誇り
茹だるような暑さの中、今日も街を巡回する。今は夏休みということもあって、昼間でも若者が街に繰り出している。この時期は、旅行で家を空ける人も多く、それに伴い空き巣が増えたり、自由な時間が増えたことで非行に走る若者が増えるため、巡回にも力を入れなければならない。とはいうものの、涼しい交番が恋しい。ふと、一緒に巡回していた藤沢が口を開いた。
「先輩、いつもより目つきが悪くなってますよ。隈もひどいですし。ただでさえ、怖い顔なのに、それじゃあ、警官には見えませんね。」
「うるせえ。この顔は生まれつきだ。」
実はここ一か月、眠れないのだ。疲れているはずなのに、夜中に何度も目が覚めてしまい、隈をこさえる有様だ。
「そういえば、最近あの人から通報ないですね。」
「あの人?」
「ほら、吉川さんですよ。先輩、気に入られてたじゃないですか。」
吉川さんは、団地に住んでいる女性で、よく通報してきては、結局愚痴ばかり話す、少し厄介な人だった。最初は彼女の通報に真面目に出向いていたが、彼女が独り身で、親しい人もおらず、話し相手に飢えていると分かってからは、彼女の話を右から左へ流していた。警官の中でも、なぜか俺は彼女から気に入られていた。最後に通報があったのは、確か一ヶ月前だ。
「今まで毎週通報してたのに、どうしたんでしょうね。正直、面倒くさかったけど、急に音沙汰なしになると、それはそれで気になるもんですね。」
藤沢の言うとおり、悲しいかな、それまであったものがなくなると寂しくなるのは人間の性なのだろう。
「他に話し相手でもできたんじゃないの」
俺は適当に返した。
次の日、吉川さんの遺体が見つかった。彼女の下の階の住人からの通報だった。見つけた時には耐えきれない腐敗臭がしており、体から出た体液が床や壁に染み込んでいた。彼女の両隣の部屋には住人がおらず、下の階の住人も最近まで旅行に行っていたため、発見が遅れたようだった。吉川さんの遺体は検視が行われることになった。
検視の結果、吉川さんの死因は首を何かで締め付けられたことによる、窒息死だった。部屋の状況から、他殺の線で、捜査が開始された。
数日後、交番に刑事が訪ねてきた。彼女の生前、特に話す機会の多かった俺が対応することになった。
「よぉ、久しぶりだな。地域課に異動したとは聞いていたが、交番勤務していたとはな。」
「はい。」
「お前にはお巡りさんが、お似合いだよ。ところで、吉川さんはよく通報していたようだが、何かトラブルでも?」
「いや、その日スーパーにこんな嫌な人がいたとか、公園の子供の声がうるさいとか、そういったことで通報してきました。だいたい一週間に一〜二回ほどですね。」
「お巡りさんも御苦労なこったな。特に吉川さんの人間関係で問題はなかったか?」
背中に冷や汗が滲む。
「聞いてないですね。」
簡単な事情聴取でその場は終わった。俺たちの会話を聞いていたらしい藤沢は、探るような目を向けてきた。
「今の鼻につく人、先輩と同期なんですよね?なんで敬語なんですか?」
「早く巡回行くぞ。」
俺は逃げるように巡回へ向かう。今日はますます眠れなくなりそうだ。
俺は三年前まで、刑事課にいた。その頃は、同期たちと事件解決に向けて、日夜、捜査に明け暮れていた。元々刑事に憧れていたのもあり、大変ながらも仕事に誇りを持っていた。そんな刑事生活はある事件を機に一変した。
犯人の動機は、復讐だった。シングルファザーだった犯人の愛娘が、突然命を奪われた。生きる意味を失った男は、せめて娘を奪った奴に同じ絶望を味わわせようと事件を起こした。
犯人を追い詰めた俺は叫んだ。
「馬鹿なことはやめるんだ。復讐をしても、娘さんは帰ってこないじゃないか。」
犯人は燃えるような目で、
「お前に何が分かる。当たり前だと思っていた幸せが突然奪われる絶望が。娘が何をしても帰ってこないなら、俺は復讐することを選ぶ。娘がいなくなった時に、父親である俺は死んだんだ。だから、俺は父親である、あいつも殺す。」
何も言えなかった。その隙をついて、犯人は復讐を果たしたのだった。人質を救えなかった俺は、この一件を機に、地域課に左遷された。
今から一ヶ月前。その日も吉川さんから通報が入り、俺は彼女の家に向かった。会うなり、愚痴を話す彼女に適当に相槌を打つ。しかし、次の瞬間、時が止まった。
「貴方って、前は刑事課にいたけど、人質を見殺しにしてお巡りさんに左遷されたんでしょ。私をいつも可哀想な目で見るけど、貴方も可哀想な人なのね。そんなところが気に入ってるのよ。」
口がはくはくと動く。声が出ない。涼しい部屋にいるはずなのに、冷やし汗が流れる。
「‥誰からそれを。」
吉川さんは涼しげな顔で言った。
「あら、別にいいじゃない。女は噂話が好きなのよ。人質になった人、殺されてもおかしくない人だったんでしょ?」
俺は気づいた時には、持っていたタオルで吉川さんの首を絞めていた。その日から、当たり前にとっていた睡眠が取れなくなった。
「先輩」
巡回中、突然藤沢が切り出した。
「どうした、藤沢。」
「お気に入りのタオル、最近持ってないですね。」
身体が冷めていくような気がする。
「ああ、くたびれてたからな。捨てたよ。」
「そうですか。」
「おら。いいから、自分の仕事に集中しろ。」
俺は藤沢を急かす。
「先輩ってなんで警察官になろうと思ったんですか?」
「なんだよ、急に。」
「だって、顔死んでるし。」
「失礼な奴だな。」
「でも、僕先輩のこと尊敬してますよ。先輩は冷たいけど、人を見捨てることはしない。分かりにくい優しさってやつですかね?相変わらず顔は死んでますけどね。」
「はは。買い被りすぎだ。俺はそんないい奴じゃねえよ。」
「僕、先輩のこと信じてますから。」
藤沢はまっすぐとした目でそう言った。はっとした。俺は藤沢のまっすぐな目が苦手だった。
その日の夜、夢を見た。俺は、刑事課から左遷されるきっかけとなったあの事件現場にいた。目の前にはあのときのように人質を抱えた犯人が叫んでいた。
「俺は、何をしても娘が帰ってこないなら、復讐を選ぶ。」
思わず拳を握りしめた。
「そんなことをして、誇りを持って娘さんに父親と名乗れるのか。」
俺も叫んだ。その瞬間、犯人は亡くした娘の名前を呼びながら、泣き崩れた。
目を覚ましたとき、涙が頬を伝っていた。夢の中で犯人に叫んだ言葉は、自分自身に言っていたのかもしれない。自身の奥底で埃をかぶっていた警察官としての誇りを思い出した。
翌朝、俺は刑事課の同期に会いに行った。
「吉川さんを殺したのは俺だ。」




