第8話 冬香の好きな本
午後の授業が終わり、教室に夕方の気配が差し込む。窓の外では、部活動へ向かう生徒たちの声が重なり、廊下はにわかに騒がしくなっていた。
その流れに乗る者もいれば、帰路につく者もいる。
拓也は、迷うことなく後者だった。
「拓ちゃん、また明日ね」
振り返ると、春菜が柔らかな笑顔で手を振っている。
「ああ。部活、がんばれよ」
「うん」
小さく頷くと、茶道部の部室へ向かって、春菜は軽やかに教室を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、拓也はふっと息をつく。
「前に、『なんで茶道部なんかに入ったんだ?』って聞いたら、『お茶が大好きだから』って笑ってたっけな……」
思い出すのは、あどけない笑顔。
「……ほんと、あいつらしいよな」
誰に聞かせるでもなく呟き、わずかに口元が緩む。
「御堂、明日の朝、春菜に変なことするんじゃないわよ」
背後から飛んできた声に、拓也は即座に振り返った。
「するか! ボケ!」
吐き捨てるように返すと、すでに優子は教室の出口へと向かっていた。
バレーボール部に所属する彼女は、その長身と運動神経で一際目立つ存在だ。二年生でありながらレギュラーに選ばれている実力者でもある。
軽く手を振り、優子はそのまま去っていった。
「なあ拓也、今日も来れないの?」
今度は清彦が、鞄を肩にかけながら声をかけてくる。
「ああ、悪いな。俺が帰らないと、冬香が一人で待つことになるからさ」
「そっか。まあいいよ、気にしないで」
あっさりと引き下がり、清彦はにやりと笑う。
「じゃあ、また明日」
「おう、また明日な」
そう言って、清彦も教室を後にした。
彼は一応、同好会に所属している。もっとも、それは正式な部活ではなく、人数不足で認可されていない“ゲーム研究同好会”だ。
部員は三人――副部長の清彦、幽霊部員の拓也、そして部長の前島典子。
明るく裏表のない性格で、長い髪をリボンで結んだポニーテールがよく似合う少女だが、その本質は筋金入りのギャルゲー好きだった。彼女の情熱によって設立された同好会は、名ばかりの「研究」を掲げながら、実際にはゲームを遊び、その感想を語り合う場と化している。
四月も下旬に差しかかり、校内は新入生の勧誘で賑わっている。各部活が競うように声を上げる中、彼らもまた必死に勧誘を続けているが――
どうやら、その努力はまだ実を結んでいないらしい。
「……さてと」
拓也は軽く伸びをし、鞄を手に取った。
「帰るか」
教室を出て、静まり始めた校舎を抜ける。夕焼けに染まる帰り道を歩き、やがて自宅の前にたどり着いた。
玄関の扉を開けると、きちんと揃えられた一足の靴が目に入る。
「冬香、今日も早いな」
小さく呟き、靴を脱いで家に上がる。
二階へ上がり、妹たちの部屋の前で一度声をかけると、ノックのあとに扉を開けた。
部屋の中では、冬香が机に向かい、本を読んでいた。部屋着姿のまま、静かにページをめくっている。
「兄さん……お帰りなさい……」
か細い声で、しかし確かにそう告げる。
「ただいま」
拓也は歩み寄り、彼女の手元をそっと覗き込んだ。
「今日は、何読んでるんだ?」
冬香は無言で本の表紙をこちらに向ける。
「……『私の初恋は、お兄ちゃん』、か」
一瞬、言葉に詰まる。
「……なかなか、面白そうなタイトルだな」
「うん……面白い……」
小さく頷き、冬香はわずかに微笑んだ。
普段は感情を表に出さない彼女の、その控えめな笑みに、拓也は少しだけ戸惑う。
「そ、そっか。それはよかったな」
ぎこちなく返すと、冬香が首をかしげた。
「兄さん……何か用?」
「ああ、そうだった」
思い出したように手を打つ。
「帰りにコンビニ寄ってさ、ケーキ買ってきたんだ。あとで下に来いよ。一緒に食べようぜ」
「……うん。分かった……」
静かな返事。
それを聞いて、拓也は満足そうに頷くと、部屋を後にした。
廊下に出ると、家の中は再び静寂に包まれる。
その静けさの中で、どこか柔らかな時間だけが、ゆっくりと流れていた。




