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視界が歪む。
いや、違う。周囲の景色が置き去りにされているだけだ。
床を蹴るたびに地面が砕け、
壁を踏めば衝撃波が走る。
上へ。
ただ、ひたすら上へ。
階層を示す結界を突き破り、次の層へ。
本来なら転移装置を使わなければならない階層移動を、物理的に無視している。
「ガゥ……」
途中、魔物が数体視界に入るが、気にする価値はない。
近づく前に、衝撃だけを残して消し飛ぶ。
――何層だ。
床の模様が変わる。
空気がわずかに軽くなるが、初心者がいるべき層ではない。
インカムが震えた。
「……瑛さん、反応が近づいています。あと二層です」
「ガゥ」
短く返す。
――二層。
最後の跳躍。
天井を突き破る勢いで駆け上がり、視界が開けた。
だだっ広い石造りの空間。
高い天井、並ぶ柱、そして足元に残る血の跡。
そして――
「た、たす……」
震えた声。
柱の陰、壁際にへたり込むようにして、一人の探索者がいた。
若い。装備は軽く、明らかにこの層の空気に耐えられていない。
その背後で――
ズズ……と床が蠢く。
黒い外殻に覆われた大型の魔物。
異様に長い四肢、縦に裂けた口、内部で回転する歯。
新人は、完全に腰が抜けていた。
「ガゥ……」
低く唸る。
次の瞬間――
瑛の姿が消えた。
魔物が反応するより先に衝撃が直撃する。
胴体が歪み、装甲が砕け、壁に叩きつけられる。
床に落ちる前に、もう一撃。
ズン――。
魔物は塊のように崩れ、霧となって消滅した。
静寂。
新人は、口を開けたまま動けずにいる。
瑛は、ゆっくりと振り返った。
「ガゥ」
大丈夫だ、と言いたかった。
だが出たのは、獣の鳴き声だけだった。
――――――――――
九条レイ視点
――なんで。
なんで、こんなところにいるんだ。
(落ち着け、落ち着け……!)
足が震える。
息がうまく吸えない。
視界の端で、魔力の霧のようなものが揺れている。
《配信コメント》
>やばくない?ここ
>階層おかしくね?
>新人くん、そこ中級者以上の層だぞ
>誰か助け呼んだ?
「だ、大丈夫です……たぶん……」
声が裏返る。
大丈夫なわけがないのは、自分が一番わかっている。
さっき踏んだ床。
一瞬光ったと思ったら、視界が真っ白になって――
気づけばここにいた。
転移トラップ。
しかも、明らかに下層行き。
《配信コメント》
>転移罠かよ
>詰んだな
>救援要請出せ!
>早く!!
震える指で緊急信号を押した。
それしかできなかった。
……でも。
「……来る」
音がした。
床を引きずるような、嫌な音。
柱の向こう。
“何か”がいる。
《配信コメント》
>後ろ!!
>振り返るな!
>うわ、でか……
>無理だろあれ
「ひっ……!」
足が動かない。
逃げなきゃいけないのに、体が言うことを聞かない。
――死ぬ。
そう思った、その瞬間。
何かが、通り過ぎた。
風?
いや、違う。
衝撃。
次の瞬間、目の前の魔物が――吹き飛んだ。
《配信コメント》
>?????
>今の何
>魔物消えたんだが
>え、瞬殺??
「……え?」
視界の奥。
そこに立っていたのは――獣。
二足で立つ、狼のような姿。
黒い毛並み、鋭い目。異様なほど静かだ。
人間じゃない。
でも、魔物とも違う。
《配信コメント》
>獣人!?
>なにあれ
>魔物?
>分かんないけど助けてくれた
その獣が、こちらを見た。
「ガゥ」
低い鳴き声。
それだけ。
なのに、不思議と怖くなかった。
(……助けに、来た?)
「……え、あ……?」
声が、出ない。
さっきまでそこにあった“死”が消えている。
空気が、まるで違う。
柱の影に立つ獣――いや、人型の獣。
毛並みが微かに揺れ、こちらを見ている。
近い。
でも、襲ってこない。
《配信コメント》
>助かった……のか?
>今の一瞬すぎて処理できん
>新人くん生きてる?
>声出せ、無事確認!
「……い、生きてます……」
ようやく、それだけ言えた。
喉がひりつく。
獣が一歩、近づく。
思わず肩が跳ねる。
だが――足音は軽く、敵意はない。
「ガゥ」
短い鳴き声。
意味は分からないのに、落ち着く。
(……喋れない、のか?)
噂で聞いたことがある。
“完全獣化は声を失う”。
《配信コメント》
>喋れない系?
>獣化スキルか
>ガチ上位探索者っぽい
>レイくん助けてもらったな
「……ありがとうございます」
自然と頭を下げていた。
獣は、少しだけ目を細めた……気がした。
周囲を見渡し、柱、床、天井へと視線を走らせる。
まるで護衛するように。
インカムがノイズ混じりに震えた。
「レイくん、聞こえる!?
落ち着いて、その場から動かないで!」
「は、はい……!大丈夫、です……」
《配信コメント》
>マネ来た
>助かったな
>でもこの人誰なんだよ
>企業の切り札?
獣は俺とインカムを交互に見て、ゆっくりと指を二本立てた。
(二……?)
次に、上を指さす。
――上の階層。
「……戻る、ってことですか?」
返事はない。
ただ、静かな肯定。
《配信コメント》
>意思疎通できてて草
>ボディランゲージ最強
>レイくん保護案件
獣は俺の前に立ち、腰を落とした。
……え?
次の瞬間、視界が跳ねた。
「――――っ!?」
抱えられた。
いや、正確には脇に担がれた。
「え、ちょ、ま――!」
言い終わる前に――
ドンッ!!
床が砕ける。
《配信コメント》
>!?!?!?
>お姫様抱っこじゃねぇ!
>高速移動きた!!
>画面揺れやばすぎww
景色が引き伸ばされ、柱が流れ、天井が消える。
(うわ、酔う……!)
でも、怖くない。
この獣――いや、この“人”は、確実に上へ向かっている。
(……助けに来たんだ)
名前も、正体も分からない。
それでも、それだけは分かった。
《配信コメント》
>この人何者だよ……
>レイくん生還確定
>この配信、伝説になるぞ
必死にしがみつきながら、思う。
――この配信、絶対、ただじゃ終わらない。
――――――――――
瑛視点
新人を抱えたまま、階層を上がる。
さっきみたいな全力は出さない。あれをやったら、たぶん新人が逝く。
床を蹴る力を抑え、着地も浅くする。
衝撃が伝わらないように、体勢を微調整しながら進む。
「……」
喉から出るのは、低い息だけ。
軽い。
装備も、体も。
まだ細いな――新人だ。
腕の中で、わずかに震えているのが分かる。
無理もない。あの層に放り出されたら、誰だってそうなる。
(……間に合ってよかった)
階層の境界を越えるたび、結界が軋む。
正規ルートじゃない。
だが、今さら気にする理由もない。
途中で魔物が顔を出すが、視界に入った瞬間に蹴散らす。
抱えたままでも、問題ない。
――こいつに、血を見せる必要はない。
一段、また一段。
空気が少しずつ軽くなっていく。
(この辺りなら……大丈夫か)
新人の呼吸を確認する。
乱れているが、意識はある。
「ガゥ……」
意味のない鳴き声。
それでも、落ち着かせるつもりで喉を鳴らす。
……効いてるかは知らんが。
ふと、腕の中の視線を感じる。
こっちを見ているな。
(見るな。顔)
まあ、もう遅いか。
配信、してるんだろうな。
あの喋り方、新人から離れないドローン。間違いない。
(……やれやれ)
また面倒なのを拾った気がする。
一層、上。
救助チームの気配が、近づいてくるのを感じる。
(引き渡したら、即離脱だ)
名前も名乗らない。
説明もしない。
――それでいい。
こいつは、生きて帰れればいい。
そう考えながら、瑛は静かに跳躍を続けた。
――――
数分後
「……っ、いました!」
新人を上層まで戻した直後、救助チームが駆け込んできた。
思ったより早い。
……いや、それよりも。
「レイ君! 大丈夫でしたか!?」
救助チームの一人が真っ先に駆け寄り、新人の肩に手を置く。
声色と距離感からして、あれが新人のマネージャーだろう。
……そんなことはどうでもいい。
問題は――
「瑛! よくやったね!」
明るい声と同時に、俺の肩ががっしり掴まれた。
――こいつだ。
「ガゥ……」
思わず低く唸る。
「ん? なんで私がここにいるのかって顔だね?」
楽しそうに笑いながら、女は言う。
「当然でしょ。自分の会社のタレントが危険に晒されてるんだよ?」
「心配しないわけないじゃないか」
肩に置かれた手に、少しだけ力が込められる。
「もちろん――」
ぐっと、顔を近づけて。
「お前も含めてな、瑛」
……やれやれ。
(やっぱ来たか)
相変わらずだ。
昔から、こういう時だけは誰よりも早い。
新人の方を見ると、目を丸くして固まっている。
まあ、無理もない。
救助に来たと思ったら、いきなり会社のトップが出てくるんだから。
「ガゥ……」
短く鳴く。
――無事なら、それでいい。
そう思って視線を外した俺の背後で、
社長は相変わらず、楽しそうに笑っていた。




