君に贈る祝福の音色
カララララン
「こんにちはー」
軽やかな鈴の音と共に、リンディは婚約者であるソーヤの家を訪れた。左手にはサンドイッチと焼き菓子の入った籠を持っている。
「ソーヤ、お昼だよー」
屋内からは返事がなく、返ってくるのは雨の音ばかり。
昼食を一緒にとる約束をしていたのに、一体どこへ行ってしまったのか。それとも、休みだからといってまだ寝ているのだろうか。
リンディは玄関先で少しの間待った。だが、家の中からは雨を弾く音しかせず、人のいる気配はなかった。
自給自足の生活を送り、皆が知り合いというこの村では、家に鍵を掛けるという意識があまりない。
玄関の扉に設置された家ごとに違う音色で鳴る鈴の音が、誰かが家に来たことを知らせてくれる。
町から徒歩で半日ほど掛かるため、村人が町へ行くことはあっても、よそ者が村に来ることはめったになかった。
また、大切なものは皆それぞれが家のどこかに、秘密の場所を作り収納していた。リンディも、自分の部屋の寝台の下に色々なものを隠している。
だから、この村の家には、鍵などあってないようなものだった。
「ソーヤ、いないの?」
今日は雨だから狩りには行っていないはずなのに、彼の家には誰もいなかった。ソーヤの両親は結婚に必要な物を買い出しに昨日から町に出かけており、夕方まで留守にすると聞いている。
「もしかしたら、新居の方にいるのかもしれないわね」
今朝焼いたばかりのパンと菓子を濡らさないように布巾ふきんをかけ直し、リンディはソーヤの家から少し離れた場所に出来上がりつつある新居に向かった。
リンディの村の風習は古風だと、町では言われている。
男は家を作り、女を迎える。女は家を飾るための布を織り、男に嫁ぐ。
花婿が作った何もない新居に、花嫁が作った調度品を設えて、はじめて結婚は成立する。
だから、最初に新居に入る女性は「妻」だと、村では決まっていた。
婚礼は、もう一月後に迫っている。
リンディも、婚礼の日にソーヤに迎えられて新居の玄関をくぐることになるのだ。その時に聞く鈴の音は、自分にはどんなふうに聞こえるのだろう。
鈴の音は、その家に住む家庭を表す音だと言われている。同じような鈴をつけても、どことなく音色は違っていた。
好きになれる音ならいいなと、リンディは思う。
新居に入って最初に聞く鈴の音色は「花嫁への祝福」と言われているのだから。
ぱしゃぱしゃ
強くなる雨に、リンディは転ばないように気をつけながら新居への道を急いでいた。
リリン
だが、聞き覚えのある可愛い音が聞こえた気がして、リンディは足を止めてしまった。
「リンディ」
リリンと可愛らしい音とともに、家の中から若い男が出てきた。リンディは急に心臓が掴まれたように苦しくなって、思わず視線を逸らしてしまう。
「ジール、」
「雨の中、どこへ行くの?」
「……新居へ」
リンディはやっとのことでそれだけを紡ぎ出す。どくどくと耳の奥で鳴る心臓の音が、自分のものではないように思えた。
「雨、結構強いから、弱まるまで待ったらどう?お茶くらい出すよ」
「ありがとう、でも、急いでるから」
「そう、またね」
ばしゃん
リンディはジールに背を向けて走り出した。
これ以上、彼の傍にいたら泣いてしまいそうだった。
「私が泣いて、どうするの」
ジールは、昔と変わらずリンディに笑いかけてくれる。
優しくて、頼りになる五つ年上の兄のような人で、リンディが初めて好きになった人。
そして、……リンディが初めて振った人だった。
『リンディ、俺のお嫁さんになって』
町から帰ってきたジールに告白されたのは、リンディがソーヤとの結婚を了承した日の翌日だった。
村長であるソーヤの両親から打診された結婚話は、既に村中に広まってしまっていた。
『ごめんなさい。私、ソーヤと結婚するの』
嬉しかった。
ずっと好きだった人からの告白。
なのに、私は断らなければならない。
『そう、ソーヤとか』
あの時も、リンディは申し訳なくてジールの顔をまともに見られなかった。振ったのは自分なのに、顔を見ただけで泣いてしまいそうだった。
「もう、後戻りなんて、できないのにっ」
泣いてはいけない。
ジールを待てなかった自分には、そんな資格は無いのだから。
「忘れなきゃ、消さなきゃだめなのに」
リンディがジールを振ってから半年後、ジールは家を建て始めた。相手が誰なのか、リンディは知らない。町にいたときに知り合った子なのか村の子なのかも分からない。
もし村の女の子なのだとしたら、結婚適齢期になっている女性はリンディ以外にはあと一人、フィリアしかいなかった。
明るくて美人のフィリアは、村の男の子たちから何度も求婚されていた。だが、彼女はいつか村を出て町で暮らしたいと言ってすべての求婚を断っていたのに。
最近のフィリアは、とても楽しそうだった。
リンディが理由を尋ねても「ナイショ」と答えるだけで教えてはくれなかった。
ここ半年くらいは、婚礼の準備でリンディが忙しいこともあり、たまに会ってもあいさつを交わすくらいで、一緒にお茶をしたり遊んだりすることもなくなってしまった。
そうだ、ちょうど半年前からフィリアとよく会うようになったのはジールの家付近だった。
「ジールだって、結婚するんだから」
ジールの妻になるのがフィリアなのか、まったく別の町の女の子なのかはわからない。
でも、リンディではないことは、自分が一番よく知っていた。
リンディは新居に着くと、籠に入れておいたハンカチで顔をぬぐった。こんな情けない顔をしていたら、ソーヤに心配をかけてしまう。
雨が強かったようで、籠に掛けておいた布巾は思ったよりも濡れていた。昼食は家に置いて来た方が良かったかも知れない。
「ソーヤ、いるの?」
風が玄関の扉を揺らしたのか、少し扉が開いていた。
ソーヤの建てた新居は、夫婦で住むには少し大きい。
花婿には自分一人で家を建てなければならないため、最低限の大きさの新居を建てる者が多い中、ソーヤの新居は他の住居よりも立派に見えた。
リンディとの生活のために、ソーヤが一生懸命作っている新居。もうすぐ、自分はソーヤと結婚してここに住む。
なのに、どうして自分は嬉しくないのだろう。
作ってくれたソーヤの気持ちを考えると、リンディは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
村には他にも結婚適齢期の子はいたけれど、ソーヤはリンディを選んでくれた。たとえそれが村長からの命令があったからだとしても、ソーヤはリンディをきちんと婚約者として接してくれているのに。
リンディはそっと玄関から薄暗い屋内を覗き込んだ。
ギィィ
中は雨の当たる音がパラパラと響き、扉の音も掻き消してしまったようだ。
「ソーヤ?」
リンディは玄関の扉を開き、声を掛けた。
新居にはまだ鈴が付けられていないので、音が鳴ることはない。だが、婚礼の日には素敵な鈴の音が自分を迎えてくれるはずだ。ソーヤの両親が、結婚祝いでもある新居の鈴を買いに町へ出かけているのだから。
婚約期間は一年間以内、それまでに花婿は家を建てなければならず、花嫁はテーブルクロスやカーテンだけでなく寝具や衣類に至るまで作らなければならなかった。
婚礼の日に合わせて、少しずつ調度品を仕上げていくリンディの心に、ソーヤと結婚するのだという事実が重くのし掛かる。
機織りも縫い物も、無心になれる。
ただ、ひとつ作り終わった時に、ため息をひとつ吐くだけだ。
もうすぐ、すべての物が出来上がる。
しかし、リンディにはまだ作ることのできないものが、ひとつだけあった。
ぎしり、と床の軋む音が玄関に響く。
ざあっと強くなる雨音に混じって、ぴちょんぴちょんとどこかから水滴の落ちる音がする。
リンディが呼び掛けても返事はなかったが、耳を澄ませていると奥の部屋から話し声が聞こえてきた。
ソーヤが誰かと話しているようだ。
内装がどうこうと聞こえてくるから、こんな雨の日にまでソーヤは新居を完成させようと頑張っているのだろうとリンディは思っていた。
部屋の中から、リンディもよく知る女性の声が聞こえてくるまでは。
「ねぇ、ソーヤ。結婚前なのにリンディを放っておいていいの?」
新居には「妻」になる花嫁が最初に入るという風習がある。
なぜ、今フィリアの声が部屋の中から聞こえるのだろうか。
「ああ、まだ大丈夫だ、婚礼の衣装がまだ出来ないって言ってたからしばらくは会わなくて済む」
「あの子、凝り性だから凄いの作るわよ?」
「別に、どうでもいい」
「あら、ひどい。あなたの花嫁でしょう」
クスクスと楽しそうに笑う声。
どうして、フィリアとソーヤが一緒にいるの?
新居には花嫁が最初に入るから、リンディも扉の先には入れないのに。
フィリアは、なぜここにいるの?
「親父が勝手にリンディを嫁にしろとか言ってきただけだ。俺はずっとお前が好きだったのは知ってるだろ。ひどいのは、散々俺たちを弄んでたお前の方だろ」
「だって、ソーヤは村長の息子でしょ。私、何もないこの村で一生を過ごすなんて嫌だもの」
「本当に、ひどい女だな」
「あなたは、そのひどい女が好きなくせに」
「ああ、好きだよ」
持っていた昼食の入った籠が転がって中身が床に落ちても、リンディは拾うことが出来なかった。
二人の会話は耳に入ってくるのに、リンディにはよく理解できなかった。
この場に居たくないのに、立ち去りたいのに足は少しも動かない。ソーヤの好物の焼き菓子も、転がって外で雨に濡れてしまった。
「あいつに面倒な村のこと任せて、俺たちは町で楽しく暮らそう」
「でも、リンディがちょっと可哀想」
「可哀想なもんか。誰からも求婚されてなかったんだろ?むしろ名前だけでも次期村長の妻なら、俺が感謝されるべきだ」
「リンディは可愛い子よ?家事も出来るわ」
「だから?俺が愛してるのはフィリアだけだ」
「嬉しい、ソーヤ。私も」
二人の会話を、雨の音は消してくれない。
耳を塞ぐことも出来ずに、リンディは立ち尽くしていた。
村にいたリンディの同年代の少女の中で、一番綺麗だったフィリア。
彼女はいつか町へ出て、素敵な男性と恋に落ちるのだと語っていた。
同年代の男の子は皆フィリアが好きだったみたいで、振られた人がたくさんいた。
他の同年代の女の子たちは、村の男たちに見切りをつけてさっさと他の土地へ嫁いで行った。
村では二十歳になるまでに、ほとんどの女の子は結婚してしまう。二十歳を越えると、嫁き遅れとか行かず後家とか言われてしまうので、その前に町で結婚相手を探すか村の誰かの後妻に収まるのだ。だからこの村での二十歳以上の独身女性は未亡人だけだった。
同年代の男の子たちは、フィリアが結婚するまでは諦めないと言って独身を貫いていた。
フィリアと同じように、ジールも同年代の女の子から好かれていたけれど、町に行ったまま何年も帰ってこなかったので、皆は諦めて嫁いで行った。
諦めきれずに待っていたのは、リンディ一人だけ。
『大きくなったら、お嫁さんになって欲しいな。リンディが大人になる頃には、俺は一人前の職人になるから』
そんな口約束を、ジールがしてから八年が経った。
リンディは律儀にずっと待っていた。大好きな近所のお兄ちゃんが、自分を迎えにきてくれるのを。
両親はそんな自分の姿をしばらくは微笑ましく見てくれていたけれど、十六を過ぎる頃には結婚相手を探すようにリンディを急かすようになった。
子ども同士の口約束など、大人からすれば戯言のように思えたのだろう。十七の頃には、待っていてもジールは帰ってこないと、リンディを説得し始めた。
恐らく、あの頃から村長はリンディを息子の嫁にしたがっていたのだろう。
そうして十八になって、リンディは諦めてしまった。すべてを諦めて、村長の望むままソーヤの妻になろうとした。
でも、ジールへの想いは消えてくれなかった。
リンディの寝台の下の宝物箱には、別れの際にジールから贈られた髪飾りが大切に仕舞われていた。
自分が結婚するときには、ジールの作ってくれた髪飾りをつけて、ジールの目の色と同じ淡い青のドレスを着るのだと思っていた。
だから、婚礼衣装だけは婚礼の日が一月後に迫っても、ずっと作りかけのままだった。
「……ジール」
あの求婚の日から、ずっとジールの顔をきちんと見ることができなかった。
作ることのできないドレスの色を思い出して、泣きそうになる自分の気持ちをジールには言えなかった。
最初に、ジールを裏切ったのはリンディだったから。
ジールではない人のところへ、嫁ごうとしていた。
好きな人がいるのに、他の男に嫁ごうとした。
だから、罰が当たったのだとリンディは思った。
どれほどの時間が経ったのか、リンディにはわからない。
いつの間にか部屋の中の話し声は途切れ、雨音も聞こえなくなっていた。
「リンディ、玄関に突っ立ったまま何をしているんだい?」
背後から掛けられた声にゆるゆると振り向くと、そこには村長夫妻が立っていた。
たった今、村に着いたと一目でわかるたくさんの荷物を抱えていた。
「……あ、わ、たし」
「まあ、どうしたの?食べ物をこんなに粗末にして」
村長の妻は周囲に散らばる昼食だったものを見て、眉をひそめた。そしていつもとは違うリンディの様子に、さらに問いを重ねる。
「リンディ、何かあったの?」
「新居が、どうかしたのか?ソーヤは中にいるのか?」
心配してくれる村長夫妻の問いかけにリンディは答えようとするが、うまく話せない。
驚いて籠を落としてしまったとか、帰ってくるのが早かったねとか、新居はどうもしていないよとか、言いたいことはたくさんあった。
だが、リンディの口を開いて出てきたのは、ずっと言いたくて、でも言えなかった言葉だった。
「……私、ソーヤの、お嫁さんになれない」
言葉とともに今まで我慢してきた涙が、リンディの頬に堰を切ったようにこぼれ落ちてきて止まらなかった。
「……こんなところで立ち話もなんだ、中に入ろう」
普通ではないリンディを気遣って村長が扉を開けるが、リンディは中に足を進めることができない。
「私、入れない……ごめんなさい、汚しちゃって、すぐ片付けるから」
「リンディ?」
「私、違うの、」
泣きながら落としてしまった物を適当に拾い集め、リンディは外へと駆け出した。村長の妻がリンディを呼び止めるが、止まることは出来なかった。
村の外れにある森の入口までリンディは走る。
このまま森の中に入って大型の獣が住む森の奥に行ってしまえば、きっとこの苦しみから楽になれる。
そう思って来たのに、森の入り口に人影が見えて足を止めてしまった。
「リンディ」
「……ジール」
「どこへいくつもり?」
どうして彼がここにいるのだろう。
こんな醜い自分を、ジールにだけは見られたくなかったのに。
リンディは答えることが出来ずに、いつものようにジールから視線を逸らしてしまう。
「……ごめ、なさい」
「謝らなくていい、君は何も悪くない」
「違うの、私がっ……ジールを待てなかったから、だから、罰があたったの」
リンディは俯いたまま涙を流し続ける。しゃくりをあげながら泣き続けるリンディの頬を、ジールはハンカチでそっと拭ってくれる。
薄い青色の、ジールの目の色と同じハンカチに、リンディは見覚えがあった。
「ジール、このハンカチ……」
「俺が村を出るときに、リンディが作ってくれたものだよ」
そうだ、これは別れの時にジールに渡したハンカチだ。あれから何年も経っているのに、よれたりもほつれたりもせず、まだ綺麗なままだった。
「ずっと、持っていてくれたの?」
「泣かないで、君に泣かれるのが俺は一番つらい」
頬に触れるジールの指は、昔と違って硬く荒れていた。だが、昔と変わらない優しさでリンディの涙を拭ってくれる。
そうして、リンディはジールの指に促されるままに顔を上げた。記憶よりも逞しくなったジールの顔と、変わらない懐かしい青がそこにはあった。
「私、ずっとジールを待っていたの」
口をついて出てきたのは、一番言いたくて言えなかった言葉だった。
ジールが帰ってきたあの日に、胸の奥にしまい込んでしまっていたリンディの本当の気持ちが、言葉になって溢れ出す。
「好き」
ジールとともに生きる未来は選べなかった。傍には居られないのだとしても、今だけはこの腕の中で彼を感じていたい。
「私、ジールが好きよ」
目を逸らさずに、リンディはジールへ告げる。
もう、自分の気持ちから逃げるのは終わりにしようとリンディは思った。たとえどんな結果になろうと、もう後悔はしたくない。
「リンディ、俺を選んでくれる?」
見つめるジールの顔が自分に近付いてくるのを感じて、リンディは微笑みを浮かべる。
「私を、ジールのお嫁さんにして」
唇に落ちる熱い吐息が、リンディを蝕んでいく。
もう、離れたくない。
ジールの傍にいたい。
「もう、離してやれないから」
抱き寄せられたジールの腕の中で、リンディは聞き覚えのある鈴の音を聞いた気がした。
どこで聞いたかはわからない。
けれど、
その音は、自分を祝福してくれているようにリンディには聞こえたのだった。