午後遅く•橋の上で待ち合わせ
デニスは姉に持たされたミートパイを入れた籠を抱えて、花咲く道を急いでいた。おやつを一緒に食べる約束をしているのだ。橋の向こうの魔女の子と。
橋向こうには深い森が広がっている。村の生活を豊かにしてくれる大切な森だ。
森の奥には代々魔女が住んでいる。どの世代もとても賢い魔女で、村のみんなの相談に乗ってくれる。
今では鉄道が通り、お医者様が町から来てくれるから、大きな怪我や病気は魔女の仕事ではなくなった。しかし、日常のちょっとした相談事や、軽い病気の薬は、今でも魔女に頼る村人たちなのであった。
当代の魔女は、旦那さんが騎士である。先代は魔法使いだったので、お父さんは毎日世界のどこからでもひょいっと帰ってきていた。
夫婦2人がかりで家の中を魔法で広くしてしまい、家族6人がわいわい暮らしていた。
だが、魔女の家は魔女が主人の魔法存在だ。当主が変われば、先代が勝手なことはできない。
残念ながら当代の力では、家を広くすることができなかった。そこで、先代が引退するとき、当代以外の家族は大きな町に引っ越してしまった。
お父さんの魔法で、時々一家総出で訪ねてくるので寂しくはない。兄弟の家族や友達まで連れてくる。友達の中から気の合う人を見つけて、当代の魔女は騎士と夫婦になった。
魔女の子はお年頃である。ひとりっ子なので魔女を継ぐことは決定だ。幸い才能も充分にあり、家伝の魔法や知識の習得に余念がない。
けれども娘らしい華やかな生活にも憧れがある。お祖父さんにねだって大きな町へ遊びに行って恋もしたし失恋もした。
村の子供達よりも、彼女はだいぶ大人びていた。
デニスが彼女に出会ったのは、風邪によく効く薬を買いに魔女の家まで行った時だ。彼女は当代を手伝って、壁際の調合台で薬研(薬などを轢く道具)をごりごりやっていた。
すらりと伸びた長身に、洒落た格子の服を着て、背中には纏めた髪を麦藁色に垂らしている。低めの鼻がちょこんとついた横顔は、大人びているのに愛らしい。窓から入る夏の風に、僅かに溢れた前髪が優しく踊っていた。
「これ、お代とは別に持ってけって、母が」
デニスは蝋紙に包まれたチーズの塊を、当代の魔女に差し出す。物々交換の習慣は廃れたが、気持ちを上乗せする時には何か良いものを持ってゆく。そういう人情の残る村であった。
「まあ、ありがとう。ウルリケ、お前の好物だよ、お礼おっしゃい」
魔女は、薬を潰す跡取り娘に声をかける。娘は振り向き、優雅な微笑みで会釈した。可愛らしい顔立ちに不似合いだなあ、とデニスは残念に思った。
「これ、好きなの?美味しいよね」
デニスの人懐こい笑顔に、ウルリケはほんの少し馬鹿にしたような表情を見せた。当代魔女はジロリと睨んで娘を嗜める。ウルリケは素知らぬ顔でまた薬研をごりごり始めた。
デニスはその様子がなんだか痛ましく感じられた。彼は、そういう顔をする人を知っていた。
デニスの家は、村に一つの雑貨店だ。なんでも少しずつ売っている。
納品に来るのは生産業者もいれば運輸業者もいる。遠くからも近くからも来る。
小さな村の小さな店なのに、珍しい品も手に入ると評判の店だった。だから、お客もさまざまなところから色々な人が来た。
そんな中に、かつて住んだ都会の品を懐かしく求めに来る人がいる。ただ懐かしく嬉しく買ってゆく人は良い。デニスも幸せな気持ちになる。
「懐かしいなあ。お父さんが若い頃好きだったメーカーのノートだよ。とても書きやすくて軽いんだ。買ってあげるから、使ってごらん」
「ふうん。ありがとう」
「あら、あら!フルーツボンボンだわ!まさかまた食べられるなんて」
「なになに?素敵ね。透き通って宝石みたい」
「可愛いでしょ?酸っぱいけど美味しいのよ」
「ほんと?あたしも買おうかな」
「おやおや、この針、扱うのかい?これで取り寄せなくて済む!ありがたいねえ」
「こっちの鋏も如何です?メーカー専属の研ぎ職人に、年一度だけど寄ってもらうことになりましたよ」
「ほんとかい?その鋏は持ってんだ。ここで買ったやつじゃないけど、研いでくれるかい」
「研ぎ代はかかりますが、大丈夫ですよ」
だが、中には懐かしい品との再会で急に澄ました顔になる人がいるのだ。一瞬懐かしそうにして、それから少し辛そうにして、最後は何事もなかったかのように。そして、そんな人たちは、デニスたち店の者に、決まって素っ気ない。
彼らは、どこか遠いところで傷ついて村にやってきた人々なのだ。帰ってきた人もいれば、移り住んできた人もいる。
移り住んできた人は、あてどない旅の途中、人情に触れて住み着くのだ。彼らはやがてこの村に馴染み、笑顔を見せるようになる。
初めてウルリケを見かけてからしばらくして、デニスの店でハーブティーを扱うことになった。町で流行っているそうで、村の娘たちにも人気なのだ。町のトップメーカーから入荷した新商品を求めて、ある日ウルリケがやってきた。
家伝のレシピをアレンジしたウルリケのブレンドは、村で評判であった。だが、流行の素敵なパッケージはやはり持て囃されるのだ。そして、ウルリケ自身も参考にしてきたメーカーなので、新商品を個人で取り寄せずに買えるのはありがたいと思った。
ウルリケは、黙って買いに来て、黙って帰ってゆく。この村で魔女を継ぐことに不満はないが、そこがいつも恋の障害になっていた。それがどうしても、自分の中で納得できていないのだった。
ウルリケは、都会の洗練された男が好きだ。しかし、どんなに背伸びしてみても、彼らは次第に魔女と話が合わなくなる。
ウルリケの魂は、森を離れることが出来なかったのだ。
それは、森の魔女の宿命だ。その魂を持つからこそ魔女を継げるのだ。母である当代の魔女は、4人の兄弟姉妹の中で唯一魔女の魂を持って生まれた。不思議なことに、どの世代でも必ず一人はそういう女の子が生まれる。
森を離れられず、森の魔法に魅せられ定住するしか、彼女たちには出来ないのだ。
ある日のこと、デニスはお得意さんに新商品を試供品として配っていた。姉の焼いたミートパイである。
姉は都会に出たことはない。しかし、本を取り寄せたり、都会で様々な技術を学んできた村人たちから教わったりして、美味しいお菓子や軽食を作っていた。
今のところ、姉の作ったものはデニスたちの店で売っている。しかし、姉は村の若者と所帯を持っていたので、独立して店を出すにしても村から出ることはない。そこもまた、村人たちが応援する理由となっていた。
ウルリケはいままで、デニスの姉が作る食べ物にまるで見向きもしなかった。だが、鮮やかに試供品を切り取るデニスの手つきに、思わず見惚れてしまい、気がついたら受け取っていた。
それは、茶色い紙に包まれた少し寝かせて食べごろのパイのひときれ。見た目はなんの変哲もない、村伝統の飾り模様が刻まれた、野暮な照りのある茶色い三角。
「これは新発売のハーブティーよりも、森の魔女伝統の薬草茶にれんげの蜂蜜を入れたもののほうがあいますよ」
無視されようが気にせずに、愛想良く提案するデニス。彼の言葉は単なる営業だけではなかった。魔女とは命の秘密に触れるもの。ウルリケには、デニスのセンスと真心が魂の深いところで響いたように感じられた。
そんなことが一度あっただけ。
個人的な交流はない。
ウルリケが拒絶してきたからだ。
ウルリケはその日から、伝統の薬草茶にれんげの蜂蜜を入れては、買ってきたミートパイをお茶受けに食べるのだった。
ウルリケは、今でも時々町にゆく。しかし、町で出会うどんな男も、デニスより劣って見えた。かっこいい騎士団長も、お金持ちの商人も、お洒落な貴族も、賢い学者も。
誰と話していても、ミートパイを買う時に交わすデニスとの一言二言には比べることなどできないほどだった。
ウルリケは、どうして良いかわからなかった。町の男は、ウルリケが流行の服装で賢げな、あるいは気の利いた受け答えをするだけで、物をくれたりお茶に誘ったりしてくれた。
だが、デニスは違う。デニスから誘うどころか、おそらく異性と思われてすらいない。ウルリケはデニスにとって単なる「ミートパイのお客さん」だ。
ウルリケが買うのは、デニスが得意としている文房具ではない。デニスから見れば、姉のお客さんである。
苦しくて、せつなくて、ウルリケはますますデニスと話すことが難しくなってしまう。それでもデニスは、馬鹿にせず、嫌悪もせず、柔和な笑顔で対応してくれる。
「ウルリケさん」
デニスのいる店からの帰り道、ウルリケは呼び止められて驚いた。
今日も話せなかった。でも、一言口はきいた。ください、どうぞ。だけであっても。
そんなことを考えていたので、純粋に声をかけられたこと自体にびっくりした。
だが、その声がデニスの姉のものだったので、予想外の出来事に思わず動きを止めてしまった。
「ウルリケさん、いつもミートパイを買ってくれてありがとう」
デニスと同じ柔和な声。
振り向くウルリケも、柔らかな笑顔になる。そんな自分にまた驚く。
「とても美味しいです」
これは本心だ。
「デニスに勧めてもらったお茶と合わせるのが、大好きです」
言ってしまってからウルリケは、ハッとして俯く。耳が熱くなる。
食べ方を好きと言っただけなのだが、その根っこには恋心があるのだから。
「ふふっ、焼きたても食べてみたくない?」
デニスの姉は、悪戯そうに笑う。
「はい!是非」
ウルリケは、都会の恋を知っている。姉の誘いの心のうちも察しがつく。
またとないチャンスだ。
自分から行動出来なかった不甲斐なさはある。しかし、これを逃したら、次いつチャンスが巡ってくるかわからない。
デニスは素敵な男だ。
見た目は茶色いくせのない髪に、素朴な緑の瞳。中肉中背のどこにでもいる青年だ。
だが、ウルリケにとっては、誰にも変えられない最高の男だ。
彼の接客を見て、彼が道で友達と話すのを聞き、彼が当代の魔女に薬や薬草茶を求めに訪ねてくるのを待ち構え。素知らぬ風で伺ってきた。
彼に恋人はいない。友達はいるが多くはない。何故だろう?珍しいものを求めてわざわざ村の小店にやって来る町の人気者とも、仲良くしてはいるが親友というほどでもないらしい。
きっと、互いに牽制しあっているのだわ。
ウルリケはそう決めつけていた。
そして、恋人が出来てしまうのではないか、とやきもきしていたのだ。
ウルリケは、可愛らしい乙女であった。背伸びしきれず不器用に傷つく、少女らしい少女であった。
見た目のスッキリした美しさに惑わされずによく見れば、その内面は容易く見抜けた。
少なくともデニスはそう思っていた。
ある日姉に招かれて、森の広場でピクニックをした。ウルリケがいた。精一杯のお洒落をしていた。可愛らしい三つ編みを頭にぐるりと巻いて、キラキラした小花の形の飾りを散りばめている。
デニスはすっかり笑顔になった。それを見たウルリケは、真っ赤になって俯いた。
姉のミートパイは、今日は小さい。焼きたてが冷めないうちに食べられるように、崩れたり潰れたりしないように、切り分け不要の大きさだ。
籠にきちんと詰められたミートパイは、薄紙で待たないと火傷するほど熱い。
ふたつに割ると、ほのかなスパイスが香り、真っ白な湯気がたちのぼる。
「今日はクランベリージュースでめしあがれ?デニスが今朝しぼったのよ」
「意見きかせて?美味しかったらお店に置くんだ」
人気の可愛らしいカットグラスにたっぷり注がれた、真っ赤なジュースが夏の陽射しに煌めきを放つ。ウルリケはうっとりと目を細めて受け取った。
そっと上品に口をつけ、にこりと笑うウルリケに、デニスはさらに笑顔になった。
デニスは、橋への道を急ぐ。籠には姉のミートパイ。ポケットにはビロード張りの小さな箱。
今日はウルリケとおやつを食べる約束がある。
森へと渡る橋の上、可愛いあの子と待ち合わせ。
素直になれない時もあり、やっぱり背伸びもするけれど、可愛いあの子の微笑みは、もう冷たく優雅なものではなかった。
ほら、あの子が手を振った。
大人びて結い上げた麦藁色の髪の下で、優しい眉毛が笑っている。
お読みいただきありがとうございます