第九話 始まり
ようやく、異世界転移しました!
青。いや、碧だろうか。白い雲一つない、清々するぐらいに澄み渡った空だった。
そよ風が髪を揺らし、耳をすますと、鳥のさえずりが聞こえてくる。そこに、自動車の出す煙も、人々の喧騒も存在しない。どこまでも広がっているようなこの大自然が、俺たちが異世界へやって来た証拠のように思えた。
手元を見ると、左手にはこの景色には似合わないメタリックなスーツケースが、右手にはこれから人生を共にする少女の手が握られている。転移は無事にいったようだ。
俺は起こすのが気が引けるぐらいに気持ちよさそうに寝ているフィリアの肩を軽くたたくと、声をかけた。
「フィリア」
「……雪陽さん」
フィリアがゆっくりと瞼を持ち上げる。その奥の黒く大きな瞳と目が合った。
「ここは……?」
「多分、異世界。転移は無事成功したみたいだよ」
そう告げると、フィリアは呆けたような夢見心地な表情をした。
「いよいよ来てしまいましたね」
「フィリアが来てほしいって言ったんだろ」
「はい、これからはずっと一緒です……」
フィリアが蕩けた笑みを浮かべた。
「もうちょっと寝ていたい感じ?」
「そんな感じもしますが、雪陽さんともっと近くにいたい感じもします……」
「十分近くにいると思うけど?」
「じゃあ、ハグしてください」
「なにが「じゃあ」なのかわからないけども」
俺はスーツケースを手放すと、フィリアを引き寄せて、優しく抱きしめた。
「ふあぁぁぁ~~~」
フィリアが言葉になっていない気持ちよさそうな声を出した。
「なんか、猫系のペットみたいだな」
「好きな人の腕の中にいたら、誰だってこんな声出しちゃいますよ……」
何気なく放たれた言葉に、内心動揺してしまった。
「雪陽さん、心臓バクバクなってますけど、大丈夫ですか?」
……早速、気づかれました。
「べ、別に大丈夫だ。それより、これからどうする?」
「どうしましょう……町でも目指しますか」
「そうするか」
俺は名残惜しそうにこちらを見るフィリアの抱擁を解くと、スーツケースを持って立ち上がった。
辺りをぐるっと見回してみる。360度、遥か彼方の地平線まで黄緑色の草原が続き、遠くには峻しい山脈が見える。一周回って、呆れ返ってしまうほどに爽快な景色だ。
「町どころか、なんにもないんだけど」
「本当に、なんにもないですね~……」
フィリアもポカンと口を開けながら、目の前に広がる大自然を見ていた。
「やっぱり、もう少しお昼寝しましょうか」
「いや、俺達食べ物どころか、水さえ持ってないんだよ?」
再び横になろうとするフィリアを止めた。
「えっ、てっきりそのスーツケースに入ってるのかと」
フィリアが俺の持っているスーツケースを指差した。
「悪いが、ドキドキワクワクの異世界転移にお水持ってくるほど、用意周到じゃないんだよ」
「じゃあ、私たちこのままだと餓死しちゃうんですか!?」
異世界に着いてからずっと呑気だったフィリアの表情が強張った。
「そうならないために、町に行くんだろ」
「はい! 初日から野宿なんてイヤですから!」
幸い太陽と思しき物は、まだ高い所に位置している。この感じだと、日が暮れるまではまだ時間はありそうだ。
「でさ、フィリア」
スタスタと俺の前を歩きだしたフィリアを呼び止めた。
「どこ、目指して歩く……?」
無限に続いているように見えた草原だったが、幸運な事に日没寸前で小さな町に辿り着くことができた。
ネット小説でよく見かける、ファンタジーお決まりの中世ヨーロッパといった雰囲気の町っぽく、周囲を城壁が囲っている城塞都市だ。
門の側まで来ると、槍を持った衛兵がこちらに近づいてきた。
「中に入る場合は町民証の提示を。持っていない場合は、そこにある事務所で滞在許可証を発行してもらってください」
「すいません、とりあえず、お水もらえませんか……?」
「お茶ならありますが……」
俺たちの様子に若干戸惑いながらも、衛兵は腰に下げている水筒を渡してくれた。
中身を半分飲み、フィリアに渡す。フィリアも、安堵からか涙が出そうな表情で中身をコクコクと飲み干した。
「あなたは命の恩人です!」
空になった水筒を丁重に衛兵にお返しした。
「お水でしたら、事務所の方でもいただけると思いますよ」
「本当ですか!?」
フィリアとパァっと輝いた顔を見合わせると、疲れも忘れて、俺たちは事務所までダッシュした。
「こちらが許可証になります。この町を出るまで失くさないようにしてください」
出された水を飲みながら、俺たちは許可証を発行してもらえた。
「なお、滞在期間は二週間となっていますので、延長したい場合は、再度この事務所までお立ち寄りください」
「あの、僕達二人とも、お金持ってなくて、一晩しのげるようなところはないでしょうか」
「そうですね……とりあえず、町役場に行ってみてはどうでしょう」
事務所の人から渡された簡単な地図を頼りに、俺たちは町役場へ行くことにした。
日も沈みかけているので、寝床の確保は最優先事項である。
通りには居酒屋や露店などもあり、結構賑わっていた。お金があったら、チキンでも買って食らいついていたことだろう。
お店を見てまわりながらしばらく通りを歩くと、目的地である町役場に到着した。
中に入ると受付のようなカウンターがあるので、そちらへ向かう。
「すいません、寝泊まりできる場所を探しているんですけど、今お金がない状態で……どうにかなるでしょうか?」
「観光の方でしょうか?」
「えー、はい、そうです」
一文無しで観光客というものふざけた話だが、ひとまず話を合わせる。
「失礼ですが、御名前と年齢をお聞きしても」
「空野雪陽、17歳です」
「フィリアです。年齢は不明です」
「ありがとうございます」
受け答えの中にツッコみたい箇所があったが、今はスルーして話を進める。
「どこから来られましたか」
「どこから……向こうに広がる草原からです」
「草原から来られたのですか?」
「はい、そうですけど」
「し、しばらくお待ち下さい」
受付の男性が慌てた様子で奥へと消えていった。首を傾げてフィリアを見るが、フィリアもまた同様に首を傾げている。
「てか、さっきの年齢不明って何だ? 実は六十過ぎたババアで、咄嗟に年齢誤魔化したとか?」
「違います! 神世界は次元の異なる複数の世界に干渉しているため、時間が不規則に流れるんです!」
「じゃ、じゃあ、もしかして5歳とかっていう可能性も……?」
「可能性が全くないわけじゃないですが……もしかして、雪春さんってそういうのが好みなんですか?」
「断じて違う! 俺は同い年の女の子が好きだ!」
「そ、そうなんですか……」
フィリアが若干引いていた。勢いで何を口走ってるんだ、俺。
「べ、別に高校生が同い年の子が好みでも、何も問題はないだろ」
「5才児を好みとするよりかは、ずっと健全ですけど」
なんとも微妙な空気になったその時、奥から髭を生やした初老の男性が現れた。
「お二人が草原からやってこられたという観光客の方ですか?」
「はい」
「では、こちらへどうぞ」
そういって、男性がカウンターの奥へと俺たちを促す。なにかされるわけではないだろうと思いながらも、少々警戒心を強めて中へ進む。
初老の案内の元、カウンターの奥に伸びる通路を少し進んだ所にある部屋に入ると、精緻な装飾が施された壺や世界地図など、この町に来てから見てきた中で、最も高価であろう調度品がいくつもあった。テーブルを挟んでソファーが対面にあることから、おそらく応接間だろう。
「どうぞ、お座りください」
低いが通る声で初老に促され、二人並んで腰を下ろす。
「ようこそアリヴェへ。この町の町長をしております、ジェロックと申します」
「空野雪陽です」
「フィリアです」
お互い軽く会釈をする。
「もうすぐ夜になってしまうので、早速本題に行きたいと思います。お二人は草原からやってこられたのですね」
「はい、あのだだっ広い草原から」
「その草原なのですが、私たちの間では迷いの草原と呼ばれているのです」
「草原なのに迷うんですか?」
ええ、と頷きながら、白髪交じりの初老は近辺の地図を取り出した。
「町からまっすぐ草原を歩いていると、気が付かぬ間にアリヴェの町に戻ってくるのです。それだけでも不思議ですが、さらに不思議な事に、数年に一度、迷いの草原からあなた方のような人が現れるのです」
「ちなみに、以前はどのような方が?」
「5年ほど前に、この辺りでは似つかわしくないような金属製の鎧を身に着けた騎士様が訪れました」
その言葉を聞いて、自分の服装を確認する。Tシャツにジーパンというオーソドックスな格好だ。もちろん、この世界には似つかわしくない。
フィリアは小さなフリルがあしらわれた白いブラウスに、膝丈の黒いスカートだが、やはりこちらの世界においては場違い感がある。
「ちなみに、その騎士様は今は?」
「王都直属の騎士団の副団長になられたと聞いています」
草原から現れたなんの身分のない人間が騎士団の副団長になったのだから、世間一般的には超大出世だろう。
「世間の人もあなた達と同様、大変驚きました。しかし、実際に彼を見た私たちからすれば、副団長になってもおかしくない、もしかしたら団長にすらなってしまうかもしれない、と思わせる人物でしたよ」
「身体がすごく大きかったんですか?」
「いえ、身体が大きいというわけではありません。雪春さんと同じか、さらに小さいぐらいだったと思います。ですが、むしろそのことが、彼をより不気味に感じさせました」
「といいますと?」
「その当時、私たちはこの町を流れる川の流水量の減少による水不足で悩まされていたのですが、そのことを彼が聞くと、馬など到底敵わないようなスピードで町を飛び出し、一時間後、彼が町に戻ってくるころには、川の水は元通りになっていました」
人間では不可能と思われるスピードで走り、問題の原因であろう土砂や落石などを一人で片付けられるだけの怪力の持ち主。この世のものではないと言っても過言ではないだろう。
というか、おそらくこの世のものではない。
「そのようなこともあって、もしかしたらあなた達方も騎士様と同じく、何か特別な力を持っているのではないかと思いまして」
ジェロックさんが少し期待の色が見える瞳をこちらに向ける。が、こちらはなにも心当たりがない。
「すいませんが、これといった能力は何もないです……」
「あります」
唐突にフィリアが名乗り出た。
「どのような力をお持ちで?」
「そうですね……せっかくなので人助けになるようなことが出来ればいいんですけど」
「そういうことでしたら、是非お願いしたいことがあるのですが」
ソファから立ち上がり、「私に付いてきてください」と言うと、ジェロックさんは役場の外へと歩いていった。
追記:3月22日に一部修正しました。