愚かな生き物だ」

と笑いとばす場面がありました。2匹のクロが今の私の頭の中を覗いたら、同じような事を思うのでしょうか?


さて本日はテレビの天気予報では梅雨の晴れ間の晴天で傘をささずにすみそうです。昨日祠を観察できなかったぶん今日は念入り調べようかと支度をしていると、家の電話に秋山さんから電話が入りました。

「おはようございます秋山です。実は昨日例の祠について調べて色々面白い事がわかったので、今からお会いして話をしたいのですが伊藤さんご都合いかがですか?」

「今日は特に予定も無いのでいつでも出られますよ」

「それでは10時に祠の前に集合しましょう」


時間になって祠に行ってみると、秋山さんは既に到着して私を待っていてくれました。

「ちょっとこれを見て下さい」

秋山さんはカバンからコンパス(方位磁石)を取り出し祠の上に置きます。するとさっきまで北を指していた針がぐるぐると回りだします。

「実は昔ここに何度も足を運んでいた時に偶然この場所でコンパスの針が乱れる事に気が付いたんです」

「秋山さんはなんでその時コンパスなんて持ち歩いていたんです?」

と聞いて、秋山さんが以前、物理の先生だった事を思い出しました。

「すいません。続けて下さい」

私が納得した様子を見て秋山さんが話を続けます。

「で、その時もしかしてこの辺りは磁場が乱れていて、それが何らかのパワーを生み出しているのではないかと考えたのです」

そう言えば磁場ゼロの場所がパワースポットとして有名になっていたりします。何か因果関係があるのかもしれません。

「その時は先日話したように、加藤さんに諭されてそれ以上調べるのを止めたのですが、今になってやはり何か関連があるように思えてきたのです」


「それで昨日、地元の大学で地学の教授をしている教え子に、電話で話を聞いてみたところ、やはりこの辺りの地層は砂鉄や磁鉄鉱を多く含んでいるせいで、磁場が乱れる場所が多いそうなんです」

だから祠の上でコンパスがぐるぐる回り始めたんですね。

「その教え子に今日の午後に会って話を聞く事になりました。大学教授と言っても気さくな男なので、伊藤さんもご一緒しませんか?もちろん伊藤さんの秘密は内緒にしていますから安心して下さい」

そもそも私のために調べてもらっている事ですから、断る理由はどこにもありません。


簡単に昼食を済ませた後、秋山さんの教え子がいるという大学に向かいました。地元の大学なので電車で30分くらいです。

昼下がりのキャンパスは学生たちの笑い声に溢れ、のどかで平和な空間です。そんな校舎の一角に私たちの訪問先の小川教授のゼミがありました。

秋山さんに付いて恐る恐る部屋に入ると、あごひげを蓄えた熊のような風貌の40代と思しき男性が、笑顔一杯で私たちを迎えます。そして私を一瞥すると

「今日はまたえらく若い恋人と一緒ですね」

と冗談をとばしてきます。秋山さんは思わず苦笑いをしていましたが、高校時代の恩師を前にすると大学教授と言えど昔の悪ガキに戻ってしまうようです。


秋山さんが適当に誤魔化して私の紹介を終えた後、二人で近況報告などをして本題に入りました。

「先生の言っていた桜木町の祠の件ですが」

「実は数年前、温泉業者に頼まれてあの辺りの地層の調査をした事がありました。そこで分かった事なんですが、あそこには磁鉄鉱を多く含んだ砂鉄層が鉱脈のように東西方向と南北方向に伸びており、ちょうどその祠の辺りで直交しているみたいなんです」

「するとやはりあの祠付近でコンパスが狂うのは電線などの人工的なものの影響ではないんだね」

「地質的な特徴だと思って間違いないと思いますよ。」


「あの~素人っぽい質問で恐縮なんですが」

今まで黙って聞いていた私が口を挟みます

「そう言う場所がいわゆるパワースポットである可能性はあるんでしょうか?」

「何をもってパワースポットと呼んで良いか分かりませんが、例えば微弱ながらでもその鉱脈のような地層に電流が流れるとすれば、そこに電界、磁界が発生し、物理的な力が発生しても不思議ではありません」

ああなんかそれ、昔、学校で習った覚えがあるなあ。フレミングの法則だったっけ?

「ともかく地質的に電気伝導体を多く含む地層がある場所では、磁界や電界が発生しやすく、それにより何らかの力が発生するのはあり得る事です。」

なるほど簡単に言えばそう言う事ですね。


「これはあくまで俗説ですが、かのバミューダトライアングルもそのような場所だと言う人がいます。バミューダトライアングルは船舶や航空機が突然消えてしまう事で有名ですが、その場所で突然計器が狂いだすと言う事を考えれば、電界、磁界が存在すると見て正解でしょうね」

ああこれも子供の頃聞いた事があるなあ。

「そう言う力がワームホールを作り出し、そこもある物体を違う次元に飛ばしていると言う説もあります。まあここまで行くと単なるSFですけどね」

思わず私と秋山さんが顔を見合わせます。


「今の話からすれば、地質的に強力な電界、磁界が発生しやすい桜木町の祠周辺は、ワームホールができてもおかしくないと言う事ですよね?」

思わず私は身を乗り出します。

「いやいや、そもそもワームホールなんてもの自体、SFの世界の作り話ですから信憑性には欠けますね。もちろん電界、磁界により目に見えない力が働く事は否定しませんが」


秋山さんが割って入ります。

「小川君。実は私とこの伊藤さんは、郷土史研究でこの地域の神隠し伝説に興味を持って、それが今で言うワームホールの仕業じゃないかと考えたんですよ。もちろんそれが荒唐無稽である事は重々承知していますが、そう言う解釈も可能性の一つとして見れば面白いんじゃないかと思うんですよね」

「なんだか高校の時の先生の授業を思い出しますね。先生はいつもそんな話をして、授業を脱線させてばかりでしたからね」

小川教授、なんだか秋山さんと話をするのが楽しそうです。

「でもその脱線のおかげでこうして小川君が物理や地学に興味を持った訳だから、私の授業もまんざらでは無かったって事だね」


笑いながらながら秋山さんは続けます。

「まあワームホールの信憑性は置いといて、もしもそれが発生するとしたら小川君はその原因は何だと思う?」

「電気が流れる事で電界、磁界が発生するとなると雷もその原因の一つと考えられますが、稲妻は一瞬で終わるのでワームホールを発生させても維持するのは不可能だと思います。なのであと考えられるのは、地球がもともと持っている地磁気の変動ですかね?」

「私もそれは考えたけれど、仮にそうだとして、そのタイミングを予測する事は可能かな?」

なんだか一気に核心に迫ってきました。思わず話しに引き込まれます。

「地磁気の変動する原因は、太陽フレアや黒点活動、太陽放射などにあると言われていますが、どれも予測は不可能です。あと地震の前後も地磁気が乱れるとい言いますが、これも予測不可能です。逆に地磁気の変動を地震予知に利用しているくらいですから、地震予知以上に地磁気変動の予測は難しいですね」


つまりワームホールの発生のタイミングはやはり予想できないと言う事です。

その後小川教授にお礼を言って大学を後にしました。帰りの電車で秋山さんに話しかけます。

「しかしワームホールの発生が地磁気の変動だとして、それならなぜ今までそれが確認されなかったんでしょうね?大昔の神隠しの事件はともかく、最近では全くそんな話は聞かなかった訳ですから、ここに来て突然私がワームホールに落ちたとすれば、それが発生した原因は他にもあるような気がします」

「そうですね。たぶんあの祠周辺の電界、磁界が急変動した理由が他にも何かあるはずです。これは腰をすえて調べないと、なかなかその原因が見つからないかもしれませんね」


秋山さんは長期戦を覚悟した様子でしたが、私はそう簡単に割り切れません。

一向に帰る手段が見つからないこの現状では、気持ちもどんどん暗くなっていくのでした。ただ一つ良かった事を上げれば、私の周りで今日も事故が起きなかった事です。


翌日は再び梅雨空に戻って、朝から冷たい雨がしとしとと降っていました。そして今日もクロが2匹でやってきたと言う事は、やはりワームホールが発生していないと言う事でしょう。

こちらの和美が私の気持ちを察して色々と気を使ってくれますが、私の心は今日の天気のようにどんよりとしています。

祠の見回りに行く予定でしたが、どうも気分が乗らず午前中はネットでワームホールの事について調べたりしましたが、どれもSFチックな内容ばかりで、具体的な発見はありませんでした。


昼食も食べる気にならずふさぎ込んでいましたが、それでも今の私にできる事と言えば、祠に異常が起きていないか監視する事だけです。

午後からは雨も小降りになってきたので重い腰を上げて祠に向かいました。

いつものように祠を調べてみましたが、特に変わった様子も無く、前のように屋根のある公園のベンチに座って祠をボーっと眺めます。

思えば今日でこちらの世界に迷い込んでちょうど一週間です。

最初は事態がこんなに長引くとは思いもしませんでしたが、何の具体的な進展も見られぬまま時間だけが過ぎていきます。


もしかして私はこのまま元の世界に帰れないんじゃないかしら?私の正体を誰にも明かせないまま、こちらの世界で生きて行かなければならないのではないかしら?それどころか例の何者かに抹殺される可能性も高い訳で未だ問題山積なのです。


そんな悲観的な想像が頭を支配し、ため息をついたその時!

気のせいか祠の地面の辺りが小さく揺らいで見えます。

日が出てきたせいでかげろうが見えているのかなと思ったその瞬間、風で飛ばされてきた木の葉がその場所で突然消えるのが見えました!


ワームホールだ!


今あそこに飛び込めば私は元の世界に戻れるかもしれない。

少し危険な気もするけど、こうしている間にもあのワームホールは消えてしまうかもしれません。

かけ出してあの場所に飛び込もうとしたその時


「だめよ!」

声の主は、先日ここで私をじっと見ていたあのおばあさんでした。

「あのゆらぎは今とても不安定なの。そんな所にあなたが飛び込んだらどうなるかわからないわ」


おばあさんがそう叫んだ直後、ゆらぎは消えてしまいました。

呆然としている私にゆっくり近づいてきたおばあさんは、私の目をじっと見つめてこう言いました。

「お嬢さんは、こっちの世界の人じゃないわね」


えっ?このおばあさん何を知っているの?

この前私をじっと見ていたのは、そう言う理由だったの?

頭がパニックを起こし、どうして良いかわからないでいると、おばあさんは優しく私に語りかけました。

「ごめんね驚かせてしまって。でも先日ここで祠を見つめているあなたを見てそんな気がしていたの。そして気になって今日ここに来てみたら、あの揺らぎが起こっていて、そしてそこにあなたが飛び込もうとしているじゃないの。大きな声を出さずにいられなかったのよ」

このおばあさんは何もかもわかっているようです。今さらつまらない言い訳をしても仕方ないと感じ、思い切って疑問をぶつけてみます。

「あの、あの、おばあさんはどうして私がこの世界の者じゃないとわかったんですか?」

「それは簡単よ。だって私もこことは別の世界から来たんですもの」


ポカンとしている私におばあさんは続けます

「ちゃんとした説明が必要なようね。良かったら私の家にいらっしゃい。ゆっくり話して聞かせてあげるから」

そう言うとおばあさんはスタスタと歩き出します。私は遅れまいと急いで後を追います。

「まずは自己紹介が必要ね。私は山口久子。年齢は・・・必要は無いわね(笑)」

「私は伊藤和美です。この近くのマンションに一人で住んでいます。今は二人ですけど」

「二人と言うのは・・・なるほどそう言う事ね」

おばあさん改め山口さんは全てお見通しのようです。簡単な自己紹介をしているうちに、山口さんの家の前までやってきました。

少々古めかしい建物ですが、ちゃんと手入れが行き届いている上品な佇まいは、住んでいる人を象徴しているかのようです。


居間に通され紅茶を頂きます。

「こう見えて紅茶にはこだわりがあるのよ。きっと気に入ると思うわ」

聞きたい事は山ほどありますが、ここはあせらず山口さんのペースに従います。

「さて、何から話したものやら・・・」

最初に一番聞きたい質問をぶつけます。

「山口さんは先ほどご自分が別の世界から来たとおっしゃいましたが、それはどう言う事ですか?」

「言葉どおりの意味よ。たぶんあなたにはわかると思うけど」

やはり山口さんは私と同じ体験をしたと言う事なのでしょうか?


「私があのゆらぎを通ってこちらの世界に来たのは終戦の年だったわ」

山口さんは遠くを見つめるように話し出します。

「その時私は13歳の女学生だったのだけれど、その頃この辺はたびたびアメリカ軍の空襲にあっていたの。そしてその日も夕刻に空襲警報が鳴り出し、防空壕に向かったのだけれど、既にどこも満員で入れてもらえる所が無く、仕方なくあの祠まで逃げて来たのだけれど、何かゆらゆらとした場所に足を踏み入れた途端、意識を失ったの」

やっぱり私と同じだ!

「そして気づいた時には既に空襲は終わっていて、とりあえず無事だった私は家に帰ってみると、そこにはもう一人の私がいるじゃない!もう驚いたのなんのって」

ああ、その気持ちよく分かります。

「その時、私は既に戦争で両親を亡くしていて、頼れる人が誰もいなかったから警察に行って事情を話したけれど、ただの双子だと思われて相手にされなかったわ。それどころか大人をからかうなと、どやされる始末」

「当時は連日の空襲でもう周りがてんやわんやの状態だったから、私たちを気にかけてくれる人なんか誰もいなくて、唯一心配して相談に乗ってくれたのが幼なじみのケンちゃんだけだったの」

山口さんの話は続きます。

「細かい事はわからないけど、私がゆらぎに足を踏み入れてどこか別の世界からこの世界にとばされてきたのはなんとなく想像できて、とりあえずその事は三人の秘密にしていたの」

なんだか私たちと哲也の関係に似ていますね。

「そしてその数日後、再び空襲が始り、その時三人はたまたま一緒にいたので、同じ防空壕に入る事ができたのだけれど、こちらの私が、家に父と母の位牌を取りに行くと言って突然外に出て、それきり帰ってこなかったの」

「空襲が終わって外に出てみると、いちめん焼け野原で、こちらの私は空襲の犠牲になったんだと直感したわ。そしてしばらくして戦争は終わり、私はそのままこちらの世界に残ったと言う訳」

山口さんが話し終えると、私はそれにどう応えて良いかわからず、しばらく沈黙が続きました。そんな秘密を抱えながら今までの人生を歩んできたのかと思うと、私なんかまだましな方だと思えてきます。

さらに疑問がもう一つ。こちらの久子さんが亡くなったのは空襲のせいだったのだけれど、それは例の何かの力が働いたとも考えられるのです。亡くなったのがこちらの山口さんである事を考えると、こちらの伊藤和美も私同様に標的になる可能性があると言う事です。


てっきりよそ者の私だけが危険なのかと思っていましたが、私たち両方が危ないと言う事なのです。


さらにどうしても聞きたい事があるので、私の方から口を開きます。

「山口さんはさっき私があのゆらゆらした所に飛び込もうとした時、あの揺らぎは不安定だから入っちゃ駄目だと叫びましたよね。って事はあの揺らぎを、最初にこちらに来た時以外にも見た事があるんですか?」

「当然の事だけれど、それから私は元の世界に戻りたいと何度も思ったわ。それであの祠の近くで発生する揺らぎが、こちらと元の世界を結ぶトンネルみたいなものだと考えて、しばらくあの祠を観察していたの。そしてその後何回か揺らぎを目撃したのだけれど、揺らぎの大きさもそれが発生している時間も、私がこちらに来た時のものより数段小さくて、ほんの一瞬なの。あんなのに人間が跳び込んだら、どうなるかわからないわ」

もしも私があそこに跳び込んでいたらどうなっていたのでしょう。今さらながらぞっとします。

「そしてその後しばらくして、ケンちゃんにこう言われたの」


「久ちゃん、もうあの揺らぎはたぶん起こらないよ。だから向こうの世界の事は忘れて、ここで生きて行く事を考えようよ。亡くなったこちらの久ちゃんも、たぶんそれを望んでいると思うよ」


「それで私は秘密を胸に抱えながら、その後もこちらの世界で暮らしてきたのだけれど、それ以来あの揺らぎを見た事は無かったわ。どうしてここに来てまたあの揺らぎが起きるようになったのかしらね」

問題はそこです。その安定した大きな揺らぎが今後起きるか起きないかで今後の私の人生が変わってくるのです。

「それじゃあ今からケンちゃんの所に行って、その辺の事を聞いてみましょうか。あれ以来ゆらぎの事は二人の秘密だったけど彼なら何か知っているかもしれないものね」

「えっ?そのケンちゃんは、この近くにお住まいなんですか?」

「えっ?言わなかったっけ?ケンちゃんと言うのは、川原神社の神主の加藤賢太郎の事よ」


やっぱり加藤さんは全て知っていたんだ。

あの時私たちが一緒に加藤さんを訪問すれば、同じ顔の私たちを見て、加藤さんの対応ももう少し違ったものになっていたのかもしれません。


間もなく仕事が終わるこちらの私と哲也に連絡を入れ、ここに来てもらう事にしました。もちろん秋山さんにも連絡を入れてあります。

急いでやってきた私と今までここにいた私を、山口さんは交互に見て

「大変だったでしょ。良くわかかるわ」

と二人の手をとって涙を流していました。この気持ちは経験した者でないと分からないかもしれません。

その後秋山さんも加わって、夕暮れの川原神社に向かいます。

出発する際、山口さんに加藤さんに私たちが訪れる事を伝えた方がよくないか聞いてみましたが

「いいのよそんなの。突然みんなで押しかけて驚かせたほうが面白いもの」

どの世代でも、女のほうが強いようです。


川原神社に着いてみると、以前と同じように現在の神主さんである息子の昭一さんが境内の掃除をしていました。

「ショウちゃんこんにちは。ちょっと話が聞きたいのだけれどケンちゃんはいるかしら」

山口さんが穏やかに話しかけます

「ああ、久子さんお久しぶりです。あいにく父は風邪をこじらせて寝込んでいるんですが・・・」

しかし一緒に付いてきた私たちに、ただならぬ様子を感じたのか、昭一さんは母屋までみんなを案内してくれました。

「父さん、久子さんが来たよ」

「今起きるから、あがって居間に来てもらってくれ」

奥から加藤さんの声が聞こえてきました。咳まじりでしたが声を聞く限り大丈夫そうです。


「ケンちゃん、病気のところごめんなさいね。でもどうしてもケンちゃんに話を聞きたいって人たちがいるので、連れてきちゃったのよ」

寝巻き姿に薄い丹前を羽織った加藤さんは、山口さんの後から部屋に入ってきた私と哲也を見つけると笑顔で微笑んでくれましたが、もう一人の私を見てその表情が固まりました。

「もしや、このお嬢さんたちは・・・」

「ええ、私みたいに別の世界からいらしたそうよ」

ケンちゃんこと加藤賢太郎さんが驚いている姿を見て、山口さんは満足そうです。


そして加藤さんは、秋山さんの姿を見た段階で、我々が何を聞きに来たか悟ったようです。

ゆっくりと居間の大きなテーブルの前にあぐらをかいて座ると、加藤さんが口を開きます

「やはり、そう言う事でしたか。先日お二人がみえた時に何か事情があるんじゃないかと感じてはいたんですが・・・。秋山さんもお久しぶりですな」

「加藤さんお久しぶりです。今聞いたとおり彼女のうちの一人は神隠しで他の世界からここにやってきた娘です。私もひょんな事から彼女たちと知り合った訳ですが、どうか彼女たちの力になってあげて下さい」


加藤さんは私たちを見つめると

「お嬢さんたちは、どちらが別の世界から来たのか、わかっているのかね?」

「私です。初めてこちらに来た時、私の腕時計だけが5分遅れていました。だから私はここから5分送れた世界の住人なのだと思うんです」

「そうかい、それは大変だった事じゃろう。この前は本当の事を話さなくて申し訳なかったね。しかし私はこの川原神社とあの祠を預かる者として、その秘密を安易に人に話す事ができなかったんじゃよ。勘弁しておくれ」

加藤さんは加藤さんで事情があったのでしょう。申し訳なさそうに話す姿を見ているとそれを責めようなんて言う気持ちは起きません。


その時、昭一さんがお茶を運んできてくれました。

「ショウちゃん悪いわね、気を使わせて」

と山口さん。

「昭一、今からこの神社に関わる大切な事を話すからお前も聞いていてくれ。これは川原神社を預かる神主が先祖代々・親子の間のみで伝えてきた事なんじゃ」


加藤さんがゆっくりと語り始めます。

「秋山先生、先生は郷土史に詳しいから、江戸時代の初めからこの辺りで砂鉄が多く取れた事はご存知ですな?」

「ええ、知っています。そしてそう言う砂鉄を多く含んだ地層が鉱脈のように伸び、例の祠付近で交わっている事を先日教え子の地学者に聞きました」

「そうか、それなら話は早い」


「秋山先生の言うようにその鉱脈がある事は江戸時代初期にもわかっていたんだが、その頃はまだ何も起こらなかったんじゃ。それが江戸時代中期の大地震で地層にずれが生じ、二つの鉱脈が重なるようになったらしいんじゃな」

「そしてそれから以降、例の祠周辺で神隠しが頻発するようになり、当時うっそうとした森だったあの周辺で天狗が出ると噂され始めたんじゃ」

「例の天狗伝説ですね」

と秋山さん。

「当時この地域はたたら製鉄が盛んだった関係で、優秀な神官や陰陽師がたくさんいて、彼らは長い事かかって神隠しの原因が地相的なものにある事を突き止めたんじゃ。そしてその力が最も強く働く場所に祠を建て、近くにそれを守る川原神社を建立したのがこの神社の言われなんじゃ。だからこの川原神社はそもそもその神隠しとは密接な関係にあるんじゃよ」

「そうだったんですか。郷土史研究家などと言いながら、私は全然知りませんでした」

「それはそうじゃよ。そう言う話を公にすれば、必ずそれをおかしな事に利用しようとする輩が出てくるから、当時の神官はそれを秘密にし、川原神社の神職のみで伝えてきた事なんじゃ。神社の蔵の奥にそれを記した古文書があるんじゃが、専門家じゃないと読めんだろうと思うよ」


「ところでその祠が建てられて以降、神隠しは起こらなくなったんですか?」

今度は私が質問します。

「えっと、お嬢さんは伊藤さんじゃったかな?実はあの祠には秘密があって、あの下には直径三寸、長さ六尺の鉄のくさびが打ち込まれておって、それが例の鉱脈の一部を貫いておるんじゃよ。ワシにはその理屈がよくわからんが、昔の人たちは頭が良かったようで、それ以降、神隠しは起こらなくなったそうじゃ。」

「たぶんそのくさびが、鉱脈に流れる電流のアースになっているんでしょうね。若しくは電界や磁界の力が働くベクトルをうまく中和しているか」

秋山さんが物理の先生らしい見解を述べます。


「でも江戸時代に打ち込まれたくさびなんて、とっくに腐食してボロボロになっているんじゃないですか?」

と哲也が聞きます。

「それがこの川原神社では50年に一度、神事として祭礼の日にそのくさびを打ち代えているんじゃ。この前打ち代えたのは37年前だよ」

「37年前って、私の息子がいなくなった年じゃないですか!」

秋山さんが驚きの声をあげます。

「そうなんじゃ秋山さん。実はあの年が丁度くさびを打ち替える年じゃったんじゃ。後で調べてわかった事なんじゃが、あの頃この辺の土地は近所にあった工場の排水のせいで土地が急激に酸化していて、それでそのくさびも腐食が早く進んでいたみたいなんじゃ。それに気が付いてその時は祭礼を待たずくさびを打ち代えたんじゃが、もう少し早く気が付いていればと今も悔やんでいるよ」

秋山さんは声を失っているようです。


「秋山さん、あの時ワシがこの話をしなかったのは、もしそれを話してしまったら、あなたは必ず祠の周りで揺らぎが起こるのを待って、そこに飛び込んで息子さんを追おうとしたしたはずだからなんじゃ。でもあの揺らぎに人が飛び込んで別の世界に行ける保障は無く、そんな危険な事にみすみすあなたを巻き込みたくなかったんじゃ」

加藤さんの気持ちが、みんなに伝わります。

「この事は私の胸にしまって墓まで持って行くつもりじゃったが、このお嬢さんのために話さなければならなくなってしまった。黙っていた事を許しておくれ」

加藤さんは秋山さんに深々と頭を下げます。

「加藤さん、加藤さんのお気持ちはよく分かりました。どうか頭をあげて下さい。私は加藤さんを恨んだりしていませんよ。秘密を抱えて黙っている事がどんなにつらい事か私にも想像がつきますからね」

「ありがとう秋山さん。秋山さんには悪いが、全てを打ち明けて私は肩の荷が下りた気分じゃよ」


「ケンちゃん、それなら私の場合、そのくさびがちゃんとしていたのに、どうしてこちらの世界に来てしまったの?」

今度は山口さんが尋ねます。

「これも話せば長くなるんじゃが、実はあの祠の近くの地中には水道管やら電線を埋設した共同溝があるんじゃ。注意して見るとわかるんじゃが、あの辺りには電柱が一本も立っておらんじゃろ」

そう言われてみればそのとおりです。

「これが作られたのは昭和の始めころで、当時としては進歩的な工事じゃったんだが、なんとその共同溝が見事に例の鉱脈を分断する形になってしまっておるんじゃ」

加藤さんは一息入れてお茶をすすります。

「残念ながらその共同溝は川原神社の土地にかかって無かったため、当時の役所から私の父親には一切相談が無く、できてしまってからその事実を知らされたんじゃ」

「じゃあ、そのためにあの辺の不思議な力が不安定になって私がこちらに迷い込んだの?」

「久ちゃん話を急いではいかんよ。それは今言ったように昭和の始めの頃の話で、私の父親はそれを知って真っ青になったんだが、その後神隠しは一度も起きなかったんじゃ。親父は不思議に思って、役所の知り合いに頼み込んで、その共同溝を見せてもらうと、そこには大きな鉄製の水道管が通っていて、どうやらそれが分断された鉱脈をつなぐ役割をしていたみたいなんじゃ」

「鉄製の水道管が、分断された鉱脈をつなぐ伝導体になっていたんですね」

と、秋山さん。

「それじゃあ、私の場合はその水道管が壊れでもしたのかしら」

「水道管じゃなくて、共同溝そのものが壊れたんじゃよ」


「わかったわ!空襲のせいね」

「正解じゃよ。空襲のせいでその共同溝が壊れて、鉱脈が完全に分断されたんじゃ。おそらくそのせいで再びあの周辺の力が不安定になって、久ちゃんがこちらに跳ばされてきたのだと思う」

「もちろんその後、水道の復旧は最優先で行われたから、それ以降神隠しは起きなくなったんじゃ」

「黙っていてすまなかったけれど、私がもうあの揺らぎは起きないと言ったのはそう言う理由だったんじゃ」


なるほど。加藤さんの説明のおかげで、秋山さんの息子さん、山口さんの神隠しの原因はだいたいわかりました。それでは私の場合はどうなのでしょう?

「加藤さんの話を聞いていると、どうやらその共同溝が怪しいね。最近何か工事でもしたんじゃないかな。和美は何か覚えていない」

哲也に聞かれますが思い出せません。しかしその時ちょうどテーブルの端にあった回覧板を見て思い出しました。

「あっ!そう言えばちょっと前に、夜中に水道工事で夜中に断水するって回覧が来ていたわ」

私たち和美が同時に思い出しました。


「あの~私、地元の役所に勤めている友人がいますから、その辺り聞いてみましょうか?」

加藤さんの息子さんの昭一さんが提案します。協力者が増えると、事がとんとん拍子に進んでいきます。


昭一さんが友人の携帯に電話をかけます

「あっもしもし野村?川原神社の昭一だけど」

「あ、うんうん、元気にしているよ。ところでちょっと変な事聞くけど、桜木町の祠の周辺で、ここ最近工事とか無かった?」

「ああ、できれば早く教えてほしい。待ってるよ」


「今、友人の野村って奴に調べてもらっています。ちょっと待っていて下さいね」

役所に友人がいると言うのは何かと便利ですね。


しばらく沈黙が続いた後、加藤さんが私に質問します。

「伊藤さん。ああ失礼、別の世界から来たほうの伊藤さん。あなたはこうして祠の秘密を聞いた訳だが、今後どうしようと思うね?」

「もちろんチャンスがあれば、例のゆらぎ、私たちはワームホールとも呼んでいますが、そこを通って元の世界に戻りたいと思っています」

「だが今も言ったように、あれを通って元の世界に戻れると言う保障はどこにも無いんじゃぞ。悪い事は言わないから、このままこちらの世界で生きて行く事を考えなさい。そのためにはワシも力になるぞ」


「加藤さんそれはできないんです」

事情に詳しい秋山さんが説明します。

「実は伊藤さんはこちらに来て数日で2度も死にそうな事故にあっています。その窮地を救ったのは伊藤さんが飼っている黒猫なんですが猫がそれを察知したと言う事は、何かの力で意図的に起こされた事故だからだと思うんです」

加藤さんが身を乗り出します。

「それはこの前にもこちらのお嬢さんから聞いたよ。黒猫に破邪の力があったと言う事じゃな」

「そうです。それを知った私はこちらの伊藤さんにすぐに髪を切るよう言いました。二人の見かけの体組成を一時的に変える事で、その何者かの目をくらますのが目的です。しかしそれはおそらく長続きしないと思います。なんと言っても二人の体はDNAレベルで同一な訳で、その矛盾を収めるためにその何者かの力が二人のどちらかを抹殺する可能性があるのです」

話を聞いていた山口さんがハッとして質問します

「それじゃあこちらの私が空襲で亡くなったのもただの偶然じゃ無いって事?」

「そうです、私は山口さんの話を聞いた時それを確信しました。だから伊藤さんがこのままこちらの世界に居続けるのも非常に危険だと思うのです」


重苦しい空気が流れる中、私は突然閃きました。

「加藤さん大丈夫です。実はこの世界と私が元いた世界を、何度か行き来した者がいるんです」

「なんじゃと?誰かねそれは」

「さっき話した猫のクロです」

「クロ???」


私は私がそもそもこちらの世界に迷い込んだきっかけとなった、クロの事を加藤さんたちに話しました。

クロは2週間ほど前、突然行方不明になって、その時こちらに二匹で現れ、私がこの世界に迷い込んだ日には向こうの世界に戻っていたのです。状況から考えてクロは二つの世界を行き来していたとしか考えられません。


「確かにその話を聞く限り、その可能性が強いですね」

と秋山さん。

「しかし猫のような小動物だから行き来できたんであって、人間となるとそれなりの大きさのワームホールが必要ですね」


その時、昭一さんの電話が鳴りだしました。

「ああ、急に申し訳ないね。えっと6月の中旬に水道工事?で、それどんな工事だったの?水道管の交換?ああ、なるほど、ゴメンちょっと待っててね」

「やはり6月の中旬に水道工事があっそうです。もう少し詳しく聞いてみますね」

「わかった。ありがとう。ところで物は相談なんだけど、その工事があった共同溝、見せてもらう事はできないかな?ああわかっているよ。そこを何とか頼むよ。えっダメ?」

お役所の対応ですからそんなものかもしれません。でも私はどうしてもそれを調べなければならないのです。私の表情を見て昭一さんが続けます。

「ふ~ん、良いの?スナックの明美ちゃんの事、奥さんに言っちゃって」

信じられない事ですが、現職の神主さんが役所の職員を脅しています。

「ああ、ありがとう。すぐ済むから。じゃあ1時に祠で待ち合わせね」

昭一さんグッジョブです。


そんな訳で、風邪ひきの加藤さんを残した全員で再び祠に向かいます。1時にはまだ時間がありますが、先に行って色々調べてみたかったのです。

「あっ、やっぱりここに最近アスファルトを引き直した後がある」

哲也がまるでお宝を発見したかのように話します。

「って事はここをたどって行くと、どこかに共同溝があるのかな?」

そんな事を話していると、役所の車を運転して昭一さんの友人の野村さんが現れました。

「昭一!いい加減にしろよ。俺もそんなに暇じゃないんだからな」

文句を言いながら現われた野村さんですが、顔は笑っていました。そしてそこに我々がいるのを見て一瞬驚きます。

「悪いな野村。でもどうしてもこの人たちと確かめたい事があるんだ」


地域住民の希望とあれば、野村さんもぞんざいな態度は取れないようです。

共同溝の入り口は、公園のトイレの裏側にあり、扉の鍵を開けて階段で地下に下りて行きます。やがて大人一人がようやく通れるくらいの大きさの共同溝が見えてきました。

「今回の水道管工事は、水道管の老朽化による交換と、地震に対する耐震対策が目的です。これにより震度7クラスの直下型地震にも耐えられる強度を確保しました」

野村さんは我々に説明しながら、完全に仕事モードに入っていました。


水道管を手で触っていた昭一さんが野村さんに聞きます。

「この水道管って鉄製じゃないよね」

「ああこれはライニング鋼管と言って、鋼管に塩化ビニールをコーティングした水道管なんだ。これで耐久性がアップすると同時に錆びにくくなるんだよ」

「つまり塩ビで鋼管をコーティングしていると言う事は、鋼管の水道管を電気導体と考えれば、周りから完全に絶縁してしまったと言う訳ですね」

と、秋山さん

「そうですが、それが何か問題でも・・・」

我々の怪訝な顔つきを見て、野村さんはただただ困惑するのでした。


地上に戻ると昭一さんは私たちに相談してきます。

「伊藤さん、今後の事を考えるとこの祠周辺の目に見えない力を安定させるために、もう一度水道管周りの工事をやり直さなくてはならないと思います。そのためにはどうしても野村の協力が必要です。伊藤さんの情事を、あいつに話しても構いませんか?ああ見えて口は堅い奴です。その事は私が保証します」

「わかりました。話して頂いて結構です。ただし昭一さん、その工事は私が向こうの世界に戻ってからにして下さい。

そうでないと例の揺らぎは起きなくなりますからね」

「了解です」


「おい野村~お前この後ちょっと時間ある?俺たちが何を調べているか説明したいんだけど」

???で頭が一杯になっていた野村さんは、その後昭一さんから事のいきさつを聞いて、ますます?マークが増えたようでした。


そんな訳で我々一行は再び川原神社の加藤さん宅に戻ってきました。

秋山さんが加藤さんに報告します。

「加藤さん、やはり例の共同溝の中の水道管は鉄から絶縁体のものに変わっていました。鉱脈が分断されて、祠周辺の電界、磁界のバランスが崩れているのは間違いないようです」

「そうかそれではすぐに祠周辺を立ち入り意禁止にしたほうが良いな。昭一、悪いが後で、あの周辺に人が入れないようにしておいてくれ。それからその作業中にもし揺らぎが発生したら、絶対に近づくんじゃないぞ」

昭一さんが頷きます。


「さて伊藤さん、先ほどあなたは元の世界に戻りたいと言ったが、今もその考えは変わらんかね?」

「ええ、やはり私は多少の危険を冒しても、元の世界に戻るべきだと思います。だって向こうの世界では私は行方不明になっているんですもの。きっと両親や友人が心配していると思うんです。何よりこちらにいると命の保証も無い訳ですし」

「そうじゃろうな。気持ちは良くわかる」

「ただ私が通れるような大きな揺らぎがいつ起こるのかを知る手掛かりがありません。それがわからないと、どうしようもありませんよね」


加藤さんはそれを言うか言わないか迷っているようでしたが、意を決して私にこう言いました

「実は手掛かりはあるんじゃ。神隠しが一年で一番起きやすい日、それはこの神社の一年に一度の例祭の日じゃ。つまり明後日の日曜じゃよ」


全員が驚きの表情を加藤さんに向けます。

「先も話したように、そもそもこの川原神社は神隠しを封印するために建てられた神社で、その祭礼の日は、当時神隠しが頻発した日なんじゃ。つまりそれを後世に警鐘として伝えるためにその日を川原神社の祭礼の日としたんじゃな」

「それじゃあ今度の日曜日、あの祠の側で待っていれば例のゆらぎが出現するって事ですか?」

「ゆらぎが起こるのを抑える力が弱まっている今なら、大規模なそれが出現する可能性は高いじゃろうな」


「そしてそれがうまく行って、伊藤さんが元の世界に戻れたら、例の共同溝の水道管を鉄製に戻せば、今後その危険な揺らぎは起こらなくなって一件落着と言う訳ですね」

昭一さんが、一緒に来ていた野村さんを見ながら言います

「昭一、ちょっと待てよ。役所が予算をかけて水道管を替えたのに、今さら鉄製に戻せるわけ無いだろ。今まで話を聞いてきて、事情はわかるけどそんなに簡単にはいかないよ」

「そこをお前の力でなんとか」

「無理だよ」


話を聞いていた秋山さんが割って入ります。

「野村さん、何も水道管を替えなくても、ライニング鋼管の被服の一部をめくって鋼管をむき出しにして、そこから鉱脈の両方に接地工事を施せば良いんじゃないですか?」

「ああなるほど、それなら予算をかけずに簡単にできますね」


「ねえ、接地工事って何?」

こちらの和美が小さな声で哲也に聞きます

「感電防止なんかのために電気設備を地中にアースする事だよ。大きな銅の棒を地中に打ち込んで、そこに電線をつなげて電気設備の帯電した電気を地中に逃がすんだ」

「今回の場合、電気を逃がすと言うより、分断された鉱脈の両側と水道管を電気的につなげるのが目的ですね」

秋山さんが補足します。

「よし、話はまとまった。野村、伊藤さんが元の世界に戻ったらすぐに接地工事をしよう」

「わかった、準備しよう」

二人とも良いコンビのようです。


今度は私が秋山さんに質問します。

「あの~全てがうまくいって私が元の世界に戻れたら、向こうの世界でも、その工事をしたほうが良いんでしょうか?」

「そうですね。あの揺らぎが二つの世界をつなぐワームホールなのだとしたら、向こうの世界でもその入り口を塞ぐ必要があると思います。伊藤さんが向こうに戻ったら最初にしなければいけない仕事ですね」

「って事は、今度は向こうの皆さんにお会いしてその説明をしなければいけない訳ですね」

無事に戻れてもやらなければいけない事が山積みのようです。

「そうだ、和美が向こうで皆さんにお会いして説明する時、話を信じてもらうためにみんなで一緒に写真を撮りませんか?今時写真なんていくらでも偽装できるけど、無いよりはましじゃないかと思うんです」

哲也がめずらしく良い事を言います。

「そうね、私たちにも良い記念になるものね。写真ができたら私にも下さいな」

山口さんも乗り気です。


哲也が持っていたスマホのセルフタイマーをセットしてみんなの集合写真を撮ります。私のスマホでも同じように写真を撮ってもらいました。

これからどうなるか不安だらけですが、この時の写真は皆笑顔だったのでした。


さて一夜明けて、いよいよ明日はワームホールが発生する日です。そして私がそこを通って元の世界に戻る予定の日です。と言って特に準備する事も無いので、私たちと哲也は普通に過ごしています。

朝方、クロが二匹でやって来ましたが、こちらもいつもどおり何も変わらない様子です。帰る時のために今から片方のクロを捕まえておこうかと思いましたが、野良猫が喜んでキャリーに入るはずもなく、捕獲は断念。

まあ、クロも今回我々以上の野生の勘がある事が分かり、放っておいても自分から現われるだろうと言う事で皆納得しました。

一つ気になるのがこちらの和美の様子。加藤さんの風邪がうつったのか咳をしながらベッドで横になっています。本人が大した事は無いと言うので、そのまま哲也と二人で祠の見回りに出かけました。


まさかとは思いますが既にワームホールが出現していないとも限らないですからね。さて祠に着いてみると、昭一さんと野村さんが祠の周りに、祭礼用の幕を張っていました

「おはようございます。これは祭礼の準備ですか?」

哲也が昭一さんに聞いてみます。

「ああ、おはようございます。実はこれは祭礼の準備と言うより祠が見えないようにしているんです。この祠は外から丸見えですから、伊藤さんが揺らぎに飛び込む時、人に見られたらまずいですからね」

考えていませんでしたが、確かにそのとおりです。そんな所を人に見られてマスコミにでも伝わったら、大変な騒ぎになりますもんね。

「いろいろ気を使って頂いてありがとうございます」

私が昭一さんと野村さんに頭を下げると、満面の笑みで応えてくれました。

そうしていると今度は秋山さんが現われました。

「いやあ、ワームホールが出現していないかどうにも気になっちゃって。江戸時代の暦は、今の暦と多少の誤差があるかもしれませんからね」

秋山さんはなぜか照れくさそうに頭をかいていました

しばらくして今度は山口さんが現われます。

「あらあら、皆さんお揃いで。やっぱり気になっちゃうわよねえ」

そして私たちが2人なのを見て山口さんが聞きます

「もう一人の和美さんはどうしたの?」

「こちらの和美はちょっと風邪をひいたみたいで家で休んでいます。でも大したことはなさそうなので大丈夫です」

「あら、大変な時だから気を付けないと。でも帰るのはあなたの方だから大丈夫かしらね」

和やかな雰囲気の中、秋山さんの表情が少しだけ曇るのが気になりました。


さてこうして6人が集結した訳ですが、昼日中にぞろぞろと大人が公園にいるのは客観的に見てどうも不自然です。そんな時山口さんが提案します。

「どうかしら、良かったら私の家を基地にして、みんなで変わりばんこに祠を監視しない?大の大人がこんな大人数で公園にいると周りから変に思われるもの」

一同納得して、作業中の昭一さんと野村さんを残して山口さんの家に向かいます。

家につくやいなや山口さんは、割烹着に着替えます。

「いよいよ世紀の瞬間ね。お腹が空くといけないからおにぎりとか作らないとね。和美さん、手伝って下さる?」

なんだか台風が来る前日のようになってきました。男性陣は山口さんの指示で近くのコンビニに、ジュースやらお菓子やらの買出しに向かいました。


「向こうの世界に戻る和美さんに、一つお願いがあるの」

おにぎりを握りながら山口さんが言います。

「もしうまく元の世界に戻れたら、向こうのケンちゃんに会って、私がこちらで元気にしている事を伝えてきてくれない。突然私がいなくなってさぞかし心配しただろうと思うと、それがずっと気になっていたのよ」


もしかして山口さんと加藤さんは、私と哲也のような関係だったのかもしれません。もちろん山口さんが今の私よりはずっと若い時の話ですから、大人の付き合いでは無かったにせよ、山口さんにはきっと忘れる事ができない人だったのでしょう。

そしてそれなら何故、こちらの加藤さんと結婚しなかったのか?と言う疑問も持ち上がりますが、そればっかりは本人でないとわかりません。

「これを見せれば向こうのケンちゃんも話を信じてくれると思うわ」

そう言って古いお守りを渡されました。このお守りには山口さんの色んな思いが詰まっているのだと思い、私は思わずそれをぎゅっと握り締めるのでした。


山口さんの作ったおにぎりとお味噌汁で簡単な昼食を済ませた後、秋山さんが私に聞いてきます。

「あのう、ただの杞憂かもしれないんですが風邪をひいた和美さん、一人にしておいて大丈夫でしょうか?ちょっと電話してみた方が良くないですか?」

そう言われると少し心配になってきます。哲也の携帯から電話してもらいます。

「あれ、出ないなあ。どうしたんだろう」

私は普段携帯を身の回りに置いているので、外出する時以外は電話に出られない事はあまりありません。

「哲也、マンションに戻ってみよう」

哲也が頷きます。

「私も行きます」

と秋山さん。何故か胸騒ぎがするのでこんな時は仲間がいた方が良いです。

私たちは、秋山さんと一緒にマンションに戻ってきました。

玄関の近くに来ると二匹のクロが大きな声で鳴きながら駆け寄ってきます。


私たちはただならぬ気配を感じて急いで部屋に入りました。ベッドで横たわるこちらの和美の様子を見てみると、汗をびっしょりかいて苦しそうにしています。ほんの数時間前の様子とは違い意識も朦朧としている様子。

「ちょっと、大丈夫?しっかりして!」

体を揺さぶっても反応がありません

「哲也、救急車呼んで!」

5分ほど経って救急車がサイレンと供にやってきました。救急隊に事情を説明し救急病院に搬送してもらいます。

「和美さん、和美さんはかかり付けのお医者さんはありますか?」

と秋山さん。

「ありません。最近ほとんど病気した事が無いんで」

「わかりました。救急隊の皆さん、搬送先は中央病院でお願いします」

サイレンを聞いて駆けつけてきた管理人さんに後の事はお任せして、私たちはタクシーで救急車の後を追います。


病院に向かいながら状況を分析します。

「ねえ、なんか変だと思わない。さっきまでどう見てもただの風邪に見えたのに、こんなに容態が急変するなんておかしいよ」

「そうだよなあ、ほんの4時間前までは風邪のひき始めの症状だったもんな」

「ここ数日私の周りで事故は起きなかったから油断していたけれど、これってもしかして例の力のせいじゃない?」

だとしたら事態は深刻です。物理的な攻撃ならなんとか避ける方法はあるけれど、病気と言う手段で攻撃されたら我々に防ぐ方法はありません。

「とりあえず中央病院に私の知り合いがいますんで、いろいろ融通が利くと思います。大丈夫、和美さんは必ず助けますよ」


病院に搬送され、処置室に入り小一時間が経ちました。私たちは担当医に呼び出され説明を受けます。

「初めまして担当医の酒井と言います。早速ですが伊藤和美さんの容態についてご説明します。一言で言うと和美さんは細菌性の肺炎にかかっています。先ほど抗生剤を注射しましたから症状は小康状態ですが余談を許さない状態です。このまま入院となりますので、ご家族の方は入院手続きと、着替えなどの準備をお願いします」

担当医さんが私に向かってそう言うのは、私たちが姉妹だと思っているからでしょう。

哲也が聞きます。

「状況はわかりました。一つ質問なんですが、肺炎ってたった4時間程度でこんなに容態が急変するものなんですか?」

「私もその部分に関しては少し釈然としません。もともと肺炎は進行速度が速いものなんですが、速いと言ってもそこまでではありませんからね。とは言え起きてしまった事ですから、今はその事よりも治療に専念するのが大切かと思います」


お医者さんが言う事はもっともなんだけど、私たちが心配しているのは、仮にこれが例の力のせいだとしたら、今後さらに次々と攻撃を仕掛けられるのではないかと言う事です。

とは言えこちらの事情を話しても信じてもらえないだろうし

あまり多くの人にこの事を話すのもはばかられます。

そんな中、秋山さんが切り出します

「ところで医務長の中川がいたら会って話をしたいのですが」

「中川さんのお知合いですか?」

「ええ、秋山だと言えばわかるはずです」

秋山さんが病院に知り合いがいると言っていたのはこの事だったのでしょう。


そして20分ほどしてから、白衣の50代とおぼしき女性がさっそうと私たちの前に現れました。てっきり男性だと思っていたのが美人の女医さんで驚きです。

「あなた久しぶりね。で今日はどうしたの?」

あなたと言う事は、この女医さんは秋山さんの奥さんだった人って事ですよね。そしてその元奥さんが私の顔を見て驚いたような表情になります。

「もしかして、こちらの方はさっき救急搬送された女性のご兄弟?と言うか双子よね?」

「双子じゃないんだ」

秋山さんが否定しますが、その表情にただならぬ雰囲気を見て取ったのか元奥さんがこう言います

「あなたが私を呼びだすくらいだから何か事情がありそうね。ここじゃ何だから私の部屋に来てくれる」


そして私たちは内科医務長と書かれた部屋に通されました。

「コーヒーで良いわよね」

元奥さんが電話でコーヒーを注文してくれました。

「紹介が遅れました。既にわかっていらっしゃるとは思いますが、私は秋山の元妻です。中川紗子と申します」

「山崎です」

「伊藤です」

「で、徹さん、こんなにそっくりなお二人が双子じゃないって言うのはどう言う事なの?」

秋山さんがコーヒーを一口飲んで切り出します。

「紗子、これは決して悪ふざけをしているんじゃないのでそのつもりで聞いて欲しい。実はここにいる伊藤さんはこことは違う他の世界から迷い込んだ人なんだ。先ほど救急搬送されたのがこちらの世界の伊藤さんで、今ここにいる伊藤さんが5分後の世界から来た人なんだ。だから実は二人は双子とかではなくて同一人物なんだよ」


秋山さんが一気に説明してから長い沈黙がありました。

「ちょっと、何の冗談なの」

ようやく口を開いた中川さんの表情に険が見て取れます。

「こんな事言いたくないけど、私たちが別れる事になったのは、私たちの子どもがいなくなったのを、あなたが神隠しがどうとか言い出したせいでしょ?なんでまたそれを蒸し返すような事を言うの」

なんとなく想像していましたがやはりそんな理由だったんですね。

たまらず私が話をします

「中川さん。嘘じゃないんです。私は本当にこの前の金曜日に、お二人の子どもさんがいなくなった例の祠のあたりで不思議なゆらぎに倒こんでこちらの世界に来てしまったんです」

「・・・」

「その後いろいろあって、秋山さんと知り合い、そして戦争中にこちらに迷い込んだお婆さんともお会いしました。

そして例の祠が川原神社のもので、住職からあの祠が次元の違う場所とつながっている事を聞いて、明日の日曜日にようやく元の世界に戻るめどがついたところなんです」


私の必死さが伝わったのか中川さんはしばらく考え込むようにしていました

「だけどそんな話を急にされて信じろって言う方が無理よ。だって神隠しとか、異次元から来たとかそんなのおとぎ話とかSFの世界の話でしょ。何の証拠も無しに信じられるはず無いじゃないですか」

今度は哲也が続きます。

「確かにおっしゃるとおりだと思います。でしたらその証拠に彼女たち二人のDNA鑑定をしてみませんか?おそらく完全に一致するはずです」


中川さんが秋山さんに向き直ります。

「わかりました。あなたたちが面白半分で私を騙しに来たとは思えないけど、私も医者である以上それを信じる根拠が必要です。DNA鑑定は少し時間がかかるから、とりあえず血液検査だけさせて下さい」

そう言うと中川さんはナースセンターから注射器を持ってきて私の血液を採取しました。そして同時にこちらの和美の血液を採取して結果を待ちます。

その間に我々が改めて事の顛末を説明すると、冷静になった中川さんに少しは話が伝わったようでした。


そして20分ほどして内線の電話が鳴りました。すぐに中川さんが受話器を取ります。

「どうも、忙しいのに急に血液検査なんて頼んでごめんなさいね。えっ?検体を取り違えていないか?結果が同じ?」

何となく話している内容の想像がつきます

「いいのそのまま検査結果を持ってきてくれない」

しばらくして検査結果が届くと、それを目にした中川さんの表情が変わります。

「こんな事って・・・血液から見て取れる情報から二人の血液成分は完全に一致しますね。双子でもこんな事はあり得ません。どうやらあなたたちの言っている事は本当のようね」


そして中川さんは長い沈黙の後秋山さんを見て言います

「さっきは感情的になってしまってごめんなさい。わかっていると思うけど、私はあの時あなたが自分の不注意を神隠しと言う事象に責任転嫁しているんだと思っていたの。だからあなたの言っている事を完全に否定したけど、あれは本当だったのね」

「無理もないよ。私だって自分が考えている事が荒唐無稽だと思わなくもなかったからね」


秋山さんが続けます。

「で、この事を君に打ち明けたのは我々に力を貸してほしいからなんだ。実はここからが一番重要な問題なんだが、実は伊藤さんたちは何者かに命を狙われているんだ。もちろん何者かと言うのは人間じゃ無い」

「人間じゃ無い何者かに命を狙われるって???」

中川さんがハッとした表情になります

「もしかしてこの世に完全な同一人物がいる事実を排除する力が働いていると言う事?」

さすがお医者さん、理解が早いです。でもなんでそれに気が付くのか不思議です。

「簡単よ。だって人間の体だって同じようなものだもの。例えば体の中に異物が入れば、白血球やその他の抗体がそれを排除しようとするでしょ。それをマクロの世界で考えれば、そう言う力が存在すると考えても不思議は無いでしょ」

なるほどお医者さんらしい考え方です。


秋山さんが続けます。

「実はそこの伊藤さんはこちらに来て2度も死にそうな目にあっているんだ。だから髪の毛を切ったり、食べ物を変えたりして体組成を変えて敵の目を眩まそうとしたんだがダメだったみたいだ」

「と言う事はさっき搬送されてきた子が肺炎になったのは偶然では無く、意図的に細菌レベルでの攻撃を仕掛けられた可能性があるって事?」

「私たちはそう考えているんだ。そうじゃなきゃ数時間前まで元気だった子が急に伏せるなんて考えにくいだろ。細菌やウイルスなんてどんな方法でも侵入させられるから、物理的な攻撃より簡単かもしれない。そしてそれを回避するのは、物理攻撃より難ししね」

「確かにあり得ない話ではないわね」


「そしてこの先免疫力が落ちているところをさらに襲われて、合併症なんか引き起こしたらひとたまりもない。病院は病気を治すところだけど、細菌やウイルスの集まる場所でもあり院内感染と言う意味では逆に危険だと思うんだ。」


しばらく考えた後中川さんが続けます。

「わかりました。それじゃまず彼女を無菌室に移して隔離しましょう。これで外部からの細菌やウイルスは遮断できるはずです。24時間体制で監視し完全看護体制にします。他に出来ることは無い?」

今度は私が提案します

「実は私たちは、私たちが飼っている猫に2回も助けられたんです。川原神社の加藤さんが言うにはその猫に破邪の力があるそうです。なので病室に猫を連れて来てはいけませんか?」

「病院に猫?ちょっと難しいわね。ましてや無菌室だし」

さすがにこれは無理なお願いのようです。

「それ以外の事なら何でも言って下さい。私も全力で応援しますよ」

「すいません。私たちのために無理なお願いをして」

中川さんと秋山さん目を合わせ秋山さんが口を開きます。

「伊藤さん、前にも言いましたがこれは伊藤さんのためだけれど、私たちのためでもあるんです。これはずっと考えていた事なんですが、おそらく私たちの子どもは伊藤さんのいた世界にとばされたんだと思うんです。そうなるとそこで伊藤さんと同じ状況に陥っているはずで、私たちが今ここで伊藤さんを守れないようなら、向こうの私たちも私たちの子どもを守れないのではないかと思うんです。これは私たちの戦いでもあるんです」

中川さんも大きく頷いていました。


「やれやれみなさんここじゃったか」

その声に振り向くと川原神社の加藤さんが、看護師さんに案内されて入口に立っていました。

「加藤さんどうしたんですか?風邪は大丈夫ですか?」

私が思わず立ち上がって聞きます。

「わしの事は心配いらんよ。そこにお医者さんもおるしな」

加藤さんの柔らかな物腰のせいでしょうか、なんとなく場が和らいで感じます。

「さっき久ちゃんから連絡があって一部始終を聞いたよ。で、今こうやって皆が相談しておるのは、伊藤さんに何か災いが迫っていると思うからじゃろ?」

秋山さんが答えます

「ええそのとおりです。なんとか和美さんに対する攻撃を防ぐ算段をしていました」


「そう言う事ならわしにも一つ手伝わせてくれ。なに年寄りがそうお役に立てることはないが,これでもわしは神職での」

皆、加藤さんが何をしようとしているのか見当がつかずきょとんとしていると、

「病室に結界を張るんじゃよ」

力強くそう言い切りました。

「こんな事を言うとそこのお医者さんには笑われるかもしれんが、今伊藤さんを襲おうとしている災いは意思を持っておる。その何者かから身を守るためには、その邪悪な力から身を隠す結界が必要なんじゃ。もちろん先生の許しが出ればじゃが」

「いえ、おっしゃる事を笑おうとは思いませんよ。医者だって知らない事はたくさんあるんです。だだしその結界を張るために何をするのかを聞かせて頂かないと許可は出せませんが」

中川さんは全面的に協力してくれそうです。

「そう難しい事ではない。伊藤さんがいる病室の四方にこの神具を配置し、わしが鬼門の方角に向かって祈祷するだけじゃ。火をたいたり大きな声で祈祷したりしないから心配はいらんよ」

「わかりました。では彼女を無菌室に移す前にその準備をしましょう。どうすれば良いか指示を下さい。ちなみにその神具と言うものの中身は何ですか?」

「これはその例の祠の下を貫いていた前のくさびの一部じゃよ。長年地中で世界を守っていたくさびには不思議な力が宿るんじゃ。川原神社のお守りにもこの鉄くずが入っておるよ」

「それなら構いません。細菌やウイルスの着床になるようなもので無いなら大丈夫です」

中川さんはその神具を加藤さんから受け取ると二人で無菌室の準備に向かいました。私たちもどうなるのか興味津々でついて行きます。


無菌室は部屋の中にさらに部屋がありガラス窓で仕切られています。加藤さんはインターホンのようなもので中川さんに神具の置き場所を指示し、窓のこちら側に陣取りました。

そして印を結ぶと鬼門に向かって静かに祈祷を始めました。


しばらくしてベッドごとこちらの和美が運ばれてきて、無菌室に入りました。今は鎮静剤が効いて眠っていて小康状態との事です。

無菌室から中川さんが出てきて私に言います

「ご覧のとおりこちらは当面心配ないわ。人手も足りているし今夜は私がこのまま泊まり込んで様子を見るから心配しないで。大丈夫、明日になってあなたが無事向こうの世界に戻れば全て解決するはずだから」

「ありがとうございます。では私たちは戻って準備にとりかかります。こちらの私をくれぐれもよろしくお願いします」

私たち三人がその場を去ろうとすると、中川さんが秋山さんを捕まえて何やら耳打ちします。秋山さんが満面の笑顔で応えていました。


さてマンションに戻ると時刻は既に夕方の5時。私は身の回りの物だけ皆で持って山口さんの家に向かいます。山口さんの家の方が祠に近く、今交代で祠の監視をしていますが、もしゆらぎが発生したらそこからいち早く駆けつけられます。マンションにクロたちの姿が見当たりませんが心配はないでしょう。


山口さんの家に着くと夕飯を用意して待っていてくれました。

「こちらの和美さん、災難だったわね。でも明日あなたが元の世界に戻れば万事うまくいくはずだから」

問題は例のゆらぎがいつ発生するかです。昼間の間は何の変化も無かったようですが、24時を回って明日の日付になれば、いよいよゆらぎがいつ起きてもおかしくありません。祠の監視は、男性陣に任せ私はいつでも飛び出せるよう待機です。

しばらくして山口さんの電話が鳴りました、相手は加藤さんのようです。

「そう、和美さんの様子は変わらず?ショウちゃんもそっちにいるの。まあそこは病院だから心配はいらないわね」

病院の方も変化は無いようです。本当はこちらの和美に付き添っていたいところですが中川さんがいるから大丈夫でしょう。


そしてその後何も起こらないまま24時を回りました。いよいよ運命の日です。ちょうど哲也が秋山さんと監視を交代して戻ってきました。

「いよいよ運命の日だね。でもまだ何の兆候も無かったよ」

まあ24時を回ってすぐにゆらぎが発生する訳でも無いでしょう。

「和美さん、まだまだ日付が変わったばかりよ。長期戦になるかもしれないから少し横になったら?こっちの方が修学旅行みたいで楽しいわよ」

山口さんが隣の部屋に何人分かの布団を敷いてくれます。

いちおうご厚意に甘えて横になるのですが、興奮と緊張で全然寝付けません。それでもしばらくしてうとうとし始めると、昼間の疲れもあってか私は眠りに落ちました。


ここはどこだろう?なんか白くて無機質な部屋。私は天井からこの部屋を見ているのかなあ?ベットに誰か寝ている。って寝ているの私だ。えっ?じゃあ私はどこから自分を見ているの?

ああ分かったこれって幽体離脱ってヤツだ。前に哲也に聞いた事ある。私の体から魂が離れているんだ。フワフワして気持ちがいい。なんか私の体に管がいっぱいついている。病気なのかなあ?

あれ?私壁がすり抜けられるみたい。そうか幽体離脱すると何処へでも行けるんだ。そのまますーっと屋上まで行こう。ああ病院飛び出ちゃった。今病院の建物の上にいます。ドローンの映像見ているみたい。何だろうこれ夢なのかなあ。

そう言えばさっきから誰かに見られている気がする。あの病院の裏の雑木林のへんかなあ。何だろう人間じゃないみたい。なんか黒っぽいものがとぐろを巻いているみたいで気味が悪い。早く隠れなきゃ。隠れなきゃ。


「和美、和美!」

哲也の声で私は目が覚めました。

「どうしたの?ひどくうなされていたよ」

そう私は自分が幽体離脱する夢を見ていました。でも夢にしてはリアルだったな。

ちょっと待って。私はここにいる私じゃなくて病院にいる私の夢を見ていた・・・これってもしかして病院にいるもう一人の私の意識なんじゃないの?じゃああそこで雑木林から私を見ていた気味が悪いものは?

普通に考えればただの夢ですが、今となってはそうでない可能性の方が強いような気がします。


「哲也大変だよ。病院にいるもう一人の私が例の力に見つかった」

そう言いながら私は携帯電話を掴むと、中川さんに電話をかけました。何度かのコールの後中川さんが電話に出ます

「あっ伊藤です。中川さん今そこにいる私に何か変化はありませんか?」

「ちょっと待って。私今ナースセンターにいるから」

その時電話の向こうで中川さんを呼ぶ声が聞こえました

「先生すぐに来てください。C4号室の患者の心拍数が下がってきています」

「ごめんなさい、緊急みたい、後でかけなおす」

C4号室って例の無菌室だ。


「哲也どうしよう。やっぱり私に何かあったみたい。病院に行ってみよう!」

「ちょっと待って。少し落ち着けって。まだ何もわかっちゃいないんだから」

その時私の携帯が鳴りだしました。電話をかけてきたのは祠の監視をしている秋山さんです

「和美さん大変です。今祠で小さなゆらぎが出始めました。すぐこちらに来てください」


「和美、祠に行こう。もしそのゆらぎを通って元の世界に帰りさえすれば、病院の和美だって助かるはずだ」

私たちは山口さんの家を出ると祠に向かって全力で走り出したのです。


「先生すぐに来てください。C4号室の患者の心拍数が下がってきています」

和美さんから異常が無いか確認の電話があったと思ったらこちらの和美さんの心拍数低下。電話の向こうで彼女はきっと何かを察知したんだわ。そしておそらく今こっちの和美さんは何かが起きている。

「状況はどう?」

無菌室に入るなりナースに確認します。

「さっきまでずっと小康状態を続けていたんですが、先ほど急に心拍数がが低下し自発呼吸ができない状態です。点滴等は外していましたから外的な要因は何もありません」

「心臓マッサージします。バイタル観察して下さい」

ちょっとマズイ事態ね。原因を突き止めないと対処のしようが無いし。

とその時加藤老人とその息子さんが窓の向こうに現れるのが見えました。私は片手で二人を手招きします。

「加藤さん部屋に入って構いませんから、全力で結界を張ってくれませんか?今は何にでも頼りたい気分なんです」

お願い、持ち直して!


私と哲也が祠に向かう道を走っていると、突如目の前にクロが現れました。クロが先行して祠の方に走っていきます。って事はやっぱりこのタイミングなんだ。

秋山さんが祠の前で大きく手を振っています

「伊藤さんこっち、こっち」

秋山さんの元に向かい、息を整えながら祠の向こうを見るとドッチボールくらいの大きさで地面が虹色の光を放ちながら揺らいでいるのが確認できます。

そうだ、私は前の金曜日このゆらぎを通ってこちらに来たんだ。いよいよ戻る時が来たんだ。


和美さんの心臓マッサージを続けるものの容態は良くならない。そして先ほどから感じている事ですが、我々は何か重苦しい何かの力に押さえつけられているように感じます。

例えて言えば私たちの周りだけ重力が増加しているような。

「先生バイタル低下しています」

「電気ショック用意して」


その揺らぎがどんどん大きくなってようやく人一人通れる位の大きさになった時、再びクロが現れました。一度私の方を見たかと思うと、ついてこいと言うように勢いよくそこに跳び込みました。

その瞬間、パッとクロの姿が消え、呆然としていた私に秋山さんが声をかけます。

「伊藤さん今です!」

「ありがとう、私、行くね!」

哲也と抱き合った後、二人に見守られながら、ついに私は意を決してその揺らぎに向かい合います。

「いち、にの、さん」

私はゆらぎの中に頭から跳び込みました。

そしてその瞬間、やはり前と同じように意識が遠のくのを感じ、そのまま気を失ったのでした。


万策尽きて心臓マッサージを止め和美さんの胸を開き電気パッドを当てようとしたその時、看護師が叫びます

「先生バイタル戻ってきます!」

どうした事か急に和美さんが回復し始めました。と同時に私たちを取り巻いていたあの重苦しい感じも無くなりました。正常値に戻りつつあるモニターを凝視していると、加藤老人が私の肩に手をかけてこう言いました

「あの子は無事に帰ったんじゃよ。もう心配はいらんよ」



どれくらいそこに倒れていたのかわかりませんが、気が付くとあたりは夕闇に覆われていました。ゆらぎに飛び込んだのが夜明け前でしたから、これは一体どう言う事だろうと頭をひねります。もしかして、元の世界では無く、またまた違った時間の世界に来てしまったのでしょうか?

そして周りを見れば、昨日秋山さんが張った祭礼用の幕も見られません。一応時計を見てみると時間は朝四時五分を指していますから、完全に今までの時間の流れから外れた所に来てしまったようです。


いや待って。この周りの感じは最初にあちらの世界に跳ばされた時と同じじゃないの?

ともかく、今の時間を確かめるためにはマンションに戻る事です。幸い体のどこにも異常はありません。

やがて見えてきた私の部屋に灯りは点いていません。鍵を開けるのももどかしく、部屋に入ってすぐにテレビを点けると、丁度夜7時ニュースのオープニングでアナウンサーが、今日の日時と時間を告げます。


ああ、やっぱりここは私が最初に向こうの世界に跳ばされた、金曜日の夜なんだ。十日前のあの時間に戻ってきたんだ!

安堵でへたり込みそうになります。あのワームホールが向こうの世界とどうつながっているのかはわかりませんが、ともかく私は私がいるべき元の世界に戻ってきたのです。


さて一安心すると、さっきまでいた向こうの世界の和美の容態が気になります。でも私がこちらに戻った時点で。私たちが例の何者かの攻撃を受ける理由は無くなった訳で、論理的に考えてもう心配は無いはずです。私たちを襲ったこの10日間の出来事もいまようやく大団円を迎えたのです。


その時、突然玄関のチャイムが鳴りました。

哲也が来たのかなあと思い玄関に行くと、鍵は勝手に外から開けられました。

驚いた私はとっさに近くにあったフライパンを握り締め、不法侵入者を撃退しようとしたのですが・・・


そこには驚いた表情のもう一人の私が立っていました。

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