消せない過去
月曜日の朝、学校の昇降口。
「おはよう、ヒロ」
葵が俺の前に現れた時、なんとなく雰囲気が違った。
「おう」
「あの……土曜日のこと」
「ああ」
葵の頬がほんのり赤くなる。あのキスのことだ。
「どうだった?」
「どうって……」
「感想とか」
俺は、葵の質問に少し笑ってしまった。
「お前、やっぱり分析したがるんだな」
「そ、そんなんじゃないよ。ただ気になっただけ」
「気になる?」
「だって、緊張したから」
その一言で、俺は足を止めた。
「緊張って……お前、今まで誰ともでもキスしてただろ?」
「うん」
葵があっけらかんと答える。
「他の男と……」
「あれは違うよ。キスじゃなくて、もっと……」
葵の声が小さくなる。
俺は、複雑な気持ちになった。
葵は他の男と体の関係は持ったのに、俺とのキスは……。
なんだか、妙にねじれている。
「……そっか」
「変だよね、私」
「変じゃない」
俺は歩きながら、横目で葵を見た。
「むしろ、そっちの方が良かった」
「え?」
「その初めての感情が俺で」
葵の顔が、ぱっと明るくなった。
「……嬉しい」
そんな会話をしながら教室に向かっていると、廊下で同じクラスの女子グループとすれ違った。
「あ、神楽坂さん」
その中の一人、田村が声をかけてきた。
「おはよう、田村さん」
「神楽坂さんって、神木くんと付き合ってるの?」
田村の質問に、葵が少し戸惑った表情を見せる。
「……うん、そうだけど」
「へー、意外。神木くんって、神楽坂さんみたいなタイプと付き合うんだ」
田村の言葉に、微妙な棘があるのを感じた。
「どういう意味?」俺が口を挟む。
「いや、別に悪い意味じゃないよ。ただ、神楽坂さんって……」
田村が他の女子と目配せする。
「男の人とよく話してるから、てっきり軽い感じの人なのかと」
その瞬間、空気が重くなった。
葵の表情が、ふっと暗くなる。
「田村」俺が低い声で言う。
「何?」
「余計なこと言うな」
「別に、事実を言っただけじゃん。神楽坂さんも、そう思われてるの知ってるでしょ?」
俺は、田村の前に立ちはだかった。
「もう一回そんなこと言ったら、許さない」
「え、なにそれ怖い」
田村たちは、ひそひそと話しながら去っていった。
俺が振り返ると、葵が俯いていた。
「葵」
「……大丈夫」
「大丈夫じゃないだろ」
「慣れてるから」
葵がそう言って、無理に笑おうとする。
でも、その笑顔は明らかに作り物だった。
「慣れてるって、そんなこと言われ続けてたのか?」
「みんな、私のこと誤解してるから」
「誤解?」
「私が他の男の人とそういうことしてたの、みんな知ってるでしょ?」
俺は、胸が痛くなった。
葵の過去の実験が、今でも彼女を苦しめている。
「でも、それは……」
「実験だったって言っても、信じてもらえないし」
葵が小さくため息をつく。
「だから、ヒロが私なんかと付き合ってるって知られたら、ヒロも変な目で見られるかも」
「そんなの関係ない」
「関係あるよ」
葵が俺を見上げる。その目に、涙が滲んでいた。
「私、ヒロに迷惑かけたくない」
「迷惑なんかじゃない」
「でも──」
「葵」
俺は、葵の手を取った。
「俺は、お前のことを恥ずかしいなんて思わない」
「……本当?」
「本当だ。だから、もうそんなこと考えるな」
葵は、俺の手を握り返した。
「……ありがとう」
朝のチャイムが鳴り、俺たちは急いで教室に向かった。
でも俺の心の中には、モヤモヤしたものが残っていた。
葵を守りたい。
でも、過去の出来事は消せない。
俺たちが乗り越えなければならない壁は、まだまだ高そうだった。