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第三話

 

 世界各国が他国から奪う事しか考えてなかった帝国主義の時代、隣国よりも厄介でどうにもならない敵が宇宙の彼方からやってきた。


 1912年4月11日、我々が観測出来ない彼方からやって来た彗星が月に衝突した。

 衝突した彗星は月にぶつかった後、粉々になって地球の引力に吸い寄せられるように地球に降り注いだ。


 救いがあるとすれば、月に衝突した彗星は氷の塊なので地表に落ちる頃には水になっている事。

 そして月に大きなクレーターが出来たくらいで月が崩壊する事が無かった事である。

 もし月が崩壊を起こしていたら地球は恐竜絶滅時の隕石の比では無い被害を被っていたからである。


 少し話は変わるが、地球に存在する水の量は常に一定である。

 水の殆どは海に存在し、一部が気体に、一部が個体になっている。

 その為、個体が液体になったりなどの関係で、水面が上昇したり液体が個体になった事で水面が減少する事はあるものの、基本的に海面の高さは大きく変動しない。

 変動する場合はどんな時か、地球外から大量の水が流入した時である。

 そう、今回のように。


 同年5月、約1ヶ月間止む事のない雨に世界各国政府が疑問を持ち始めた。

 ある程度の天体観測能力のあったイギリスなどは彗星が月に衝突した直後にこのような事態になる事は把握していたが、コンピュータなどないこの時代、それがどのような結果になるか迄は知り得なかった。

 分かってるのは外部からの水の流入によって海水面が上昇する可能性があるという情報だけだった。

 ただ、彼等が知り得た情報は各国政府に一応外交の一環として伝えられた。

 もちろん、日英同盟を結んでいた唯一の同盟国である日本政府にもだ。


 同盟国イギリスからもたらされた情報は当初日本政府内でも意見が分かれた。

 内容が突飛な話だが、あのイギリスが外交ルートを使ってわざわざ伝えてきたのだから信憑性の高い内容だという派と、幾ら雨が降ったとしてもそれが海水面の上昇に繋がる訳が無いという派で、当然割合的には後者が多かった。

 しかし時が経つにつれ、少しずつだが確実に海水面の上昇が海軍水路部により確認され政府に報告された事で海面の上昇が現実味を帯びてきた。

 最もこの時の政府は降り続ける雨により地盤が弱まった事で土砂崩れや河川の氾濫などが日本各地で発生しており、そちらの方が政府的には重要であった。


 1913年5月、彗星が月に衝突してから1年が経ったこの年、イギリスのロンドンにて海面上昇に対処する為に開かれた会議はイギリス政府が国際的組織の立ち上げを提案したが、海面が十数メートル上がろうがなんとでもなるロシアやイギリス主導の国際組織に不信感があるフランス、フランスと仲が悪いドイツ、モンロー主義のアメリカなどが反対し、流れてしまった。

 実際に翌年1914年6月28日にはセルビアを訪れていたオーストラリア=ハンガリー帝国帝位継承者であるフランツ・フェルディナント大公が暗殺された。

 それがキッカケになり7月28日にはドイツ、オーストラリア=ハンガリー、オスマンの中央同盟国とロシア、フランス、イタリアなどの協商国による後の世で欧州大戦と呼ばれる大戦が勃発した。


 この戦争は欧州諸国のみで、イギリスや日本、アメリカなどは参加していなかった。

 数年間に渡り降り続く雨と海面上昇の対処に忙しかったからである。

 既に海面は4〜5m程上昇しており、関東平野、濃尾平野、大阪平野などの一部では既に海の底に沈んでおり対策が急務だったからである。


 1915年6月、欧州で一進一退の泥沼な戦闘が続いてる頃ら日英米の国際共同研究チームが現在地球を覆っている微小の彗星群の落下予想を発表した。

 研究結果によると、現在の彗星群が地球の重力により落下し終えるのは今から約15年後の1930年頃と予想し、海面は当初より約40メートル程上昇すると予測した。


 この予想に世界各国は衝撃を受けたが、それは勿論日本政府もである。

 この予想が正しければ関東平野は群馬や栃木を除いてほぼ全て海の底に沈み、濃尾平野はその浸水域を岐阜の一部まで含み、大阪平野に至っては大阪府の山岳地を除き全て海の底に沈む結果だからである。

 更に京都盆地まで沈み、北海道では石狩平野が海に沈む事で北海道が二分される事になり、それは福岡平野と築紫平野が沈む九州もだった。


 その中でも特に日本政府が注目したのは日本の古都京都である。

 1915年現在は水没こそしてない京都だが、約5年後の1920年頃になると淀川から逆流してきた海水により京都盆地の約8割が水没すると予測されていた。

 しかし逆に言えばこの淀川付近さえ塞げば京都は水没しなくて済むという事である。

 幸いにも大阪平野から京都盆地を繋ぐ大山崎は北に北摂山地、南を生駒山地に挟まれた場所である。

 北摂山地も生駒山地も特に標高は高くない山地だが、それでも数百メートル級の山々が連なる山地であり、40メートル程度の海面上昇なら十分に問題ないレベルであった。


 国際共同研究チームの発表から3ヶ月後の9月、日本政府は京都盆地を海面上昇から守る為に北摂山地の天王山と生駒山地の鳩ヶ峰山を結ぶダムを建設する事を決定した。

 しかし全長1500m、全高60m、幅100mという前代未聞の大きさのダムを造る土木技術は日本には無かった。

 その為、日本政府はアメリカ政府やイギリス政府、更には現在も戦争中のドイツ政府やフランス政府にも協力を要請した。


 結果、アメリカ政府とイギリス政府、ドイツ政府が日本政府の求めに応じ、技術協力や専門家の派遣を行った。

 1916年3月に日本政府は大山崎ダム(仮)の建設に本格的に取り掛かり始めた。


 1917年、海面上昇から約5年、既に海面は当初より10m上昇した。

 一進一退の攻防が続いている欧州大戦だが、全く動かない西部戦線と違い東部戦線では動きがあった。

 帝政ロシアにて革命が発生したからである。

 軍の一部までもが反政府側に寝返った事で東部戦線の維持が不可能になったロシア政府は史実よりも1年早くドイツ政府とブレスト=リトフスク条約を締結し、大戦から離脱した。

 最も、1917年度中にロシア帝国政府は革命を武力をもって弾圧し、革命は防がれたのだが、革命の余波もありロシアに大戦に復帰する力は残っていなかった。





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