習慣同異
慣れること、しっくりくること、安定することは似ている。
詳しい事は忘れたが、確か、蛙か何かの話だったか。奴を熱湯に入れれば、勿論逃げ出そうとする。だが、水の中に入れていて、その水温を段々上げていくと、逃げずに茹でられてしまう、らしい。亀の話だったかもしれない。とにかく、水生の生物の話だ。
俺が野党の政治家であれば、それを国民と税になぞらえて演説するかもしれない。つまり、与党がちょっとずつ税率を上げるのは、少しずつ慣らすことで不満の声を上げ辛くさせるためなのだと。…いや、与党でも野党でも税を上げたい(自分の政権ではない時に)と思っているだろうから、政治ジャーナリストとやらの論かもしれないが。
人は不満があってもそれが続けば適応し、慣れるものだ。住めば都、というやつである。そして、慣れてしまえば中々それを変えようとは思わない。人は不満の改善よりもまず現在の安定を優先する。安住出来ていればそこから離れたがらない。
それは別に、必ずしも悪い事ではないのだろう。全ての人間が全く不平不満を言わずに暮らせる世界などない。誰もが完璧を求めれば世界は破綻する。何故なら、その完璧とは個人の完璧であって世界の完璧ではないからだ。逆に、世界の完璧を求めれば個人の完璧は踏みにじられるだろう。或いは、この完璧は幸福と言い換えてもいい。完全な幸福。戯言である。
現状への安住はまたの名を妥協と呼ぶ。妥協は大切だ。少なくとも他者と関わり、世界と折り合いを付けていく上では必須の技能だろう。妥協のできない人間は只の我儘野郎である。自分の不満を他者に押し付ける暴君だ。妥協しないのが良い事?馬鹿を言っちゃいけない。妥協はベストではなくともベターということだ。そして妥協しないこととはベストを選ぶ事とは違うのだ。それは、50:50で分配すべきを100:0にしろと言っているにすぎない。勝つ者がいれば何処かに負けるものがいる。当然の理だ。
好むというのは、記憶の反芻だ。だから喰わず嫌いというものがあるし、食べてみれば意外と平気だったりする。当たり外れのあるものよりないものの方が良いに決まっている。服の着こなしなんかもそうだ。着なれないものも似合わないものも、第一印象は"変"となるだろうが、単に慣れないだけならば続けばそれなりに着こなせ、様になってくるものである。或いは、200年300年、1000年前の"当世風"を俺たちは"変"だと思うが、あちらから見ればこちらこそ"変"だということである。慣れというのはある種の心地よさに繋がっている。
人は適応し安住することを望むと言ったが、浮草のように暮らし定住しないのも、それはそれで安住だ。生き方に安住している。生き方を変えるというのが一番難しい。ともすれば、それまでの己の否定にも繋がりかねないからだ。己の積み上げてきたものを肯定的に捉えることが安住に繋がる。誰が正しい事、良い事を、間違った、悪い事に変えたいと思うだろう。現状を変えようと思うのは現状を否定的に捉えているからだ。どう繕ってもそれを否定することはできない。
ルーチンのように、歯車のように、プログラムに従う様に、それぞれの日常を積み重ねていくことは悪い事ではない。或いは、ベストではないかもしれないけれど、それはベターなのだろう。悪ければ続けられない。いずれ破綻する。それは誰かの死という形になるかもしれないが、同じ形で続けられないということに変わりはない。首のすげ替えとして全体は終わるかもしれないが。
視点をミクロにするかマクロにするかで物事は違って見えてくる。ミクロの不安定とマクロの安定は両立しうる。そもそもマクロで見るということは細かな誤差は見ないという事だ。ミクロの誤差で破綻するマクロなど、安定したものとは言えない。それが許されるのは芸術位のものだ。つまり、実生活においては不自由を強いられるものであるということだ。
長く続くということはそれ相応の理由がある。皆が少しずつ我慢しているのかもしれない。或いは何処かに不満をまとめて押しつけている場合もあるのだろう。いずれにしても不満をどうにかして上手く処理できているから続いているのだ。不条理だろうと不合理だろうと、破綻しない限りはそれは上手い方策ということになる。ミクロの破綻でマクロが安定するなら、それは人柱と呼ばれる。昔から世界中で使われてきた方策の名前だ。