第一話 始まり
男が早朝の白い霧の中を駆けていた。
年の頃は17、8か。男というよりも青年だ。ザンバラに延びた銀髪に水色の瞳。肌もそれに合わせて病的なまで白い。
装いは群青色を基調にしたものだ。清潔なシャツに装飾を散りばめられた上着。その装飾の質をみれば高貴な生まれであるのを見て取れる。その下は灰色のズボンに高級な黒の革靴。こちらは簡素なもので履きなれてその青年が行動的な性格であること思わせる。
ただ彼は駆けていた。何かから逃げるように。
彼の荒い息と滴る汗がその行程を思わせる。長い距離を走ってきたのだろう。
その姿も街中で歩くようなもので、決して前後不覚な霧の中を走るものではない。
余程慌てて出てきたのだろう。
青年は後ろを振り返りたそうにしているが、それを否定するように足を速める。何かに追われているように見えるが青年は一人だ。それを追いかけてくるような人影も足音もしない。
そこは霧の平原だ。なんの目印もなく自身の方向すら定かではない状態でまっすぐに同じ方向に駆けている。迷っているのではなく。間違いなく自身の進むべき方向をわかっている足取りだ。
そして青年の足が止まった。荒い息をついて前を睨みつける。目的地に着いたのではない。何かの障害に気付いたのだ。それが霧の中から現れる。
それも男だった。ぼさぼさの赤髪に茶色の瞳。肌は健康的に日焼けしてそれに準じた体格の持ち主だ。もう20歳は超えているだろう。青年と比べて精悍な男と見てもいい。その装いも丈夫な素材で出来た外套に黒のタンクトップ。そこから傷だらけの太い腕が伸びている。下も灰色のズボンだが丈夫で機能性を重視たものだ。各所に道具を入れられるようになっている。腰の道具入れにもそれ相応の品が入っているのだろう。
何よりも目引くのが背中に背負っている大剣だ。幅広で装飾が多く一目で普通の代物とは違う。鞘はなく、斜めに背負っていても剣先が男の膝まであるほどの長さだ。
その風体と合わせてまともな職業の人間ではないだろう。
「そんなに急いでどこに行く?」
男が口を開いた。見た目通りの低いがよく通る声だ。
「誰だ!」
青年の怯えた声が響く。声変わりはしているが少し高めの声色だ。人によっては低い女性の声に聞こえただろう。その容貌と装いは男装の麗人と捉えられなくもない。
「誰ときたか。お前は知っているんじゃないか?」
男は剣を抜くと立ち塞がる。青年を通す気はないようだ。
「オ、オレは知らない! 何も知らない! オレは何も知らないんだ!!!」
青年の怯えた声に涙声が混じる。頭を抱え目と耳を塞ぐ。
男は剣を構えたまま青年に近づく。険しい視線が周りの状況を確認している。いつ何が起きてもいいように慎重に歩進める。
「やめろ! こっちに来るな! オレには力があるんだ! お前には思いもつけないようなこの世界を変える力だ!」
そういうと青年が杖を生み出した。そう形容するほかない。どこからか取り出したのではなく、前に出した手から突如出現したのだ。青年の言う通り通常ではありえない超常の力の一端だろう。
しかし男は歩みを止めない。突如出現した杖に眉一つ動かさない。もうそれは知っているとばかりに。
「オレはチート使いだぞ! この世界を変えられるんだ! お前なんて怖く無いぞ! お前を今すぐ木端微塵にしてやる!」
「やってみろよ」
「この杖が見えないのか!? 僕の力を疑っているんだな! 今見せてやる!」
青年は杖を構えるが様子がおかしい。構えた杖を放り出しそれを恐ろしいものを見る目で見つめて後ずさる。そして頭を抱えると尻もちをついて絶叫を上げた。
まるでこの世の終わりのような長く壮絶なまさに絶叫だった。正気を失ったかのような焦点の合わない目で宙を見つめ声だけを上げ続ける。仮に喉から血を吐いてもその轟は消えなかったであろう。そう思わせるほどに尋常な声ではなかった。
それでも男は歩みを止めない。周りを警戒しつつ青年に近づく。もう青年には男の姿が見えていないようだった。その場から動かない。
男は青年から落ちた杖を手に取るとそれを眺める。木でできた装飾のある杖だ。ついて使うには不便そうだが、そういう用途ではないのだろう。それを手に青年に近づく。
青年の目の前まで来た男は剣を収めると青年の肩に手を置いた。
「悪い。俺の勘違いみたいだな。安心しな。危害は加えない」
青年の瞳が焦点を結ぶと男の顔を見つめる。
「僕は悪くないのか?」
「ああそうだ。お前は悪くない」
青年はその返答を聞くと嗚咽を漏らす。今まで張りつめていたものを全て流し尽くすかのように。男はただそれが収まるまでその場で青年が落ち着くのを待った。
「落ち着いたか?」
しばらくして青年が泣き止むと男が声をかける。
「ああ。変な所見せてしまったな」
「そうでもないさ。ここまで来ただけでも奇跡みたいなものだからな」
それより、と男が青年に向き合う。
「中で何が起きたか話せるか?」
その目を見て青年の焦点が歪む。
「いや、もういい。思い出すな。十分だ。それだけで証明になる」
男は青年の思考を遮ったがそれでも青年は自分の手を握りしめると絞り出すように言葉を紡ぐ。
「こ、ここは地獄だ。ぼ、僕はそこでそこで、そこで力を使ったんだ。僕は悪くない! 僕はただこれで全てが解決するって、力を、」
青年は起き上がると杖を手にして地面に叩きつける。
「こんな。こんなものがあるから! こんな力があるから! 僕は、僕は・・・!」
「やってしまったか」
「ああそうさ! そして、あ、 アア、アアアーー!!!」
青年は先ほどのように頭を抱え空を見上げる。だが目の焦点は失なっていない。
「失ったんだ。もう帰ってこない。もう会えない。だって僕が、僕が殺したも同然だから」
青年は荒い呼吸をしながらも正気を保っていた。この言葉をこの罪を誰かに話せたことで彼はようやく自分がなぜここに居るのかを理解することが出来た。
「お前もチーターの被害者か」
「僕が被害者・・・」
「お前のその力は与えられたやつだ。その力があるなら会ったことがあるだろう」
「このチートは僕が自分で編み出したものだ。・・・ただこれが誰かか与えられたものなら。僕は悪くないのか」
「ああ。お前はその被害者だ」
「そうか。僕は望んで手に入れたんじゃない。誰かに植え付けられたのか。そうか。僕は被害者か。そうか。そうか」
青年は何度も頷く。それが例え優しさであっても時には必要なものだ。
「さて、じゃあ俺は行くぜ。お前さんで大体の状況は分かったからな」
「待ってくれ。あの中は地獄だぞ。正気で居られる場所じゃない」
「なんだ? 自分の罪を知られたくないのか? それはチーターのせいだ。お前は悪くない」
「違う。危険だって言ってるんだ。あそこは死よりも恐ろしいものが待っているかもしれないんだぞ」
「お前にはもう関係ないだろ」
「そうじゃない! あんたが危険だって言ってるんだ! 誰が恩人を死地に向かわせるんだよ!」
男は青年を不思議そうに見つめると合点がいったかのように笑い出した。
「なんだお前。俺を心配してるのか。俺はユリウス。チーター狩りのユリウスだ。こういう事も初めてじゃない。お前の名は?」
ユリウスの言葉に返答しようとした青年は言いよどむ。言いたくないというよりも何かに戸惑っているようだ。
「ならいいさ。お前の名前は後で決めればいい」
ユリウスはそれが初めてではないようで気分を害した様子がない。こういう手合いに慣れているのだろう。チーターによるチートの被害者は人知の及ばない現象に苦しめられる。それを彼は知っているのだろう。
「すまない。言いたくないわけじゃないんだ」
「わかるさ」
「ありがとう。ユリウスその名前は忘れないよ。僕の、僕の新しい人生が決まったらその時はお礼をするよ。僕は忘れない」
「だがここは消えてなくなる。俺が消す。それでもその言葉を忘れないなら期待してるぜ」
「そうか。・・・終わらせてくれ。この地獄を。僕にはできなかったから」
「任せろ」
そして二人は別れた。
ユリウスは中へ。青年は外へ。
青年が外へ出ると小高い丘の上。見渡す限りの緑の森を見下ろせる。振り返るとそこには稲光を放つ黒雲が見える。どう見ても中に人の生存できるスペースがあるようには見えない。
青年が空に手をかざすと透明な画面が現れる。それをスクロールするとチートツールと表示されたアプリが出てくる。そこに視線を合わせる。
青年はチートツールを展開すると中の様子を確認する。さっきの男ユリウスといったか。彼が戸惑いを見せている。それもそのはずだ。彼が探しているチーターとは青年の事だ。
青年は自分の望んだ世界にこの世界を書き換え、それを終えた青年は記憶を消し中に入った。そして出てきた時にその全てを思い出すように仕込んでいたのだ。
彼の言葉を思い出す。
「お前は悪くない。チーターの被害者だ」
その通りだ。僕は悪くない。
青年は心の中で繰り返す。
僕は被害者だ。
望んで手に入れた力じゃない。望んでこんなことをしてるんじゃない。
そのユリウスと目が合う。
こちらに気付いた!?
青年は慌ててツールを閉じる。ユリウスがチーター狩りを自称していたのは間違いない。むしろ彼自身が新たなチーターの可能性もある。
青年は急いでその場から離れることを選択した。
青年はチーターではないがチートを操るツールを手にいれそれに順じた存在になった。普通の人間のようにこの世界に降りることができない。
青年はツールを広げると自分の降り立てる世界を検索する。
この近くには港町があるようだ。そこで新しい世界が生み出されている。青年は迷わずそこを選択するとそこに降り立つ準備をする。
今回は何も行わない。もう改変した世界はこりごりだ。もう二度と改変した世界には降り立たない。
青年は稲光の収まりつつある黒雲を見下ろしながらそう決めた。