番外編 悪妻と呼ばれた女
あの人は姉が好き。
頭が良くて、美人で、しかも今や帝都ウォールで人気上昇中のソプラノ歌手。
そんな出来すぎた姉に、あの人はここのところ毎日花を贈るのだ、熱烈な愛の詩を添えて。
ヨハンネス・ テオフェルス・ モザルト
神に愛された男である。
神は神でも音楽の神に愛されている、いいや、幼い時には彼自身が音楽の神、神童であった。
その男がピアノを弾けば小鳥さえ囀りを忘れ聞き惚れ、その男が曲を書けば神聖教の教皇さえ我先にとミサでの初演を願うほど。
そんな音楽を生業にする者にとって、彼は遠くに輝く綺羅星であった。
そんな彼が、宮廷音楽家の叔父がいるとはいえ、親しい間柄でもないのに我が家に居候をしにやって来たのは、ヨハンネスが20歳を過ぎた頃であった。
コンスタンティンは、もうすぐ誕生日を迎えると、いよいよ成人の15歳となる。
末端とはいえ、音楽一家の端くれ、チェンバロ奏者の父と端役のオペラ歌手であった母の元に生まれた姉妹は、共にソプラノ歌手を目指していた。
3つ上の姉ロイジアは、顔立ちも色も母似で、髪も金にも見える薄い茶色に緑の瞳の美しい見目の女だった。
透き通るような高音の、伸びのある歌声も合わさって、現在帝都ウォールでは注目度急上昇のソプラノ歌手として活躍中であった。
コンスタンティンと言えば、父似のブルネットの髪に茶色い瞳、良く見れば姉と造作は同じなのにね、幼い時から周りに言われ続けていた言葉のように、色味が違うだけで、地味でお世辞にも美人だなどと言われることの無い容姿であった。
しかも、子供の頃に罹った病が元で、左足に少し麻痺があり、良く見ると足を引きずる歩き方をしていた。
声は姉よりもっと高音まで出るのであるが、舞台に立つのは難があるのだろうと、自分でも思っていたので、ソプラノ歌手を目指すというのも、正直に言えば、親が、もっと言えば母親が与えた目標だったので、なれなくとも心底どうでも良いと思っていた。
(だいたい目標を与えるのなら、私が足が悪いのをわかっているのだから、お父さんの跡をついでチェンバロ奏者とかにしてくれたら良かったのに。なぜ成れもしないオペラ歌手なんかにしようと思ってるのかしら、お母さんの夢を継ぐのは姉さんだけでいいじゃない)
厳しいレッスンの時にも、コンスタンティンはこんなことを考えていたし、それをレッスンの先生にも伝えていた。
「うーん、コンティは歌手になりたくないの?」
先生が聞けば、
「足を引きずって舞台を歩かなければならないでしょう?みっともないわ。そんなみっともない歌手なんて誰も応援してくれないでしょ?」
そう答えたりしていた。
コンスタンティンの家にヨハンネスがやって来て、半年が過ぎ、来た時と同じように、突然居なくなってしまった。
コンスタンティンはさようならの挨拶も出来ぬ別れを悲しく思ったのだった。
そして、2年後、ヨハンネスは、またなんの前触れもなく突然家にやって来た。
「ヨハンネス、急に現れても、もうロイジアは宮廷音楽家の元に嫁に行ってしまったよ。もし良ければ、コンスタンティンを娶っておくれよ。良く見たら、顔立ちはロイジーと同じ造作なんだよ、色味が違うだけで」
いきなり母が、ヨハンネスにそんなことを言い出したので、
「お母さん、何を失礼なことを言っているのよ。ヨハンネス様に失礼だわ」
コンスタンティンはそう言って母の意図のわからぬ申し入れを怒った。
「ええ、良いですよ。コンスタンティンを娶らせて下さい」
目の前で繰り広げられている母娘の喧嘩を気にするでもなく、ヨハンネスはすぐに了承をした。
「え、ほんとかい?契約書を書いて貰うよ。もし1年以内に娶らなきゃ慰謝料も請求するけど、良いんだね」
「何言っているのよ、お母さん!ヨハンネス様もおふざけが過ぎますわ」
コンスタンティンはプリプリと怒って、声を荒げて言った。
ヨハンネスが以前、居候をしていた時に、毎日毎日ふざけたことか、下品なことしか言わなかった。下品なことは、言うだけでなく、下品な行動もしていたが。
『なんとか練習して、屁で会話が出来ないかな?』
そんなことを言って、どこそこ構わず屁をして歩く日もあった。
下品な話には暇がなく、突然閃いたといって、ピアノを弾き始めたと思ったら、
『なめーろ、舐めろ俺の尻ぃー』
と、尻舐め(願望)ソングを弾き語りし、しかもエンドレスで繰り返していた。
その調べは美しく繊細だったので、歌詞の下品さが際立つ一曲となった。
そんなヨハンネスの下品さに、初めは憧れた眼差しを向けていた姉も、すぐに目を逸らすようになったのだった。
「これで良いかな?」
ヨハンネスは鞄から白い楽譜を出して、そこに婚姻契約書をサラサラと書き出した。
『ヨハンネス・ テオフェルス・ モザルトは、コンスタンティン・ウェーヴァーを妻に娶る。1年以内に婚姻しない場合は、100万リーベの慰謝料を払うこととする。』
「まあ、100万リーベなんて持っているのかい?払えなきゃ契約にならないよ」
「なに、コンスタンティンを妻に娶るんだ。100万でも200万でも、関係無いのさ」
「それは本当だろうね。おふざけじゃないよ」
「マダム、私はずっと本気だよ」
「わかった。それじゃあ、」
紙をじっくりと見ていた母が、サラサラと日付と了承の意思を記載して、署名した。
「良かった、じゃあ、コンスタンティン行こうか」
目の前で繰り広げられている、ふざけたやり取りに、途方に暮れてぼんやりしていたコンスタンティンは、
「ハッ!どこに?」
驚いて、目を丸くしてヨハンネスに聞いた。
「勿論、私たちの愛の巣に」
然も当然と言った口調で答えると、コンスタンティンの横に立ち、手を取って立ち上がらせ、そのまま入口へと向いた。
「もう、ちょ、ちょ、ちょっと、何よ、どう言うこと?」
コンスタンティンは手を引っ込めて、大きな声を上げた。
「え、君との婚姻の許しが出たんだ、さあ結婚しよう」
ヨハンネスはそう言って、楽譜に書いた婚姻契約書を目の前に差し出した。
「もう、ふざけないでって言ってるの!」
コンスタンティンは怒って、その紙をヨハンネスから引ったくると、ビリビリに破いて放り投げてしまったのだった。
そんなふざけたやり取りの後、キチンとした話し合いがコンスタンティンの父とヨハンネスで持たれ、半年後に正式に婚姻を結んだ。
しかし、この婚姻はヨハンネスの父親からは破棄を言い渡され、神聖教会も受領を渋ったのだった。
それでも、ヨハンネスはコンスタンティンを娶ることを諦めず、彼が幼少期から親しくしていた石工集団の伝を使って、神聖教会に婚姻を認めさせたのであった。
あれほど、音楽の神に愛されていると言われ引っ張りだこだったヨハンネスは、コンスタンティンとの婚姻後、教会音楽家を辞めフリーとなった。
しかし、そのせいで今まで来ていたサロンコンサートのオファーが極端に減り、困窮に喘ぐことになった。
「ねえ、ヨハン様。今日はもう暖を取る薪を買うお金も無いわ」
収入に見合わぬ、立派な邸宅に豪華な家具を配置した2人の愛の巣は、暖炉に火の気が無く寒々しいものだった。
「そうか、じゃあ、明日、日が出て温かくなるまで一緒に踊ろう。そうしたら暖かいよ。ほら、」
ヨハンネスが即興でワルツをハミングし始め、コンスタンティンに手を差し出した。
「ふふ、朝まで踊ったら足が棒になってしまうわよ」
その手を取って、ヨハンネスのハミングにソプラノでハモリを口ずさみながら、ステップを踏んだ。
「っはは、さあ、」
ヨハンネスがコンスタンティンを持ち上げてクルリと回転すると、また優雅な流れるようなステップを踏んだ。
2人は、夜更けまで、終わらないダンスを寒い応接間で楽しく踊った。
そんな、貧しくとも楽しい生活を送っていたコンスタンティンだが、周囲からは悪妻と呼ばれていることに暫く気がつかなかった。
「コンティ、あなたいつから散財するような性格になったの?」
コンスタンティンは、毎年のように妊娠と出産を繰り返していたが、生まれた子らは次男以外、みな早逝してしまっていた。
今は、6回目の妊娠中であった。
「お姉様、どういうこと?」
ウォールの音楽家の端くれである姉が、天才ヨハンネスが金の無心をして歩いているのは、娶った嫁が散財して働かない悪妻だからだ、そんな噂が帝都中に広がっているのを耳にして、婚姻後会わなかった妹の家にやって来たのだった。
その家は、帝都の高級住宅街にあって広く立派で、豪奢であった。
しかし、その中から出てきたコンスタンティンは解れを縫い直したみすぼらしい服を着て、結婚式で会った時より二回りも痩せて小さくなっていた。
「こ、コンスタンティンあなた、どこか悪いの?」
あまりに青白い顔色に痩せて薄くなった体だったので、病身のように見えた。
「いいえ、今、悪阻が酷くて何も食べれないの」
「あ、あなた、妊婦なの?そんなに痩せてしまって腹の子は大丈夫なの?」
姉のロイジアは、とても妊婦に見えない妹が心配になって、ベッドに休ませ、何か栄養のつくものを食べさせようとキッチンへ行くと、そこには固くなったパンと干からびたニンジンしか置いてなかった。
その日、ロイジアはコンスタンティンの家でヨハンネスが帰ってくるのを待っていた。
市場で買ってきた材料で、ミルク粥を作って食べさせてコンスタンティンと次男を寝かせ、ヨハンネスが帰ってくるのを今か今かと待っていた。
夜も更け、かなり遅い時間に、派手な流行の服を着た酔っぱらったヨハンネスが帰ってきた。
「ヨハンネス」
ロイジアは大して親しくも無い義弟を、低い声で呼び捨てにして、髪を逆立てて怒りに満ちた顔で睨み付けた。
「あ、あれ?ロイジア、どうしたんだい。家を間違えたかな?」
ヨハンネスが驚いて、家の外に出ようとするのを体を張って止めると、
「間違って無いわ、貴方の家よ。ねえ、貴方、この服は最新のサロンで作られた物だと思うのだけれど、そのお金はどうしたの?」
金糸銀糸で細かい刺繍を施された上着の襟を皺になるほどギュッと握ってそう聞いた。
「ああ、借りたのさ。昔から懇意にしている石工集団に融通してもらっているんだ。この家も彼らから借りている。どうしたんだい、お金の話なんて」
人の家の家計に妻の姉と雖も口を出すのは、マナー違反である。
マナー違反であるが、妹も甥も食べる物も無く死にそうな顔をしているのに、家長たるヨハンネスが妻子を省みず、しかも妊娠中の妻を気にもせずに遊び歩いていることを知って、放っておくことは出来ないと、ロイジアは怒りに体を震わせながらヨハンネスに物申しているのであった。
「ねえ、貴方は知っているのかしら、コンスタンティンが悪妻とウォール中で悪い噂をばらまかれていることを。散財して遊び歩いて、不貞している酷い女に、天才ヨハンネスの才能をダメにされているって、騒がれているのよ。実際に遊び歩いて散財しているのは、ヨハンネス貴方じゃない!」
ロイジアはその通る美声で、怒りに任せてヨハンネスに言い募った。
「え!!!!!」
ヨハンネスはその言葉に、一気に酔いが醒めた。
「お姉様、その話は本当なの?」
突然、ドアから入ってきた青白い顔のコンスタンティンがロイジアに尋ねた。
「コンスタンティン!」
ヨハンネスがコンスタンティンの側に駆けていき、その手を取りソファへと座らせた。
「今日は起き上がれるの?大丈夫?」
心配している様子で顔を覗き込むヨハンネスの姿に、ロイジアは不思議に思った。
「ねえ、あなた妊婦に栄養のあるものを食べさせようとは思わないの?この家には固くなったパンと干からびたニンジンしか無かったのよ。クヌーバーだって食べさせなきゃ飢えて死んでしまうわ。なぜ自分が飲みに行く金で、家族に食事を摂らせないの?」
率直に聞いたロイジアに、
「ええ、今日はサロンコンサートに呼ばれたのです。幾ばくかの金が入ったので、明日には食べれる物を買おうと思ってたのです」
ヨハンネスが悲しそうに返事をした。
「ねえ、貴方のサロンコンサートが幾ばくかだなんて、本当なの?」
神童と呼ばれたあのヨハンネスのサロンコンサートである。普通であれば、1回で1年は平民が余裕で暮らせるほどの金額が支払われるはずだ。
しかし、ヨハンネスがみせたのは、端役のオペラ歌手の出演料のような物であった。
「こんな金額しか払われなかったというの!信じられない」
ロイジアが顔を歪ませて、ヨハンネスに言った。
「ねえ、コンスタンティンの噂を撒き散らしているのは、貴方の父親よ。
そして、恐らく仕事の依頼に圧力をかけているのは、教会ね。あなたの言う石工集団は、教会の外部団体なのよ。善意に見せかけてこんな広い家を貸しお金を貸し付けているでしょうけれど、きっと高利子が掛けられているはずよ。コンスタンティンが散財しているから破産したなんて話にしたいのでしょう。
でも、残念ね、もうコンスタンティンは連れて帰るわ。
可哀想に、このままだと、悪妻の評判の中、この子殺されてしまうかもしれないわ」
「お姉様、そうなんですか?でもなぜ殺されるなんて物騒な。教会がそんなこと為さるはずないでしょう?」
コンスタンティンは驚いて姉に聞いたが、ロイジアは首を振って、
「いいえ、決しておかしなことでは無いわ、コンティ。教会は、ヨハンネスを取り戻したいと思っているのよ。彼の父親もそう。愛しいヨハンネスを拐ったコンティ、あなたのことを魔女だとでも思っているのでしょう。魔女裁判のように火炙りには出来なくとも、悪い噂で貴女を苦しめて心を壊したいのよ。もう帰っていらっしゃい。親には私が話すわ。もう、貴女は頑張ったわ」
そう言った。
「どういうことなの?話が見えないわ」
コンスタンティンが青い顔を更に青くしてヨハンネスに聞いた。
「っく、コンスタンティン、すまない」
ヨハンネスが目に涙を一杯にして、コンスタンティンにすがり付いて謝罪した。
「何を謝っているの?」
コンスタンティンは何か良くないことが起きる予感に震えながら聞いた。
「僕が巻き込んでしまった。貴女を、あなたが、標的にされるなんて思ってもみなかった。これでは、マリアンナ様と同じじゃないか」
ヨハンネスが、泣きながら話し始めた。
ヨハンネスの父親は下位貴族の庶子だった。
文官にしようと父親は大学にも通わされたが、卒業目前で彼が選んだのは音楽だった。
音楽を学ぶが、ヨハンネスが生まれると自分の才能の限界を知って、ヨハンネスの教育を最優先するようになった。
しかし、それは鬱屈とした、父親の自己投影に過ぎなかった。
年頃になると、教会音楽に飽きがきたヨハンネスは、もっと自由な音楽を求めて、歌劇や歌曲を書くようになったが、そんな下劣なものを認めないと父親と喧嘩状態に陥った。
そして、家出同然でコンスタンティンの家に居候することになったのだ。
一旦は、ヨハンネスの新たな音楽に理解を示したようなふりをした父親の元に戻ったが、やはり幼少期のように自分を操作操縦したい父親に反発して、完全に家との縁を切ってしまった。
その時期、一人前に認められる為にも伴侶が必要と思っていたヨハンネスが、ウェーヴァー家に嫁取りにやって来たのだった。
「え、じゃああの時の母との会話って、本心?あなた、お姉様が好きだったんでしょう?」
「いいや、初めの時も、その次も別にロイジアが好きだったことは無いよ。初めからコンスタンティンを娶ろうと思って行ったんだが」
「え?だって、お姉様の方が美人でソプラノ歌手で」
「僕から一度もロイジアの名前を出したことは無い。だいたい、父も教会も、ロイジアも僕を求めていないだろ。音楽の神様に近づきたいだけさ。僕を見てくれたのは、君とマリアンナ様だけだ」
ヨハンネスが、アレス王妃とコンスタンティンを並べて言った。
「そんな王妃様と同等なんて、不敬だわ」
コンスタンティンが眉を寄せて非難した。
「マリアンナ様も悪役王妃として悪く言われて。コンスタンティンまで悪妻だなんて。僕は間違えてしまっていた。もう間違えない。ロイジア、申し訳ないが、コンスタンティンとクヌーバーを明日、連れて行ってくれ」
ヨハンネスが涙を袖で拭き、真剣な眼差しでロイジアに願った。
「ヨハン、」
「コンスタンティン、私は貴女をずっと愛している。しかし、その方法を間違えてしまった。すまなかった。でも次は、間違えない」
「なにをするつもりなの?」
「安心して。僕の全てをかけて貴女を守るから」
ヨハンネスはコンスタンティンを抱き締めながら、確かめるように、ゆっくりとそう告げたのだった。
その日、ヨハンネスはアレス王国の中央広場の奥にそびえ立つ大聖堂で、パイプオルガンを奏でていた。
ロイジアが家に来た晩、サロンコンサートの後に、石工集団に作曲を依頼された曲である。
石工集団は、ロイジアの言うように神聖教会の本部があるバジガン聖国から派生した一派であった。
秘密の儀式を行って、神とのコンタクトを取らんとしていた集団であった。
彼らは、羊飼いを祖先に持つ者に替わって、神から地上の支配の代行権を奪わんとしていた。
神から代行権を貰うために、神とコンタクトを取る為の儀式が必要だった。
それには、羊飼いを祖先に持つ者を生け贄にして、神へと繋がる音楽が必要だった。
天文学、数学、幾何学、神学、そして音楽。
神へと繋がる為に必要な学問を長年研究し、その日、その場所で生け贄の血を神に捧げ、そして願いを叶えて貰うつもりだった。
その為にヨハンネスに曲を依頼したのだ、『鎮魂歌』を。
眠る暇も惜しんで、ヨハンネスは曲を書き上げた。
そして、マリアンナの処刑の時に、その曲をアレス王国の神聖教会で幻想的に弾き続けた、己の命を賭して。
そうして、マリアンナの首が胴体から離れ、血が吹き出し、ゴトリと床に転がった音がした時、
『わたしを呼んだのはお前か』
『お前は何を願う』
「私が神に願うのは、」
黒い霧が教会に充満し、そら恐ろしい声がヨハンネスの頭上から聞こえ、ヨハンネスは目を固く瞑りながら、願いを口にしようとした。
『しかし、残念だったな。羊飼いの子孫の方が一歩早い』
そう言うと黒い靄は霧散して、ヨハンネスの意識は濁流に飲み込まれたのだった。
「ヨハンネス、急に現れても、もうロイジアは宮廷音楽家の元に嫁に行ってしまったよ。もし良ければ、コンスタンティンを娶っておくれよ。良く見たら、顔立ちはロイジーと同じ造作なんだよ、色味が違うだけで」
いきなり母が、ヨハンネスにそんなことを言い出したので、
「お母さん、何を失礼なことを言っているのよ。ヨハンネス様に失礼だわ」
コンスタンティンはそう言って母の意図のわからぬ申し入れを怒った。
ヨハンネスは立ち上がり、コンスタンティンの前に膝を突くと、その手を額に当てて愛を乞うた。
「コンスタンティン、私を私個人として初めて見てくれた人。どうか私の愛を受け入れて。愛してるんだ」
「え?ヨハンネス様、お姉様を愛しているのでしょ?」
コンスタンティンが驚いて、聞き返してきた。
「いや、ロイジアは私の音楽が好きなだけで、私を見てくれた訳ではない。多くの人、親でさえ、音楽家である私しか愛していない。そんな中で、わたしを、下劣で下品でふざけた私を、怒りながらも呆れながらも許してくれるのは、コンスタンティン貴女だけ。私をどうか受け入れて下さい」
ヨハンネスが、真面目な顔をして、愛を囁いてたのは、人生でこの時ばかりだった。
「私でいいの」
自信の無いコンスタンティンが、モジモジしながら聞いてきた。
「君がいい。素直じゃなくて、意地っ張りで、綺麗なソプラノの高音が伸びやかで、愛おしい。君を愛しているんだ」
ヨハンネスの淀みの無い受け答えに、コンスタンティンは壮大に照れて、言葉を忘れてしまった。
「もう、はいかイエスしか返事はしないで」
ヨハンネスが焦れて、そう言うと、
「それじゃあ、同じ意味じゃない。もう、」
コンスタンティンが頬を赤く染めて、
「お嫁さんにして下さい」
そう、しっかりと答えたのだった。
その後、神聖帝国の王女マリアンナが音楽学院を建設すると、ヨハンネスはそこの学長として招聘されることになった。ヨハンネスは帝国で音楽の第一人者となっていた。
コンスタンティンは、毎年のように妊娠出産をして、6人の子供を生み育てたが、帝都では、衛生学というのが広まり、国家衛生士の指導の下、乳幼児の死亡率が非常に改善したこともあり、みなスクスクと育っていった。
親のヨハンネスを越えるような音楽家には成らなかったが、次男のクヌーバーは帝国の宮廷音楽家になって音楽史の端に名を残した。
ヨハンネスは、女帝マリアの前で演奏をした後から、神聖帝国の後見を受けていたので、早々に父親と教会を遠ざけ、演奏旅行は、主にオフィーリア帝国大使が中心になって回っていた。
年頃になると、リンネ王国のフリード王にも贔屓にされ、コンスタンティンとの婚姻後は、神聖皇帝カールヨハン1世から国家音楽家として任命を受けて、受勲した。
神聖帝国のお抱え音楽家として歩んだ2度目の世界でヨハンネスは、バジガン聖国や石工集団から一切の接触は無く、音楽とコンスタンティン、時々マリアンナと向き合うだけの人生だった。
彼は、死の間際も交響曲を作曲していたが、その第一楽章は、ソプラノでの独唱から始まるのだった。
そこには、『コンティ 伸びやかな高音で』そう注意書が書かれていた。
ソプラノ歌手としては一切活動して来なかったコンスタンティンだが、ヨハンネスの前でだけ歌っていたのだろう。
伸びやかな高音で。
この世界で、コンスタンティンを悪妻と呼ぶ者は一人も居なかった。
彼女は、天才に伸び伸びと作曲させた良妻として人々の記憶に残っていった。
それはヨハンネスが、黒い霧に求めた願いであった、のかもしれない。
ヨハンネスの鎮魂歌で呼び出されたのは、神は神でも死神でした。




