第八話 旅立ち
フィリアが神世界に帰った後、俺は家族の顔を見に、今住んでるアパートから電車で一時間半ほどのところにある実家に来ていた。
実家は山を越えた町にある豪邸で、従業員百数十人の中小企業の社長だった父方の祖父が建てた物だ。
駅から坂を上って、家に到着する。久しぶりに門の前に立つと、こんなでかい家に十五年も住んでいたのかと、改めて思わざるを得ない。
門を開けて入ると、庭には夏の暑さにもめげずに咲く花々が見えた。
懐から家の鍵を取り出し、差し込んでカチャリと捻る。
ドアを開けると、幼い頃からの家政婦である恵子さんの姿があった。
「まあ、久しぶりね、雪陽くん」
「お久しぶりです。今、母さんいますか」
「陽子さんなら、まだ仕事から帰ってきてないわよ。もうそろそろかしら」
やっぱりまだかと思いつつ、脱いだ靴を揃えて、廊下を進んで自室に向かう。ドアを開けると、懐かしい匂いがした。
「夕食、雪陽くんの分は必要かしら」
「はい、お願いします」
恵子さんに返事をして、ドアを閉める。高1になると同時にお別れとなったこの部屋だが、定期的に掃除をしているのか、たんすや他の家具にも埃が積もっている様子はなく、そのままの状態だった。
長旅というほどでもないが、二時間弱の移動で疲れたせいか、ベッドに身体を預けると、うとうとしてくる。眠気に抗う理由も見つからず、俺は本日4度目の眠りに落ちた。
「起きてください……」
女性の声が頭に響いた。少しデジャブを感じて、目を開ける。
「夕食の用意が出来たわよ」
頭上から俺を覗き込む恵子さんと目が合った。
まだ少し眠たいが、ベッドから降りて、食卓へ向かう。テーブルに着くと、すぐに母さんもやってきた。
「いきなり帰ってきて、なにか取りにでも来たの?」
「別に。なんとなく帰りたくなったから来ただけ」
「そう」
母さんはそっけない返事をして、食事に目を落とすと、いただきますと言って食べ始めた。俺もそれに倣って箸を動かす。
久しぶりの恵子さんの料理は、やはり美味しかった。十五分ほどで食べ終わると、食器をキッチンに下げた。その間、母さんは俺に話しかけることもなく、黙々と手を動かしていた。
「雪陽」
自室に戻ろうとしたその時、母さんが俺を呼び止めた。
「何?」
「あなた、高校出た後の進路は、もう決めたの?」
「まだ、高2の夏だけど」
「早く決めておいて、損することはないでしょ」
「なんとなくは決まってるけど、具体的なのは全く」
「そう」
俺の返事を聞いて、もう話は済んだとばかりに、母さんは食事を再開する。特に何か言うこともなく、俺は自室に戻った。
「んー……」
まだ眠っていたいと訴える身体を起こして、ベッドの横の時計を見る。短針は7の方角を指していた。
にしても、昨日はなかなか寝付けなかった。まあ、二度寝、三度寝と繰り返していたから、当然といえば当然なのだが。
朝ご飯のためにキッチンへ向かう。さすがに恵子さんはこの時間には居ないので、適当になにか作るしかない。
食パンを二枚取り出し、一枚はチーズを乗せてトースターへ、もう一枚はジャムを塗り広げる。
昨日とほとんど変わらない朝ご飯を、静かな食卓の中、一人で食べた。こっちの方が高い食材を使っているはずなのに、何故か昨日の朝ご飯の方が美味しく思えた。
食器を洗って元の場所に戻し、目も冴えた身体で自室に戻った。
「さてと……」
俺はクローゼットを開けて、中から季節外れの厚いコートと、ジーパンを何着か取り出した。また、アルバムの中から、家族と恵子さん全員で映っている写真を何枚か抜き取った。それと、勉強机の中にしまっていた、誕生日プレゼントに父さんからもらった懐中時計も。あ、でも、向こうの世界の一日の長さが一緒とは限らないか。
他にも使えそうな物を、修学旅行以来の登場であるスーツケースに詰め込む。行きと比べて、帰りは随分と荷物が多くなりそうだ。
荷物を玄関に置いた後、見納めに家の中をぐるっと見て回った。父親の部屋をそっと覗いて見たが、やっぱり帰ってきてないようだった。
最後に、自分の部屋からいくつか持っていく、との旨を書いたメモを残して、大荷物と共に俺は門をくぐった。
夏休み前の一週間は、特に何か学校行事があるわけでもなく、授業もどことなく気が抜けた感じで、だらだらと過ぎていった。
そして、週末。フィリアと約束をした日から、ちょうど一週間だ。
土曜の朝にもかかわらず六時に起きて、朝食を食べて、身支度を済ませた。いつフィリアが来ても大丈夫なように。
空港で椅子に座って飛行機を待つように、ベッドに腰掛けてスマホをいじりながら、フィリアの到着を待つ。
せっかくだから、スマホに遺書でも残しておくか。発見されるかどうかはわからないけど。
どこに書こうか迷い、結局スマホのカレンダーのメモのところに書くことにした。
しばらくして書き終わると、時計は八時を示していた。来る気配の無さに、早朝から今か今かと意気込んで待っていた俺が、少し馬鹿らしく思えてきた。
そんなふうに思ってしまうと、鳴りを潜めていた睡魔が、俺をベッドに押し倒した。瞼がどんどん重くなってくる。異世界でも寝心地のいいベッドがあるといいなぁ、なんて思いながら、俺は眠りに落ちた。
「起きてください……!」
微睡みの中にいる俺の頭に、少女の声が響く。
「起きてください、雪陽さん……! ううっ……」
少女の声が嗚咽混じりになる。怪訝に思い目を薄く開けると、フィリアと目が合った。
「雪陽さん!!」
涙で目を赤く腫らしたフィリアが、俺を抱きしめた。
「えっ、な、なんで泣いてるんだ!?」
「なんで、って、雪陽さんのスマホにこんなのが書いてあるから!!」
なんのことだと思い、スマホを見る。すると、画面に触れたまま寝てしまったのか、遺書を書き終えた画面がつきっぱなしになっていた。
「いや、これは、俺の家族に宛ててのやつで……ほら、『僕を産んでくれてありがとう』とか、『新しい世界へ旅立つことにしました』とか書いてあるだろ」
「紛らわしいことを書かないでくださいっ!!」
フィリアが怒っているのか、ほっとしているのか、綯い交ぜになった表情で言った。
「その、無駄な心配かけて、ごめん」
「本当にそう思ってますか?」
「思ってるよ。こんなに心配してくれてありがとう」
俺がそう言うと、フィリアは顔を少し赤くしながら、照れくさそうに下を向いた。
「これから、異世界に転移する準備をします。念のために聞きますが、本当に異世界に行く覚悟はできていますか?」
「ああ、覚悟はできてるよ」
「異世界へと繋がるゲートは約3分間、開きます。その間に持っていきたいものは全てゲートを通してください」
いよいよ、本当に異世界に旅立つのか……
「そういや、ゲートの中ってどうなってるんだ?」
「私も詳しくはわかりません。ただ、異世界へ移動する場合は、移動先の世界の理に沿うように、存在の書き換え『事象転換』というものが行われるので、半身だけゲートの中に入るような真似は絶対にするな、と神様から注意を受けました」
「もし、半分だけ入ったままゲートが閉じたら、どうなるんだろうな」
「文字通り、世界の理を超越した異形のモノが出来上がるんじゃないでしょうか……」
「ちなみに、ゲートを再び開くことは出来るのか?」
「出来ません。一度ゲートを開いたら、その瞬間に天使として世界に干渉する一切の能力を失う、という約束になっているので」
つまり、ゲートを開くと同時に、フィリアは神世界から永久追放になるということか。
「フィリアは神世界に未練だったり、やり残したこととかはないのか?」
「そうですね……仲の良い天使や、親切にしてくださった神様と会えなくなるのは寂しいですが、雪陽さんと一緒に居られるなら全然平気です」
フィリアが俺を見て、ふわりとはにかんだ。フィリアも俺と同じく、覚悟を決めてきたようだ。
「では、そろそろゲートを開きます。私から少し離れていてください」
俺がスーツケースとともに後ろへ下がると、フィリアがその華奢な両腕を真横にピンと伸ばし、そして、勢い良く掌を合わせた。しばらく擦り合わせた後に掌を離すと、両手の間の空間が歪み、大人一人が入れる程の大きさにまで広がった。
「なんか、思ったよりも動作が和風だな」
「呪文でも唱えた方が雰囲気出ましたかね?」
無事にゲートが開き、フィリアがほっと一息ついた。
「私は荷物はないので、先に雪陽さんの荷物を通してください」
「荷物がないって、なにも持って来なかったのか?」
「神世界はこの世界で言う概念みたいな場所なので、形而下の物体がほとんどないんです」
「じゃあ、とりあえず俺のスーツケースから通すよ」
コロコロとキャスターを転がして、グニャグニャと歪み続ける空間まで持ってくる。そして、ゲートに通す寸前、ふと気になる事が頭に浮かんだ。
「もしかしたら、向こうでスーツケースと離れ離れになってしまうことって、有り得る?」
「有り得ないとは言い切れないですね……握っていたりしたら大丈夫だと思います」
「じゃあ、フィリアも俺と手を繋ごう。向こうに着いて離れ離れなんてイヤだしな」
俺が右手を差し出すと、白く小さなフィリアの手がキュッと俺の手を握った。
最後に見納めになる自宅を見回してから、俺はゲートへ足を踏み入れた。
「出発!!」
今、気付きましたが、主人公寝てばかりですね。
ようやく、長いプロローグが終わりました。次回からは、やっと異世界です。