チュートリアル島とかネーミングセンスを疑う
頬をくすぐる感触に煩わしさを感じ目覚めてみれば視界の端には背の高い草花。
青すぎるほど青い空に目がくらみ、瞼を強く閉じた後ゆっくり視界だけで周囲をうかがってみる。どうやら自分は草原で寝っころがっていたらしい。久しく嗅いでいなかった草木の匂いが少し冷たい風に乗って流されてくる。癒される。素晴らしい寝心地だけれどザワザワと人の話し声が聞こえて気になってしまう。上半身だけ身を起こしてキョロキョロ見回してみれば草原には様々な人がいた。青い髪の青年、羊のような角の生えた女性や、竜の翼のようなもので空を飛んでる少女。……様々な人と表現したけれど様々すぎる。けっこうな人数がいるみたいで、みな自分と似たような状況なのか座ったまま茫然としていたり、周囲を見渡していたり、空を飛んでたりする。
これは夢である。そう納得して心地よい草にぼふっと寝転んで瞼を閉じる。面白い夢だしこの不思議な夢に身を任せたくはあったけれど睡眠は大事だ。明日も仕事が早いのだ。私は真面目が売りの仕事戦士。それに夢の中で寝れば二倍眠れるという事じゃなかろうか。ふむ?じゃあ今から寝てまた夢を見たらもう一度夢の中で寝よう。三倍眠れる。天才現る。
……夢の住民めっちゃ五月蠅い。今ウトウトしてたのに空気読んでくれない。ずっとザワザワしてる。なんだここはザワザワ帝国か。住人たちよ、私は眠いのだ。空気読めないと職場で苦労するんだぞ。白い目で見られたあと空気扱いされるんだぞ。辛いんだぞ、と目をつむって内心で説教してみたら効果があったらしい。不思議と徐々に静かになっていった。素直なことはとても良いことです。そのまま真っ直ぐな心で育ち、私の眠りを妨げぬよう静寂に身を委ねなさい。
「ごふっ!!」
お腹に衝撃が走って飛び起きる。痛くはなかったけれどビックリした。住人に腹パンされたのかの思ったけれど違うみたいだ。住人達は静かにタブレットPCみたいな物をいじってる。ふと目線を下げればお腹の上に20センチ四方の黒い石版。これ皆がいじってるやつだろうか。両手で持ってみれば驚くほど軽い。さらさらと手触りが良かったので少々いやらしい手つきで撫でまわしていたら石版の表面に白い文字が浮かんできた。
『異世界への手引き~ようこそチュートリアル島へ~』
一瞬茫然としてしまう。青い空を見上げ静かに深呼吸。異世界もの。小説によくあるジャンルの展開。昔さらっとネットで読んだことはあるけれどファンタジーな世界にやってきた主人公が凄い能力を使ってなんかこう、色々あれして、なんだかんだ最終的にモテるやつである。もしかしたら私も異世界ならモテるのだろうか。自慢ではないが私は真面目で実直な好青年(32)だと内心自負しているが女性にモテた事はない。少々人見知りするので友人もいないわけだがそのへんは置いておこう。置いておくと決めた。悲しくなる。
思考を切り替えて石版と向かい合いぽんぽんとタッチしていくと状況やこの場所の説明文が流れていく。日本語ではなく古代文字のようなもので書き綴られているのにごく自然に読めるのは異世界物のお決まりなのだろうか。ぽんぽん叩きすぎて数ページ飛ばしてしまい慌ててブラウザバックボタンで戻り懸命に読み直す。
知識を仕入れながらも未だこれが夢か現実かを確認するため、視覚で、聴覚で、嗅覚で、いまこの世界を体感する。草は苦かったし頬をつねればほどよく痛い。未だやや混乱気味だけど気をとりなおして石版と向かい合おう。情報、大事。
まず、いまいるこの場所【チュートリアル島】は異世界へ行く前に事前準備として色々学び鍛える場所らしい。たしか小説の主人公達は凄い能力を授かるけれどなんの下積みもなく経験も知識も心構えもない状態で放り出される。それはあまりにも危険だろう。そうならないためのケアなのだろうか、この島で3年間の準備期間が与えられるらしい。モンスターの出る島でサバイバル生活なのだろうかとひやっとしたがどうやらそういうわけでもなく、モンスターは島の中心にあるダンジョンの内部にしか存在ないので侵入しないかぎりは安心安全設計。また、そのダンジョンの周囲には街が広がっており転移者用の家や訓練場などが用意されているとのこと。実にサービスが行き届いている。褒めたい。そしてチュートリアル期間中限定でスキルの成長率が常人の数十倍にもなるというお得なプライス。さらにさらに今ならなんと期間中なんらかの原因で死亡しても教会で復活する特典付き。ゲームか。……ん?スキル?あのなんかこう、お決まりのやつみたい。魔法もあるみたいで内なる少年がそわそわしてしまう。そんでいま手にしている石版にモンスターの魔石や素材を入れてポイントに変換し、そのポイントで食糧、衣類や日用品、武器各種などを購入できるらしい。ゲームか。
石版の説明を一通り読み終えてショッピングモードに切り替わった所でいったん石版を消した。念じるだけで消えたり現れたりする便利設計に運営(神?)の熱意を感じざるをえない。立ち上がって体を伸ばす。この世界に来た時からいつの間にか着ていた真っ白いフード付きローブは特殊な素材なのか、草原に寝っころがっていたのに全く汚れがついておらずほっとした。冷静に思考するためには適度な運動を、との支部長の言を思い出し社内朝礼の時のおはよう体操を開始する。うんせほいせと体を動かしてゆくと視界の隅にちらつく陶器のように白い小さな手、胸の下くらいに伸びたサラサラで金色の髪。いやな予感をふつふつと感じながらも淡々とおはよう体操を終えて再度その場に座り込む。うん、周りに人がいるのを忘れてた。大多数の視線を感じて居たたまれなくなる。
そういえば状況的に周囲の人も私と同じ転移者なのだろう、黙々と真面目に石版を読んでいたり数人で話し合っていたり酒盛りしたりしてる。酒盛りの人たちどうした。酒好きのイメージが強いドワーフっぽい人が多く見えるがそれでも様々な種族が50人くらいでわいわいどんちゃんしてる。丁度私が座っている場所は草原の中でも若干高台に位置してるので周囲を観察しやすく、右手に海、左手に山、正面遠くに白い建物が集まった街のようなものが見える。街と草原の間にかなりの人数が存在してるのだけどこれ全員転移者なのだろうか、500人前後はいると思う。全員同じ異世界に行くのだとしたらもはや侵略ではなかろうか。少々困惑してる様子の人はいれど泣き喚いたり憤ったりしてる人がいないのは個人的に不思議である。
まだまだ調べなければならない事が沢山ある。生きるために知ったほうが好い事がまだまだ石版の中に隠されてるだろう。ただ、どうしても現状集中しきれないものがある。たとえば超天才数学者がいて世界有数の難問と向かい合っている時に突如右腕がへし折れれば集中できずに床を転げまわる事だろう。それはもう大いなる困惑とともに転げまわるはず。たとえば超天才的な舞台女優がいてその華麗なる演技で舞台を感動の渦に巻き込んでる最中に突如モシャッと髭が生えたら集中できずにセリフが噛み噛みになる事だろう。いや、案外華麗なる演技でどうにかするかもしれない。仮面を被った女優をなめてはいけない。それはまあ置いておくとして、つまるところ人間は自分の身に何かしらの変化が訪れると大いに思考を持ってかれるのだ。
確認せねばならないだろう。何かしらの変化が己が身に起こっている。
「ひぷちっ」
奇妙で可愛らしい声が聞こえた。くしゃみをしてつい出てしまった声なのだと思うのだけど透き通っていて綺麗な声。困惑が深まる。私は今、くしゃみをした。確かに今私はくしゃみを放ちそうになり我慢しきれず発動したのだが聞こえてきたのは女の子の可愛い声のみで私自身のバリトンボイスは聞こえなかった。いや、別にバリトンボイスでもなかったのだが。つまり、私は『くしゃみを他人に移す能力』を保持してるのだろう。分かってる。無理がある。石版を出しショッピングモード起動して初回特典としていくらかのポイントほど入っているのを確認した後ざっと商品のリストを流し読みしてみる。酒盛りしてる人がいるのだからいくらかはポイントがあるだろうとの予想が当たった。おもむろに手鏡を購入して確認。うむ、と納得して手鏡を下げ、自分の顔を2度見。
前髪ぱっつんキラキラ輝く金髪ストレート。トロンと少し眠そうではあるもののそれが逆に癒しを感じさせる大きく蒼い瞳。小振りで整った鼻、桜色に色付いた小さな唇。15才くらいだろうか、子供と大人の中間くらいで線が細く庇護欲をそそる。ぱっと見の印象でいえば『不思議の国のやる気のないアリス』とか『睡眠に対して積極的な姿勢を見せる眠り姫』といった感じの美少女。かわいい。半端ロリ。お菓子あげたい。
いや、まだ男の娘の可能性は捨てきれない。大丈夫、きっと生えてる。信じるんだ。奮い立て。見た感じ割と胸が膨らんでいるけれど諦めない。強い決意を胸に立ち上がり石版に地図を表示させ颯爽と街へ歩き出す。困惑はもはや深淵レベル、なれど立ち止まってはいられない。いざ、私に用意された家。いざ、鎌倉。きっとトイレかお風呂場で待ってくれてる可愛い男の子。いなくなってはじめて大切だって思い知らされた。
大丈夫。きっとすぐに会える。
見切り発車で始めてみました。