本当の感情
翌週の火曜日。
学校の廊下で、葵がいつものようにノートを抱えて歩いてきた。
「ヒロ、おつかれさま」
「おう」
相変わらずの挨拶。でも今日は、なんとなく葵の雰囲気が違う。
「どうした? 実験でも失敗したか?」
「……うーん、ちょっと困ったことがあって」
葵は、俺の隣に並んで歩きながら、ノートのページをぱらぱらとめくった。
「手を繋いだ後の”継続期間”について検証したかったんだけど……」
「は?」
「あの後からずっと、ヒロの手の感触が残ってるの。これって正常?」
俺は思わず足を止めた。
「……お前、それ本気で言ってるのか?」
「うん。昨日から今日まで、なんとなく右手がそわそわして。授業中も気になって仕方なくて」
葵はそう言いながら、自分の右手をじっと見つめている。
……こいつ、本当に天然なのか、それとも。
「葵」
「何?」
「それ、たぶん──」
「おい、神楽坂!」
俺の言葉を遮るように、背後から声がかかった。振り返ると、同じクラスの田中が息を切らして走ってくる。
「あ、田中くん。どうしたの?」
「お前、また新しい彼氏作ったって本当か?」
田中の質問に、葵はきょとんとした表情を浮かべた。
「彼氏? ヒロのこと?」
「神木と? マジで? お前、こいつがどんな奴か知ってるのか?」
田中が俺を指差しながら言う。俺は無言でにらみ返した。
「……どんな奴って?」
「こいつ、お前が他の男とヤってるの見て別れたんだろ? そんな奴とまた付き合うとか、マジで意味わかんねえよ」
その瞬間、空気が凍った。
葵の顔から、ふっと表情が消える。
「……田中くん」
「何だよ」
「私の恋愛に、あなたが口出しする権利はないと思うけど」
葵の声が、いつもより低くなった。
「それに、ヒロと私の間にあったことを、あなたがとやかく言うのも筋違いじゃない?」
「でも──」
「それ以上言うなら、生徒指導の先生に相談するね。私に対するハラスメントとして」
田中は、葵の迫力に押されて黙り込んだ。
そして、ばつの悪そうな顔をして去っていく。
「……葵」
「何?」
俺が声をかけると、葵はいつものような笑顔を浮かべた。
「大丈夫。慣れてるから」
「慣れてるって……」
「みんな、私のこと好き勝手に言うでしょ? でも、そんなの関係ないもん」
葵はそう言いながら、また歩き始めた。
俺は、その背中を見つめながら、胸の奥がざわついているのを感じていた。
※
放課後、屋上。
俺は葵を呼び出していた。
「なあ、葵」
「何? 今日は実験の予定はないけど」
「実験じゃない。ちょっと聞きたいことがある」
俺は、手すりにもたれて葵の方を見た。
「お前、本当に平気なのか? さっきの田中みたいなこと言われても」
「……ヒロらしくない質問ね」
「俺らしくない?」
「だって、ヒロも私のことそう思ってるでしょ? めんどくさい彼女だって」
俺は、言葉に詰まった。
確かに、俺は葵のことをめんどくさいと思っている。
でも、今日田中が言ったことを聞いて、なんだかモヤモヤしていた。
「……別に、他の奴らに何言われようが関係ないけど」
「あ、それってもしかして──」
葵が急に俺の方に歩いてきた。
「心配してくれてるの?」
「心配って……」
「“彼女が傷ついてるかもしれない”って心配?」
葵の目がキラキラと輝いている。
「それって、もしかして恋人らしい感情?」
「……知らねえよ」
俺がそっぽを向くと、葵がくすくすと笑った。
「ヒロって、時々すごく優しくなるよね」
「優しくない」
「そういうとこも含めて、優しいって言ってるの」
葵が俺の袖をそっと引っ張る。
「……ねえ、ヒロ」
「何だよ」
「今度は”守られてる実感”について検証してみない?」
俺は、葵の顔を見た。
いつものような実験モードの表情じゃない。
なんだか、少しだけ寂しそうで、でも安心したような顔をしていた。
「……バカ」
「えー、バカって何よ」
「そんなもん検証しなくても、俺がお前のこと守るに決まってるだろ」
その瞬間、葵の頬がふわっと赤くなった。
「……今の、すごくキュンとしたかも」
「実験成功かよ」
「うん。でも今度は、“仮じゃない”感情だと思う」
夕日が校舎に差し込んで、俺たちの影を長く伸ばしていた。
まだ正解なんてわからないけれど、
きっとこうやって、少しずつ答えを見つけていくんだろう。