証明されそうな仮説
昼下がりの休日。
「じゃあ今日のテーマは──“デート中にキュンとする瞬間はあるか”ね」
朝の待ち合わせ場所でそう言った葵は、まるで実験レポートでも書くようにペンを走らせていた。
「なあ、そのノート何?」
「“彼氏検証ファイルvol.2”。ヒロ専用。ちなみにvol.1の子は2週間で除外された」
俺の人生、いつの間にか学術研究に取り込まれてたらしい。
日曜日の午前10時。駅前で待ち合わせして、目的地はとりあえず“水族館”。
というか、全部葵の提案。俺に選択権なんて存在しない。
※
俺はコイツがどれだけイカれてるのかを知っている。
「クラゲってさ、脳がないんだって」
「それ、今俺に言う必要ある?」
「うん、ヒロもたまにクラゲっぽいから」
「たまにじゃなくて常にって言いたいんだろどうせ」
俺と葵が付き合いたての時、葵は俺をラブホテルに呼び出して、俺の目の前で見知らぬ男と性行為をしていた。
クラゲには脳がなくて、心臓もない。
俺に脳がないのだとしたら、葵には心臓がないと思ってしまう。
いや心臓というか人の心がないに近い。
そんなことを思いながら、水族館の薄暗い通路で、俺たちは他のカップルとまったく違う距離感で歩いていた。
手はつながない。肩も触れない。
でも、妙に自然で、居心地が悪くはない。
「ねえヒロ。水族館デートって定番だけど、実際どう?」
「俺に聞くのか?」
「うん。“理想の彼女と水族館に来たら嬉しいか”って」
「……理想の彼女が一緒にいたら、どこでも嬉しいだろ」
その瞬間、葵がふっと足を止めた。
「……今の、ちょっとだけキュンとしたかも」
「マジで!? 実験成功!?」
「仮説1:ベタな発言でも、唐突だと効く。メモしよ」
「そこは素直になれよ」
※
午後、カフェでひと休み。
「……ヒロってさ、なんでまだ私といるの?」
「急にどうした」
「だってさ。私、ヒロの理想の彼女じゃないでしょ? 試してるだけだし、無神経だし、勝手だし」
「──それでもお前、俺の前ではちゃんと笑ってるだろ」
「……うん」
「そんだけで、充分価値ある」
葵は、その言葉に対して反論しなかった。
ただ、アイスコーヒーのストローをくるくると回しながら、ぽつりと呟いた。
「……そっか。そういうとこ、ずるいなあ」
※
帰り道。駅までの歩道橋。
葵が、ふいに俺の袖を引いた。
「……ヒロ」
「ん?」
「今日、手つなぐ?」
「……え、お前から?」
「“つなぎたくなる瞬間”ってテーマだったけど……今、ちょっとだけ思ったから」
俺は、答えずに手を差し出した。
葵は、それを見てから静かに笑って、指をからめてきた。
「──じゃあ、今のは“仮じゃない”ってことでいい?」
「……検証結果出るの早すぎない?」
「ううん。これは、仮じゃないかもしれないって仮説」
手の温度がじわっと伝わる。
お互い、たぶんまだ正解なんてわからない。
でも、ここからなら探していける気がした。